刺身

古賀

第1話 刺身

 瞼の向こうに白い朝が来た。

 生のにおいがする。真冬の凍りついたひかりとは違う、息づきひしめく夏のひかり。

 僕は目を開かずに寝返りをうつ。布団はどこもかしこも柔らかに僕を受け止める。

 昨日もよく眠れなかった。夢をたくさん見た。それは黒紫色をして、よい夢か悪い夢かも定かではない。ただ、滲んだ色に取り囲まれるイメージだけが残っていた。暗くて、澱んでいて、出口がない。

 あたたかい泥に沈むのはあんな心地だろうか。始まりも終わりもないのに、五感が訴えるのは心地よさ。それがいつもの僕の夢。

 打って変わって、八畳の和室は隅々まであかるい。夏掛けはかるすぎて、眠るには落ち着かなかった。活きのいい鳥の鳴き声が、縁側の向こうから聞こ える。この時期は嫌いだ。全てのものが鮮やかすぎる。

 す、と障子戸が開かれた。足音がしなかったから、由紀だ。

「悠」

 名を呼ばれて、僕はようやく目を開く。

「七時よ」

 校章入りの三つ折ソックスの白さが目の前にあった。しなやかに細いふくらはぎ、膝下丈のグレーのプリーツスカート、白の胴に襟と袖がグレーのセーラー服。清潔な、まるで模範的な女学院の服装だ。

「……おはよう」

「おはよう」

 僕は起き上がる。乱れた寝巻きを気にはしない。由紀は三親等ではあるけれど、長く一緒にいる家族だ。

 背中の中ほどまであるまっすぐな黒髪は、今日もよく手入れが行き届いていた。丁度眉を隠すほどの前髪は、由紀自身の手でこまめに切り揃えられていることを知って いる。触れずとも感触の分かる、うつくしい髪。

「また眠れなかったんでしょう」

 僕は素直に頷く。由紀はくすりと、花が落ちるときの音で笑った。僕は立ち上がり、壁にかけておいた制服を取った。帯を解き、下着になり、グレーのずぼんと白い半袖の開襟シャツを着込む。よく乾いていて肌に心地よい。由紀は僕の着替えを見届けてから、にこりと笑った。

「じゃあ行ってくるわね」

「行ってらっしゃい」

 由紀は気配なく去った。由紀の通う高校は電車を三本乗り継いだ遠くにあるのだ、七時には家を出なければ間に合わない。僕を起こして、具合が悪くないかどうかを見定めて、それから行く。毎日のことだった。

 僕は洗面所に向かった。まったくかるくない足取りを、板張りの床が受 け止める。鏡を見て、青白い自分の顔が情けなくなった。僕は顔立ちも体つきも貧相すぎる。そして、こころも。数箇所跳ねていた髪の毛を水で濡らし、整える。せめて由紀のように美しい黒髪をもってうまれればよかったのに。僕の髪は茶色がかっていて、こしというものがまるでない。

 そうして、家を出た。

 夏の早朝、外光は既に痛い。今日も暑くなりそうだと、コンクリートが語っていた。

 慣れた道。住宅街に立ち並ぶ家々は、どれもこれも塀で囲まれている。そこから覗く紫陽花やその他の名前を知らない花や葉たちを、うつくしいと思う。瑞々しくて、生に溢れている。僕とはまるで違う。だから比べて嫌になる。葉の上にはまだ露がひかっていた。立ち止まり、触れてみる。つめたい、透 き通る感触。ちいさな水に触れると、僕は何故だか安心する。

 右に曲がり、左に曲がり、また右に曲がり、そうしてまっすぐ。その先にあるのは商店街だ。──ほとんど、シャッター通りの。ことに早朝から営業している店というのは、もう既に一件しかない。けれどその一件でしか、僕の用は足せない。

 鮮やかなにおいがした。生臭くない、新鮮な魚のにおい。潮のかおり。僕は毎日そうしているように、一度店の手前で立ち止まり、拳を握り締めて汗を抑え、それから再び歩き出した。そんなことでこの冷や汗が止まるはずもないのだけれど。

 看板には『はるや』と、素人くさいレタリングが為されていた。白と青のポスターカラーのようなもので描いてあったはずのそれは、ひどく色褪せ、木の 目にそって皹がはいってしまっている。風雨と日光の所為だろう。この看板は、古い。店じまいをしたら、ここもシャッター通りの材料になってしまうだろうと思った。

「お、らっしゃい!」

 屈託のないあかるい商売人の声、笑顔。僕は、目を合わせないよう、けれどなるべく不自然にならないよう、他の魚を眺める振りをした。木を組んだ台に、人工的な白さの発泡スチロールの箱が並べられている。値札はそえられているけれど、それぞれの魚の名前は表示されていない。僕は魚に詳しくなくて、彼らの顔以外のことをまったく知らない。

 店員の手元では、おおきな魚が手際よく捌かれている。分厚く広いまな板の上に引かれたホースからの水に、赤黒い血と白や淡いオレンジの内臓が流されていた 。こころがすうっと色を変えるのが分かる。

「今日も赤身?」

「はい」

 僕はちいさく答える。おおきな声では言えないことなのだ、僕にとっては。

「何がいいかな? おすすめは鮪なんだけど」

「──鮪、を、お願いします」

「はいありがとさん! 今捌くから、悪いんだけどちょっとだけ待ってもらえるかな?」

「はい」

 僕はこっそりと生唾を飲み込んだ。

 既に頭を落とされた魚は、骨ばって日焼けしたおおきな手に握られた出刃包丁で、手際よく三枚におろされていく。

 真っ先に捨てられた内臓を、ほんとうは欲しいと思っていた。言い出したら、きっと二度とここに来ることはできないけれど。

 待つのは所在ない心地だった。早く、と言うのには恥が勝る。けれど焦 れる。今すぐに食らいついてしまいたい気持ちを、胸に拳を当てて辛抱した。触れた鼓動は速い。僕の中にだって、赤黒いものは、流れている。こんなにも、確かに。僕はきっと、捌かれることはないのだけれど。

 視線の隅で、刺身包丁が取り出された。す、す、とこともなげに、先刻までの生物が、食べ物に変わっていく。背中を汗が流れたのは、暑くなり始めた陽の所為ではない。

 どうして、僕は、こうなのだろう。

 考えても詮無いことは知っていた。けれど考えてしまう。どうして、もっとふつうに生きられないのか、と。

「お待たせさん!」

 あかるい声が聞こえて、僕ははっと我に返った。

 清潔な白いトレイに載せられた、新鮮な刺身。色濃い血合い。透けるような残りの部分に は、少しだけ血管が残り、血を流し続けている。

「千二百円ね」

「はい」

 僕は学生鞄から財布を取り出し、札を一枚、百円玉を二枚渡した。

「はい丁度! 毎度あり!」

 白い歯がつやりとひかった。このひとは、健康そのものだ。言い知れぬ憧れが、胸に満ちた。

「あ、きみ」

 踵を返しかけた僕を、そのひとは呼び止めた。

「毎朝毎朝来てくれてるけど、おうちのお使い?」

 頭がひどい速度で冷えていった。指先も。心臓も。

 聞かれたくない。聞かれたくない。僕のことは放っておいて、お願いだから。

「……はい、そうです」

 声尻が震えそうになった。

「制服着て、偉いねえ。高校生?」

「はい」

 黒いランニング。長い上っ張り。仕事のために汚れた手は 、もう綺麗に洗われている。顔は、怖くて見られない。僕は目を逸らしてばかりだ、いつも。

「あ、ありがとう、ございました!」

 僕は何とか一礼して、その場をあとにした。礼は拒絶であると思った。

 角までをふつうと思われる速度で歩き、それからはしった。自分の体力も考えずに。

 行きつけの川原にたどりつくころには、心臓が破れそうなほど痛んでいた。耳の奥で、体液が激しく流れる音がする。鳥のさえずりも、川のゆく音も聞こえないほど、僕の耳はおかしくなっていた。

 車道の端で立ち止まり、少し息を整えて、それからコンクリートの階段をくだった。

 いちばん下の段に座り込む。

 ほうとおおきく息を吐く。

 誰もいない。

 ようやく人心地ついた。

 そし て、右手にぶらさげたビニール袋を開く。

 真あたらしい、血液のにおい。

 指でつまんで、口に運んだ。甘い。とろけるように、甘い。砂糖や果物とは全然違う甘さだ。舌が痺れるような、まとわりつくような。肉片を噛む。ぐちゅ、とちいさく音がした。鼻腔にかすかな金臭さ。悦楽が舌から脳髄に行き渡る。僕は、恍惚とした。血を飲んでいる。さっきまで生きていたものの、さっきまで泳ぎ回っていたであろうものの、命を。

 気がつけば、買ったものは全て胃袋に収まっていた。僕は溜息をつき、空を見上げる。まっさらな、抜けるような青空に、まっすぐな飛行機雲がはしってゆくところだった。




 僕はとぼとぼと歩いた。

 欲を充足させてしまえば、帰りの歩みはどうしても、遅くなるのだ。だって僕は、あの家にいたくないのだから。天の陽が、ますます動くのを億劫にさせた。少し視線を上げれば陽炎に波打つ道路が見える。あそこまで歩いたらきっともっと暑いのだろうと思わされる。それでもどうにか、自宅までたどり着いた。

 コの字に設えられた家の中庭では、いつも何故か遅く咲く菖蒲が、麗しく咲いていた。紫、白、薄墨色。垂れ下がった舌のようなおおきな花弁。僕は花を眺めるのが割と好きだ。傍にいると、涼しくていい。はかないのが、いい。鮮やかな季節の素材の中で、花だけは僕を責め立てない。

 引き戸を開け、靴を脱ぎ、上がる。廊下は板間で、夏でもつめたい。 僕はほとんど本能的に、そこに横たわった。木に触れた半身が急速に冷えて、落ち着いてゆく。心地よさに溜息をついた。

 そんなだらしない行為を、止める者はいない。従姉妹も、兄も、父も、今はいない。いたところで僕を止めはしない。昔はお手伝いさんがいたけれど、父が辞めさせた。原因は、僕だ。

 今でも思い出せる。

 あの、指先から滴っていた、鮮血を。

 とりあえず何かお腹にいれなければなあ、と台所へ行った。テーブルに由紀のメモがあった。

『冷しゃぶとそうめんがあるから、ドレッシングをかけて麺を茹でて食べてください』

 由紀の字はいつも、書き方の手本のような、うつくしい楷書だ。

 鍋に湯を沸かし、テーブルの上に置かれていたそうめんを放り込む。伸び て固まったそうめんを僕が嫌うことは、この家の誰もが知っている。冷蔵庫から茹だって冷えた豚肉を取り出し、今日は──どれにしよう、胡麻だれかな。冷蔵庫から瓶を取って戻る。

 肉もここまで調理されてしまえば、だいたい大丈夫だ。僕は何ももよおさない。そうなったところで、この家にいる限りにおいては、問題ない。

 皿を茶の間に運び、ほとんど昼食の朝食をひとりで食べる。由紀は高校生、兄の聡と父の哲はどちらも開業医、僕は、登校拒否児。夕食のときくらいしか揃わない。そして夕食はたいてい外食なのだ、誰も凝った料理を作りたがらないから。それでも由紀は僕のために何かしらを作っておいてくれることが多い。由紀は、僕が、好きなのだ。それは、居心地を悪くさせる、思い だ。

 でも食べた。他に道はなかったから。

 自室に戻り、制服を脱いで、寝間着を羽織り、腰紐を締めた。

 障子戸から昼がのぞいていた。何もしたくない。僕は間違いなく、駄目なのだろう。

 学校に行くのを辞めさせたのは、父。僕がひとに危害を加える可能性があったから。それは正しい判断だったと思う。僕は周囲に危険を運ぶ。

 兄は結婚して家を出て、もう何年になるだろう。ひごろ人当たりのきついあのひとは、ただひとりの兄弟だからだろうか、僕にだけは甘い。うちに来るときはいつもいつも、僕の好きな菓子を持ってくる。兄の顔を思い浮かべると、それがついて出てくる。日本では京都にしかない店のチョコレート。あのひとが住んでいるのは京都ではないのに。家族にはど う接しているのだろう。息子や娘のために、遠くの店まで菓子を買いに行くことはあるのだろうか。

 そして、僕の異常さを、丸ごと受け止めて愛してくれるのは、由紀。

 僕は家族が苦手だった。僕を甘やかす、家族が苦手だった。

 好きになりたかったのに。好きでいたかったのに。

 僕は僕を否定してくれるひとを求めていた。そのままのお前でいいんだなんて言わずに、お前は間違っているからこうした方がいいとか、それは間違っているからやってはいけないとか、そんな導き方をしてくれる者を、求めていた。

 少なくとも僕の周囲にそんなひとはいない。欲しいのに。必要なのに。

 けれど。

 もし僕を甘やかさないのが家族だったら。

 それはとても恐ろしい想像だった。孤 立。孤独。無縁。座敷牢の世界。危険なものは、閉じ込めて塞がれてしまうだろう。

 僕は、結局のところ、愛せないものに甘えているのだ。

 いっそ好きになってしまえばいいのに。僕を甘やかしてくれる貴方たちが好きです、と言ってしまえばいいのに。

 僕はいったい、何をどうしたいのだろう。

 つらつらと考えているうちに眠気がにじり寄ってきた。閉じた瞼に、障子枠の残像がはかなく消えた。




 昼から夜までたっぷり眠って、外食に出かけた。

 父はにこやかに笑んでいた、まるで診察のときのように。これ以外の表情をしている父を、僕は一度も見た記憶がない。どんなときでも、このひとは、穏やかだ。恰幅のよいスーツに、ネクタイだけは少し緩めていた。幾分太りすぎたためだろうか、単に暑いだけだろうか。今夜は兄も来ていた。妻は娘息子を連れて実家に行っているのだそうだ。几帳面なオールバックにスーツ姿で、煙草を燻らせている。兄はいつもの店の紙袋をさげていた。由紀は紺色の、肩のところだけでつり下げている、平たい感じの紺色のワンピース。僕は、制服。僕はあまり服というものに興味がない。清潔であれば、着心地が取り立てて悪くなければ、それでいい。

「聡さ ん、今夜は何がいいかしら」

「……野菜が食べたいな」

「あ、僕も」

 たぶん、和気藹々とした家族に見えるだろう。

 この店は、昔からの馴染みだ。野菜料理が豊富だから。僕たちはどんな店に行っても、野菜しか注文しない。人前で肉を食べないのは、僕のため。家族は僕に合わせてくれるのだ、万事を。それが楽であり、惨めでもあった。

 父と兄だけが食前酒を飲む。足つきの細長いグラスに注がれた淡い金色の液体は、こぽこぽり泡を立てていて、涼しげで綺麗だった。

「悠もお洒落を覚えればいいのに」

 隣の由紀が言う。

「何を着ればいいんだか分からない」

「じゃ今度お店に行きましょう。ぴったりのスーツを仕立ててもらったらいいわ」

「……スーツが似合う年でもな いし」

「何のためのオーダーメイドだと思ってるの、似合わせるためでしょう。腕のいいところを知っているもの、わたし」

 そう言って笑んだ顔は、猫のような上品な愛らしさだった。

「由紀、部活動をする気はないのか」

 兄が訊く。

「ないわ。馴れ合うの、嫌いだもの」

「成績さえよければいいってもんじゃないんだぞ」

 父が嗜めるように言う。

「それより悠、お昼、美味しかった?」

「……うん」

「向坂屋のそうめんだものね」

「おやお昼はかるかったんだね、ではこの夕食に丁度いい」

 オールバックの下の顔が笑った。兄は目つきが悪いが、笑ってみると案外幼く見えて、可愛い。けれどこのひとが笑うのは、昔から僕に対してだけだった。勿論、僕の知らない兄の 面なんて幾らでもあるのだけれど。

 優しい会話。僕を決して傷つけない。僕は、このひとたちに守られている。

 湯気の立つ料理が運ばれてきた。何と言うのだったか、長い名前をした温野菜のスープ。深くて縁の広い白い皿の中に、ブロッコリーときのこ、人参が、彩りよく浮かんでいる。この店の味付けは全体に濃いめで、僕好みだ。塩がききすぎるぎりぎり手前くらいの味付けが、僕は好きだ。

 美味しい料理。笑いさざめく幾つものテーブル。オレンジ色のレトロなランプ。穏やかすぎて、目眩がした。

 家に帰る車の中で、僕は全てを吐き戻した。

 痙攣する胃袋が、僕は生きているのだと、どうしようもない人間であるまま生きているのだと、嘲りながら僕に教えていた。




 熱帯夜は、圧迫されるような暑苦しい朝に移り変わった。起きて、エアコンをつける。和室にエアコンを設置するのはみっともないと思っているけれど、ないと暑すぎて倒れてしまう。朝湯をしようかと思ったけれど、もう七時だ。今から着替えて家を出なければ、魚屋にはひとが集まってしまう。

 冷風に体を晒したのちに、制服を着た。洗った顔を鏡で見たら、いつも以上に蒼白だった。

 道の植物たちはしおれかけていた。生命力は僕より強いはずなのに。あるがまま生きているだけなのに。ああけれど、彼らは野生ではなく子飼いなのだ、ひとの庭の彩なのだもの。

 右に曲がり、左に曲がり、また右に曲がり、そうしてまっすぐ。商店街に出る。魚屋のシャッターが開くところだった。

「 お、らっしゃい!」

「おはようござます」

「今日はいいカツオ入ってるよ!」

「じゃ、それを」

 捌く様を眺めながら、待つ。東からの日差しが目に肌に痛い。湿度も高すぎる。まずい、と思ったときにはもう僕の重心は傾いていた。

「ちょ、きみ、大丈夫?」

 魚屋が駆け寄ってくる。

「すみませ、ただの、ひんけ──」

 思考がばらける。唇が痺れる。目が開かない。

「今救急車呼ぶから!」

 血の気が別の意味でざあっと引いた。病院。様々な検査。それは構わない、血液さえ見ないで済むのなら、けれどそんなのは──ありえない。

「あの、少し休めば、治り、ます、から……」

 僕を抱き起こした太い腕にすがる。必死に僕は訴える。

 それは通じたらしい。

「と りあえず、奥」

 横抱きにされて、想像したこともない、他人の家の中というものに、入れられた。

平べったく、幾分湿った感触。他人の布団に触れるなど、これが初めてだ。かいだことのないにおいがする。これは他人の体臭か。

他人。

 家族でないもの。

 僕を脅かすかもしれないもの。

 つとめて呼吸を整えていたら、頭があたたかくなってきた。頬に血の気が戻るのを感じる。手を握る。開く。うん、ちゃんと動く。ゆっくりと、目を開けた。

 見たことのない染みだらけの天井、それから初めてきちんと見た、魚屋の顔。

 ひとことで言うなら、精悍で健康な顔立ち、顔色だった。髪を短く刈って、眉は太く、しっかり通った鼻筋に、日に焼けた褐色の肌。

「……すみません、ご迷惑をおかけしてしまって」

「いやそれはいいんだけど、きみ、大丈夫?」

 僕は起き上がってみた。たぶんもう大丈夫だ。

「あ、まだ寝てて! 今麦茶持ってきてあげるから」

 店頭と同じにおおきな声で言われて、僕は咄嗟 に断れなかった。どうしよう。心臓が冷えていく。ばれなければいい、ばれなければ、   ──ばれなければ?

 僕は。

 願っていたじゃないか。

 家族以外のものを。

 心臓がつきつきと、痛いくらいに早く細かく鳴った。耳を澄ます。階下から足音が昇ってくるのが聞こえた。ああ、彼の名前は何と言うのだろう。訊いてもいいのだろうか。

「はい」

 店員は膝をついて、盆を差し出した。十五センチメートルほどの高さのまっすぐなグラスに、氷の入った麦茶がなみなみと入っている。

「では、遠慮なくいただきます」

「きみ、よっぽど育ちがいいんだねえ」

「え?」

 よく意味が分からなかった。そういえば学校に行っていたころも、そんなことを言われたことがあるような気 がする。言葉遣い、立ち振る舞いが、おかしいと。そうか、僕はおかしいのか、やっぱりな、と諦めた気持ちでいたけれど、目の前の男の口調は、決して揶揄や貶しではなかった。

「あの、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか──僕は高坂悠と申します」

「あ、俺安藤晴一」

「あんどう、はるいちさん」

 名乗った男は、ふ、と笑った。ひとなつこい犬のような笑みだった。

「毎日顔合わせてるのになあ。商店街と商店街の客なんてみんながみんな知り合いの気がしてたけど、名前も知らないなんて、何かおかしくてさ」

 ああ、矢張り僕は異端なのだ、と感じた。

「ほんとうにご迷惑をおかけして、何とお詫びを申し上げたらいいか」

「ああいいのいいの。たいしたことなくてほんと によかったよ。でも、もう行かないと、学校遅刻するんじゃないの? いや、具合がもう大丈夫ならの話だけど」

「学校、」

 僕は言いよどんだ。そんなもの、何年も前から行っていない。それを、それを。

「……行って、いないんです」

「え?」

 訝しむような顔をされた。矢張り、登校もしないのに学生服であるのは、おかしく映るのだろう。

「じゃあ普段は、フリースクールか何か?」

「フリー……スクール?」

「今時はそう言わないのかな、不登校の子とかが行く、正式な学校じゃないんだけど、学校みたいなとこ」

 僕はそんなものは知らなかったので、知りませんと答えた。それよりも、僕がふつうの不登校児だと思われたことがショックだった。

 何故そんな風に感じたの だろう。たぶんそれは、このひとは僕を知らないひとなのだ、と受け取ったから。疎外感。怖くて寂しい気持ち。柔和な振りをした表情は、僕をどう扱っていいのか困っているようだった。

「毎朝毎朝さ、刺身買いに来るって、どんだけこの子刺身好きなのかな、って思ってたんだ」

 それはあまりにも核心的な話題だったので、僕は咄嗟に話題を代えた。

「……安藤さんは、お幾つなんですか。僕は十六です」

「俺? 俺は二十歳。店に出るようになってから二年」

「僕の兄よりお若いんですね」

「あ、お兄さんいるんだ」

「はい、兄はもう自分の家族がいて、僕は父と従姉とで暮らしています」

「うちは親父とお袋と三人暮らし。だったんだけどさ、俺が高三のときにいきなり親父死んじ まって」

「……それは、お悔やみを……」

「いやそこまで沈鬱な顔しないでよ。まあそんで、大学行こうと思ってたんだけど、金なくなっちまって店継いだんだ」

 誇る風でもなく、悔しさも滲ませず。

「立派ですね」

 ほんとうに、立派だと思った。このひとの足は、きちんと地についている。陽炎のようにふらふらと、己の姿さえ定まらないような僕とはまるで違う。

 触れてみたい。

 こんなに健康さを開けっぴろげにしたこころに、触れてみたい。

 立派なんてこたないさ、他にどうしようもなかっただけだって、と続けるこのひとは、健康なのだ。

 改めて、顔を見る。逞しい、という形容詞が浮かんだ。毎朝鏡で見る僕とは、まるで別の生き物のようだ。このひとは、野生なの かもしれない。僕を金魚鉢の水草だとしたら。

「まあそんなことはどうでもいいや、ほんとに大丈夫? 病院行くなら送ってくけど」

「あの!」

 思ってもみなかったおおきな声が出た。安藤さんは、少し驚いたようだった。

「あの──今日は、帰ります。家までは平気です、タクシーを使いますから。後日改めてお礼に伺わせていただきます」

 きょとんとした顔が、微笑を浮かべた。

「きみ、ああ高坂くんだっけ、きみほんとにしっかりしてるねえ」

「……」

 僕は立ち上がり、一礼して、部屋を出、階段を降り、家をあとにした。

 タクシーを使うとは言ったものの、商店街をタクシーが通る率など稀に過ぎるだろう。詰所までは確か遠いし、僕は携帯電話を持っていない。どうにか なるだろうと歩き出した。

 さっきまであれほど澄んでいた空が鈍色をしている。気圧変化の所為で貧血など起こしたのか。まあ他の様々な要因でも、僕はすぐ体調を崩すのだけれど。

 ぽつりと来たのはすぐだった。制服の肩に雨粒が染みる。空を見上げた。まつげが濡れて、僕は目を閉じた。ぱた、ぱたと、アスファルトを水が侵していく音が響く。

「あ、おーい、高坂くん!」

 背後から名を呼ばれ、僕は驚いて振り向いた。安藤さんだった。

「いっきなり降ってくるんだもんなー。これ、傘! どうせまた店に来てくれるんだろ?」

「いえ、あの、」

「じゃ!」

 無理矢理手渡された傘は、おおきな、重く黒く古ぼけた傘だった。

「あ、あの!」

「ん?」

 傘と傘の距離で、 僕は安藤さんを見上げる。随分と背が高かった。

「どうかした?」

「……あの、お刺身」

「あ、今日も食べたかった?」

「……」

 ざあっと降りが強まる。

 受け止める傘が重い。

「僕、血液に欲情する人間なんです」

「は?」

 応える表情も言葉も受け取りたくなかった。手から落ちた傘がばさりと音を立てる前に、僕は駆けだした。




 今日は、眠りながら雨の音を聞いた。

 一切の社会的活動をしていない僕でも、日曜日は分かる。魚屋に行けないから。日曜は朝一番で行っても客が多いから、怖いのだ。僕がしている、数少ない我慢。

 ──あの日から。

 初めて他人の布団に寝かされたあの日から、あそこには行っていないのだけれど。怖くて、行けないのだけれど。

 す、と障子が開く。湿ってつめたい空気が入ってくる。ぼんやりと目を開けると、白い皿を持った由紀が、傍に正座をしようとしているところだった。

 ひな人形のような座り姿。由紀は、髪一本から爪先に至るまで、つくりもののように綺麗にまとまっている。何をしていても、その綺麗さは、崩れない。

 彼女は漆塗りの箸を右手に持って、皿の上 のものをつまみ、僕に差し出してきた。

 僕の代わりに、買ってきてくれた、赤黒い肉。

 僕は一も二もなく口を開けた。箸の動きが緩慢に思えてしまう。悦楽はすぐに訪れる。がっつく僕を、由紀は愉快そうに見つめる、黒曜石の瞳で。それが楽しくて仕方ないと言う風に。

 最後のかたまりを飲み込んでしまって、僕は溜息をついた。興奮しすぎて、睫毛に涙が絡みついた。どうしてだろう、涙を出してしまうと、気が済む。そして、何かを諦められる。

 小枝になめらかな皮膚を張ったような指が目元に伸びてきた。離れて、ぺろりと舐められる。由紀は矢張り、まるで猫のようだった。

「まだ休む?」

 口元で笑んで、由紀は聞く。泣いてしまったから、また眠れるかもしれない。頷いて、 布団に潜り込み、目を閉じる。

「ねえ、悠」

 優しい声が響く。

「少し、いじめちゃおうと思ったのよ」

「……誰を」

「お魚を、捌いているひと」

 僕は目を見開いた。冗談だと言って欲しくて、起き上がり、細い肩を掴む。

 あのひとを。

 汚すなんて。

 あかるいあかるい、あの世界を、僕が焦がれてけれど手に入れられない、あの眩しい世界を持っているひとを。

 由紀は、俯いた。

 それは珍しいことだった。僕は気を削がれて、ちいさく息を吐く。

「笑っちゃうわ」

 膝の上で、手が握られていた。震えるほど、かたく。

「貴方のことを、好きじゃない人間がいるなんて」

 ああ、出た。由紀お得意の、極端な思考。

 彼女は、僕のことを好きすぎるのだ。聡 そうでいて、視野が狭い。僕に言えた話ではないけれど。彼女は保身をはたらかない。自分がどう思われていようが、何をされようが、意に介さない。彼女の意識は、百なら百、千なら千、僕に繋がったところでしかはたらかない。

 ああけれど。

 ──貴方のことを好きじゃない人間がいるなんて。

 僕はやっぱり、嫌われてしまったんだなあ。

 却ってすっとした。それは或いは涙を流したあとだからであるかもしれないけれど。

「由紀」

 この、うつくしい、歪んだ、従姉を、僕は。

 頬に手を当て、こちらを向かせる。

「僕はそれでいいんだよ」

「駄目よ!」

「僕はそれがいいんだよ」

「悠が傷つくなんて嫌!」

 ぶる、と激しく首が振られた。黒絹の髪が空を舞う。

「 だから、悠は、ここにいて、ここにいなきゃ駄目なの」

 ワンピースから伸びる白い腕が、僕に絡みついた。優しく、重く。

「でも、悠が行きたいんだったら、どこに行ってもいいの」

 言葉尻は耳に届かないほどか細かった。

 取り乱したときの由紀は、矛盾をためらいもなく繰り返す。ちいさなころは、それがただ、怖かった。けれどあのころの僕には母がいた。母はとても安定したひとで、僕のことも由紀のことも兄のことも、ひとしく、日向のようにくるんでくれていた、と記憶している。それはただのよくある、死者の美化なのかもしれないけれど。

 否。

 母には、この家の血が一滴も混じっていない。

 たぶん、きっと、だから、健全だった、のだ。

 健全なひと。健康なひと 。

 ああ、あのひとは。

「ねえ、由紀」

 肩口に埋もれかけた耳朶に囁く。

「あのひとに、何て言ったの?」

 く、と腕が震えた。

「きみはあのこのおねえさん? って」

「うん」

「そうよね、日曜日にあそこに行くのは毎週わたしだもの。従姉よ、って答えたわ」

 感情の鈍麻した声。

「昨日あのあと大丈夫だったかとか、まあいわゆる世間話よね」

 世間一般の世間話というものを、僕は知らないけれど。

「わけのわからないことをいっていたけどだいじょうぶだったか」

 今度震えたのは僕の方だった。心臓が嫌な汗をかく。

「──悠のことをわけが分からないなんて、どれくらい頭が悪かったら言えるのかしら」

 由紀の頭が、肩から離れた。僕のすぐ目の前に来 る。整った細面。僕の青白さとは違う、矢張り人形のような白さ。ふわり、笑う。

「大丈夫よ、あんなものが、悠をどうにか出来るわけがない」

 僕は目を見開く。

「あんなくだらないものが──悠を、傷つけられるわけがない」

 くだらない。

 そう。僕が焦がれて仕方ないものを、きみはくだらないと言うんだね。

 異なるものはただ異なっているだけで、それだけでくだらないとか価値があるとか、そんな判断は出来ないのに。

 でも、分かっている。由紀がものごとをまっすぐに見られない、そんな馬鹿ではないということは。ただ、歪んでしまっただけなのだ。僕を守ろうとするこころが、強いあまりに。それに甘えてここまで来てしまったのは、僕の弱さ。

「由紀」

 細い肩を 、押し戻す。

「僕は、あのひとが、好きだよ」

 由紀がきつく歯を噛んだ。

「とても、大切」

「──」

「憧れてるんだ」

 自分の声音が思ったよりも嬉しそうに響いて、怒られてしまうな、と思った。

「あれの、どこがいいの?」

「僕とは正反対なあたり」

「……そう」

 由紀は、両手で顔を覆い、下を向いた。

「そんなわけがないわ。そんなわけがないわ。悠はわたしたちのものだもの。どこにも行ったりしないのよ。行っても悠が傷つくだけだもの。悠はここでなきゃ生きていけないもの。ねえ悠、嘘ついたりしないで。そんなのはよして。あんなものがいいだなんて言わないで。巫山戯るのはもうよして」

 くぐもった声で呟き続ける従姉を、僕はただ見つめていた。

 僕 は──甘えたかったわけじゃないんだ。

 ただ、ふつうになりたかった。

 ふつうに扱って欲しかった。

 割れ物のように優しくされるのは、楽で心地よいけれど、生きている気がしない。

 けれど、僕にその権利がないことは、知れていた。

 僕はふつうではないのだから。

 ひどくひどくひどく──壊れているのだから。

 あのひとに会いたいな、と思った。

 何を話せばいいのかも、どんな顔をすればいいのかさえ分からないけれど、ただ、あのひとが、いつものように笑っていてくれれば、それでいいなと思っていた。




 夜更けに、だん、だん、と激しい音がした。何かを何かに叩きつける響きだ。眠れずにいた僕は、のろりと起き上がり寝間着の裾を直して、音へと向かった。聴覚よりも嗅覚が先に、正体を捉えた。血のにおい。僕がただひとつ、間違えないにおい。だぁん。だぁん。音は、台所からだった。台所には明かりがついていなかった。強烈な、生臭さ。

 由紀が、出刃包丁を握って、魚を叩き壊していた。

「由紀?」

「悠」

 振り向いた由紀は、たぶん笑っていた。

「悠、もう少し待っててね、貴方はもうあの魚屋には行けないんだから、わたしが」

「由紀、」

「ほら、ちゃんとあたらしい魚よ、貴方に不自由なんてさせないんだから」

 あたらしいはずがあるものか。あたらしい魚の甘いに おいなんて、どこにもなかった。僕は手を壁について、電気のスイッチを探した。ぱちり、ぴか、とあたりがあかるくなる。

 視覚に飛び込んできたのは、制服を着たまま、頬を血に濡らした、由紀の優しい笑顔だった。まな板の上には、もうすり身にでもするしかない、まるで排泄物のような、魚の残骸。

「ちゃんと、ちゃんとね、選んで買ってきたのよ。美味しそうなにおいがするでしょう?」

 僕は何も言えなかった。こんなぐちゃぐちゃなもの、欲しくない。でも、正直に口にしたら、きっと由紀は、失望する。

「──ほら」

 由紀は、包丁を置いて、僕の頬に、触れた。僕の頬も、血に濡れた。ぬるり、指が滑る。指先が、唇を割って入ってくる。

 僕は顔を顰めた。これは、美味しくな い。

 だから僕は歯を立てた。噛み締めた。ぶつ、と音が聞こえた気がした。そうして新鮮な赤い味がした。吸えば甘やかなにおいがひろがる。どくん、と心臓が跳ねた。

「ほら、美味しいでしょう、悠」

 僕は黙って、味わい続けた。用意してくれていたものの味を掻き消してくれるものは、僕が心底求めるものだった。そうだよ、始めから、こうしてくれていれば。つぶっていた瞼を開いた。目の前で、由紀は、汚れた頬を紅潮させ、嬉しそうに僕を見ていた。

 由紀は僕の手を引いて、僕の布団まで連れて行った。片手には出刃包丁を持って。

「ああ、どうしたらいいのかしら、頸動脈? 悠は、どこの血が好き? ねえ」

 由紀は息を荒げていた。布団の上で、白い脚が乱れていた。その白 さの奥の色を思い描いて、僕は唾を飲む。

 結局始めに切り裂かれたのは、手首だった。静脈に至ったのだろうか、つ、つ、と二筋が、月明かりに映えた。

「悠」

 感極まったような呼び声と共に、口元にそれがあてがわれた。僕は是も非もなく、舌を這わす。

 許されるなんて。飲んでもいいなんて。人間の、あたたかな、生き血を。

「痛いかと思ってたのに、全然そんなことないのね」

 僕達は、互いに恍惚としていた。ふたりの間に流れる血液に、酩酊していた。もう何もかも知ったことじゃない。どうなったって構わない。だって、こんなにも、世界中が甘い。

「悠、悠」

 寄越されたのは、接吻。僕にとって初めての。弾力があって少しつめたくて、僕はそこをも噛み千切った。口 内に新鮮な風味。まだ生きている、そう感じた。

「悠、全部、あげるから」

「ん、」

「何でもあげる、愛してあげる、だから、どこにも行かないで。あのときみたいにならないで。ずっと傍にいてあげるんだから、ねえ、悠」

 由紀は、急いで、下着を脱いだ。どうなってもいいと思っていた僕は、それをぼんやりと見ていた。自分の下着を剥ぎ取られても、夢心地から抜け出せなかった。

 上に乗られて、性器同士が深く繋がった瞬間、知らないにおいがした。ああこれが内臓のにおいなんだな、と思ったら、こころの奥に何かが落ちてきた。それはたぶん納得のかたちだった。肌の奥、肉を越えたら、そこには臓物があるのだ。そして骨。僕たちの最後は、骨なのだ。生きている証、それが肌、肉 、臓物、くまなくはしり蠢く血管。死ねばどれも残らない。

 すとんと回答が落ちてきた。

 僕は、生の証を、求めている。

 目を閉じて、快楽にまみれた空気を深く吸い込む。僕の上で鳴いていたはずの由紀のことが、いつの間にか意識の外だった。そうか、僕は、誰でもいいのか。生きてさえいれば、誰でも──何でも。

 時間を、忘れた。何もかも忘れた。ただ濃密なにおいだけを憶えている。それはきっと僕の呼吸器に染みついて、骨になっても消えやしない。




 ひどく滲んだ夕暮れが、町を染め上げていた。夕立のあとの陽光は、うつくしすぎて恐ろしい。それはまるで、女のようで。

 ぴちゃ、と濡れた音がして足元を見ると、水たまりに足を突っ込んだところだった。僕の所為で濁る水。すまなく思った。けれど歩く。澄んだ水に僕は住めない。僕に相応しく濁そうというの。それは我が侭なのに。けれど太陽は勝手に世界を照らすし、世界は勝手に僕をうんだ。だから僕は何をしてもいいような気になっていた。

 水たまりを汚した僕の足は、同時に水たまりに汚されていた。ローファーの中に染み込んだ泥水が、不快に靴下を汚していた。

 僕は、歩く。安藤さんの元へ。魚屋ではなくて、刺身を買う場所ではなくて、安藤さんの元へ。

 僕が欲して いるのは、安易な身体の衝動ではなくて、救いだと、僕は思っていた。それは祈りのようなものだった。懺悔だった。あのひとが、僕の神様になってくれればいいと思っていた。何もかも吐き出して、綺麗にうまれ変わりたかった。僕にもそれが可能だと信じていたかった。他に縋るものはなかった。

「あ」

「……こんばんは」

 安藤さんは、僕に、微笑みかけた。何の害意も酌み取れない、至極健康な、ただの笑顔だった。まるで春のお日様のよう。あたたかで、生き物を育てて、そして僕の血圧をおかしくする。

 閉店時間なのは知っていた。由紀に調べてもらったから。商店街の人通りは少なくも多くもなかった。皆、足早だった。紛れるのにはある程度の人間が歩いていた方が楽なのだな、と初め て知った。その中においても僕が目立つとするならば、僕はもう、ひとの形を捨てた方がいいのかもしれない。ひとでないとしたら、何の形をとればいいのだろう。ふと、頭を飛影がよぎった。ああそうだ、鳥になればいい。毒を食べた烏を思い出した。食べられないものを食べて、岩壁に自らを叩きつけて、粉々になればいい。僕の食べ物に対する罪深さは、それでも贖えない。当たり前だ、烏たちは、生きるために食べたのだもの。僕のようなものと比べてはいけない。

「もう具合はいいのかい?」

「はい、お陰様で」

「ごめんね、もう閉店なんだ」

 僕は目を閉じた。目を閉じて、このひとの笑顔がちゃんと思い出せるかどうか試した。結果は散々だった。瞼の裏に浮かんだのは、刺身の血合いの色 。僕はこのひとをそれくらいにしか認識出来ていないのだな、と考えて、今また倒れたら、このひとはこの間のように僕に優しくしてくれるかな、と妄想した。

 繋がりたい。

 繋ぐ糸が、僕の剥き出しの神経であってもいいから。

「安藤さん」

「ん?」

 穏やかな、問い返し。

「たすけて」

 たったの、四文字。たったの四文字で、用事は済んでしまった。

 熱い涙が溢れ出す。手を握り締めて、ぼたぼたと僕は泣く。止まらない。このひとを困らせたくない気持ちと、構って欲しい気持ちが交錯して、もうどうしたらいいのか分からない。そんなのは、最初から、分からないけれど。

「だ、大丈夫? 具合悪いの?」

 安藤さんが焦ったように、僕の額に手を当てる。あたたかかった 。それはただ、あたたかかった。僕は目を開く。目前に安藤さんの顔があった。

「あの、」

 心配そうな瞳は、確かに僕を映していた。それが、ひたすらに、嬉しかった。僕はしゃくり上げながら、呟いた。

「すきです」

 四文字。ただの、四文字。

 たったそれだけで、僕は決定的に、このひとを汚してしまった。

 汚したら、僕も汚れるのに。

 僕が大切に思っていたものが、汚れてしまうのに。

 安藤さんは、それでも、僕を見た。澄んだ瞳のままで。透き通ったちいさな水が、ここにもあった。触れたい。触れられない。心臓が、痛い。

「すきです……」

 ごめんなさい。みっともないものを見せて、ごめんなさい。貴方に汚水をかける真似をして、ごめんなさい。

 僕は謝 った。謝ることしか出来なかった。戦うことも逃げ出すことも出来なかった。欲しいものは手に入らず、けれどそれは誰のものにもならず、目の前にあり続けた。誰も欲しがらないものなら、僕のものになって。

 ああけれど。

 このひとは、きっと、誰かに──誰にでも、必要とされるひと。

 だから、要らないのは、絶対に僕の方だ。

「何だかよく分からないけど、とりあえずお茶くらいは出すよ」

 笑顔は、変わらず、お日様だった。

 僕は安藤さんの手を振り払った。だってその手は、泣いている少年に伸ばされた手だったから。僕はそんな、当たり前のものじゃない。

 理解した。このひとを汚すことなんて、不可能なんだ。

 僕はひどく安堵した。このひとを相手になら、何があ っても大丈夫。このひとは、汚れない。あかるくて、眩しくて、それを守りきれるだけの強さを持っている。暗くて、つめたくて、それを徹底出来なくて泣きつきに来る僕のように、要らないものじゃない。

 僕は初めて、このひとの前で笑った。笑顔を浮かべるなんてどれほどぶりのことだろう。或いは由紀の前では笑ったかもしれないけれど、そうだとしても、明らかに笑みの動機は違った。

 僕は安心したのだ。

 同時に、寂しくなった。それはどうやっても埋まらない寂しさだった。僕が欲しがっているのは僕を受け入れられない安藤さんで、僕を受け入れてくれる安藤さんは最早安藤さんじゃない。だからどうやっても、僕が好きなひとは、僕のものにはならない。洞は埋まらない。その洞は、僕 が生涯抱えなければならないものなのだ、きっと。去勢でも、されない限り。

 ぺこりとお辞儀して、踵を返した。

「あ、ちょっと!」

 振り向くと、きょとんとしたような顔が見えた。

「いつでもまたおいで、朝にでもさ」

 このひとの想像力の外にいることを、かなしく嬉しく思った。




「ねえ、悠」

 呼ばれて目を開ける。布団の上で、僕は由紀に膝枕をしてもらっていた。グレーのスカートに覆われた柔肌からは、何のにおいもしなかった。

「もう、分かったわよね?」

 見下ろす目は優しく濁っていた。それから優しさを取り除けば、きっと僕の目になる。

 長くなった陽が、障子を透かして部屋を照らしていた。エアコンに冷やされた八畳間の中で、唯一僕に熱を与えるもの。由紀の体はつめたいから、邪魔にならない。

「何が」

「貴方の居場所が」

 僕は少し笑ってみせる。

「残念そうな顔をしないで。貴方が辛いだけでしょう? 外なんて」

「……そうだね」

 由紀は僕の頬に触れてきた。細長い指が、肌をくすぐる。この間の晩から、由紀はやたらに僕に 触れたがる。何かおいしいものなのだろうか、僕は。僕を気に入って大切にしてくれるのは、居心地がよかった。優しい由紀。僕はここにいていい。

 刺身を、久しく食べていない。

 由紀の体があるから。

 僕は溺れるように、由紀にのめりこんでいっていた。水のように思える肉が、僕を捕らえて離さなかった。だって、いいにおいがするから。生きているにおい。それは僕を興奮させ、満たした。生きたままの血液を、僕は手に入れた。ずっと昔から傍にあったのに、何故手をつけようとしなかったのだろう。由紀は何でもしてくれると言い続けていたのに、何故もっと早く、僕たちはそれを味わわなかったのだろう。知らなかった間を勿体ないと思ってしまうほど、それは甘やかだった。

 僕は手 を少し上げて、由紀の腕に触れた。包帯の下は、一面の傷。腕も脚も胴も傷まみれ。間違いなく一生残るだろう。由紀は、優しい。由紀を治療してくれる父も兄も、優しい。僕に優しくしてくれる。僕を守ってくれる。だから僕は、他の何もかもを諦められる。諦めていい。諦めるしかない。僕がどうしたら安らかでいられるかを理解してくれるひとの中にいるのは、心地いい。

 今までにないような安息を感じていた。僕も、由紀も。お互いに、お互いが欲しいものを差し出せる。誰憚ることのない、交換、交歓。

 けれど僕は──どこかで不安を感じていた。

 僕の姿は、あのひとの目にはどう映るのかと。

 きっとみっともない。そう見られるのは、恥ずかしいことだ。

 けれどそれは始めから そうだ。貧相で、趣味の悪い、質の悪い、人間として間違ったもの。あのひとを思うと、今すぐ立ち直りたくなる。立派な志をもった、一端の人間になりたくなる。けれどそれが出来ないことも、分かっていた。由紀は僕の迷いに気づいたように、腕の包帯を解いた。無数の縫い目、消毒薬のかおり。

 僕はそれに欲情した。

「しばらくは切るところがないって言われちゃったわ。不便ね、人間って」

「……」

「ああ、舐める分には構わないけど、待ってね、洗ってくるから。薬臭いでしょう」

 僕は由紀の唇に噛み付いた。由紀はぴくりともしなかった。唇は便利だ、いつでも噛みきれる。そしてその傷はすぐに癒えるのだ。

 僕らは今夜も恍惚とする。誰も邪魔出来ない、僕の部屋での、ふたり の幸福。父も兄も、そのために存在すると言ってもいい気がした。誰も僕を乱せない。僕の幸福を邪魔しない。

 邪魔して、欲しかったのに。

 僕は、否定して欲しかったのに。

 そしてあたらしい僕を育てて欲しかったのに。

 そんなことが出来る者はどこにもいないと知っていた。そんな親切が店員と客の間に存在するわけがないことを、知っていた。

「悠、考えない方がいいわ」

 すべてを理解している由紀が、優しく言った。

 その通りなのだ。

 すべては、由紀が握っていた。

「学校で、何も言われないの」

「どうでもいいもの、外なんて」

 由紀も、この血に囚われたひとりなのだった。




 夜半、雨が上がったことに、僕はぼんやりと気がついた。由紀は隣で眠っている。月明かりはないけれど、それでも肢体は白く浮かび上がる。

 ぞっとして、僕は逃げ出した。由紀から逃げるんじゃない、寝汗をかいて気持ちが悪いから風呂を使いに行くのだ、そう自分を騙して。

 きしきしと廊下を行く。応接間にしている洋間に灯りが点っていた。誰か来ているのだろうか。

 僕にも辛うじて存在した好奇心が、洋間のドアに耳を寄せさせた。聞こえてきたのは、兄の声だった。なんだ、兄が来ていたのか。

「──流石に、見過ごせない」

 心臓に鳥肌が立った。それは間違いなく僕の話だ。

「由紀はやりたい放題すぎやしないか。あれじゃあ悠がかわいそうだ」

 その台詞のおかしさ に気づくことは、誰にとっても容易だったろう。生傷を負っているのは由紀だけなのに。

 ああけれど、その傷で、その血で肉で、僕を縛り付けているという意味ならば、僕はかわいそうでいいのかもしれない。

「なら他にどうしろと言うんだ? 嗜血症が危険すぎるのは分かっているだろう、事情を知らない者を襲うよりもはるかに悠のためになる」

 ……ああ、そういう、病名が、あるのか。性的倒錯の名前か。

「とにかく由紀には自重を憶えさせないと」

「落ち着いたら、学校には行かせるよ。転校は免れないだろうがな。──由紀も、少しパターンが違うが嗜血症と呼んでいいかもしれない。要観察だ」

「父さん、……俺は、」

「お前は大丈夫だよ。まともなセックスをしてこどもだって 設けたじゃないか。──娘が目覚めないことを、祈っているよ」

 父が、愛想よくではなく笑った、気がした。

「医者が祈るってのも、ひどい話だな」

 兄はたぶん酒を飲み干した。聞こえた溜息は深く重い。

「まったくだが、いっそこれほど敬虔な職業もないかもしれない」

 とくとくと、液体が注がれる音が響いた。それは赤いものでは決してないはずだ。

 僕は、ドアを開けた。エアコンに乾かされた空気がさあっと体を撫でた。

 父と兄が、僕を見てぎょっとした。

「──遺伝、なの」

「悠、」

「……そうなの」

 兄は片手で顔を覆った。しばしの沈黙のあとに口を開いたのは、父だった。

「医学的根拠は確立されていないんだ。だが、……高坂の家には、平均よりも高い 率で、血液を性的な意味で好む者が現れる」

 苦々しい顔をしていた。治せない患者を診るとき、父は陰でこんな顔をするのだろう。

「治らないんだね」

「現在は、無理だ。どうにかうまく折り合いをつけていくしかない。──お前には、由紀がいるだろう。だから、他の人間を襲ったり、何よりも自分を傷つけたりしてはいけない。出来るな、悠」

 ああ、由紀は、僕への生け贄だったのか。

 たぶん父は、そして兄も、例えば由紀が死んだなら、由紀を失った僕がかわいそうだと泣くのだろう。きっと父も兄も、そして僕も、由紀のためには泣かない。

 僕は、由紀が、嫌いだ。僕の依存を許す由紀が嫌いだ。

 いつからこんなにねじくれてしまったのか。ほら、母が。母が生きていたころは 。

 肩口にひやりとした指先を感じ、驚いて振り向く。

 由紀は由紀らしく、足音を立てなかった。

「こら、はしたないぞ、由紀」

 兄が渋面をつくる。由紀は、包帯以外の何も身につけてはいなかった。

「ごめんなさい。悠が戻ってこないから心配だったの」

 内腿から踵まで、一筋つうっと赤黒い筋が流れた。

 生け贄は、自ら望んで、どこまでも僕を追いかける。




 明くる朝、由紀は学校に向かった。経血の染みついたシーツを、きちんと洗って干してから。僕が、ひとりでもよおさないように。

 僕は、文机に向かった。ほとんど使ったことのない古式ゆかしきそれは、兄が初任給で買ってきてくれたものだ。僕はいつも、兄の厚意に応えられない。あの出来のいい兄の。何の問題もない兄の。何の問題もないのだろうか。兄は僕に甘すぎる。僕の幸せのためになら何だってやってしまうに違いない。由紀のように。父だってそうだ。異常者なのだから閉じこめてしまえ、ならせめてよかった。外は怖いところだから、僕が傷つかないように。そうやって、都合のいいものを揃えて囲ってしまった。

 母が生きていたら何と言っただろう。

 思い出の中の母の笑顔 が、安藤さんのそれにかぶった。

 僕は、筆をとった。

 ぜんりゃく、あんどうはるいちさま──




 前略、安藤晴一様。


 幾度もお世話をお掛けしております、高坂悠です。

 貴方には識っておいて頂きたく思い、筆を執りました。

 これは僕の、幼い頃からの記憶です。

 貴方に識っておいて頂きたいというのは僕の勝手な我が侭ですので、ご気分を害す物である事が懸念されます。

 始めに謝っておきます、本当に申し訳ありません。

 ただ、貴方に、これを読んで頂けたなら、僕は幸せになれるかもしれません。

 自分の事しか考えていない、甘ったれた子供の言う事です。

 それでも、貴方には、識っておいて頂きたく思います。


 僕は高坂家の二人兄弟の、次男として産まれました。

 高坂家は代々医者の家系です。僕も将来は兄の様に勉強を沢山して、父の様に立派な医者になるのだと、物心ついた頃には既に思っていました。信じていました。

 五歳のときに母を事故で失い、大きな傷を得た僕を、父と兄、それに従姉は、必死で看護してくれました。お陰で僕はまた幼稚園にも行かれるようになり、そのまま小学校に上がることが出来ました。

 僕には友達がいません。僕は、人と何かを共にする事が、苦手だったのです。

 僕はその事に劣等を感じていました。

 頑張って人の輪に入ろうとしても、僕が入ることでその輪が崩れてしまう事が、怖くて堪らないのです。

 それでもどうにか、半分よりもっとはぐれ てはいるけれど、集団生活をしてきました。


 十一歳の時に、決定的な事件が起こりました。渓谷に飯盒炊爨に行った時の事です。同級生の一人が、何かをしていて指を切りました。僕はそのとき初めて、人の怪我を目にしました。既に手当てされた物であれば、幾度も目にしてはいたのですが、傷口を、鮮血が滴る様を見たのは、初めてだったのです。

 普通の人ならば、早く洗って手当てをする様に奨めるのだと思います。僕はそう出来ませんでした。不幸である事に、僕と同級生の周りには、その時誰もいなかったのです。他の人は炊け立ての白米に集まっていました。僕は彼の手を引いて、かなり離れた所まで連れていきました。僕の方から誰かの手を引く等それが初めての事だったからなのでしょう、彼は怪訝な顔をしていました。木漏れ日が 何の邪魔にもならなかった事を憶えています。僕は、彼の指を、舐めました。僕が得た初めての生き血でした。

 その後の事を僕は憶えていません。気がつくと、僕は父の病院の安静室のベッドの上にいました。


 それ以来、僕は家から殆ど出ない様になりました。父はもう学校には行かなくて良いと言い、それについて兄に訊ねても、ただ黙って頭を撫でられるだけでした。人と交わらずにいても良いのだという許可は、僕にとって優しい物でしたから、克服しようという気にはなりませんでしたし、そもそも何を克服すれば良いのかも、あの頃の僕は知らなかったのです。


 今僕は、貴方の笑顔を、亡き母の笑顔と重ねる様に、安心出来る、穏やかな物として見ています。貴方はとても健康な人で、僕の様な無惨な精神を理解する事は出来ないと思います。だからです。

 僕は貴方に甘えたいのだと思います。けれどそれは僕の我が侭で、僕にはそんな権利等ありません。だから貴方は、僕の一切を気にせずいらしてください。

 お読み下さり有り難う御座いました。みっともない物をお見せしてしまい、恥ずかしく思います。どうか、この手紙の事は、何方にも言わず、燃やしてください。


草々


七月九日

高坂悠




 夕闇の中、りいん、と電話が鳴った。この家に電話がかかってくることは珍しい。今は他に誰もいないから、布団に伏していた僕はのろりと起き上がり、廊下に出た。ほとんどの電話は、個人の携帯電話にかけられるのに。いったい何だろう。

 赤と紫が入り交じる空気の中、黒い受話器を取り、耳に当てた。それから、無視すればよかったのに、と後悔した。僕は、それが可能ならどこの誰とも口をききたくない。

「もしもし、高坂です」

 泥がこびりついたような唇をどうにか動かした。

「あ、もしもし、安藤晴一です、高坂くん?」

 全身の血管が瞬時に収斂した。心臓が冷や汗にまみれる。手が、受話器を取り落としそうに、なる。

「高坂くん? もしもし?」

「──だ、いじょう ぶ、です」

「大丈夫って、具合悪かった? え、大丈夫?」

「あ、いえ、何でもありません、あの、何かご用が」

 分かっている。書いて、投函して、それからずっと頭を離れてくれない、手紙のことだ。彼にどう捉えられるのか分からない、あの手紙の。

 届かなければいいと思った。己を否定して、目を醒まさせてほしいと、祈った。投函したことへの後悔と、理解してもらえる期待を同時に持った。どちらがほんとうなのか、自分が何を考えてあれを書いてしまったのか、分からなかった。自棄であったのかもしれない。僕にはもう何も、判断がつかない。ともかくも、ともかくも、行為の結論を出すのは僕ではない。

 答えは、彼が、今から、口にする。

「ええと、何ていうかさ。あんまり 思い詰めない方がいいよ。きみはまだ若いんだし、これから何とかなるって。学校だってさ、焦って行けるようになんなきゃ、とか考えなくて大丈夫だよ」

 あかるくて、優しい声。

 僕は安堵した。氷柱のようだった首筋が、かきんと折れた。

 伝わらなかった。理解されなかった。このひとは、やっぱり、僕とは相容れない。そのことが無性に嬉しくて、涙がこぼれた。

 このひとの存在そのものが、僕をまるごと否定する。

「……泣いてるの?」

「あ、すみま、せ、」

「いいよ、泣いちゃいな。今日は店休みだし、話したいことがあるなら何だって聞く。アドバイスとかは出来ないかもしれないけど、話すだけでも楽になることってあるだろ?」

 何て、的外れな。話せば全てが否定さ れる、それで安らげるひとは、どれくらいいるの? 

 いる、ここに、最低の特殊さをもった僕が。

 僕は孤独でいるべきだ。

 ただ、泣き続けた。ひびの入ったグラスから水が漏れるように。こんなに壊れてしまっては、もう捨てるしかない。捨てられてしかるべき僕がまだそうされないのは、僕への家族の執着が、

 どさ、と背後から、何かが落ちる音がした。

 振り向くと同時に、受話器が奪われた。

 その瞳を忘れることは出来ないだろう。見開かれた、真っ黒な、平らかな。焦り。激怒。それから、取り戻さなければという、意志。たからものを奪われたこどものような瞳。

「……安藤さん?」

「え? あれ? お姉さん?」

「こんにちは、安藤さん」

「こんにち──」

「 どうやってこの家の番号を調べたのかしら? 電話帳には載せていなかったと思うけれど。勝手な真似ね、少しばかり品性に乏しいんじゃないかしら。それにどうして悠を泣かせているの? ほんとうに、人間としてどうなのかしら? 頭が悪いの? 仕方ないわね、お魚を刻むことしか能がないんでしょうからね。そんなひとに悠を責める権利なんてないわ、貴方何考えてるの? ああ頭が悪いから何も考えられないんだったわね、ごめんなさい」

 度を失ってまくしたてる由紀の様子は、滑稽だった。惨めな敗者の武器なき攻撃。無理だよ、あのひとはきみに傷つけられるくらい、弱くない。きちんとしたひとなんだ。だから、僕は、動かない。

 由紀が思いつく限りのすべての暴言を絞り尽くすまで、僕 は黙って見ていた。黙って見ていることしか、僕には出来なかった。

 そして空っぽになった由紀に、あのひとが、声をかける。

「……落ち着いてください。自分は、悠くんに悪いことなんてしませんから。お話、聞いてただけですから。お姉さんも、だいぶストレス、溜まってるみたいですね。その、学校なんてたいしたことない問題ですよ! お姉さんも、あんまり気に病まないで。俺、何も出来ませんけど、悠くんの友達にならきっとなってあげられます」

 こと、と、由紀の踵が音を立てた。一歩あとずさって、それから由紀は、受話器をフックにかけた。そして振り向いて、僕を抱き締めた。或いは縋り付いたのかもしれない。腕の力が苦しかった。長い髪のにおいが鼻腔を満たした。移り香だろ うか、何かの花の気配がする。

 どれほどの間、身を任せていただろう。締め付けが柔らいで、由紀が深く深く溜息をついた。

 ようやく我に返ったな、と思って、僕はゆっくりと、由紀の腕を解いた。

 手をひいて、部屋に連れていく。体を求める。由紀は瞬く間に機嫌をなおして、たぶんあのひとのことを忘れた。

 あのひとを由紀ごときが汚せるわけなんてないけれど。

 それでも、僕は、あのひとを守りたかった。守る振りだけでもさせてほしかった。僕にしか分からない妄想でよかった。何もうみださないごっこ遊びでも、よかった。




 由紀は、おもてへ出なくなった。

 僕は言うに及ばず。否、以前よりもひどくなった。寝ても醒めても布団の上にいた。ふたりで、或いはひとりで。それはとてもとても、心地のよいことだった。肋が浮いたような気がする。あまりまともな食べ物を口にしていないからだろう。体がいっそう重く感じる。けれど不便はない、だっておもてに出ないのだから。この部屋にいる限りにおいて、僕は幸福だ。何も僕を傷つけない。孤独の懊悩すらない、由紀が傍にいてくれる、いつも。声をかければ返ってくる。ぬくもりを欲しがれば、与えてくれる。その窶れた指で、髪を梳いてくれる。

 由紀は追い詰められていた。由紀の交友関係が極端に狭いのは、彼女に魅力がない所為では決してない。由紀さえ求め るなら、友人だって、恋人だって、簡単に作れるだろう。けれど彼女は追い詰められていた。逃げていた。僕に、逃避していた。僕を甘やかすことへのたのしみだけが、今の彼女を生かしていた。そんな気がした。

 僕はそれを受け入れたものか跳ねつけたものか、答えを宙づりにしたままだった。それが僕のためになるのかならないのか分からなかったし、僕のためになったところで、この僕が成長出来るはずもない。辛うじて、僕が由紀を駄目にしてしまったとだけは、判断出来た。僕がいなかったら由紀は、もっと真っ当な人間であったはずだ。少なくとも、学校にも街にも行かずに僕の前で傷口を開き続けているなんて、異常な状態ではなかったはずだ。

 由紀は、僕の所為で、壊れた。僕を理解出来 ない人間を目の当たりにしたのは、おそらく初めてだったろう。至極当然の、一般的な、僕への反応を、目の当たりにしたのは。

 歪んだ人間を愛するということは、歪みを己の鏡に映すということだ。何が正しいのかなんてすぐに分からなくなる。そして鏡は歪んでいく。歪みは脆さをはらむ。

 砕けたのだ。あのひとの言葉によって。由紀はうつくしさをなくした。僕と同じものになった。だから僕は、心底からの安心をもって、親愛をもって、由紀の隣に並べる。何の劣等感も抱かない。そんな思いを味わったことは、今までになかった。

 幼いころの、由紀を思い出す。

 今と同じくらい髪が長くて、同年の誰よりもすらりと手脚が長かった。幼稚園に行きたくないと僕がぐずっていたら、なら家 で遊べるようにと、一緒に住むことに決められた、人形のような少女。ああそうか、はなから由紀は僕への供物だったのだ。

 今ようやく思い至る、由紀は何故それで満足してしまったのか。由紀の家族はどうしてそれを許してしまったのか。

 どうしてそんな、僕に都合のいいことばかりになってしまったのか。

 それは母の死の所為だろう。母は、最初で、もしかすれば最後かもしれない、僕を本気で叱ってくれたひとだった。叱られたのは僕だけではなくて、酒を飲みすぎた父も、女子を手ひどく袖にした兄も、ひとしく叱られていた。だから、母を失って、僕たち家族は、代わりのものを求めていたのだろう。それは由紀で、あっただろうか。

 誰にも埋められないものであったはずなのに。

 愛情深いひとであったのだと思う。その愛情は、まっすぐで健康なものだったと思う。ずっと母についていけたなら、僕はもっと真っ当な人間になれていたのかもしれない。そう思うのは死者への憧憬だろうか。現実への嫌悪だろうか。

 寄る辺ない思考に揺れていた僕の口元に、枯れた小枝のようになってしまった由紀の指が運ばれる。切り口は半ば閉じていて、あたりの暗さに気がついた。

「あたらしく切りましょうか?」

 西瓜を切るような調子で、由紀は問うてきた。

「……ううん。今はいい」

 どんな刺激も過ぎれば慣れと飽きが訪れるのだと、僕は初めて知った。それが満たされるという状態であることを、知った。切望していたものも手に入った瞬間がらくたになるとまでは言わない 。けれど、確かに僕は、今、血液を飲まなくてもいい、と感じていた。

「ねえ、由紀はどうして僕といてくれるの」

 由紀が、不思議そうに小首を傾げる。それから、遠い目をした。

「幼稚園のころにね、乱暴されたすぐあとに、悠がお花をくれたからよ。綺麗だったわ、とっても。だからわたしは、あまり泣かなくて済んだの」

 この期に及んで、由紀のために何が言えたろう。衝撃は事実よりもはるかにかるかった。

 僕は今、選択した。何も出来ない、ではない。何もしない、したくない、由紀のためには何ひとつ。

 これだけすべてを捧げられても、僕は由紀のことを愛せない。

「由紀、ごはんが食べたい」

「分かったわ」

 由紀は笑みを僕に向けて、それから台所に立った。

  庇護者を遠ざけて、僕は安堵の溜息をつく。

 欲しかったものは、手に入った。けれどそれに飽いた。飽いたから──頭が醒めた。煙草に飽いて透明な空気を吸い込んだらこんな気分になるのだろうか。

 逃げられる。抜け出せる。この甘やかな牢獄から。僕はひとりで生きていける。もう誰を頼らなくても生きていける。守られる必要なんてない。それが、血液が要らない、僕。

 幾日も袖を通していなかった制服は、何のにおいもしなかった。




「高坂くん! 久しぶりだね!」

 所持している中でいちばんおおきなバッグを両手で提げた僕を、安藤さんは笑顔で出迎えてくれた。玄関の天井からの逆光で顔がよく見えない。けれど、きっといつもどおりにあかるく笑っている。笑ってくれている。

 僕も、笑った。こんなに清々した気分で笑えたことなど、今までに一度もなかったはずだ。

 安藤さんが、僕を笑わせてくれる。僕を健康に近づけてくれる。だってこのひとの目に映る僕は、少し弱いけれど、それでもがんばって生きている、まともな人間なんだもの。由紀といたら僕は際限なく駄目な方に運ばれる。逆に、このひとの傍にいたなら、僕もきっと。

「こんな時間に制服で、大荷物ってことは……久しぶりの登校帰り!」

 得た り、という風に、安藤さんはぴしっと人差し指を立てた。それはとても嬉しそうで。

 ほんとうにそうだったらよかったのにな。もっとこのひとが喜んでくれる自分になりたいな。

「残念でした! 違うんです」

 僕の声はあかるかった。僕ではないなにものかが喋っているようだった。なにものか、それは、安藤さんの中にいる方の僕だ。

「うーんと、ちょっと待ってね、考えるから……」

「家出、してきたんです」

 きょとん、とされた。それから苦笑いをされた。そしておおきなあたたかいてのひらで、頭をわしゃっと撫でられた。

「まったくもう。とりあえず上がって、お茶くらいは出すからさ」

 倒れたときと同じ、まっすぐなコップに入った麦茶を出された。ところどころがささ くれた畳に、蛍光灯がほのぼのとした陰を作っていた。卓袱台は年代物なのだろう、飴色の木が目に優しい。

「どうしたの。おうちのひとと、喧嘩でもしたの?」

 僕は曖昧に笑んだ。

「僕、安藤さんの傍にいたいんです」

「どうして?」

 怪訝な顔をされる。僕はあなたにあなたが好きだと伝えたのに、忘れてしまったのだろうか。忘れていい、忘れていいんだ、以前の僕なんて。僕はここで、あたらしい僕になる。

「安藤さんは、きちんとした、正しい人間ですから。正しいひとの傍にいられたら、僕も少しはまともになれるんじゃないか、って思ったんです」

「俺はそんなたいした人間じゃないよ。だいたいきみはまともじゃなくなんかないだろ?」

「僕は、今の僕は、駄目なんです。 でも、安藤さんの中の僕は、まともでしょう? 安藤さんには、僕がまともに見えているんでしょう? だから、安藤さんに見える僕を目指して生きていけば、僕だってまともになれるはずなんです。だから、僕は安藤さんの傍にいたいんです」

 僕は、企てを口に出した。僕らしくもなく、すらりすらりと。

 安藤さんは、ほんの少し眉間に皺を寄せて、首を傾げた。

「……学校に行けないことくらいで、そんなに追い詰められなくてもいいと思うんだけどなあ。あ、いや、ごめん、本人が気にしてるなら、それはそのひとにとって大問題だ、ってことも分かるんだけどさ」

 涙が滲む。ひどい安心。理解されないことへのありがたさ。ほんとうの僕は、醜すぎて晒せないから。見えないならば、それほ ど安心出来ることなんて、ない。

「安藤さん、憶えていらっしゃいますか。僕は、血液に欲情する人間だと、申し上げましたよね」

「ヨクジョウ?」

 ああ、血液と欲情の組み合わせなど、このひとの想像の遙か外だ。

「僕は、気持ち悪いいきものなんですよ。最低な」

 ふ、と。表情が翳った。そして安藤さんは立ち上がる。僕の隣に来る。貧相な両肩を、逞しい手で強く掴む。

「きみは最低なんかじゃない」

「……」

「何があったか知らないけど、俺が知ってるきみは、礼儀正しくて、頭がよくて、だから思い悩みすぎる、ただのいい子だ」

 それは励まし以外のなにものでもなくて。なんて、なんて的外れなんだろう。けれどだから僕はそれが嬉しくて、細めた目から涙を落とした。 安藤さんは僕を抱き締めてくれた。汗と太陽のにおいがした。

 抱擁は、泣きやむまで続いた。やっぱりこのひとは、母によく似ている。

 父親は亡くなったと聞いた。母親はこの家にいないのだろうか。このひとがひとりきりであるという気はしなかったから、どこか別の部屋にいるか、またはたまたま出かけているのだろう。ひとりのひとは、もっと、澱みをもっている。それは僕に限ったことではないと僕は確信していた。

 ひとは、ひとで流れをつくる。こころの中の池の水を、相手の池に流し込み合う。それが出来なければ池は澱み沼になっていく。だからひとりでいてはいけないのだ。

 泣いた。声を上げずに、ひたすらに安藤さんの胸を濡らした。こちこちと、柱時計が鳴る音を、ずっと聞 いていた。それに合わせるように鳴っている、膚と筋肉と肋骨の向こうにある心臓を、意識しながら。

 いつになったら止まるのか、まるで分からなかった。血は流しすぎたらすぐに死ぬ。涙を流しすぎたらどうなるのだろう。こんな泣き方をしたことは記憶にある限りない。

 安藤さんは、抱いていてくれた。

 ずっとずっと、抱いてくれていた。

 僕が顔を上げるまで。

「……落ち着いた?」

 僕は頷いた。

「もう遅いね。泊まっていってもいいよ、今日だけね。でも家にはちゃんと連絡すること」

 僕は電話機に向かってひとり芝居を演じた。ばれなかった。安藤さんはひとを疑うということを知らないのかもしれない。下衆さのまるでないひとだ。無防備でいても大丈夫なくらいに、 隙がない。

 ふと、たどり着いた。安藤さんに僕が見えていないように、僕にも安藤さんのほんとうの姿は見えていないのかもしれない、ということに、思いが到着した。

 けれどそれでもいい。それでもいいんだ。僕にとっては、僕に見える安藤さんは、神様だから。

 あかるいものに縋れるならば他の何も構わない僕は、羽虫だ。

 風呂は先にいただいた。安藤さんの布団の上に座して、つとめてなにごとも考えないようにする。あかるい方へ。あかるい方へ。自分の暗さも醜さも、安藤さんには見えない。だから、それはないものだ。そんな僕は、要らない。捨ててしまえ。

 階段を昇るリズミカルな音が響いた。少し引っ掛かりのある襖が開く。湯上がりの安藤さんは、Tシャツに短いずぼんで 、リラックスした様子で僕を見た。

「たくさん泣いたから疲れたろ。ちょっと早いけど、もう寝ようか」

 言いながら汗を拭う。

 ひやり、と。心臓に鳥肌が立った。そこから全身が粟立ち始める。

 気がついたら、僕は、安藤さんの、左手の甲を。

 僕のどこにこんな素早さがあったのだろう。

 そこにあった生傷を。

「こうさ、」

 ──ごり、と、脂肪が歯列に挟まれる音がした。

 けれどそこまでだった。力強い安藤さんの腕は、いとも簡単に僕を押しのけた。自分が何をしたか理解するに十分な時間が、両手首を掴まれたまま過ぎていった。

「……何の遊び?」

 その声音は、怯えを含んで耳に届いた。

 ああ、ばれちゃった。

 やっぱり駄目だったか。

 僕は、安 藤さんの傍にいてさえ、駄目なんだ。

 じゃあ。

 どうやっても危害を加えられないほどくたりとした僕から、安藤さんはようやく離れた。分かります。触れたくもないですよね、こんな異常者。

「……すみませんでした」

 畳にへたりこんで、僕は呟いた。瞳は乾いていた。

 安藤さんは、それでも、僕に優しくしようとしていた。そんな気がした。やっぱり、このひとは、まるで僕の母だ。母親ならまだ理解出来るかもしれない、子をうむことを自ら望んだのだから。うまれたのが、僕のような出来損ないであっとしても。けれど、このひとは違う。このひとは僕の存在を望んだわけではない。ただ生活のために刺身を売っていただけだ。なのに何故こんなにもよくしてくれるの。分からない。分 かるのは、このひとがとても、優れたひとであるということだけ。

 そんなひとをここまで困らせるなんて、僕はどれだけ。

「ありがとうございました──出ていきます」

 もう、ここには、いられない。

 鞄も持たずに駆け出した背中に、手を伸ばされたことに、気づいてしまっていた。




 見上げた夜空は昼間の熱気を忘れていた。ぽつりぽつり、星がひかっている。散り散りなのに寂しくはなさそうだ。僕もこんなものになれたらよかったのに。ひとりでいても大丈夫なものに。そうだったなら、誰も傷つけずに済む。誰にも迷惑をかけずにいたい。僕に好かれて迷惑と思うひとは、それこそ星の数ほどいるだろう。

 犬の散歩のひとが横切っていくのに気づいて、僕は慌てて再び歩き出した、出来るだけさりげなく。そして、ああ、ひとりだ、と思った。自分と、他人。それしかいない。したしいひとが、いない。──僕は由紀から逃げ出したから。僕は、あのひとに、ひどいことをしたから。

 あてもなく歩く。どこにいるのかなんて、もうとっくに分からなくなっていた。住宅街はもう 暗い。たまについている地上の灯火は、星とは違って寂しそうに見えた。

 十字路を通り過ぎるたびに、どちらに進むかを選ぶ気さえないのだということを思い出した。どこに行っても同じだ。誰に会っても同じだ。僕はどこでどんな選択をしたとしても、僕以外にはなれない。どこで間違えたのかなんて、まだ希望を持てるひとが言うべき言葉だ。

 ああこれが絶望か。

 怯えすらない、これが。

 どうなってもいい。どうなろうと、変わらない。

 フェンスからはみ出した紫陽花は、ひっそりと寝静まっていた。触れたくない、触れたら穢れる。彼らは子飼いではあるけれど、それでも僕より遙かに、きちんと生きている。

 鼻が、濡れたにおいを嗅ぎつけた。ああ、ここはいつもの川の傍じゃ ないか。

 ちいさな水に触れると、僕は何故だか安心する。ではおおきな水はどうだろう。そこにあるのは恐怖だろうか。僕は今でも、恐怖を感じられるだろうか。引き寄せられるように、川縁に降りる階段をくだった。

 その川がどれほどの深さなのかさえ、僕は知らなかった。毎日のように傍にいたのに。興味を持たないというのはつまらないことなのだろう。

 最後の最後に、試してみてもいい。

 踏み入ったら、靴が濡れた。瞬く間に足がつめたさに覆われる。水圧で靴ごと足が締め付けられる。水底から僕が立ち上らせた泥煙は、流れに紛れてすぐに消えた。

 つめたい。これは、ここにあるのは、死だ。

 それは最後の希望だった。僕が人生の最後に見つけた希望だった。これ以上誰も 傷つけないための。

 足を踏み出す。一歩一歩、終焉に近づける。よかった、ちゃんと深い。

 ずぼんが脚にまとわりつく。腰に触れる水のつめたさに思わず歩みを止めるけれど、そんなことはどうでもいいのだと体に言い聞かせ、深みを目指す。

 もうまっすぐに歩けない。もう流れに任せよう。流れてしまおう。そしていなくなってしまえばいい。泥煙と一緒に、消えてしまおう。

 僕は浮かんだ。浮かんで、巻き込まれて沈み、また浮かんだ。おおきな水に呑み込まれるのはこんな気分なのか。逆らえない。抗えない。そんなのは抵抗のうちに入らない。大量の水は圧倒的だ。まだ息が続いている、こんなことを認識出来るのだから。夜の水は真っ黒で、その中をぐるぐる回る、こんな夢を見たこと があるような気がする。終末の予見か。僕はあらかじめ、自分の死に様を夢に見ていたのか。上も下も分からない。どちらも選べない。僕はようやく世界の一部になれた。僕に選択権を与えない、それが世界の選択だ。従おう。従います。せめて、最後のときくらいは。

 僕は息を吐いた。入れ替わりに喉に届いた水は、僕の味覚を刺激しなかった。表情を作る余裕がもしあったなら、僕は笑んでいたと思う、こころの底から。僕自身の、僕だけに出来る、満足そうな笑顔で。

 僕はきちんと否定された。

 だから、もういい。




 喉の奥から熱いものがせり上がり、それを吐き出す感覚で目が醒めた。僕は必死で呼吸をした。呼吸。生きている。どうして。僕はちゃんと、自分を終わらせたはずだったのに。終わらせてもらったはずだったのに。ああでも、この体は呼吸を喜んでいる。心臓が耳元に来たように激しく脈打っている。苦しい。気持ち悪い。咳が止まらない。どうして。

 しばらくは、呼吸をするのに必死だった。何も聞こえない。何も見えない。ここは、どこ。

「──高坂くん!」

 ああ見えないのも道理だった僕は目を閉じていたのだから──開いた眼に大写しになったのは、安藤さんの、必死そうな顔だった。

 名を呼ぼうとした。何故ここにいるのか、ここはどこなのか、僕は死んだのか、問いたくて。け れど声帯は上手に空気を震わせられない。

「高坂くん! 分かる?」

 手を、伸ばそうとした。かすか持ち上がった右腕を、安藤さんが掴む。熱かった。とても、熱かった。

 激しい咳の支配から体が逃れるまで、安藤さんは僕の名を呼び続けた。

「……あん、ど、う、……さん」

「よかった、今救急車来るから!」

「やめて、ください」

「馬鹿! 死ぬぞ!」

「……しにたか、った、から、……」

「何でだよ! お前何考えてんだよ! 死んだら終わりなんだぞ!」

 分かっています。分かっています。死んだら終わり、だから死にたかったんです。もうあなたに迷惑をかけたくないんです。ねえ、何であなたが泣くんですか。僕の所為で泣く羽目になったんですか。だったらやっぱり 僕は流れて消えた方がよかったんだ。

 どうして、生かしたの。

「俺が、きみにどんびきしたからか? 俺の所為なのかよ! 俺が、俺の、俺の所為なのか?」

 僕はちいさく首を振った。

 あなたの所為で、ではなくて。

 あなたのために、だったから。

「じゃあ何なんだよ、何がお前のことそこまで追い詰めたんだよ! 分からねえよ! 頼むから自殺とかやめてくれよ、死んだら終わりなんだよ! 死にたくないのに死んじまう奴もいるってこと分かってくれよ、頼むから命適当に捨てんなよ……!」

 ああ。

 僕じゃなくて、いいんだ。

 このひとは、誰が死にたがっても、止めるひと。

 このひとの中に、あかるくて正しい僕がいるんだと思っていた。違った。このひとは、僕 なんて見ていないんだ。始めから、ひとつも。このひとは僕に個性を求めていない。このひとの見たがっている僕になろうとした。でも、このひとは、僕が消えても気にも留めないに違いない。

 僕はその他大勢の中のひとりでしかないんだ。優しくされて勘違いしていた。このひとは、誰に対してもそうなんだ。僕が消えても、寂しくも辛くもない。僕に嫌われても揺るがないだろう。好かれても、どうとも思わない。このひとは、由紀であっても、同じように接していたじゃないか。分け隔てなく。分け隔てがないということは、好ましいようでいて、とてもつめたいことだ。

 ただ、僕は今、このひとが嫌がることをした。

 だからこのひとは、初めて僕に対して怒っている。

 力が抜けた。死ぬ理 由がなくなった。このひとのためになんて、なんて思い上がり。

 はるか遠くから、救急車の鳴き声が近づいてきた。

 家に帰ろうと、思った。




 また、夏が来た。

 朝陽に白く照らされた部屋で、由紀は僕に薄手のサマーニットを着せた。久しぶりに、寝間着以外のものを身につけた。麻だろうか、さらさらして心地よい。

「似合うわね。素敵よ、悠」

 由紀は紺色のタートルネックのロングワンピースに、薄手ではあるけれど長袖の白っぽいカーディガン。暑苦しく見えないのが、由紀らしい。

 朝の光の中を、三人でゆく。目的地は、決まっていた。

「らっしゃい! え、あれ? 高坂くん?」

 僕はぺこりとお辞儀をした。由紀もそれに倣う。微笑みながら。

「お久しぶりです」

「何だ、ほんとに久しぶりじゃないか! 元気そうだね、顔色ずいぶんよくなったじゃない。懐かしいな、二年くらいぶり? お姉さんもお久しぶ りです」

 ああ、相変わらずの、お日様みたいなあたたかい笑顔。僕は静かな気持ちで微笑を返す。

「お姉さん、結婚したんですか? 赤ちゃん」

 安藤さんの視線は、由紀の腕の中の、長い黒髪を弄ぶ、ちいさな手に向かった。

「わたしは姉じゃなくて従姉なんです。この子は悠とわたしのこども。籍は今度の悠の誕生日に入れます」

 安藤さんは、少しぽかんとして、それからくしゃっと笑った。そうして僕の手を握る。

「よかった。よかったね」

 眉間にかすか皺を寄せて、泣きそうな笑顔。とても嬉しそうな。

「……あのとき助けられてよかった。ほら、生きてたら、いいことあっただろ? よかった、幸せそうで」

 二年経っても、安藤さんは、安藤さんだった。

 あかるい笑 顔も、いいひとなのも、この手のぬくもりも、僕を理解出来ないのも、そもそも僕に個体としての興味を持っていないのも。

 このひとは、あかるくて、正しくて、まっすぐで、そして。

 このひとも、当たり前のひととは、違った。

 そのことに気づけたから、僕は少しだけ、自分を許せた。

 僕はあなたを忘れたことなんてありませんでした。

 あなたが、大好きです。

 どんなにあなたが僕を見ていなくても。

「安藤さん、今日のおすすめはありますか? お刺身を」

「はいよ! 待ってね、今捌くから!」

 鋭い出刃が、魚の腹を切り裂く。赤黒い血と、色とりどりの内臓が、溢れ出す。

 見上げた空は抜けるような薄青。

 覚束ない声で、あー、と赤子が鳴いた。

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刺身 古賀 @syouji_kami

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