番外編

君想う金の庭

 ずっと正しく生きてきた。だから一度くらい、嘘をついて不実をしてもいいのではないかと思った。



     *



 明かりも点けないまま部屋に入った秀一郎はぎょっとして足を止めた。思った通り、月明かりは青く部屋を照らしている。その明かりの真ん中に恵がいた。テーブルに伏せて寝息を刻んでいる。出掛けた格好のまま、真っ赤な振袖の袂が床にくしゃりと届いている。

 いったいいつから待っていたのか。涙のあとの残る頬は既に渇いて、右手にはしっかりと櫛を握っていた。


 今日は恵の縁談が決まって両家の顔合わせだった。秀一郎は出席したくなかった。普段なら、穏やかに笑って卓に着く。けれど今回、秀一郎はそうしなかった。


『美術学校時代の友人と、外せない約束がある』


 約束があるのは事実だった。けれど、彼は事情を話せば日を改めてくれた筈だ。格好の口実に秀一郎は飛びついたのだ。己のことだけを考えていた。



 大体、我を通すと後悔する。

 帰宅して、父から恵子に養女のことを告げたと知らされた。何故この頃合いで、と思うが、今だからこそという父の思いも分からないではない。こんなことなら、出席しておくのだった。不安定な気持ちのまま初対面の相手と食事をするなど、恵はどんなにか心細かったろう。


 恵の傍に椅子を引いて、もう渇いてしまった涙のあとを拭う。恵は身動ぎしたが目は覚まさなかった。


 僕が贈った櫛を握り締めて、恵はどんな気持ちで嫁いでゆくのだろう。


「恵」


 秀一郎はそっと名を呼んだ。決して口にすまいと誓った言葉が滑り落ちてしまいそうだ。

 窓の外では明るい月が照っている。金色の光が、眠る庭に落ちる。


「月が」


 秀一郎は目を逸らせた。押さえつけられた想いが、罪悪感を押し返して顔を覗かせる。


「月がとても綺麗だよ。恵」


 秀一郎は両手に顔を埋めた。



 美しい月明かりが、庭の隅に咲く勿忘草わすれなぐさの小さな花を照らしていた。

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銀の雨に君を想い 金の庭で君を慕う 早瀬翠風 @hayase-sui

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