落ちゆく椿の見るゆめは


 誕生日に絵は渡せなかった。


 代わりに贈った櫛は兄が妹に贈るべきものではなかったが、秀一郎が己の定めに出来るささやかな抵抗だった。


 秀一郎は今日も絵を描いている。恵のいなくなったこの家で、今日も庭を眺めている。


 あの日流された秋が終わって、桜の舞う季節に恵は手の届かないところに嫁いだいった。もうこの部屋に駆け込んで来ることはない。



『見て、お兄様。淡い紫色うすいろがとてもきれい』



 雨上がりの庭。淡く移ろう紫陽花の色。

 色とりどりに煌めく硝子瓶の中の色水。

 桜を散らせた春の雨。僕たち家族の恵。


 秋の雨に閉じ込めた、生涯ひとつの恋。



 キャンバスのなかで、愛しい娘が微笑っている。


 着たいと言ったウェディングドレス。

 優しく包む、淡い紫色うすいろの空気。

 真っ白な紫陽花のはな。

 花弁に踊る光の粒。



 秀一郎は席を立ってその絵を丁寧に包んだ。

『恵へ』と、ひと言書いたカードを添える。



 部屋の隅の扉を開く。

 恵に見せられなかった絵。

 何枚も何枚も、紙のなかでこちらを見つめる愛しい笑顔。

 


 天気のいい日だった。

 庭に用意してもらったドラム缶の中で、一枚ずつ燃やした。

 秀一郎が、愛して、愛して。手を伸ばせなかったもの。


 白くて細い煙が空に吸い込まれてゆく。

 秀一郎は空を見上げた。秋の空はどこまでも高く澄んでいる。


 ふと、固い表紙に触れた。古ぼけたスケッチブック。これが無ければ、こんなにも狂おしくひとを恋うることはなかっただろうか。

 いいや。秀一郎は首を振る。これはきっかけに過ぎない。

 恋は疾うに始まっていた。


 炎のなかで紙が灰になってゆく。煙が目に沁みて瞼の奥がつんと痛んだ。





   ***





 「雨は? 雨は降っている?」


 譫言のような秀一郎の呟きに、一拍躊躇ってタキは頷いた。


「柔らかい雨が降って参りましたよ」


 穏やかに落ち着いた家政婦の言葉に、秀一郎は笑みを溢した。

 今日は雨になると、そういう予報だった。けれど空気は乾いている。もう目を開けることも出来ないが、鼻に届く香りにも雨の匂いはない。


 けれどどういう訳か、秀一郎の耳には優しく降る雨の音が確かに聞こえた。兄を手招きする恵の愛らしい声が聞こえた。

 どちらも聞こえる訳はない。恵には決して知らせるなと、秀一郎が頼んだのだから。


 もう本当に動かなくなった肺で、それでも秀一郎は弱々しく呼吸を刻む。空気を吸う度に、ひゅうっと木枯らしのような音がする。そんな様を恵に見られたくはなかった。




『すごい! 兄様は魔法使いみたいね!』


 あの日お前が憧れたままの兄でありたい。秀一郎は思った。


 初めて引いた小さな手。

 雨空を見上げて顰められた、幼い横顔。

 色を変える水に輝いた瞳。

 花を見て、雨を見上げて、恵が笑う。


 兄でなどいたくなかった。


 ひとりだけ違う名で呼んで。

 いつも一番傍に置いて。


 守って、愛して、

 壊したかった。


 共に歩むことの出来る命さえあれば、きっと誰にもお前を渡さなかったのに。



『生まれ変わったら今度はウェディングドレスを着るわ』


 恵は僕のためにウェディングドレスを着てくれるだろうか。

 共に歩いてくれるだろうか。

 老いた先まで、寄り添ってくれるだろうか。


『生まれ変わったら』



 静かに降る雨が秀一郎を包む。

 一途さも醜さも。情愛も衝動も。何もかもを隠して流れてゆく。




「雨は降っている?」


 秀一郎は訊いた。


「ええ。静かに降っておりますよ」


 タキが答える。


「そう。よかった」


 秀一郎は吐息を漏らした。






 何処からか、



 雨の香りが運ばれてきた。

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