あの世と僕と僕の街

空白透明

第1話 夏の浜辺

 目の前に広がるのは、夏の景色。手を潜らせれば染まりそうな程に青い広大な海と、突き抜けるブルーの空、それを切るようにして伸びてゆく真っ白な飛行機雲。

 耳には潮騒の音がソーダのように弾けて回り、白い泡が砂浜へと貝殻を運んでいた。

 船木勇介はそんな中、学校の制服を身に纏って立っていた。

 こんな暑い日にブレザーなんて、暑苦しくってしょうがないと思うかもしれない。

 だけど心配ご無用だ。実は言うと、彼には肌がない。いや、正確に言えば実際にはあるが機能はしていない、というべきだろうか。

 おかしな事ではないのだ。だって幽霊なのだから。


 人は死んだらあの世に行くなんてのは幼いころから言われてきたことだ。

 例えばほら「人は、亡くなったらお星さまになるんだよ」なんていった風に――。

 子供の頃はそれを鵜呑みにして、夜空に瞬く星屑は元は人間だったんだ、などと一丁前にロマンティックに浸ったものだ。

 勇介も例外ではない。彼だって、そうやって生きてきた。そして死んだ。


 何者にもなれず、ただ幽霊になった。

 死んだところで行くのはあの世。しかし暗い気持ちになんてならない。ここは本当にあの世だと思わないとやってられない程、なんだか気分が良い場所だった。

 勇介が気付いた時には、既に学校の制服姿で浜辺に立っていた。ひょっとするとどこか自分の知らない土地に来ていて、自分はまだ生きているのではないかと期待はしたものの、温度を感じない肌と、空に浮かんでいる白くて丸い大福のような物体を見て、いよいよ現実では無いことを悟った。


 後ろを向いてみた。柔らかい砂浜をむにむにと踏みながら身体を百八十度反転させてみると、ブルーの景色は一転、グリーンへと変わる。

 今度は見渡す限りの大草原が広がっていた。

 蒼々としたグリーンのキャンパスには建物どころか、山や木の枝一本生えてない。シンプルなグリーンの油絵具を筆で塗ったような、てらいの無い、素直な景色だった。

 一つだけ文句を言うなれば、砂と草の境目に立っている門だろう。

 赤い鉄骨を三本使った簡素な造りのその門は、潮風に曝され錆がかなり浸食していた。まさしく景色のなかの夾雑物。

 さらにその錆びた門の傍らには車掌の格好をした大きな風船の様な男が立っていて、帽子を深々と被りまるで寝ているかのように微動だにしなかった。

 青と白と緑の色彩に、無骨な門と、まあるい車掌。

 そして、幽霊。


「すみません、あの大福は何ですか?」


 こんなに冷静でいられるのは、きっと肌と同じように脳にもある程度“人間感”が無くなったからに違いない。

 不思議が煮詰まった空間で、勇介は海側に浮かぶ白い物体を指さしてその風船男に尋ねた。


「なんでもないですよ」


 えらく気だるい声だったが、風船男は応えた。

 良く見てみたら人ではなくカバだった。カバ男だ。頭に何か生えているとは思っていたが、そうかあれは耳か。勇介は一人で納得した。

 しかし、なんでもないとは随分妙な回答をする。


「なんでもない? 月でも太陽でもないんですか?」

「人はああいうものが必要なんだと、ずうっとあそこにあるんです」


 ああいうもの。カバ男の口ぶりでは、一体人間が何故“それ”が必要なのか知る由もないとでも言いたげだった。まあカバなのだから、これは仕方のないことなのかもしれない。

 地球に住まう者ならば太陽が左から出て右へ消えると同時に、今度は月が左から出てくる。これは心理だ。空には丸い天体が代わる代わる入れ替わり、人はそのサイクルの中で生活をしている。

 だからああいうものが必要? 何故? もしかして、それで現状を理解しろとでもいうのだろうか。

 いくらなんでも、それは強引な話だ。太陽でも月でもない、ただ丸いものが浮いているからといって、自分の状況を理解できるとは限らない。


「君は、死んだのかい」


 勇介が大福を見上げて途方に暮れていると、カバ男は今度は気さくな態度で、しかしゆっくりとした口調で、事実を確認するように尋ねた。


「ええ、僕は死にました」


 事務的な返答をする。

 この時勇介は自分が死んだことを再び理解した。


「パスポートは?」


 カバ男はまた尋ねた。妙なことを言う。


「パスポート? 何のパスポートですか?」

を通るために決まっているじゃないか」


 というのは、おそらくその錆びた門のことだろう。

 門に切り取られた風景には草穂が風を追っている。でも風の足跡は門の口からはみ出て勇介の視界の先に消えた。どうして通る必要があるのかわからない。

 もっと言えば、パスポートがいる必要がわからない。


「ここを通らなければいけないんですか? どうして?」

「理由がいるのかい」カバ男はあくまでゆったりと言う。

「そりゃあ、いりますよ。なんでも理由は付き物です」

「では訊くが、君はここで何をする。釣りでもするのかい。悪いが、ここは見ての通り木の枝一本生えてない。糸になりそうな蔓もない。針もないし餌もない。ついでに言うと、魚もいないよ。ここは君が見ているがあるだけさ」

「……何も、ないんですね」

「何かなきゃいけないかい」

「いや、いけないというか……」

「君は何を望んでいるんだ。ここに居てどうする」


 そう言われて、勇介は困り果てた。確かにここに居てもどうしようもない。それは確かなのだ。

 ここの景色は素晴らしいことこの上ないが、自分が風景に混じって消えてしまいそうでならない。色に――あの世に自分の存在を消されてしまいそうでならない。

 いつだって消えそうな存在だった。同じ形をして生まれ、同じ制服を着た生徒達に入り混じって、人間をやっていた。人が集まったところに行けば、誰にも見つけられないようなちっぽけな存在だった。分かっていたのに、何故か自分は特別な存在だと思い込んで、いつかは勇者やヒーローになれると信じて、毎日を浪費していった。

 それを思い返してみると、今の状況はそんなに差異があるとは思えない。

 輝かしいものの傍というのは常に恐怖を感じるものだ。

 これ以上口ごたえをすると、カバ男がその大きな口を開けて噛みついてくるかもしれない。そう思った勇介は大人しくルールに従うことにした。


「パスポートがどこで発行できるのか、教えてもらえますか?」

「券自体は俺がくれてやる。しかし、ここを通るには認証がいる」

「誰に認めてもらう必要があるんです?」


 カバ男は一度煙草の煙を吹かすような深い息を鼻から吹かすと、これから長い話でもするかのようにだるそうに呟いた。


「……自分だよ」

「僕が自分自身に死んだことを認めれば入れるってことですか?」勇介は意気揚々と言って見せた。「それなら大丈夫です。僕は間違いなく死んでいる」


 だが、カバ男は肩を落として首を振った。

 ダルさには一層の重みが含んでおり、鬱屈とした息をカバ男は吐いた。


「そうじゃない、君は死んだ事実を受け入れなきゃいけないんだ」


 はて、思案した。先程言った通りではいけないのだろうか。

 ここに来て何度目かの『死んだ』を実感した。

 そして、やっぱり自分は死んだんだと事実に事実を塗り重ねることしかできなかった。真実は油絵の凹凸のように厚みを増して、独特の艶を見せた。人はこれを確信いう。

 これ以上なにを受け入れる必要があるのだろうか。


「僕は気付いたらここに居ました。死んだという実感を、漠然と、しかしはっきりとした印象として認識しました」

「そうかい」


 カバ男は突っ張った車掌服の胸ポケットから一枚のカードを取りだし、僕の足元に放った。

 随分と雑な扱いだ。


「すまねぇな、俺はここを動いちゃいけないんだ」

「誰かに命令されているんですね」


 カバ男は何も答えなかった。


「これが、パスポートですか?」


 カードを拾い上げ、少し砂を被っていたので適当に叩いて眺めてみる。

 真珠層のような光沢をみせるカードの右側には、既に顔写真が付いていた。下には長い番号と、写真の左側にはやや大きめな四角い枠があった。


「ここに、認証印が?」

「そうだ。君はこれから現世、つまりは自分が生きていた世界に戻る。そこで自分が死んだことを確認してくるんだ」カバ男は特に言い聞かせるように続けて言った。

「いいか、死んでいる事実ではなく、死んだ事実を探して来い」


 よく分からないことを言う。


「えーっと、どういうことでしょう? 何か違いが?」


 そう言うとカバ男は肩を揺らして首を振った。


「大いに違う。お前は死んだ。確かにそれに違いは無い。だが、お前は自分が何故死んだか、どうやって死んだかを理解しているか?」


 いいえと首を振った。


「『死』そのものを受け止めるのは、死んだ人間にとっては容易い。認めざるを得ないからな。しかし、自分がどう死んだのかを理解していない者が、これが意外にも多いんだ。自分の死を正しく認識していない人間は輪廻に帰ることが許されない」

「誰から許しを得るというんです?」


 これについては勇介の思慮不足だった。既にカバ男はその問に答えている。

 自分で自分を認める為、自分が自分を輪廻に帰っていいと認める為。


「そういう風にできている。それがルール」これ以上、この問題に質問を重ねるのは無意味だ。「それはもう、従うしかないんでしょうね」

「ああ、従うほかに、無いな」


 すべきことが解った所で、勇介は景色の世界を一通り見渡して言った。


「ところで、僕はどうやって現世に行けば良いのでしょう」


 ここは景色しかない。下に降りる穴も無ければ、上に登るためのクモの糸も無い。

 海を泳いでいけと言われたらどうしようか、不安がっていると、カバ男は尋ねた。


「君、名前は?」

「僕は船木勇介ふなきゆうすけといいます」

「では、船木勇介。今から現世に行き、自分の死を見つめてきなさい」


 カバ男が最初の時同様、事務的にそう言うと、天に波紋が広がり、現世の景色が映し出された。

 鳥瞰の映像だったので妙な浮遊感を覚えた。

 いつまでも上を見上げていると、カバ男は手を敬礼の形にして礼儀正しく姿勢を正した。


「では、貴方の未来が報われますよう」


 はて、どんな未来がくれば報われるのか。

 もう死んだ身なのに。

 しかしどうやら現世に行くらしい。

 仕方なしに、勇介は何が起こってもいいように身構えたが、なんのことは無い、トランポリンのように身体が跳ねあがり天の境界線へと突っ込んでいった。

 そして水面を叩くの如し、勇介は天を弾かせて現世の空に飛んでいった。

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