データ10 デート
早朝。目覚ましが鳴る前に目が覚めた。ぼーっとした頭を覚ましながら洗面台へと足を運ぶ。風呂場へと続く暖簾を開けると、そこには長い髪を後ろにまとめ上げ、洗顔をしている結の姿があった。
「あ」
「あ」
お互いに顔を合わせ、お互いに素っ頓狂な声を出す。
「お、おはようございます....」
「おはようございます。朝ごはんの準備、すぐにしますね」
そう言ってあまりこちらと顔を合わせないように、目をそらしながらそそくさと洗面台から抜けようとする結を目で追う。
「あの....陽平さん....」
「はい」
台所に向かおうとした結がふと、後ろを向いたままこちらに向かって話しかける。だいたい話の内容は想像できた。
「昨日....私の部屋に入りましたよね?」
「....はい」
そう、昨日は夕飯の時間に遅れて、いやかなり遅れて到着したわけだが、テーブルで寝ていた彼女を部屋まで運んだのだ。
「テーブルの上の日記....読んでないですよね?」
「え、いや....読んでませんが....」
「....そうですか」
一言、彼女はそのまま台所に向かって行ってしまった。一体何だったのだろう。とりあえず、顔を洗ったら昨日のことは謝った方が良さそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「....」
「....」
まずい、かなりまずい。いや、朝食の話ではなくだ。
朝食は大変おいしい。だが、それ以上にこの状況がまずい。現在納豆を混ぜている彼女だが、その表情は険しくどこか怒っているように見えなくもない。
「....陽平さん、なんですか?」
「え、いや。その....」
どうする。彼女の顔をあまりにも見つめすぎてしまった。
なんて声をかければ....
「えっと....ジャズかけますか?」
「いえ、この後ちょっと掃除したいので今は遠慮してください」
「はい....」
何がジャズをかけませんか? だ。もっと気の使った言葉がかけられただろう。いや、気を使った言葉をかけるべきだったのか、もっと他に言うことがあるはずだろう。
な、何か....
「陽平さん」
「はい....っ」
思わず背筋を伸ばし返事をしてしまう。こちらを睨みつけた表情で、いや、どこかふてくされたような、何? 一体どうしろと、いや、どうにかしなくては。
「昨日は、楽しかったですか?」
「え、いや。友人に勉強を教えて....ゲームして....あれ?」
いや待て、何故昨日の話が。そうだ、俺は昨日、彼女の作ってくれた夕食に遅れてしまって。部屋に入ったことについては言及しないのか?
「昨日は、頑張ってきた陽平さんのために肉じゃがを作ってあげたのに....」
「あ....」
そうか、彼女が怒っている理由って....
椅子から立ち上がり、彼女の前で頭をさげる。
「昨日は、夕食の時間に遅れてしまい、申し訳ありませんでした」
「....」
頭を下げた状態が続く。
無言の部屋、その部屋から、不意に女性の笑い声が聞こえ始めた。
「....え?」
「フフッ....だって....陽平さん.....ぷっ....頭に....納豆....っ」
「へ....? うわっ!」
ふと頭を上げると、なにやら粘っこいものが糸を引いている。手で触り思わず悲鳴をあげるが、時はすでに遅く手には納豆の粒がくっついていた。
「もう....ハァ〜。いいですよ。許します、でも....」
と言って手に布巾を持って近づき、自分の頭に乗った納豆を少しずつとってゆく。なんというか....距離が近い。
「償いを....してくれますよね?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
償い。その言葉の意味は『つぐなうこと。また、そのための金銭や行為』とあるが、果たして、これは償いというものの部類に含まれるのか、二十数年生きてきて、女性との関係を持ったことのない自分にはよくわからないことだった。
「陽平さん。これもお願いしますね」
「はい....あの、結さん。これでよかったんですか?」
「私がこれでいいって言ってるんですから。文句は言わないでくださいよ?」
現在、近所のスーパーにて、本日の夕食の材料を物色している。今日は大学が休みなため、ゆっくりとスーパーの中を物色できるわけだが....
なんというか、距離感が近い。
買い物かごを彼女の方に差し出し、彼女が中に品物を入れてゆく。入って行くものを見るとどうやら今日のメニューは豚の生姜焼きらしい。
「それにしても、1日の食費でこんなに使えるなんて。何かお仕事でもしてるんですか?」
「知っての通り、僕はただの学生ですよ」
そう、学生だ。しかも金のかかる薬学部に通うただの一般の学生だ。実際自分はアルバイトなどはしたことがない。なのに、一人暮らしとしては多少豪勢とも思える暮らしができるのには理由がある。
話すつもりはないが。
「本当ですか? 教えてくださいよ」
「っ....」
買い物かごを持つ腕が、彼女の腕に占拠される。腕に触れる柔らかい感触。
....ダメだ。今自分がどんな状態になっているか直視することができない。
「あ、あの....すみません」
「なんですか?」
隣がどんな状況になっているかわからないはずなのに、腕から伝わる感触だけがダイレクトに脳に突き刺さる。頬から垂れる冷や汗を悟られないように冷静に声をかけるが、すでに精神的な限界だ。
「あの....人が見てますから....」
「....いいんですよ。どうせ、もう二度と会うことがない人ですから」
今度は頭をこっちにもたげてきた。
すでに、通りかかる人、というかこの時間にくるのは主に近所に住む主婦たちだが、どこか温かい目で見られている。
今度からここで買い物はできないな。
「それで、陽平さん。どうして、そんな暮らしができるんですか?」
「ですから....それについては....」
彼女の腕が強く締まり、再び自分の腕に伝わる感触が脳を串刺しにする。
ダメだ。吐くしかないだろう。
「先生の遺産を食い潰しているんです。以上ですよ」
「え? 先生?」
先生、という単語を聞いて隣で腕を組んでいる彼女の動きが一瞬止まる。
そうだ、自分は先生の財産を食いつぶして生きているんだ。改めて自分が口に出して言ってみるとひどい話だと思う。
「あの、先生って?」
「先生は、僕の祖父にあたる人物です。血は繋がっていませんでしたがね」
そう、彼を。あの人を自分は祖父と呼ぶ資格はない。だからせめてもの敬意で先生と呼んでいる。
「いつも、玄関先で手を合わせている仏壇の?」
「はい、そうです。わかりましたら、この話は以上です」
買い物かごの中は十分だ。おそらく料理に使うくらいだったら問題のないレベルだろう。それに、彼女にこれ以上踏み込んだ話をしてもしょうがない。
彼女の手を振りほどき、レジの方へと向かう。しかし、その体は洋服をつかむ手で止められた。
「陽平さん。まだ、買ってないものがあります」
「....わかりました。買ったらすぐに帰りますよ」
向かった先は乳製品の棚だった。冷蔵されているため、頬を撫でる冷気が先ほど流していた冷や汗を乾かしてゆく。
「ヨーグルト。お好きですか?」
「別に好きですが....何に使うんです?」
そう言って彼女が手に取ったのは何の味付けのされていない。プレーンのヨーグルトだった。だいたい量にしては5人分くらいの分量だ。
「豚のお肉を漬け込むために使うんですよ。ヨーグルトに漬け込むとお肉が柔らかくなるんです」
「そうなんですか....」
知らなかった。自分には生活の知恵なんか全くなかったし、彼女がどこか自分にそういったことを教えてもらっているような感じもしなくはない。自分が知らないこと、知っていること。忘れたくないこと、忘れたいこと。
自分にはいくつあるんだろうか。
「さぁ、行きましょう。陽平さん」
「....はい」
自分の持っていた買い物かごを手にとって、彼女はレジへと向かって行く。
このまま、自分は薬剤師になって。
ここに一人やってきて、カレーの材料買って。
あぁ、自分って今の状況を結構....
「結さん、そのかご貸してください」
「え、いいんですか? 重いですよ」
前を歩いていた彼女を引き止め。
自分は、手に持っていた籠を奪うようにしてレジへと運ぶ。
そうか、今の自分は
この状況を、楽しく思っている。
恋愛とアルゴリズム 西木 草成 @nisikisousei
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