委員長は暴虐龍?

雨宮いろり・浅木伊都

第1話

遠くの方でしずくの落ちる音がした。彼はゆっくりと目を開ける。 

動揺のざわめきがぼんやりと聞こえてくる。雑多なにおい、人間と薬品のにおい。かつてのかたきのにおい。

「検体番号エンドレスナインの脳波に変化あり。瞳孔も正常に動いています。魔術回路の部分解放を確認、リミッター01から99まで全て破壊。……覚醒を確認、現在時刻は15時3分、2090年1月10日」

「2090年、だと……」

彼はあくびにも似た唸り声をあげる。あんぐりと開いた大きなあぎとからは、暗いところで長い間わだかまっていた硫黄と鉄の匂いがどろりとこぼれ、周りの人間たちは泡を喰って後ずさった。

「ああ、すまんな」

悪びれずに謝罪を口にした彼は、ぐぐ、と前足を伸ばした。両手足を鎖で拘束され、複雑な術式で戒められた彼にとって、前足を動かすことさえも一苦労だ。今まで氷に閉じ込められていた彼の鱗から、とろとろと氷が溶け落ちて床を濡らした。

「そこの、今が2090年と申したか」

「わ、我々は登録検体と口をきく許可を得ていないので……」

「許可?ああ、まあ、貴様らがあえて不自由を望むのであれば咎め立てせんが。せめてその染みのついた服は洗うといいだろうな」

はっはっと吐息だけで笑う彼は、はっきりしてきた視界で辺りを見回した。

濃い灰色の石で覆われた部屋。何やら光るつるつるした板の上に、半透明の何かがぼんやりと浮かんでいた。

鱗を軋ませながら、彼は更に首を持ち上げる。だがそれは、長い首を地面に縫いとめるような、U字型の拘束具のせいでかなわなかった。何やら金臭いそれに彼はただ苦笑する。

「誰かと言葉を交わすことはもとより、動くことさえ許されぬか」

「当然です」

凛とした声が上の方から響く。彼はその声の主を視認することはできなかったが、魔力の気配で彼女の地位を察した。恐らくこの場では最も強い権力を持ち合わせている。

「ご機嫌はいかがか、お嬢さん」

「……お嬢さんと呼ばれる年齢ではありません」

「私からすれば人間は等しくお嬢さんだよ。さて、私の記憶が正しければ、私は二百年前に殺されたはずだったが」

「ええ、我々も同様の認識でした。……五十年前、あなたがカサンドラ氷河の中から凍り付いた状態で見つかるまではね」

「おやまあ」

くふくふと吐息を吐き出すように笑い、彼は尾の先を僅かに動かした。

巨大な緋色の体は、覚醒に伴いその色を美しく深めてゆく。そそり立つ角は黒々と、まるで山羊のようにねじれて天高くそびえている。太く長い尾は、二百年の眠りを経てなおそのしなやかさを失っていない。戦闘ともなれば、その尾から繰り出される一撃で村の半分が消し飛ぶとも言われていた。

戒められてなお、はち切れそうなエネルギーが感じられる。彼がその気になれば、この学校など跡形もなく消し飛ぶだろう。そのことを肌で感じ取った校長は、ぐっと拳を握りしめた。

「あなたに聞きたいことがあります」

「なにかな?」

「あなたはなぜ今目覚めたのですか」

「私の方が聞きたいくらいだ。が……」

彼は金色の目をきょろっと動かして笑った。

「思い当たるふしがないでもない」


少女はぶつぶつと何事か呟きながら、表示したウインドウに魔術文様を描いていた。円の中に開くアールデコ調のラインは獅子の横顔を模している。そこに何本かの線を慎重に書き加えては消し、消してはまた引きというのを繰り返してゆくと、獅子の顔を彩るような植物文様が完成した。

自分の仕事に満足げに頷いた彼女は、図らずも全校生徒の中で最初に“彼”のニュースに接することになった。もっともそれを彼女が望んだわけではなかったが。

彼らはきっと研究所の人間なのだろう。学校の巨大なライブラリは研究所に在籍している者も利用できるので、よく出入りしている。書架の間に立った二人は、興奮を押し殺しながら早口で話している。

「検体の話、聞いたか」

「聞いた聞いた。目覚めたってな!どうすんだろ」

「今のところ人間を襲う気はないらしいぜ。校長が言質取ったって」

「言質ったって、ドラゴン相手に言霊で縛ろうとしてもあんまり意味ないんじゃ」

「それが大人しく縛られたっていうんだよ!まあドラゴンだからさ、やろうと思ったら言霊くらい、自力で解除できるんだろうけど」

「二百年前だっけ?勇者ガザ・トゥメルクがかの悪名高き暴龍アルハンゲリスクを倒したってやつ。なつかしー、歴史の授業んときやったよな」

「そのドラゴンって死んだんじゃなかったっけ」

「そう習ったよな?でも今ここにいるってことはつまり、歴史は嘘だったってことだ」

彼女は自分の頭の中のアーカイヴにアクセスする。希代の勉強好きであるところの彼女は、一度読んだ本の内容は忘れないというささやかな特技を持っていた。とはいえ、博覧強記を誇る彼女のアーカイヴをもってしても、アルハンゲリスクに関する書物は二、三冊程度しかなかった。

曰く、アルハンゲリスクは傍若無人にして凶暴な人類の敵。

曰く、アルハンゲリスクは最も巨大で最も邪悪なドラゴンの王。

曰く、アルハンゲリスクは人類を皆殺しにすべく地底の王国からやって来た殺戮者。

曰く、曰く、曰く。

焼き払った村は数知れず、殺戮した人間は十万を下らない。両手両足では足りない程の国が滅び、かつて人類が栄えた場所は湖や山になっている、という。

数多の悪行を経て、かの巨龍はアフリカの英雄、ガザ・トゥメルクによって屠られた。幾重にも張られた曼荼羅の如き封呪様式で閉じ込めた上で、世界各国の強力な魔術師が展開した妨害様式で相手の力を削り、絶好のタイミングで攻撃様式を叩き込んだ。というのが、人類のドラゴン退治の顛末である。

二百年前のことだからさして大昔というわけでもないのに、その詳細について語られた書物はあまりない。勇者の生い立ちや、彼がとった戦術について議論されたものは多いし、ドラゴンについて書かれた書物は山のようにある。けれど、アルハンゲリスクという個体に限った本は少なかった。

「寡黙なドラゴンだったのかな?」

彼女はそう呟くと、猫のようなあくびをしながら再び自らの書いた文様に向き直った。

が。

地鳴り、のような音が図書館全体を揺らし本棚がみしみしと音を立てた。

恐るべき音量が体全体を揺らしている。大きな管楽器、例えばホルンのような重みをもって鼓膜に殴り掛かってくるそれが何であるのか、彼女は分からなかった。

「ドラゴンだ!」と誰かが叫ぶまでは。

「ドラゴンだ、あのドラゴンが吠えてる!」

長々と続く咆哮に、さしもの彼女も寝床から飛び起きた。閲覧スペースの方へ行くと、同じように戸惑った顔をしている生徒たちと鉢合わせる。先ほどドラゴンだ、と叫んだ男はきっと、研究所の人間だろう。迂闊な男だと彼女は思う。きっと機密事項だったろうに。

生徒たちはその声を受けて右往左往だ。ドラゴンなんて蹴散らしてやると息巻く者たち、泰然自若と自分の勉強を続けるつわものに、今もなお長々と続く咆哮を動画に収めているゴシップ好きもいる。

そんな中彼女はぼんやりと顔をあげ、今だ続く咆哮に耳を傾けていた。

「……怒ってる?」


「なんだなんだなんだこの城は!?恐ろしく乱雑で、恐ろしく汚いではないか!」

彼は―アルハンゲリスクは拘束されたままの状態で叫んだ。尾の先端にある袋が興奮で膨らんでいる。

「ありえん!ありえんぞ人科のサルども、どこをどうしたら自らの居住区域を、こんなにも、ああ、こんなに乱雑にしておけるのか!?まったくこれほどとは思わなかった!」

「咆哮を直ちに止めなさい!アルハンゲリスク!」

拘束がはじけ飛び、コンクリートの壁に激突して派手な音を立てた。皮膚に食い込んだくろがねは、ドラゴンの発する熱量でどろどろと溶け始めた。研究員たちは恐怖もあらわに、真っ先に退避した別室からそれを見つめている。

校長だけがただ一人、アルハンゲリスクの前に立ちはだかっていた。初老の域に差し掛かろうという彼女は、小柄で品の良い顔つきをしていて、とてもこのような荒事に立ち向かえるとは思えない。

けれど彼女は震えることさえなく、仁王立ちで暴れる龍を睨み付けている。

「黙りなさい、アルハンゲリスク!さもなくば貴様の腹に仕込んだ文様を展開しますよ!」

 暴虐龍が目覚めたときの為に、人間たちは彼の凍りついた体に遠隔起動タイプの魔術文様を幾重にも重ねていた。鱗の防御もないこの至近距離では、いかなアルハンゲリスクでも防ぎきれない。それを知ってなおドラゴンは高らかに吼える。

「やりたまえ!その前にこの汚い城を吹き飛ばしてやろう!」

叫んだアルハンゲリスクは、後ろ足で立つと首と手足を戒めていた鉄の拘束を、力づくで破壊してしまった。魔術障壁が音を立てて砕け散り、何重にも施された予備の拘束様式も紙のように千切れ飛んだ。広大な背中で折りたたまれた翼が不気味に蠕動し、校長が身構える。

だが、アルハンゲリスクはそれ以上の行動をとらなかった。咆哮は、頭がぐらぐらするような耳鳴りを残して、止んだ。

大きなドラゴンはそろりと腰を下ろし、まるで行儀の良い犬のように座り込む。

アルハンゲリスクの為に作られたこの部屋は、彼がそんな風に腰かけてもぎりぎり足りるほどの天井の高さがあった。

「……とやって、前回は失敗した」

「前回?」

「勇者とやらが来てしまっただろう、ほらあの馬面で色黒の男」

「う、馬面かどうかは知りませんが」

「私は前回の失敗に学ぶことのできる謙虚なドラゴンだ。私のみでできることは存外少ないということを、嫌という程思い知ったからな」

「……仰ることの意味が分かりかねるのですが」

「つまりだなお嬢さん、この城は汚すぎるから掃除をしろ、ということだよ」

校長は訝しげに眉根を寄せた。このドラゴンは目覚めてからこの部屋を出ていない。

その疑問を読み取ったかのように、アルハンゲリスクは言った。

「私の鱗は、整っていない空間―大げさに言ってしまえば塵芥(トゥーチャ)というやつだが、それを察知することができる」

「空間察知……」

校長の脳裏に勇者ガザ・トゥメルクの逸話が蘇る。ドラゴンの、この反則すれすれの能力に、勇者も随分苦しめられたらしい。

「でも、塵芥(トゥーチャ)とはいったいなんです?初めて聞く言葉ですが」

「なんと、ガザの奴め、後代への教育を怠るとは!平たく言えばだな、血だの汚わいだの病だのといった負の魔素を指すわけだが、単純に不潔な場所を示してそう称することもある。そも、この城は随分年若いものが多いようだが、教育がなっていないのではないかね。生きることとは清掃だ、身の回りをきちんと片づけてこそ初めて魔術も使えよう」

「……あなたの目的は何なのですか。何のために目覚めたの」

「清掃」

アルハンゲリスクはきっぱりと言い放った。

「我が目的は徹頭徹尾、清掃整頓掃除にありや。もっともガザめにはなかなか理解してもらえなかったがね」

「清掃、というのはその……部屋を片付ける、という理解でいいのかしら」

「うむ。部屋に限らず庭や池や海や空を綺麗にしておく、それはとても大切なことだ。だのにこの学校ときたら!埃まみれで乱雑で、恐ろしく汚いではないか」

校長は我が耳を疑った。かの凶王アルハンゲリスクが、こともあろうに清掃など!

「であるからして」

「はい?」

「只今より掃除を始めよう。案ずるな、私の手伝いをしてくれるだけで良い」

「は、はあ?」

「この城の、清掃長は誰になる?メイド長、執事長、とにかく清掃を司る者を呼びたまえ」

断られるとは微塵も思っていないアルハンゲリスクは、鼻息も荒く校長を見下ろした。


校長は彼女の前で、アルハンゲリスクのリクエストを告げた。彼女は自分がここにいる理由をいまいち飲み込めていないようだった。

「清掃を司る者、ってリクエストなんでしょう?何であたしが呼ばれるんですか」

「知っての通り、うちの学校は特殊です。だいぶ……いえ、かなりね。清掃なんて価値観ははっきり言ってない」

「ですよねえ?あたしだってこの学校に来てから掃除しろなんて一度も言われたことないです。何であたしなんですか?」

「あなたが……あなたがこの学校で唯一の、清掃委員だからです。乙蘭(おとらん)・クロヴォスコワ」

彼女は―乙蘭は思い切り怪訝な表情を浮かべた。清掃委員。清掃委員?

「……なんか、とおーい昔に、なったような、ならなかったような」

「あなたが中等科に入学した次の年に委員会の制度は廃止されましたから、もう二年前のことです」

「廃止?じゃもうあたしだってお役御免じゃないですか」

「いえ、どういう理由か知りませんが、残っているのです。あなたの個人データにね」

そう言うと校長はタブレットを乙蘭に差し出した。そこには彼女の写真、実家の住所、成績、ひと月の魔力残量といった基本的なものだけではなく、どういった本を借りているかといったデータまで残っている。売店の使用頻度という次の項目に、その文言はあった。

所属委員会―清掃委員。

「ウソでしょ」

「残念ながら真実です。そしてこの学校には用務員もメイドも執事もいない。およそ清掃を司る者は不在なのです」

「まあ、この学校にそんなもの置いても……」

「一瞬で意味がなくなります。増殖繁茂狂乱混沌、それがこの校の生態ですから。そもそもここは、人間の管理の範疇外にあるのです」

「だからって、……生徒に任せます、普通?」

「つい数時間前、国立魔術研究所の方々が到着しました。アルハンゲリスクの魔力のおよそ九十パーセントを結晶化し、我が校で保存することが決定しました。校内にいる限り危険性はないと判断したこと、それからアルハンゲリスクが執拗に“清掃を司る者”を求めていることから、我々はあなたを彼につけることに決定しました」

「決定しました、って」

「我々が出て行って変に刺激するよりは、かりそめでも清掃委員の肩書を持つあなたが出て行った方が、彼も納得するでしょう」

理屈は分からないでもない。だが体よく面倒事を押し付けられただけのような気もして、乙蘭はむすっとした表情のまま足を組む。

「よくもまあ昔の清掃委員なんてのを引っ張り出して……。っていうか、魔力の九十パーセントの結晶化なんて、よくドラゴンが同意しましたね」

「清掃という目的を達する為に必要なことならば、と同意しました」

乙蘭は眉をひそめた。アルハンゲリスクの真意が分からない。

「なんでそのどえらいドラゴンは、そんなに掃除に躍起になるんですか?」

「それが分かれば苦労はしません。本人は塵芥(トゥーチャ)がどうこうと言っていますが」

分からんのかい。澄ました顔の校長に心の中で毒を吐きつつ、乙蘭は考え込んだ。

断れる余地は恐らくない。本来であれば光の速さで断って本の虫に戻りたいところだが、かの暴龍アルハンゲリスクが絡んでいるのだ、個人の我儘が通用するとは考えにくい。

「まあ、やれと言われれば掃除だってやりますけど」

「よろしい。では今すぐ研究室に向かいなさい。アルハンゲリスクが手ぐすね引いてあなたを待っています。きちんと“彼”に紹介してからことを進めるのですよ」

校長はさっさと立ち上がると、裾をさばいて部屋を出て行った。


ほう、という低い声が頭上から響いて、乙蘭はげんなりした。

「お嬢さんが清掃を司る者かね。道理で城が荒れているわけだ。たった一人ではこの広大な城の維持はできまい」

「サーセン……何でもいいんで、さっさとその、清掃とやらに取り掛かりましょーよ」

とにかく事を早く終わらせたい乙蘭は、意外と小さなそのドラゴンを見上げて言った。

ドラゴンは体高二メートルほどで、角の先から尾っぽの先まではおおよそ四メートルから五メートルほどにもなるだろうか。赤茶けた鱗は一枚一枚がビロードのように輝いていて、その目の知性的な輝きと、漆塗りのような角の質感を際立てている。

翼は蝙蝠の羽のように、丁寧に折り畳まれて背中の方にある。通常見るドラゴンよりも、いささか首と尾が長いようだったが、太い手足に鋭い牙はドラゴンそのものだ。

体が意外と小さいのは、魔力の九十パーセントを結晶化され、人間に奪われているからだろう。自らの牙を抜くような真似をしてまでアルハンゲリスクが成し遂げたいことの意味が分からず、乙蘭は頭上の深慮深げな顔を仰ぐ。

その視線を受け止めて、ドラゴンは鷹揚に頷いた。

「まずは立場をはっきりとさせておこう。私は清掃がしたい。この城の隅から隅まで清めるべく、お嬢さんの手を借りたい」

「そんじゃああたしも一つはっきりさせておきますけどね、お願いだから、あたしのことをお嬢さんだなんて馬鹿にしたような呼称で呼ばないでください」

むっつりとした少女のぶっきらぼうな抗議に、アルハンゲリスクは虚を突かれたようだった。ややあって、喉の奥でしゅうしゅうと小気味よく笑う。

「それは失礼した。名前を聞いても?」

「乙蘭。乙蘭と呼んで下さい」

「よろしい。私のことはどうとでも呼びたまえ。暴虐龍、凶王、闇の帝王、魔王にラスボス……呼び名には事欠かん」

「いちいちぼうぎゃくりゅーなんて舌噛みそうな名前で呼べってんですか?めんどくさい、アルハンゲリスクも長いから、アルさんって呼びますね」

「……どうとでも呼べと言った手前反論はできんが、しかしもう少し威厳のある呼び方はできないものかね?」

「無理です」

「であればまあ、いいか。きみはセイソウイインという、清掃を司る者らしいな?」

「司るっつーか……名目上の担当というか……」

「イインというものは役職だろうか?」

「はあ、まあ」

「役職というものがある以上、私はその長とならねばならない、分かるね?」

分からなかったが乙蘭はとりあえず頷いておいた。するとアルハンゲリスクは満足げに頷いて「ということだ」と言った。

「……え、な、何が“ということ”なんです?」

「だから、私がイインの長になるということだよ」

「あー、委員長」

委員というものが廃止されたこの学校で、委員長を名乗ることに何かの意味があるとは思えなかったが、下手に何か言ってへそを曲げられても面倒だ。ドラゴンはおだてて担いでおくに限る。

「んじゃまあ、アルさんが委員長であたしがその部下っつうことで」

委員長という肩書に満足げなアルハンゲリスクを尻目に、乙蘭はすたすたと歩きだした。

「きみ、おとらん、乙蘭」

「何ですか、ほら掃除するんならさっさと行きますよ」

「なぜ掃除をするか、聞かないのかね?」

「だって校長先生が聞いても言わなかったんでしょ、じゃあ今更同じ質問したって意味ないじゃあないですか」

「乙蘭、きみが聞いたら返事をするかも知れないよ」

乙蘭は立ち止った。四本足で器用に歩いていたアルハンゲリスクが立ち止まる。彼が四つん這いになっていると、乙蘭がちょっと見上げるだけで目線が合う。

「なぜ、そんなに清掃にこだわるんですか?」

「それはじきに分かるだろう」

「ほらー!教えてくれないじゃあないですか、だから聞くだけ無駄って言ったのに」

「返事をするかもと言っただけで、返事をするとは言っていない。それよりも乙蘭、きみは今からどこへ行こうと言うのかね」

「地下室ですよ」

板張りの廊下をさっさと歩きながら乙蘭は言う。ドラゴンはその横に並びながら、

「なぜ地下室なのかね?」

「この城の造りを知ってもらうには、地下室を見てもらうのが一番早いからです」

「この城の造り、とな。確かにここは酷く汚れていて常に塵芥(トゥーチャ)に満ちているが」

「あなたの空間察知能力で分からないんですか?」

「何をだね?」

アルハンゲリスクが本当に分からないようだったので、乙蘭はにんまりと笑った。世界を滅ぼしかけたドラゴンでも分からないなんて、なんだか優越感だ。自分の手柄ではないけれど。

「この城はね、アルさん。生きているんですよ」


乙蘭が案内した地下室に入ったドラゴンは、ほうっと感嘆の声を上げた。

ほの白く発光している「それ」は、まるで根のようにあちこちに伸びていて、部屋全体をまろく照らしていた。太陽光とも人工の明かりとも違うそれは、見ているだけで暖かな気持ちになってくる。

地下室の扉の反対側には、真っ暗な廊下があった。

「こっちです」

乙蘭が廊下を抜けて広い場所に出る。そこは上まで吹き抜けになっている、回廊のような空間だった。

「これは……!」

アルハンゲリスクが驚嘆の声を上げる。天井までの高さは百メートル以上あるだろうか。巨大なドラゴンの尾ほどもある根は、複雑に絡み合って、上へ上へと伸びてゆく。

白い根は太くなったり細くなったりしながら壁をみっしりと覆っており、呼吸をするようなリズムで、緩やかに明滅していた。

乙蘭が小さな根をまたいで、部屋の中央へと向かう。おぼろげな明かりしかないので全貌は窺えないが、アルハンゲリスクが拘束されていた研究室の、十倍ほどの床面積はありそうだった。

「ここは根っこです。人間で言うところの心臓かな」

「ということは、ここは急所ということだね?」

「そーゆー物騒なことを考える人は一生、この城を攻略することはできませんよ」

乙蘭は笑って、上を指差した。

「この上に学校があります」

「学校……ああ、だからこんなに若い人間の気配が多いのか」

「なんだ、気づいてなかったんです?まあいいや、そんで横に研究所とかあって、なんかこうレベル5的な最高機密の研究をしてるってわけですね」

「ふむ、きみの口が羽のように軽いのか、それともその事実は既に皆が知っている程度のものなのか、判断ができかねるな」

「あたしの口は貝みたいに固いですよ。ま、誰が攻めてきてもここは落ちませんから」

「私が攻めても?」

「どーでしょーね?ところでこの城は生きているんですけれど、真名をア・バオ・ア・クゥーといいます」

きん、と耳鳴りがしてアルハンゲリスクははっと後ずさった。

「私に術式をかけたか?」

「いいえ。ただこの城をご紹介しただけですよ」

「だが、今私の体に何か魔術をかけたのは確かだろう!」

「そういう性質なんです。この城はね、自分の胎内に入り込んできたものを守る習性があるんです。どんな攻撃からも、どんな魔術からも人間を守ってくれる。爆発事故が起きたって死者も負傷者もゼロですよ」

その一方で、と乙蘭は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「名を知った者はもうこの城を攻撃できない、という性質もあるのです」

「なんと、面妖な」

「不思議ですよねえ。あたしたちはこの城に守られているのですが、名を知ってしまえば決してこの城を殺すことはできない。そして一度知れば、知らなかった頃には戻れない」

「成程。難攻不落だな」

「だから校長先生は、簡単にあたしをあなたにつけたんですよ。校内にいる限り、あなたはあたしを殺すことができない」

「元より殺す気など微塵もないがね」

「二百年前に国をいくつも焼いた張本人が何を言いますか」

乙蘭の口調はあくまで平板だ。二百年も前の事件に今更憎悪を燃やすようなタイプでもないし、終わったことをいちいち蒸し返すだけの胆力がない。

「あなたはこの城に塵芥(トゥーチャ)が満ちていると言いましたが、それも仕方がないことなんです。この城は生きていますから。あたしたちが想像もつかない法則で増殖してゆくんですよ」

「では矯めねばなるまい」

「ため?ああ……うーん、木みたいにそう簡単には行かないんじゃないですかね」

乙蘭は地上へと向かうエレベーターへ足を踏み入れた。アルハンゲリスクと乙蘭、二人合わせてぎりぎりの荷重積載だ。

音もなく上昇してゆく箱の中で、ドラゴンは言った。

「それが生態だからと、カオスを放置することは許されない。それは温床となり、悪いものを呼び寄せる」

「ゴキブリとか?」

「あー、まあそういったものも悪いものに含まれるか」

成程と乙蘭は思う。基本的に本の位置さえ分かっていれば部屋が綺麗だろうが汚かろうがどちらでも良かったのだが、唯一あの黒い害虫だけは我慢ならなかった。

確かに汚い部屋ほどゴキブリを呼びやすい。そう考えれば掃除という行為の正当性にも一応納得はゆくものだ。

「でも掃除ってすんごく面倒臭いじゃないですか」

「何の為の魔法かね、人類諸君」

「馬鹿にすんのやめて下さい。二百年前はどーだったか知らないですけど、今は各々にあてがわれる魔力の量が制限されてるんですよ」

驚きに見開かれるドラゴンの目。彼にとって魔力を制限されることは、力を削がれることと同義だ。人間がその支配を理由もなく甘んじて受け入れていることが信じがたかった。

「人間を支配する生物が存在するのか!ドラゴンか?」

「いんや、人間が人間を支配してるんですよ。支配っていうか、管理か」

「支配とほぼ同義に聞こえる」

「ドラゴンはそうかもですねえ。人間はインフラがあるから、魔術が使えなくても生きていくことはできるんですよ。まあ、魔術を使わないで生きるのは、何と言うか、常に体の半分がぼんやりしてる状態だと思うんですけど」

人々は程度の差こそあれ魔力と呼ばれる力を有している。その力を国が一度回収し、月ごとに使用できる魔力を定めているのだ。どの程度使えるかはその人間の信頼状況にもよるが、平均的なこの国の人間であれば、国に預けている魔力の六十パーセントを随時使うことができた。

「……素朴な疑問なのだが、預けた魔力のおおよそ半分はどこへ行くのだ?」

「貯めておくこともできますが、一定期間を過ぎるとお金になって返ってきますよ。必要あればそのお金で魔力を買うこともできます。その魔力は制限つきなので、例えば人を害する為の魔術―爆発、火花、洪水、まあそういう類のは使えないようになってますけどね」

「よくもまあそんな枷を受け入れるものだ」

アルハンゲリスクは他人事のように感心している。人間が自ら武装放棄してくれるのは、常に退治される側であるところのドラゴンとしてはありがたい。

「人間同士の争いを避けたいわけだな」

「そういうことです。あなたのせいですよ」

しれっと言われて、アルハンゲリスクは少し鼻白んだ。エレベーターからさっさと降りてすたすた歩いてゆく乙蘭の横に並ぶ。二本の足でも歩けないことはないが、乙蘭と目線が合わなくなるので、四本の足を器用に動かして東洋の龍のように歩く。

「どういうことかね?」

「あなたを倒す為に、攻撃術式が異様に発達しちゃったってことですね。術式の種類が爆発的に増えて、多重構造の文様が増えました。だもんだから、あなたが倒れたあともしばらくいざこざが収まらなくって、仕方がなしにこういう取り決めにしたわけです」

「だが皆素直に魔力を差し出すかね?」

「差し出した魔力は蓄えられておきますから。差し出さない人がいれば物理でどうにかします。どの国にもそういうお仕事の人はいます」

「原因を作った身で何だが、いささか窮屈ではないかね?」

「んー……。この学校にいる分にはそんなに窮屈とは思わないですけど、湯水のように魔力を使えたら楽だろうなって思います。魔術って、自分の面倒臭いことを片付ける為って言うよりは、自分の仕事とか趣味とか楽しみの為に使うものじゃあないですか」

「うむ」

「だから、その中で掃除に魔力を割こうって人は、よっぽどの潔癖なんじゃないかなって思いますよ」

「なるほど。だからこの学校はここまで汚い、と」

掃除されている様子のない廊下の隅の、ふわふわとおぞましいわたぼこりを見て、アルハンゲリスクは神経質に鼻づらを震わせた。

乙蘭はエレベーターのあるホールから外に出た。緩やかな冬の日差しが彼女を包み込む。だが彼女はぶるりと身を震わせ、校章のついた外套の前をしっかりと掻き合わせた。

「校内のご説明する必要あります?」

「不要だ。掃除の鉄則に従い、上からまずは片付けよう」

とくれば、と乙蘭はこの学校の中で最も高い棟―ツギハギしたようないびつな建物を見上げた。

「研究棟から始めましょうかね」



アルハンゲリスクは後悔していた。

“掃除は高いところから”という自分の判断は誤りではないと今でも思う。だが、二百年の眠りから覚めたばかりなのだ。もう少し難易度の低いところから清掃を始めても良かったのではないだろうか。何事も順番が大切だ。

「待て。待て待て待て……」

「待ちませんよお。ほら早く、一番上はまだまだ遠いですよ」

乙蘭はひょいっとヘドロのようなものを飛び越える。それは随分時間が経っているらしく、表面は乾いてひび割れていたが、乙蘭を追いかけるように蠢いた。死にかけた虫にも似たおぞましい動きに、ドラゴンは顔をしかめる。

ヘドロだけではない。何を栄養としているのか分からない巨大なキノコ、何かの死体に群がる親指大のアリ、おびただしい量のセミの抜け殻、素知らぬ顔でその合間をぬって歩く三又の尾を持つ猫、カニのように横歩きする古びた本、どこへ続いているとも知れぬ水たまりとその中で蠢く深海魚のように真っ白な生き物。

その合間を埋めるようにして、あの白い根がうねっている。もともと白い根の方が先にあって、その隙間に色々なものが繁茂するようになったのだろうが、アルハンゲリスクの目には白い根の方が、あとから空いているスペースにそっと身を横たえたように見えた。

それほどまでにこの空間には、魔力と命が満ちていた。いっそずうずうしいほどに。

「さーてこの部屋から始めようかねっと」

乙蘭が手近な小部屋―ドアノブが謎の蔦に覆われておらず、誰かのお経めいた独り言も聞こえて来ず、隙間から謎のピンク色の煙が漏れ出ていない―を無造作に開け放った。

刹那、誰かの鋭い声が飛んでくる。

「あぶない!」

叫んだ者が誰だか分からぬまま、乙蘭はアレクサンドリア学園の生徒として素早く反応した。即ち、床に伏せて退避姿勢を取ったのだ。

その結果として、哀れ無防備な暴虐龍はその顔面に直撃を喰らった。何が自分の顔面を見舞ったのか、彼は最初理解することが出来なかった。ヘドロのようなそれからは油っぽい匂いがして、アルハンゲリスクはうえっと顔をしかめ、ぶるぶると体を揺すった。

「悪ィ悪ィ、大丈夫か!?ミーちゃんくしゃみと一緒にゲロする癖があんだよなー」

「ということは、これは、猫の吐瀉物か……!」

部屋から飛び出してきたのは、髪を短く刈り込んだ色黒の男だった。制服の上からでも彼がよく鍛えていることが分かる立派な体つきで、健康な魔力がぐんぐんと彼の体内を巡っているのが見て取れた。

男の後ろでは、家一軒ぶんほどの化け猫が、たくさんの尾をゆらめかせながら神経質そうにこちらを伺っている。ミーちゃんとカジュアルに呼ぶにはあまりにも凶暴そうな使い魔は、見知らぬドラゴンを容赦なくねめつける。

「いやあ、うちのミーちゃんがすまなかったな、乙蘭。んでそっちは?お前の使い魔?」

「……アルハンゲリスク、清掃委員の長を務めている」

「清掃委員?そんなのうちの学校に……」

きょとんとする男が何か余計なことを言う前に、乙蘭が口を挟んだ。

「勲、アルさんの体綺麗にしてあげて」

「そうだな!でもミーちゃんはペットフードとドラゴンのワタしか喰わねェから、ゲロっつってもそんなばっちいもんじゃ……」

「いいから!」

勲は屈託なく笑いながら、両手の指の腹を合わせて、ぐっと押し込む仕草をした。するとアルハンゲリスクの頭上に金色の文様が現れる。ちょうどお盆ほどの大きさで、勲が魔力を流し込むと鈍く光った。それと同時に文様から滝のように水が降り注ぎ、アルハンゲリスクにかかった吐瀉物を洗い流した。彼は不機嫌そうな顔を隠しもせずに、

「……どうも、ご厚意に感謝する」

「いいっていいってー!んで、清掃委員さんたちの要望はなに?」

「清掃だ。ここを掃除させてもらうぞ」

「この部屋を?いいけど、ミーちゃんのお部屋として使ってるから結構清潔だぜ」

乙蘭はそうっと部屋の中を覗き込む。ミーちゃんに合わせて天井を大きく広げられたその部屋は確かに片付いていて、乙蘭は少し意外に思った。だがアルハンゲリスクは中をちろりと見ただけで、やれやれといった風に首を振る。

「毛玉だらけではないか。それに猫の吐瀉物のあとがあちこちに見受けられる」

「猫だからしゃーないだろ」

「ならぬ!隅々まで美しく、清潔に保ってこその清掃である!そもそも猫の毛というものはだな、気づけばどこにでも入り込み小さいながらも広大な塵芥(トゥーチャ)を形成する恐るべきものであるからして、最優先でけりをつけねばならぬ」

ぷりぷり怒りながらアルハンゲリスクは部屋へと足を踏み入れる。ミーちゃんが毛を逆立て威嚇するのにも構わず、尾をぴんと立てて宣言した。

「清掃の時間だ、箒をもて!」


アルハンゲリスクの魔術は見事だった。魔力を使うことに全く躊躇いがなく、大胆に文様を捌く様はまさに千年(ちとせ)を生きるドラゴンにふさわしい。大小さまざまな水滴を操り、天井から床からキャットタワーまでを拭き取ってゆく様に乙蘭は見惚れた。ただただ美しいショーを見ているようだった。

「こんな魔術を使えるんなら、あたしいなくてもいいんじゃないですか」

「いや、猫のいる部屋は魔術だけでは足りんのだ」

ドラゴンは汚れた水を無造作に窓の外に放ると、湿った床の上から一本の毛をつまみ上げた。爪と鱗で武装された手が人間のように器用に動くことを乙蘭は意外に思った。

「見たまえ!拭いても拭いても必ずどこかに猫の毛は付着しているのだ!魔術で猫の毛は拾えぬ。猫自身が持つ魔術耐性とその毛の細さゆえに!」

「はあ」

「から拭きののち、目視で確認して丁寧に猫の毛を取り除いていかねばならない」

乙蘭はぐるりを見渡す。だだっ広いこの空間に散らばった猫の毛を、目で確認する?

「いや、……いやいやいやいつまで経っても終わらないでしょうそれじゃ」

「やるのだ。やらねばなるまい」

「魔法でちょちょいーっとできないんですか?」

「言っただろう、魔術が使えぬ以上、目視で確認しなければ猫の毛は根絶できぬと。毛は粘着テープで取ると舞い上がらなくて良いぞ!」

言い終えるとアルハンゲリスクはヤモリのように天井に張り付いた。器用にから拭きしつつ、本当に目で猫の毛を確認しているらしい。

「正気なのか、暴虐龍……」

かつて世界を混乱に陥れたあの魔王が、今や猫の毛一本に汲々としている。それはなんだかほほえましくもあり、正直なところを言ってしまえば間抜けでさえあった。

「まあ、これが清掃委員の仕事だもんね……」

乙蘭は覚悟を決めると、乾いた雑巾を手に取り、床のから拭きを始めた。


部屋の主であるミーちゃんが、外でゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえる。乙蘭は最後の毛をつまみあげ、慎重に粘着テープに押し付けた。

「おわ……った?」

アルハンゲリスクは乙蘭の仕事のあとをじっくりと調べ、しかつめらしい顔で頷いた。

「猫の毛一本見当たらぬ。これならば問題ないだろう」

結局一日かかってしまったが、アルハンゲリスクも満足いく仕上がりになったようだ。慣れぬ拭き掃除でくたびれた腰を叩きつつ、乙蘭はそうっと立ち上がって、ミーちゃんと勲を中へ招じ入れた。巨大な化け猫は意気揚々と自室に足を踏み入れ、綺麗に磨かれた床の匂いを興味深げに嗅いでいる。

「うむ、やはり掃除の行き届いた部屋は良いものだな」

満足げに頷いたアルハンゲリスクは、次の部屋を目指さんと廊下に一歩踏み出す。と、彼の鋭敏な耳が嫌な音を聞きつけた。

なにかえづいているような、皮袋の中で液体がごろごろ攪拌されているような―。

「あっ、ミーちゃん」

勲の焦ったような声。振り向いた暴虐龍の目に飛び込んできたのは、ミーちゃんがうずくまって、口を中途半端に開けて体を蠕動させている姿だった。

「やめろ―」

アルハンゲリスクの願いもむなしく、その猫の口からはげろげろと毛玉混じりの吐瀉物があふれ出―。美しく磨き上げられたばかりの床を盛大に汚した。

いたたまれないのは勲だ。わななくドラゴンの口元は見なかったふりをして、

「……あー、ごめん、これは俺が掃除しておくから」

「いや、構わぬ、構わぬとも少年よ、掃除とは即ちマイナスをゼロに戻す終わりなき仕事ゆえ、斯様な徒労感には慣れておる……!」

「いや、全然慣れてないっしょ、アルさんこめかみ……こめかみ?かはわかんないけど青筋浮かんでて、うっわ、顔やばっ」

―のちに乙蘭は、ドラゴンがあれほど複雑な表情を浮かべられるということをその時初めて知った、と語る。


それから二人の眩暈がする程面倒な仕事が始まった。

そも、掃除という概念に馴染まないのがこの学校である。片付けたと思った瞬間、スペースが空いたのを良いことに放し飼いになっている生き物たちが巣を作り始めるし、ア・バオ・ア・クゥーもどんどん繁殖してゆく。一所懸命床が見えるまで掃除しても、次の日にはもう元通りということだってある。

だがアルハンゲリスクは諦めなかった。ドラゴンらしからぬ粘り強さで校舎を掃除し、丹念に汚れを取り除いていった。乙蘭も学業そっちのけでドラゴンを手伝った。早く終わらせたいというのもあったが、掃除している間は頭をからっぽにすることができ、何よりも長きを生きたドラゴンの話を聞けるまたとない機会だったので、彼女はよくドラゴンに懐き、協力的に働いた。

アルハンゲリスクの魔術はもはや芸術の域に達しており、数多の本を一瞬にして本棚に戻してしまったり、幾重にも絡まった宝玉の首飾りを瞬く間に解きほぐし、ケースにしまい込んだり。綺麗にする、という行為に純粋な喜びを覚える性質らしく、魔術を使わずに掃除をする方法を考えることにも熱心だった。

「見たまえ乙蘭!この布を巻きつけた棒でドアのサッシが恐ろしいほど綺麗になるぞ!」

「あー、はい、そうですね」

「うむうむ我ながら良いアイデアであった!手の届かぬ場所にも魔術要らずで掃除が可能!これを栄光なるアルハンゲリスクの黄金棒と名付けようぞ!」

既にそれが別の主婦の名を冠して発売されていることは、言わぬが花だろうな、と乙蘭は思った。


かの暴虐龍が目覚めてからおおよそ十日間。寝食を共にし、授業をすっぽかし、学内の清掃に勤しんでいた一人と一頭が次の標的に選んだのは、裏庭であった。

魔術でちょいちょいと終わらせる予定だったが、マンゴラドラやベラドンナ、来歴不明の巨大キノコなどが繁茂していたため、下手に魔術が使えないことが判明した。大きな軍手を着け、口元を布で覆った乙蘭は、さほど広くない裏庭をぐるりと見渡して言った。

「そんじゃあまずはあの辺のキノコとか目立つの抜いちゃって、それからアルさんが魔法使うってことで」

「うむ。ああそのキノコには気をつけたまえよ、食虫花が擬態しているものだから」

「うえっ?ちょ、そういうのは早めに言って下さいよ。触っちゃった、あっぶな」

「なんだ、ただの食虫花だぞ?そこまで過剰反応する必要もあるまいて」

「この学校の食虫花ですよ?人くらい平気で喰いますって」

「……違いないな。やはり表面だけでも焼き払うか?」

「うーん、誰かが何かを育ててるかも知れないし、一度先生に聞いてみて……」

顔を上げた乙蘭の目に、いつになく真剣な表情のアルハンゲリスクが映る。猫の毛を拾っているときの顔とはまた違った、殺気を帯びた鋭い目つき。

「な、なに、どしたんですか」

「……来やるぞ」

呟いたアルハンゲリスクは、今まで折りたたんでいた翼を広げると、鷹のように上空へ飛び上がった。空中でホバリングしつつ、大きな口を開けてぐおうと吼える。咆哮は即ち魔術を解除するキーでもある。彼の目の前に生じた巨大な文様は曼荼羅の如く展開し紺碧の空を埋め尽くした。

瞬きの間に展開された文様の意匠を乙蘭は一瞥して読み取った。防御障壁。それも一瞬で練り上げられたとは信じられない程の、十重二十重に織り込められた。

それら全てが一瞬のちに飛来した攻撃術式を受け止めた。火炎と火球それから雷撃を纏った風のつぶて。乙蘭の目はそれらの攻撃全てを見た。それがどこからもたらされたものなのかを考える必要はなかった。

乙蘭はその攻撃を見た瞬間、アレクサンドリア学園の生徒として正しい行動に出た。

彼女が右手を高く上げる。右手首の蛇をかたどったブレスレットがするすると彼女の肌を這い上がり、指先で大きなピストルへと姿を変じた。乙蘭は躊躇いなく引き金を引く。

三度乾いた音が校内じゅうに鳴り響いた。それが意味するものは―。

「敵襲、敵襲!南南西よりの魔術攻撃確認!」

ピストルによる第一報を終えると、乙蘭は続けて第二報の準備に取り掛かる。その間もアルハンゲリスクは常に防御障壁を展開し続け、どこから襲い来るとも知れない攻撃を受け止めていた。

乙蘭はタブレットを取り出すと、緊急時連絡用のアプリを立ち上げる。三十二桁のパスワードを素早く打ち込んでから全校一斉警戒体制の連絡を行った。その連絡はたちまち生徒全員のタブレットに送信される。また学校の放送システムにも即時で繋がり、浮足立つようなサイレンが三度短く放送された。

それで十分だった。

「アルさん下がって、第一声来ます」

「第一声?」

乙蘭の第一報を受けたことにより学校の防衛システム―通称庭師(ガーデナー)が起動される。防衛システムとは即ちア・バオ・ア・クゥーによる強制魔術展開でもある。放送システムが校内全体を揺るがすような大音声で『宣言、宣言、此方の真名はア・バオ・ア・クゥーである。繰り返す、此方の真名はア・バオ・ア・クゥーである』と告げた。

するとドラゴンたちの体の上に、まるで花火のような文様の魔術がぱっと開き、吸い込まれるようにして消えて行った。

「なるほど、敵対する相手には容赦なくこの学校の魔術をかけるというわけだな」

アルハンゲリスクは目を細めて呟く。

「知らぬわけでもあるまいに。連中、何の対策もしてこなかったのか?」

「どうやって対策するんです」

「例えば己の耳を潰す、とかな」

さらりと恐ろしいことを言ってのけたアルハンゲリスクは、乙蘭の体をすくいあげて自分の背に乗せると、上空に舞い上がった。ドラゴンの背中に乗っているという事実を噛み締める間もなく、彼女は攻撃してきた相手の恐ろしさに息を呑んだ。

それは百頭以上から成るドラゴンの群れであった。

距離にして学校から約十キロのあたりに群れが固まってホバリングしており、十数頭がその群れの方へ戻ってゆく。アルハンゲリスクのように美しい鱗も角も持たず、皮膚病のようにただれた肌や手入れのされていないかぎ爪を持った彼らは、おどおどとこちらの様子を伺っていた。乙蘭は目を眇めて彼らを観察する。

「火吹き種、吐酸種……硬化種までいるみたいですね。ドラゴンの展示会って感じ。今のは様子見の一撃ってとこかな?」

「そのようだな。それにしても随分みすぼらしいなりだ、鱗の手入れもろくにされておらん!定期的に泥浴びをして清潔にしておらぬから、見たまえ、ほとんどの個体が酷い皮膚病にかかっておる!」

憤懣やるかたない様子のアルハンゲリスクは、今にも衛生観念について説教しに飛んでいきそうな勢いだった。

「あれでは塵芥(トゥーチャ)が膨れ上って手に負えなくなる……」

「塵芥が?なぜ」

「塵芥の餌は汚れと怠惰だ。連中は格好の寄生先ということになる」

アルハンゲリスクは塵芥というものを酷く恐れているようだった。

「塵芥が膨れ上がると、どうなってしまうんですか」

「……二百年前のこの国のようになる。きみは見たことないだろうが、かつてのこの国はそれは酷いものだった。それを清掃したのが私であり、汚れに塗れた私を切り捨てることで秩序を取り戻したのが、きみたちのガザ・トゥメルクだ」

「……」

二百年前のことを想像するのは骨が折れる。けれど乏しい経験と豊かな知識を総動員して乙蘭は考えた。世は混沌と汚わいに満ち、綱渡りのような危うい均衡の上にあって、彼とガザ・トゥメルクは必死にその状況を打開しようとしたのだろう。

「塵芥とは即ち、巨大な寄生虫のようなものだ。汚れと怠惰を餌に宿主に寄生し、膨れ上がり、やがて宿主を乗っ取ってしまう。種族の別なく」

「種族の別なく……。ってことは、人もドラゴンも関係ないってことですね」

「そうとも。私とガザ・トゥメルクは、戦端が開かれた時こそ敵同士だった。しかし最後に我々は利害の一致を見たのだ。……その結果私は討伐された。今はこうしてどうにか生きてはいるがね」

「ふふん。んじゃあわりかし簡単ですね。私たちは自分の仕事をするだけでいい」

乙蘭の言葉にアルハンゲリスクは首だけで振り返る。少女は不敵な笑みを浮かべ、空中でホバリングするドラゴンたちを見据えている。

「アルさんが言わないんなら私が言っちゃいますよ。―清掃の時間だ、箒をもて!」


乙蘭の案内で研究棟の裏側に飛ぶと、足の裏に文様を展開して空中に佇んでいる、一人の女生徒の姿がそこにあった。きらきら輝く銀髪をポニーテールに纏め、制服をきっちりと着こんでいる。彼女のルビーのような目はまっすぐドラゴンの群れを見据えていた。

「やあ、乙蘭」

「そっか、今回は“北”が指揮取るんだね」

「応。野良ドラゴンがたったの百頭、既にア・バオの魔術は展開済み!楽な試合だ」

間の抜けたアラート音と共に、彼女の眼前に半透明のウインドウが現れる。フェイスタイムでの通話を求めてきたのは一人の女生徒だった。

『ア・バオの魔術展開は完了したかしら』

「応。全校生徒に伝達、前線へ配備されていない生徒は直ちに地下のア・バオ根元付近に避難し屋外には決して出るな。あと威力偵察を出せ」

『了解~』

女生徒が画面から消えるのとほぼ入れ替わりに別の生徒の顔がポップアップで現れた。

『北の、後始末はどうする?経営科としてはドラゴンの爪のかけら一つも残さず売り飛ばしたい。よって原型を留めた死体を希望する。ミンチになったドラゴンに用はないからな』

「……清掃委員として異議申し立てします」

「乙蘭?」

北、と呼ばれている女生徒が怪訝そうに眉を吊り上げた。

「言いたいことは山ほどある。だが一言で言うならば、乙蘭、配置が違うぞ。後援に回らんか」

「違う。あのドラゴンたちを力任せに撃破するのは得策じゃない」

「清掃委員の長として申し入れる。我らの方針を聞いてくれ」

アルハンゲリスクが口を挟むと、女生徒の眉がさらに吊り上った。

「暴虐龍がなんの用だ」

「今はこの学校の清掃委員長であるがゆえに、お嬢さん、話を聞いてくれまいか」

「誰に物を言っている?私は“北”、ヒラサワだ。戦闘において指揮権を持つことを学校から許されている特権持ちだ。今回の指揮権は私にあって、清掃委員長にはない」

豹のような鋭い眼光にも構わず、アルハンゲリスクは乙蘭に尋ねた。

「北、ということは南や東もあるのかな?」

「そうですね、東西南北四人の生徒が持ち回りで指揮権を取っています。これは戦闘の経験値を積む際に偏りが生じないようにするための学校側の配慮なんですけれども、今後は彼女の指揮に生徒全員が従います」

「持ち回りで指揮権を取る、とな。成程分かりやすい」

ア・バオ・ア・クゥーは防御の術式としては最も低コストで優れたものだ。それを狙うものは後を絶たないが、この術式の持つ特徴ゆえに、攻め込んでもなかなか奪うことができない。それを逆手に取ったのがこの高校だ。

学生の頃より頻繁に行われる、生を確約された戦闘は、生徒たちを端倪すべからざる兵士へと変える。指揮官の指示にスムーズに従い、一糸乱れぬ動きを見せながら敵を撃退する様は、多くの国政機関がラブコールを送る程洗練されている。

ヒラサワは面白くもなさそうに笑った。

「暴虐龍どのが同胞の命乞いとは、可愛らしい真似をするじゃあないか?一応聞いてやろう。清掃委員どもが立てる方針とは何だ?」

「まず連中に水をかけ、薬用シャンプーで洗ったのち薬をつけて乾かす。伸びすぎた毛や鱗や爪は綺麗に整え、割れた角は専用の塗料で埋める。それだけだ」

「……ふはっ、はは、はははは!笑わせてくれるな暴虐龍よ、それではまるで野良猫にしてやるようにドラゴンを保護してやるようなものではないか。私たちは慈善家ではないと言葉にしなければ分からんか」

「彼らから塵芥(トゥーチャ)を追い払わなければならない。さもなくば―さもなくば、塵芥(トゥーチャ)がドラゴンに寄生し、より禍々しい生物へと変貌するぞ」

ヒラサワは冷笑を浮かべる。

「聞けぬな。我が校を攻撃する者に情けは無用。それが今後の為でもある」

「その方針に誤りはない。だがあのドラゴンどもだけは、清掃が必要だ」

「そのように自らの存在意義を誇示せずとも、暴虐龍よ、貴様の凶悪さは人類誰もが知るところ。貴様には敬意を払おう、だがあの野良ドラゴンは別の話だ」

「……まあ、百聞は一見に敷かず、と言う」

「塵芥(トゥーチャ)とやらが何なのかは知らぬが、我らの手に負えなくなったら、貴様の言ったことを実践してみよう。ま、その必要はないだろうがな」

ヒラサワは再び各生徒との打ち合わせを続ける。次々と現れるフェイスタイムのウインドウには、現場で忙しく立ち動く生徒たちがリズミカルに指示を実行してゆく。

『前線どこに引きますか』

「一応ドラゴンだからな、遠距離攻撃で無意味に傷を負いたくはない。周囲一キロに前線のブイを浮かせておけ。ア・バオの効果範囲よりも狭くとれよ」

『偵察部隊より連絡、ドラゴンの個体の大部分が弱っているとのこと。第三班まで出しますか?第二班までで足りる気もしますけど』

「第三班まで出す。ドラゴンは逃すと後々厄介だ、一頭も撃ち漏らすな」

『北の、先生方より戦闘実行許可が下りました。第一班出撃準備完了、後方支援部隊からも連絡有り、術式第十二階位まで即時展開可能』

「了解した。周辺市街への防御術式は展開済みだな?」

『半径三十キロ以内の市街地へ防御術式展開済みです。いつでもどうぞ、北の』

「―では作戦を開始する。第一班、出動せよ」

その声と共に、黒いローブを纏った影が十二ほど踊り出、軽やかに空中を走ってゆく。踏み出すごとに空中で刹那的に瞬く文様の見事さにアルハンゲリスクは唸った。とっさの防御にも優れ、小回りがきき、何より速い。足を前に蹴り出すたびにこの文様を展開しているのだとすれば、生徒たちの魔術のコントロールは達人の域に達している。

アルハンゲリスクは、影の戦闘を走っているのが勲であることに気づいた。

暴虐龍の鋭い目は、勲が二振りの刀を携えて、鼠のようにはしこく空中を駆け巡るのを見る。スリーマンセルを組んだ彼らは、二組で一頭のドラゴンを相手にしている。展開する魔術が火花のように煌めいて、青空に瞬いた。

抉る、焼く、断つ、剥がす―。展開される魔術のヴァリエーションは多岐に渡り、ドラゴンたちを狼狽えさせた。ドラゴンの体に比べ、生徒たちはあまりにも小柄で、懐に潜り込まれるとどうにもできなかった。柔らかな腹部や、鱗の隙間を、研ぎ澄まされた魔術が穿つ。どす黒い血が飛び散って、生徒や他のドラゴンたちの体に降り注いだ。

現われた時から意気軒昂とは言い難いドラゴンたちは、たった十二人の生徒にたちまち押し込まれ始めた。隙のないヒットアンドアウェイの攻撃に、弱点を的確に狙う眼力、多少の反撃ではびくともしない気力のせいで、ドラゴンたちの戦意は下がってゆく。

「ろくな反撃もしてこない……。あれじゃ飛んで火にいる夏の虫じゃない。何であのドラゴンたちは攻め込んで来たんでしょう」

「ア・バオを狙っているにしては準備が足りないな」

「何の意図があって……。何の為に……?」

そう呟きながら乙蘭はじっとドラゴンたちを睨みつける。その指がまるでピアノを弾くかのように動くのを、アルハンゲリスクは興味深げに見つめた。

「そう言えば君は、こういうときどのポジションにつくのかね?」

「あれ、言ってませんでしたっけ?あたしの専攻は―」

言いかけた時だった。ヒラサワが派手に舌打ちする音が耳を打つ。

「何だあれは!観測手!」

『判定不能!魔力計測可能値突破、っていうか、ドラゴンって言うには魔力の質が違いすぎる……!』

アルハンゲリスクの鱗が蠕動する。彼の殺気がうわん、と気配を増し乙蘭の肌を刺した。

「やはり、そこにいたか」

「なに……なんなんです、あれは」

それは青空に落とされた染みのように見えた。濃い紫色の気配が、ある一頭のドラゴンを中心に波状に広がってゆく。そのドラゴンの鱗は沸騰しているようにぼこぼこと醜く膨れ上がり、マグマの如く血膿を噴き出しては揺れている。ホバリングもまともにできず、酔っ払いのように空中を乱高下していた。

「―あれこそが私が最も恐れていたもの。塵芥(トゥーチャ)が限界まで凝縮された果てに生み出された生物。ガザと私はあれを、ジャボール(悪魔)と呼んでいたものだが」

ドラゴンの背中はまるで焼きたての食パンのように割れ、そこから長い角を二本生やした「何か」が頭を突き出していた。背中に寄生しているせいで、まるでドラゴンを操縦しているように見える。

「ヒラサワ!」

「分かっている!第一班に次ぐ、即時撤退せよ。後援は防御様式第十二階位まで即時展開!対象の魔術回路の分析及び属性特定急げ」

「その撤退少し待て!」

叫んだのはアルハンゲリスクだ。命令し慣れた鋭い声に、ヒラサワが一瞬言葉に詰まる。

「ジャボールは一体では攻撃してこない。あれは仲間を増やしてから攻撃する用心深い生き物だ。だからまず我々がすべきことは、他のドラゴンを遠ざけることに尽きる」

ヒラサワは疑り深くアルハンゲリスクをねめつけたが、

「……第一班、先程のオーダーは取り消す。その個体―以後ジャボールと呼称する、そいつから一定の距離を保って私の指示を待て」

「聡明なお嬢さんだ。ジャボールの寄生力は尋常じゃあない。塵芥(トゥーチャ)を少しでも有するものに飛びつき、背中を割り、血肉を啜り仲間を増やす……。ゆえに私は最初の方針を再度提案したい」

「……ドラゴンどもを洗い、薬を塗り、猫のように保護してやれと?」

「ジャボールを増やしたくなければな。ああ、言っておくが、ドラゴンを攻撃するという選択肢はないぞ。血と死体はジャボールが最も望むカオスゆえに。あやつ一体であればまだ対処できよう。だがあれが鼠算式に増えてゆくとなると、恐ろしいことになるぞ」

「だろうよ。これほど離れていても、あれの放つ禍々しさが手に取るように感じられる……!奇策ではあるが、試す価値はある、か……?」

ヒラサワは苦しげな表情で、遠くを舞うドラゴンたちを睨みつけている。その間にも紫色の気配は、白い布に落ちたワインのように広がってゆくのが分かる。

「……やってみるだけならば損はないだろう。第一班聞こえていたな、そのままドラゴンたちをかく乱し、ジャボールと他のドラゴンとの距離を取れ!ジャボールには近づきすぎるな、スリーマンセルのまま作戦実行。ドラゴンへの攻撃も出来る限り控えるように」

「それじゃ色々用意しないと。アルさん下ろして貰っていいですか?」

「うむ、私も手伝おう。ドラゴンを洗う手順はドラゴンが一番心得ているゆえ」

清掃委員という肩書で結ばれたドラゴンと少女は、あっけにとられるヒラサワを置いて、速やかに仕事に取り掛かった。


掃除とは何もごみを捨てるだけではない。使えるもの、使えないものを選り分けて、整備しておくこともその仕事内容に含まれる。

「シンリンアサゴの種、通称“原初の黒子”を砕いたものに水道水を1リットル、マンゴラドラの根っこを刻んで乾煎りしたのを入れてきっかり五分煮詰めてから布で濾したものがドラゴンの皮膚病に効く薬、ねえ。まあ原初の黒子は皮膚病の万能薬だから配合は間違っちゃいないんだろうけど」

薬学科の男子生徒は渋い顔をして乙蘭の差し出したレシピを見た。

「原初の黒子なんて希少品だろう。百頭ものドラゴンの体表に塗布するとなると、相当量が必要になってくるんじゃないのか?」

「研究棟の開かずの間にびっしり貯め込まれたのを持ってきた。これでいけるはず。恐らく五千リットルくらいで足りるだろうって、アルさ……委員長が言ってたし、あたしも同量くらいと見込んでるから、とりあえずここにある材料全部使って作って欲しいんだ」

「分かった。実行場所はスタジアムだな?そこに一頭ずつドラゴンを捕まえて送り出すって理解でいいな。俺たち薬学科総出でやるから、三十分後に第一陣を持って行けると思う」

「全量じゃなくていいから二十分でよろしく」

言い残して乙蘭は、防御術式を展開する後援部隊の詰所に駆け込んだ。ドラゴンの洗浄係りを頼むと、怪訝そうな顔をしつつも、北の命令であればと頷いた。

残るはどうやってドラゴンに近づき、洗って薬を塗布するまでに至るかである。もっとも、乙蘭は既にその解を得ていたのだが。

乙蘭は中庭に戻ってくると、足の裏に文様を展開して空中を駆けのぼり、注意深くドラゴンたちの様子を伺うアルハンゲリスクの横に並んだ。

「アルさん、薬と洗浄係確保してきました」

「すまないね。今のところ彼らの動向に変化はない。さて、残るはドラゴンを一頭ずつ捕まえて、洗い場に誘導する方法だが」

「ああ、それはですね、あたしに任せて下さい」

「きみに?」

暴虐龍は少し驚いたように傍らの少女を見た。

「あたしの専攻は魔術文様開発なんです。で、さっき空間転移の文様を作ってみたんですけど、ドラゴンの体の組成がいまいち分からないから、一度アルさんに見てもらおうかと思って」

「拝見しよう」

 テーブルクロスを広げるように、空中にふわりと広げられた金色の魔術様式は、存外シンプルだった。楕円形の様式は基本的にはシンメトリーになっていて、ミルフルールやアラベスクといった模様がちりばめられてある。中央には百合の花を模した空間転移の文様が注意深く織り込まれてあって、アルハンゲリスクは乙蘭の力量に舌を巻いた。

「吸引、拘束、霊子分解ののち空間転移、霊子再現、拘束という流れか……そうだな、ドラゴンは体表に微弱ながら魔術を弾く精霊を寄生させている。拘束は少し威力を強めた方がいいだろう。書き足しても?」

 乙蘭が頷くと、アルハンゲリスクはその文様に数本の線を書き加えた。無駄のない、けれど確実なその位置取りに乙蘭もまた心の中で唸った。

「あたしたち、清掃委員なんかやってないで、文様開発に集中した方が世界の為になりそうですね」

「そんなことはないぞ。誰かが世界を清め、塵芥(トゥーチャ)を砕かねばならぬのだ」

「……」

 乙蘭は傍らの暴虐龍を見た。その目は、かつて世界を滅ぼさんとした狂王とは思えない程凪いでいる。彼女はそっとドラゴンの鱗に触れ、祈るように目を閉じた。ほんのりと暖かいそれは、陶器のような肌触りがした。

ドラゴンは睡蓮のような香りを放つのだと、その時乙蘭は初めて知った。


 生徒たちの執拗な妨害によって、ドラゴンたちは散り散りになって疲労困憊といったありさまだった。そこへ第二班が疾風のように襲い掛かる。彼らは黄色い卵大のものを空中にばらまくと、第一班の生徒と共に一目散に逃げて行った。

 怪訝そうにその黄色いものを鼻面でつつくドラゴンたち。それが罠である、と気づいた瞬間にはもう、乙蘭の文様に絡め取られている。体の自由が利かなくなり、視界が白く染まって、何だか体の中から引き絞られるような感覚に襲われて―。

 気づくとそこは敵陣地の真っただ中であった。

「―!」

 反射的に咆哮を上げようとしたドラゴンを大量の水が見舞う。水とそれからなんだか目に染みてつんとした匂いのする何かにもみくちゃにされて、苦い泡をしこたま食らわされた。尾をめちゃくちゃに打ち付けて振り払おうと思っても、体が上手く動かせない。

「うわっ、でっけえ寄生虫だなオイ」

「第三班!自然に落ちた鱗は拾っといて薬学科に回しといて!寄生虫もだよ!」

 人間の大声がドラゴンをいっそう刺激する。拘束を受けてなお身もだえするドラゴンは、ひときわ大量の水にもみくちゃにされ、薄荷のような匂いのするぬめった液体をまんべんなくかけられた。

「鱗の隙間にも塗りこめ!デッキブラシもっと持ってこい」

「拘束術式もっと強いのにするよう支援部隊に言って!じゃないと暴れて全然薬がかからない……!ひどい、皮膚がほとんどただれてるわ……」

 ドラゴンはそのぬめった液体が、じわりじわりと皮膚にしみ込んでゆくのを感じる。あれほどひどかったかゆみが嘘のようだ。

「次、生物科んとこ連れてって!皮膚病以外に酷い怪我してる個体も全部そっちへ!」

「俺が見る!……あー、角が欠けてんな、これ。あとは目立った外傷無し、と。補強材三番持って来い!」

 欠けてバランスの悪かった角に触られて気持ちが悪かったが、すぐに解放された。体の自由が戻ったドラゴンは、慌てて空中へ飛び出す。何かねばついたものが角に巻き付けられていたが、それを取るのはあとでいいだろう。

 ―それにしても、とドラゴンは首を傾げる。先ほどよりずいぶんと体が楽になったような気がするのは、どうしてだろうか?


「いやはやさすが、一糸乱れぬ連携は人間の十八番だな!瞬く間にドラゴンどもを収容し、治療しおった」

「うちの学校は特にそれが強い。役割分担と専門性、それが鍵だな!」

 得意げに言ったヒラサワは、唇をきゅっと引き結んで、未だこちらをにらみ続けているジャボールに視線をやった。

「さて、問題はあれをどうするか、だ。一体であればさほど難しくないと貴様は言ったがな、解析班によればあれは神話級の兵器が必要だそうだぞ。さすがにそれを取り寄せるには時間がかかる」

「だろうな」

 どこかのんびりとした様子のアルハンゲリスクに、背中に乗っている乙蘭は首を傾げる。

「策があるんですか」

「無論。私がいるだろう?暴虐龍のアルハンゲリスクの面目躍如よ」

「でも、あなたの魔力は今封じられているはずでしょう」

「いやなに、魔力なぞいらぬのよ。ジャボールめ、寄生するはずだったドラゴンどもをあてにできなくなって焦っておろう。大方仲間を増やしてこちらを脅しつけ、ア・バオを奪うつもりだったのだろうが……。『周辺の街がどうなっても知らぬぞ』と脅されれば、きみたちも方針を考え直さざるを得んだろう、という見込みは正しいが、私を計算に入れなかったのが誤りだったな」

 にんまりと笑う暴虐龍は、乙蘭をそっと背中から下ろした。

「ドラゴンどもはあらかた治療し終えたか」

「はい。でも、待って、何する気ですか」

「単独行動は許さんぞ、暴虐龍。貴様があのジャボールと通じていないとも限らん」

 ヒラサワの言葉に乙蘭は目を見開く。その選択肢は考えても見なかった。

「私があれを呼び寄せたと?」

「可能性はあるだろう?」

「きみの将としての目線には敬意を払うが、いやしかし、もう少し私のことを信用してもらいたいものだね。率直に言って傷ついたぞ」

 少しも傷ついていないような口ぶりで言うと、アルハンゲリスクは乙蘭の方に向きなおった。

「短い間ではあったが、世話になったな。乙蘭」

「……自爆する気です?あれと一緒に」

「やはり分かってしまうか。まあそれが最も手っ取り早い手段だ。何しろ私はガザと約束をしてしまったからなあ!あれは―ジャボールは私が引き受けると」

「で、でもそれはもう二百年前の話で……!」

 乙蘭は言葉を呑み込む。アルハンゲリスクは笑っていた。人間のように目を細め、口を器用に開いて。ドラゴンが笑うなんて乙蘭は知らなかった。彼といるといつも、本で得たかりそめの知識など歯が立たないくらいの、面白いものに触れられる。

「それに私は清掃委員長だ。……私はね、この肩書を、暴虐龍だの狂王だのやたらと剣呑な肩書よりも、ずっと気に入っているんだよ」

 アルハンゲリスクは優雅に飛翔する。魔力の大部分を預けてなお美しく輝く鱗は、青空に凛と映えている。

「私がいなくても、掃除は怠らぬように」

「……分かってますって。任しといて下さいよ!」

 どんと胸を叩く乙蘭の姿を一瞥し、アルハンゲリスクは翼をはためかせる。もう彼は振り返らない。懐かしき仇敵は手ぐすね引いてアルハンゲリスクを待っている。

 ジャボールは言葉を弄さない。実力こそが彼のものさしであり、言葉である。ジャボールに寄生されたドラゴンがのろのろとアルハンゲリスクに向かって飛んでくる。かぎ爪をぎこちなく開き、暴虐龍を自らの血で穢そうと手を伸ばす。

「ならぬよ、ジャボール。此度もまた私と共に死ぬるが貴様の定め」

 優しい声とは裏腹に、アルハンゲリスクの魔力が霧のように周囲を満たす。常人であれば窒息するほどの気配にジャボールは不機嫌そうに唸った。アルハンゲリスクはジャボールを抱き寄せるように近づき、その翼で包み込む。ジャボールのかぎ爪が暴虐龍の鱗を剥ぎ、子どものように無邪気に皮膚を抉った。

 じわり、じわりとジャボールがアルハンゲリスクの体を呑みこんでゆく。シーツに落ちた血の染みのように、彼の体が自由を奪われてゆく。

 かりそめの生であった、と痛みにぼやける意識の中、アルハンゲリスクは思う。乙蘭と共に過ごした僅かな日々は、まるで死ぬ直前に見る白昼夢のようだ。二百年前に一瞬止まった死が動き出しただけのこと、そう思えばジャボールと死ぬことに何らの躊躇いもなかった。

 ただ―。もう少し、あとほんの少しだけ、乙蘭と話しても良かっただろうなと後悔のような感情を抱きつつ、アルハンゲリスクは己の腹に据えられた自爆様式の、起動コードを口にした。

「“三から十、二、四に七七”。リミッター全解除、即時起動」

 生徒の安全の為に彼に施された様式だったが、十分に用は足せる。術式が連鎖的に爆発し、魔術回路を引き裂き、血を湧き立たせ、全ての痛覚を無邪気に蹂躙した。

ポップコーンのように肉体が弾ける感覚を覚えながら、アルハンゲリスクは目を閉じる。



 ―死というのはもっと冷たいものだと思っていた。アルハンゲリスクは首を傾げながらぬるい暗闇に手を伸ばす。体は随分と痛んだが、痛む自覚があることが不思議だった。死とはそういう一切から解放されることを指すのではないのか。

「……ぬ」

 遠くから少女の声が聞こえてくる。

「アルさん、アルさーん……!っかしーな、この辺にいるはずなんだけど」

「爆散したんだろ?血肉が残っているかどうか」

「んー、爆発の威力をね、強制的に別の魔術様式に転換するような文様をつけといたから、多分肉体は爆散してないはず……。ってか勲、まさか肉片を拾い集めて、売り飛ばすつもりじゃないでしょうね?」

「いや、みーちゃんのエサにしようかと」

「あんたってほんとに……」

 ぐう、とアルハンゲリスクは喉の奥で唸った。それが笑いであることに気づくまでそう時間はかからなかった。

 さくさくという軽い足音が近づいてくる。何度か瞬きすれば、視界も徐々に戻ってきた。ぼやけた白い世界の中で、照れくさそうに笑う乙蘭がいる。

「アルさん、ですよね?」

「……おうとも」

「わ、ちっちゃくなりすぎちゃったかな?爆発の威力がここまで大きいとは思わなくて」

「きみが私に魔術をかけたのか?」

「お腹の辺りの鱗に術式を仕掛けたんです。爆破の威力を、アルさんの体の霊子構成の組み替えに変換できるように。平たく言えばちっちゃくなるようにしたの」

「いつの間に……」

「アルさんが、ジャボールをどうやって倒すか喋らなかった辺りからですかね?なんとなく何をしようとしてるのか分かっちゃいましたから」

 くすっと笑う乙蘭は、今やミニチュアのドラゴンと化したアルハンゲリスクを抱き上げる。小型犬ほどの大きさになった彼は、不慣れな様子で尻尾を動かした。

「行きましょう、委員長。ドラゴンを治療した後片付けもしなくっちゃならないし、そもそも学校だって、研究棟ですら掃除し終わってないんですからね」

「そうだった、そうだったな」

 思わず拾い上げた生を胸いっぱいに吸い込みながら、かつての暴虐龍は空を仰ぐ。紺碧を取り戻した空には、白々と胸のすくような月が浮かんでいた。


【了】

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委員長は暴虐龍? 雨宮いろり・浅木伊都 @uroku_M

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