喫茶 雨月館

野沢 響

喫茶 雨月館

 午前中から降り続いている雨は午後二時を過ぎても止む気配はない。小雨だが、天気予報では午後から雨は止み、天気は回復すると言っていなかったか。そんなことを考えながら、伊織は行きつけの喫茶店に向かって歩みを進める。

 細い路地裏を抜けると、視界にはすぐに見慣れた看板が飛び込んできた。和風な書体で『喫茶 雨月館』と書かれている。店の外観は洋風だというのに、何故店名をわざわざ和風にしたのかといつも不思議に思う。

 店の扉を開けると、今時珍しいベルが小気味良い音を立てた。

 「いらっしゃいませ」

 中年男性の柔和で落ち着いた低い声。

 「いらっしゃいませ!」

 続く、若い女性の明るくい元気な高い声。

 伊織がいつものカウンター席に着くと、女性の店員がメニュー表を差し出した。伊織はそれを受け取った後、店内を見回す。

 客は自分を覗いて、二人しかいなかった。

 「今日は客が少ないな」

 言いながらメニュー表に目を通すと、

 「そうなんです。今日はお客さん少ないですよ。この天気のせいだと思いますけど」

 出された冷に手を伸ばし、口を付ける。すると、今度はマスターが口を開いた。

 「お久しぶりです、最近いらっしゃらないから、どうされているのかと」

 「最近、仕事が溜まっていたからな。一カ月半ぶりか……」

 言いながら、伊織は慌ただしかった頃の記憶を振り返った。やっと外出する時間を作れるようになったのだ。

 「それはそうと、傘はお持ちではないのですか?」

 「午後は晴れるって言うから持って来なかったんだが、失敗したな」

 「天気予報など当てになりませんよ」

 おしぼりを手に先程の女性店員が会話に入って来た。

 「コーヒーとサンドイッチを頼む」

 「了解しました。コーヒーはいつも通りブラックでよろしいですか?」

 「ああ」

 「かしこまりました!」

 元気よく返事をして厨房に引っ込んで行った。

 カウンターの傍にあった新聞を手に取る。広げると、三十代の男性が警官の銃で撃たれて死亡した、という記事が大きく掲載されていた。

 その瞬間、雨脚が急に強くなり、窓を叩いている音が店内に流れる音楽に混じって聞こえてきた。伊織はその記事から目が離せなくなった。

 ある記憶が蘇る。出来れば思い出したくない、忌まわしい記憶。感じるはずのない硝煙と血の臭いが不快に鼻孔に纏わりつくような気さえする。

 あの日もそうだった。今日と同じように雨が降っていて、周りには人だかりが出来ていた。

 青年が自分に向かって何か叫んでいる。その手には血に濡れたナイフが握られていた。二十代前半か、もしかしたら十代かもしれない。

 恐怖と不安と興奮が混じった群衆たちの醸し出す異様な雰囲気。青年と自分に向けられる、鋭い眼差し。

 伊織は羽織っていたスーツのジャケットから銃をゆっくりと取り出した。そして青年へ向ける。

 青年がこちらに向かって走り出した。ナイフの切っ先は伊織の方を向いている。

 銃の音が聞こえ、青年は立ち止まる。真っ白なTシャツはたちまち真っ赤に染まっていく。崩れ落ちた青年はそのまま動かなくなった。

 血に染まり、雨に打たれ続ける彼の顔を思い出そうとした時、

 「おまたせしました!」 

 女性の声が伊織を現実に引き戻した。

 テーブルの上には美味しそうに湯気が立ち上るホットコーヒーとサンドイッチが置かれる。

 「ああ、ありがとう」

 「ごゆっくりどうぞ」

 「伊織さん、また昔のことを思い出していたんですか?」

 マスターが心配そうに尋ねた。

 その言葉を聞いた女性店員も、どうかしたんですか、と聞いてくる。

 「いや、そんなことは……」

 思わず否定する。

 いけない。何度思い出したところで、過去を変えられるわけではないというのに。

 伊織はふと、窓に目を向けた。いつの間にか雨は止み、青空が広がっている。傘を持ってこなくて正解だったな、と心の中で微笑する。

 伊織はテーブルに向き直ると、出されたばかりのコーヒーに口をつけた。

                                (了)


 

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