京都シアターガール ~まもなく開演でございます~

林 のぶお

第1話 劇場ことば1「ロビー通過」

「では、只今より都座四月公演初日の朝礼を始めさせていただきます。まずは今出川支配人のご挨拶です」

 と衣笠副支配人が丁寧な語尾のしっかりしたいつもの口調で述べた。

「皆さんお早うございます」

 一同が頭を軽く下げながら挨拶した。

 ここは、京都祇園のお茶屋界隈からほど近い、京都では唯一の商業演劇の劇場である、都座の一階東側のロビーである。

 歌舞伎四百年の歴史を持つ、伝統の劇場でもある。

 都座では、毎月公演の初日に、一同が集まり今出川支配人の挨拶や、各部署からの報告を聞き、情報の共有を行っている。

「ですので、これからも伝統ある都座の一員である事を誇りに思って日夜業務に励んで下さい」

 いつもの笑顔を一同に向けながら今出川支配人は挨拶を終えた。

「続きまして各部報告の前に、今月から都座で働く新人さんを紹介します。

 案内係りの白川和美さんと、嵐山由梨さんです。少し前へ」

 二人は一歩前へ出た。

「じゃあ白川さんから、ご挨拶お願いします」

「はい。白川和美です。劇場勤めはこれで二回目です。でも都座は初めてです。皆さんの足手まといにならないよう、日々頑張ります。どうかご指導よろしくお願いします」

 きゅっと伸ばした姿勢から、上半身だけ折り目正しく礼をした。

「では、次は嵐山さん」

「ええええっ嵐山由梨です」

 ここで由梨の頭は真っ白になってしまった。

 昨日の晩からあれも云おう、これも云おうと考えて来たのだが、隣にいる白川和美の完璧な挨拶に圧倒されてしまい、完全に吹っ飛んだ。

 さらに一同の視線が、由梨に集中したのだから、完璧に思考回路が遮断された。

 由梨は口を開いて何か喋ろうとするが、言葉になっていなかった。

「嵐山さん」

 たまりかねて案内チーフの墨染美香が小声で声をかけた。

「はっ、よろしくお願いします」

 一拍置いて由梨は、頭を思いっきり下げた。

 同時に胸ポケットに入れていたメモ帳や、劇場見取り図、ペンライトを床に散らばせていた。

「あっ!」

 一同は思わず声をあげ、一拍置いて拍手が巻き起こった。


 案内係りは、場内を掃除し始める。

 昔はバケツに水を汲んで、雑巾がけしたものだが、開場前にすでに清掃業者が掃除を済ませたので、乾いたハンドモップで軽く座席の背もたれと、座面を拭く程度であった。

 開場前に、正面玄関横の案内カウンターに集合した。

 案内係総勢十二名である。

 案内係を統率する業務の醍醐のぼるが挨拶した。

「いよいよ今日から、只今人気爆発の蹴上鯛蔵主演の歌舞伎公演が始まります。白川さんと嵐山さんは、いきなり歌舞伎公演で大変かと思いますが頑張って下さい。

 お二人は、都座劇場辞典を一通り読みましたね」

「はい」

 和美が自信に満ち溢れた声で返事した。

「歌舞伎公演は、何度か経験してます」

 にっこり笑って言葉を付け加えた。

「嵐山さんは」

 確かに数日前、スマホにメールで「都座劇場辞典」の添付ファイルが届いていた。

 その語彙の数は、約千を越えていた。

「はい、読んだだけです」

 少し読んだだけで、どっと疲れた。

 読むのと理解するのは、別次元の話である。

「研修の時も云いましたが、あれを劇場ことば全てだとは思わないで下さい。最低限の言葉ですから」

「じゃあ全部で幾らぐらいあるんですか」

「さあ、僕もそこまで把握してないけど、五千かな、いや一万かな」

「い、一万ですか!」

 こんな事なら、都座の案内係なんて応募しなければよかったと由梨は後悔していた。

「嵐山さん、顔暗いよ。何も今日入ったばかりの新人さんに、一万の劇場言葉を覚えろなんて無茶は云いません。取り合えず千からね。年末の案内検定試験に向けて頑張ってくれよ」

 それだけ云うと、醍醐は立ち去った。

「案内検定試験って何ですか」

 由梨は、美香に尋ねた。

「あれっ面接のときに聞かなかったの」

「私は聞きましたよ」

 横から和美が二人の会話に入って来た。

「その試験に合格して初めて都座の正式な案内係に採用されるんです」

「あのう、その試験に落ちたらくびですか」

「何でやのん。くびになるわけないやん。また来年受けたらええのよ」

 もうすでに、上から目線で云う和美だった。

「試験は、年に一回だけですか」

「そう。まだ今は四月。試験は十二月。まだ半年以上あるから大丈夫。お二人さん頑張ってね」

 と云って美香は微笑んだ。

「はい頑張ります」

 とどこまでも元気な和美と対照的に、

「はあ」

 と小声でうなずく由梨はどこまでも自信喪失を全身から醸し出していた。

 都座の案内係は、開場時正面入り口の切符の半券をもぎる係り、一階、二階、三階係りと分散して配置される。場内放送は、開場して十五分後に行われる。

 さらに一階の正面玄関入ってすぐに、「さばき」と呼ぶポジションがある。

 ここは入場して来られたお客様を、切符を素早く見ててきぱきと一階、二階、三階と振り分ける重要な役割を担う所である。

 振り分けている時もお客様から様々なリクエストが飛び込んで来る。

「トイレはどこ」

「パンフレットは」

「土産物は」

「一度出たいんですけど」

「放送呼び出ししたいんですけど」

「遅れて来る友人に切符を預けて貰いたいんですけど」

「終演時間は」

「楽屋見舞いしたいんですけど」

「レストランの予約したいんです」

「帰りの新幹線の時間は?」

「車椅子お借りしたいんですけど」

 等々・・・。

 さらに今月の様に、歌舞伎公演が始まると、

「イヤホンガイド借りたいんだけど」

「蹴田屋(けりたや)の番頭席へ行きたいんだけど」

 等の要望も入って来る。

(蹴田屋)とは、今月の歌舞伎公演の主役、蹴上鯛蔵の屋号の名前である。

 その他、様々な要望が寄せられる。

 ここは、ベテラン案内係、つまりチーフの美香がいた。

 初日の今日は、由梨も和美も一階を担当した。

 何かあればすぐに美香が駆けつけられるからだ。

「いらっしゃいませ」

 少し緊張しながら由梨は応対した。

 老婆だった。通路を老婆の歩調に合わせてゆっくりと進む。

 座席の前でひざまづく。

「こちらのお席です」

 通路際の前から七番目の席だった。

「有難うねえ、案内さん、昼の部のハテは?」

「ハテ!」

(はて、どうしたものか早速劇場言葉が出たあ!)

 と叫ぶもう一人の自分がいた。

「少々、お待ち下さい」

 走って美香に駆け寄る。

「チーフ、ハテってお客様が云っているんです。ハテ何ですか」

「ハテとは、終演時間の事。ハテ、キレ、キレル、打ち出し。全部終演時間。覚えておいてね」

 にっこり微笑む美香。

 これでまた一つ勉強出来たと由梨は思った。

 やはり机の上での勉強は身に入らない。

 こうして一つの体験、恥をかいて初めて見に付くと痛感した。

 三、四人席を案内していると、段々気持ちが楽になって来た。

 一人のお客様の案内を終えて入り口に戻りかけた。

 すると、お爺さんと目が合った。

「ドブはどこや」

 由梨と目が合うや否や、お爺さんが呟いた。

「ドブ?」

 昔、家の前をどぶ川が流れていた事を思い出した。

「ドブですか」

 由梨は聞き返した。

「そう。わしはドブへ行きたいんや」

「少々お待ち下さい」

 美香に声掛けしようとしたらあいにく、接客中だった。

 頭の中を「ドブ」「ドブ」と駆け巡る。

 意を決して由梨は答えた。

「お客様、都座にドブはございません」

 由梨のはっきりした言葉に、お爺さんは口をポカンと開けた。

「なくなったんか・・・。いつのまに」

 夜道で一人道に迷ったかのような、途方に暮れた口調だった。

「どうしたの」

 由梨が振り向くと醍醐が立っていた。

 由梨は事の顛末を話した。

「申し訳ございません。お客様こちらです」

 醍醐は正面ロビーから左側の方へ行った。

 暫くして、醍醐は戻って来た。

「嵐山さん、ドブは芸ウラの別名ですよ。ちゃんと都座劇場辞典にも載ってますから」

「すみません」

「これで一つ覚えられてよかったですね。さっきのお客様に感謝です。お年寄りの方にたまに云う方がおられます」

 劇場ことばは、奥が深い。そりゃあそうだ。歌舞伎四百年の長い歴史の中で育って来たのだから。

「芸ウラ」とは、舞台と後方の揚幕の間を花道があるが、その左側(下手側)の客席のエリアをさす。

 開演五分前を知らせるブザーが鳴る。

「まもなく開演でございます。ロビーにおられるお客様は、お席におつき下さいませ」

 場内アナウンスが流れる。

 由梨たちも観音扉の内、片側だけ閉めて、入場を急がせる。

「筋書はどこ?」

 東京言葉のお客様が由梨に尋ねる。

「あちらの案内所で販売しております」

「有難う」

 初めてお客様の問いに答えられて由梨は一人、自分で自分を褒めていた。

 これでちょっと自信がついたと一人にやけていると、

「よろずは、どこでっしゃろ」

 見ると先程の、「ハテ」言葉を口にした老婆だった。

(また次から次へと訳のわからん言葉を使いやがって、もう!)

 もう一人の自分が絶叫する。

 それを打ち消すかのように、幾分引きつった笑いを浮かべた。

「よろずねえ」

 時間稼ぎするかの様に、由梨はゆっくりと言葉を反芻した。

「あちらの案内所で販売しております」

 今度は和美が助け舟を出してくれた。

「あんた、番附買って来て」

 老婆は、そう云って二千円を由梨に渡した。

 番附も筋書も同義語で、パンフレットの事を歌舞伎公演ではそう云う。

「はい」

 足早に急ぐ。

 まもなく開演だ。急がないと!

 案内所で番附を買い、先程の席へ急ぐ。

「はい、お客様お待たせ・・・」

 番附を渡そうとすると、見知らぬおじさんが座っていた。

「あれっ!」

 思わず由梨は小さく叫んだ。

「お客様、確かここには」

「姉ちゃん、ここに座ってた婆さん探してるんか」

「はい」

「あの婆さん、俺の席に座っていやがったから、追い出してやった」

「で、どこへ」

「知らんがな」

 美香が走って来た。

「嵐山さん、その席は洗ったから大丈夫」

「洗う?今頃掃除ですか」

「説明している暇ないから、こっち」

 入り口に戻る。

「ごめんなさいね。私のさばきのミス。あのお客様は、二階席やったの。列と番号は同じやけどね」

「こちらこそ、確認しなかった私が悪いんです」

 走ろうとする由梨に、

「五分押しだから大丈夫」

(押し?何を押すのだ)

 美香は、由梨の背中に戸惑いを感じたのだろう。

「開演が五分遅れる事よ」

 と付け足した。

 席を「あらう」とは、その座席にその指定切符を持った人が座っているか確かめる事である。

 ドタバタ劇を地で行く開演前風景だった。

 得てして初日は、どこでもまだ落ち着かないものだと、由梨は思った。

(大道具、照明等の裏方さんは、もっとドタバタしているんだろうなあ)

 とも思った。

 お芝居が始まると由梨らは、客席後方に座り、舞台とお客様を注視する。

 歌舞伎公演では、開演に遅れて来られるお客様が多数いる。

 原則、花道使用時以外は席へ案内する。

 役者の花道出入りの時は、椅子から立つ。

 お芝居が始まると案内係は交代で、短い休憩に入る。

 幕間(まくあい)(休憩時間)、つまり幕と幕の間は、お客様が客席からロビーに出たり、外へ出たりするので、また客席後方に立たないといけないのだ。

「さっきは、ごめんどした」

 振り返るとさっきの「ハテ」婆さんだった。

「いえ、こちらこそ気付かずすみませんでした」

「あんさん、新人さんどすなあ」

「はい。わかりましたか」

「雰囲気でなあ。うちなあこの都座へは、五十年通ってますねん」

「五十年も。すごいですねえ」

「この前改装してたけど、昔の雰囲気はそのままに残っているなあ」

 都座は大改装を平成になって二回実施している。平成三年と二十九年である。

「はい」

 と返事した由梨だったが、もちろん改装前の事は知らない。

「まあおきばりやす」

 と云いながら、半場強引に由梨の制服のポケットにポチ袋を押し込んだ。

 後で確かめると、ポチ袋には、達筆な墨文字で

「松の葉」

 と書かれていた。

「松の葉?」

 また一つ、理解不能な言葉が追いかけて来る。

 まるで、劇場言葉の森に迷い込んだようだ。


「松の葉と云うのは、祝儀の一つで、ちょっとしたお礼です。ささやかなお礼ですと云う意味なんです」

 丁寧に美香は、由梨に教えてくれた。

 短い休憩で同じになった由梨は美香に聞いた。

 ここは地下にある案内控室。今は二人しかいない。

「松の葉がどうかしたんですか」

 由梨は、先程の一件をかいつまんで説明した。

「どうしたらいいんでしょうかねえ」

「一旦受け取ったもんを返すのも失礼やし、そのまま受け取って貰ったら」

「でも私みたいな、今日デビューしたばかりの者が受け取っていいんでしょうか」

「そのお客様は、嵐山さんの行為に対しての松の葉やから受け取ってあげたら」

「チーフがそない云うんやったら、そうします」

「で、幾ら入ってるのん」

 美香が覗き込む。

「さあ幾らでしょう」

「松の葉やから、五千円、いや三千円かなあ」

 由梨は封を切る。中から札が出て来た。それは百円札だった。

「百円!」

 由梨は金額もさることながら、未だに百円札がこの世に存在するのが不思議だった。

「やっぱり、松の葉やねえ」

 小さく美香が呟いた。


 今回の歌舞伎公演では、蹴上鯛蔵の早替わりが見ものである。

 舞台で下手(客席から見て、舞台の左側)に引っ込んだ後、素早く着替えて花道から出て来る。

 本来なら地下の通路を通って階段を上がって、花道の付け根の鳥屋口(トヤグチ)から出るのだが、時間短縮のため、下手からまっすぐロビーを走る。

 この時、ふいに出て来るお客様との衝突を避けるために、一階左桟敷席、二階からの階段、ロビーからの進入路と全ての所に案内係が立つ。

 場内では、案内係が「ロビー通過」のため、今は外に出られないと説明する。

 由梨は、二階へ通じる階段の前に立つ。

「役者とお客様に怪我をさせないためにも、ここはしっかりと気を引き締めて対処して下さい」

 醍醐の言葉が由梨の脳裏に蘇る。

 昨日、ゲネプロ(通し稽古)の時、由梨ら案内係は、二階客席から見ていたが、何故すぐに花道から、しかも着物を着換えて出て来る鯛蔵が不思議で仕方なかった。

 各ポジションに案内係が立つ。

 初日は、役者ばかりでなく、劇場スタッフも緊張を強いられるのだ。

 鯛蔵がにこやかに笑いながら下手入り。

 すでにロビーに通じるドアは開いている。

 鯛蔵が雪駄を脱いで高速ダッシュで走り出す。弟子が雪駄を拾いながら後を追う。

 衣装係が、鯛蔵の着物を剥ぎ取り、床山が鬘をむしり取る。

「もっと早く取れよ!」

 鯛蔵の怒号が炸裂する。

 ふと後ろの気配を感じた由梨が振り返ると、いつの間にか「ハテ・松の葉婆さん」が立っていた。全然気づかなかった。

 由梨は会釈した。

「ロビー通過です。しばらくお待ち下さい」

「ええ」

 鯛蔵が目の前に来た。

 その時だった。

 由梨の脇をすり抜けて、事もあろうに鯛蔵に突進して行った。

「何やってんだよ」

 さらに鯛蔵の怒号が噴火した。

 その怒号は案内係、そして「ハテ・松の葉婆さん」に向けられたかに思えた。

 全速力で走る鯛蔵にぶつかった「ハテ・松の葉婆さん」は、弾き飛ばされた。

 後ろにいた由梨が、その身体を支える形になったが、勢いが強くてさらに横に吹っ飛んだ。由梨もわき腹を打ったようだ。

 由梨はすぐに立ち上がり、「ハテ・松の葉婆さん」に駆け寄った。

 鯛蔵は一瞬立ち止まった。

 しかし、観客を待たすわけにはいかない。

「おい!」

 弟子に目で合図した。

 美香はすぐに救急車の手配をした。

 常時つけている、ワイヤレスレシーバーで、情報を案内、醍醐はもちろんの事、事務所へ知らせた。

 すぐに今出川支配人、衣笠副支配人が駆けつけた。

「どんな具合ですか」

 ゆっくりと今出川支配人が尋ねた。

「倒れた時にわき腹を打ったようで。意識はあります」

「頭は打ちましたか」

「いえ、打ってません」

「すみません」

 半泣き状態で由梨は云った。

「あなたも打ったでしょう。大丈夫なの」

「私は大丈夫です」

 救急車が来るまで、美香がシップ薬をあてた。

 事の詳細を今出川支配人、衣笠副支配人に説明した。

「お連れさんは」

「一人です」

「誰か一緒に救急車乗った方がいいでしょう」

「私が行きましょうか」

 醍醐が云った。

「いえ、私に行かせて下さい」

 由梨は自ら名乗り出た。

 救急車は、都座正面に横付けされた。

 初日取材してた、幾つかのテレビクルーも騒ぎを聞きつけてやって来た。

 開演中で、劇場正面は、比較的人が少なくてよかった。

 縄手交番から警察官が来て、救急車を誘導した。

 あちこち病院を紹介して、東大路病院に搬送が決まった。

「お婆さん、痛いか。もうちょっとの辛抱やで」

「はい、はい」

「意識はしっかりしてるなあ」

 病院に着くまで、隊員は身元調査のように聞いた。

 その都度、由梨もメモした。

 堀川多恵。七十歳。

 現住所 京都市東山区大和大路下がる櫓町西入ル十八番地

 独身。身寄りなし。

 都座からは歩いて数分の近所だ。


 東大路病院でレントゲン検査が行われた。結果が出るまで、由梨はその病院にとどまるようにと、美香からラインが届いた。

 結果が出た。骨に異常はなかった。

 経過観察入院で一泊することになった。

 病室で改めて由梨は多恵と対面した。

「鯛蔵はんの目出度い都座初日やのに、えらいご迷惑おかけしましたなあ」

「迷惑やなんて、とんでもない」

「あんさんも巻き添えくらわしてなあ、すんまへんどした。あんさん、お怪我は」

「私は大丈夫です」

「年寄りはあきまへんなあ。どこもかしこも弱るさかい」

「あのう堀川さん」

「はい、何でっしゃろ」

「私、あの時云いましたよね。これから鯛蔵さんのロビー通過やと」

「えらいすんまへん。年寄りやさかい理解出来ひんで」

「何で飛び出したんですか」

 多恵は視線を由梨から天井に移した。

 二人の間に沈黙が訪れた。

「お恥ずかしい話ですけどなあ、わて鯛蔵はんの大の人気ファンですねん。少しでも蹴田屋(けりたや)に近づきたい一心で、あんな事したんどす。ほんますんまへんどした」

「幾ら何でも無茶すぎます」

「えらいすんまへん」

「頭でも打ってたらどうするんですか」

「えらいすんまへん」

 その時、ドアがノックされて鯛蔵の弟子の蹴上蛸蔵が入って来た。

 手には抱えきれないほどの、バラの花束を持っていた。

「これ、若旦那からの見舞いです」

 蛸蔵は、そう云って懐からポチ袋を出した。

「これ、松の葉です」

「いやあ、そんなん、受け取る事は出来しまへん」

「若旦那が渡して来いと。受け取ってくれないと、僕が困るんです」

 二、三回押し問答があり、根負けして多恵は受け取った。そのポチ袋は厚みがあり、かなりの札束だと推測された。


 由梨は、蛸蔵と一緒に病院を出た。タクシーで都座に戻る事にした。

「鯛蔵さん、怒っているでしょうねえ」

「いや、若旦那は、えらくお客様の事を気にしてました」

「私の事は」

「ご安心下さい。若旦那は女性には優しいですから」

「それを聞いてほっとしました」

「何で飛び出したのかなあ、あの婆さん」

「鯛蔵さんの大ファンだからと云ってました」

「大ファンなら、芝居見るでしょう」

 蛸蔵が正論を云うので、これ以上由梨は反論出来なくなった。


 都座に戻ると、地下の事務所の応接間に呼び出された。

 そこには、今出川支配人、衣笠副支配人、醍醐、美香が待ち受けていた。

 簡単に由梨は病院での診察結果と蛸蔵の見舞いの件を話した。

「ご苦労様。一つはっきりとした事がわかりました」

 衣笠副支配人が云った。

「何でしょうか」

「論より証拠。これを見て下さい」

 と云ってレコーダーを再生した。

「実はあのコーナーには防犯カメラが設置されていました」

 画面が丁度下手奥から鯛蔵が駈けて来るのを映していた。

 由梨の背後から多恵が出て来る。

 多恵は腰を屈めて、由梨の手の下からさっと潜って鯛蔵に体当たりしているのが改めて立証された。

「何やってんだよ」

 と鯛蔵の叫びと同時に女性の叫びも録音されていた。

「何か叫んでました」

「多恵さんですね」

「そうです。はっきりとわからないですけど、何やら叫んでいます」

「そこで嵐山さんに聞くけど、堀川多恵さんはどんな感じですか」

「どんなって、普通です。鯛蔵さんの大ファンだとも」

「かなり危ないかもしれませんね」

「そんな云い方やめて下さい。あの多恵さんは被害者なのですよ」

「今は。でも一歩間違えば、鯛蔵が被害者になってたかもしれません」

 と今出川支配人がきっぱりと云った。

「取り合えず、ブラックリストに入れる事にしました」

 と醍醐は断言した。

「今後テレホン予約、ネット予約で予約された時点で都座に連絡が入る事になりました」

「酷い。まるで犯罪者扱い。一体何のためにそんな事やるんですか」

「蹴田屋を、他のお客様をも守るためです」

 衣笠副支配人が怒気を含んで答えた。


 劇場の初日と云うのは各セクションで色々とトラブルがあるものだと美香は由梨に云った。

「それは、どうしてですかね」

 と由梨は尋ねた。

「きっと劇場の神様が、私達を試されているのよ」

「試す?何を試すんですか」

「これで準備万端なのか。あんな事もこんな事も起きたらどうするって」

「チーフは劇場の神様を御覧になったのですか」

「ええ」

 意外にもあっさりと美香が肯定したので、由梨は驚いた。

「本当に見たんですか」

「はい」

「どんな格好でした?女性?男性?」

「嵐山さんって面白いお人やなあ」

 美香は、口を押えて小さく笑い続けた。

「嘘や、嘘。ちょっとからこうてみたかっただけ」

 とすぐに美香は否定したが、本当はやはり劇場の神様を見たのではないだろうかと昌子は思った。

「私にも見えるようになりますか。劇場の神様を」

「さあどうでしょう。見えるまで頑張ったらよろし」

 美香はいつもの笑みを由梨に向けた。

 由梨にとって長い初日が終わった。

 翌日、由梨は菓子折りを持って東大路病院へ行った。

 行くように仕向けたのは今出川支配人だった。

「いいんですか、ブラックリストの客に、菓子折りなんか持って行って」

 少し嫌みを込めて由梨は云った。

「いやあ昨日は、少し云い過ぎたようですねえ。失礼しました。お願いしますよ」

 今出川支配人自ら頭を下げた。

 そうした理由で昼の部の入れ込みが終わると、由梨は東大路病院へ向かった。

 受付で見舞いの件を云う。

「堀川多恵さんなら、先程退院されましたよ」

 と云われた。

 幸い、由梨は自宅の住所を知っていた。

 美香にこれから自宅に向かうとラインした。

 自宅は、都座からほど近い、大和大路下がった所だった。

 表札「堀川」が見える。ブザーを押す。

「はい」

「都座の案内係の嵐山由梨です」

「まあ由梨さん、どうぞどうぞ、お入りになって」

「はい」

 入り口の格子戸を開けると、S字型の小径が続き、敷石が色とりどりだった。

 その両側に苔が生え、塀際の樹木が下界を遮断していた。

 表玄関の横には、どうやら茶室のような離れが見受けられた。

(すごいじゃん!)

 茶室の前には、桜の木が植えられてあり、まさに満開を迎えようとしていた。

「まさに鰻の寝床。奥が深い!歌舞伎と同じ!」

 一人由梨は感心した。

 二回目の格子戸。開くと玄関の三和土(たたき)にすでに多恵が正座して待っていてくれた。

「ようおこしやす」

「すごい家ですね」

「何の、何の。小さいです」

「いえ、うちの何倍もあります」

「さあ、お上がり下さい」

「お邪魔します」

「誰もいないから、遠慮しないで」

 京の町家にありがちな、天井の低さも見受けられない。

 廊下は、縁側の大正波ガラスから照る外光と天井の電球が反射してそれが、まるでアートの様に描かれていた。

 古びているが、かなりの手入れである。

 庭の樹木も、剪定が施されている。

「きれいですね」

「そうどすか。おおきに」

「毎日、掃除が大変ですね」

「高齢やさかい、とても一人だけでは、出来んのでお手伝いさんがやってくれてます」

「じゃあ今は、お手伝いさんと二人で」

「いいえ、お手伝いさんは通いのもので、私一人でおます」

「この方は、ご主人さんですか」

 由梨は仏壇にある写真を見ながら聞いた。

 中々、肌は浅黒く目鼻立ちがくっきりしている。

「へえ、十年ほど前にあっちへお行きになりました。私も早よ呼んでて毎朝云うてるんやけど、全く無視。ほんま、死んでもイケズなお人や」

 このまま、ここに佇んでいたかったが勤務中なのでそうもいかない。

「これどうぞ」

 菓子折りを出す。

「これはこれは、ご丁寧にどうも」

「お身体は、一日経ってどうですか」

「もう大丈夫です」

「それはよかったですねえ。じゃあ私はこれぐらいで」

「えらい愛想なしですんまへんどした」

「何かありましたら、ここへ連絡下さい。メールでもかまいません。

 由梨は、携帯番号、メールアドレス入りの名刺を渡した。

 都座に戻り、今出川支配人、衣笠副支配人に報告した。

「あのうちょっといいですか」

「何ですか」

「堀川さんはあの事故で、昼の部ほとんどご覧になってません」

「見てませんねえ」

「ですから都合よい日にちに、ご招待させてあげたら如何でしょうか」

「招待!」

 衣笠副支配人が声を裏返して大げさに反応した。

「うちが招待するんですか」

「そうです」

「何のために」

「ですから、ほとんど見てないから」

「それをする事によって、都座はどんな利益を生むのでしょうか」

 叩き込む衣笠副支配人の言葉に辟易した由梨は、

「ああわかりました。どうも失礼しました。もういいです」

 踵を返して出て行こうとする。

「ちょっと待って下さい」

 今まで黙っていた今出川支配人が口を開いた。

「実は蹴田屋も大層、心配してましてねえ。あなたと同じような事を先程私に相談して来ました」

「本当ですか」

「支配人!」

 これには衣笠副支配人も驚いていた。

「本当ですか。でもブラックリストに載せると云ってましたよね」

「ああ、しかし蹴田屋の頼みを無下に断れるほど、私も都座も無粋じゃないですよ」

「有難うございます」

「で堀川さんの都合のよい日にちを、三つぐらい聞いてもらわないかなあ」

「わかりました」

 その日の内に、由梨は多恵に電話した。

「ほんまどすか。いやあ都座さんは、何て親切な劇場や事。ちょっと待っておくれやす。また都合よい日にち決まったら、由梨さんとこへ連絡します」


 由梨は美香にも報告した。

「それはそれは、すごい庭で桜も綺麗かったです」

「へえ、お金持ちやのん。何してはんねやろねえ」

「別に働いているふうには、見えなかったです。年金と貯金ですかね」

「貯金は大事やもんね。あとお金持ちの人と結婚するのも大事よ」

「お金持ちと結婚かあ・・・チーフは結婚しないんですか」

 由梨は、案内チーフの美香の年は知らない。噂では、四十歳をとっくに過ぎているらしい。

 しかし色は白く、皺もないし、髪は黒々。十五歳は若い。

「綺麗です」

 由梨は呟いた。

「いややわあ」

 ぽーと美香が頬を染めた。

「いえ、多恵さんとこの庭の桜です」

「ああ、そこ?そんなに綺麗かったの」

「桜と苔が絶妙にマッチして。ところでチーフはお花見は、行かれましたか」

「まだあ。行きたいけど、次の休みまでにきっと散るやろねえ」

「私もしてないです」

 今年の春は、寒の戻りが長く、底冷えする寒さが続いた。

 京都の桜もいつもなら、四月第一週で大体散り始める。

 しかし、今年はまだまだ満開を維持していた。


「よし皆で夜桜見物しよう」

 と音頭とったのが、蹴上鯛蔵だった。

 今や、歌舞伎界、いや演劇興行界で一番人気と集客力を持っている役者である。

 誰も断れないのである。

 由梨がその情報を聞いたのは朝礼の時、醍醐からだった。

「と云うわけで明日の夜、蹴上鯛蔵さん主催の都座夜桜見物会をやる事になりました。これは、業務の一環として全員出席して下さい」

「はあい。で、場所はどこですか」

「円山公園です」

「近っ!」

 案内の誰かがそう呟いた。

 都座から四条通りを東へ五分ほど歩くと、八坂神社西楼門に突き当たる。

 円山公園は、その奥にある。

 京都でも有数の桜の名所で、円山公園の中央にある枝垂桜が有名だった。

「そう大変近いです。色々と候補地が上がりましたが、やはり皆さんの移動を考えて近くに決めました」

 由梨ら案内係は、この時は、そうなんだとあまり深く考えていなかったが実はそうではない事に、次の日わかった。

 今日の終演後、いつもなら舞台では今月の舞台装置を片付けて裸舞台、つまり何もない状態にして帰る。

 ところが今夜は、大道具が舞台に大きな大木の装置を、舞台中央に置いた。

 それに大道具、小道具の人々が桜の花びらのついた枝を次々と刺していた。

「それは、来月の準備ですか」

 終演後一階客席のゴミを拾いに回っていた由梨は、小道具係りの上桂千代に尋ねた。

「あんた何も知らんねやねえ。これは明日の準備」

「明日?明日って蹴上鯛蔵さんの夜桜見物ですか」

「そう、その通り」

「でも円山公園でやるんでしょう」

「そう、それがなあこれ見て」

 千代はポケットからスマホを取り出して、鯛蔵のブログを見せた。

(明日、夜桜見物会やるんですけど、今一桜の花びらの状態がよくないなあ。それぞれの木は確かに満開なんだけど、俺の想像する狂うほどの桜じゃないんだなあ。

 じゃあどうする。まあまたブログ見て下さい」

「つまりその夜桜見物会に、舞台の桜を付け加えるってわけですか」

「そういう事」

「へええ、面白い」

「面白い!あんた鯛蔵と感性が同じってわけやなあ」

「おおい、千代さぼるなよ」

 舞台から大道具の百万遍が叫んだ。

「はあい、今行きます」

 由梨は、昼間の花見、夜桜見物は過去何度か経験があるが、自然と人工の桜を同時に見物するのは、初めての経験であった。


 翌日は昼一回公演。

 三時前に終演。桜見物の始まりは午後五時から。

 スタッフにとってこの二時間がいかに大変であったかを、由梨はその現場に美香らと足を踏み入れてわかった。

 そんじょうそこらにある花見ではなかった。

 仮設のロングソファが、随所に並べられている。

 照明係は、野外コンサート顔負けの、イントレと云う工事現場で見かけるパイプを繋いで、ジャングルジムのように周りを取り囲み、照明器具を吊るしていた。

 背後に電源車まで搬入して控えていた。

 音響も、サラサウンド状態再現で、タワー状にスピーカーを積み上げていた。

 とても二時間では出来ないために、今朝は八時から準備していた。

 他の通行人からは、

「何かここでコンサートあるんですか」

 と由梨に聞いた。

「いえ、ちょっと」

 と言葉を濁した。

 小さな野外円形劇場の完成である。

 本物の桜の間に、大道具制作の桜を植えていた。

 由梨はよく見ると、自然の本物と作り物の桜に当てる照明器具の種類が違っていた。照明係、笠置のこだわりである。

 若干、作り物の方が光源がきつい。

 遠目には見分けがつかない。

「何であそこだけ、桜が密集しているの」

 桜の美しさに誘われて続々と観光客が集まって来る。

 しかし誰もそこに座ろうとしない。

 何故ならあまりにも立派過ぎて、座る度胸がない。

 もちろん見張り番がいた。

 円形椅子の周りに、ガードマンが十人配置された。

「何や、醍醐寺歌舞伎、仁和寺歌舞伎、平安神宮歌舞伎、知恩院歌舞伎思い出すねえ」

 深いため息をつきながら、美香は呟いた。

「随分と野外歌舞伎に携わっているんですねえ」

 感心したように由梨は云った。

「そりゃあ、チーフは長年、私らが生まれる前から都座で案内してはるんやから」

 和美が二人の会話に入って来た。

「一体幾つなんですか」

「ひみつ」

 いつもここで終わる。

 鯛蔵の一言の呼びかけはすごいものでビール、ワイン、酒は大手酒造会社からの寄贈だった。

 そのあても、乾きものはもちろんの事、祇園「洛えん」と云う一流料亭から、割烹仕出し料理のデリバリーが届く。

 陶器かと見間違うほどの、精巧な紙箱で出来た容器に、料理が運ばれた。

 開会の挨拶で鯛蔵は、

「僕は京都が大好きです。そして都座が大好きです。その都座で働く皆さんも大好きです。皆さん花見を楽しみましょう」

 と短く締めくくった。

 由梨ら、案内係はお酒をつぎに回った。

 鯛蔵には美香が行った。

「怪我されたお客様の容態はどうですか」

 と由梨に話しかけて来たのは、蛸蔵だった。

「あっ、蛸蔵さん、その節はどうも」

 由梨は翌日、家まで行った事を話した。

「お元気そうでしたよ」

「それはよかった。実は若旦那も大層気にしてましたから」

「私の不注意ですみません」

「いや全然、気にしてませんよ」

「蛸蔵さんの名前の由来教えて下さい」

「由来?」

 と云って蛸蔵は少し顔を歪ませた。

「若旦那が、しょっちゅうおいこのタコ、タコ何とかしろなんて云われたのが始まりです」

「鯛からタコねえ」

 少し微笑んだ由梨だった。

「当時は、変な名前だと嫌だったんですけど、今は有難いです」

「どうしてですか」

「だって初対面でも名前云うと、必ず覚えてくれてますから」

「はい確かに。私もはっきりインプットしました」

 けらけらと由梨は笑った。

「タコの足、八本ありますけど、どれが手かわかる方法があります」

「どんな方法ですか」

「タコの頭を叩いてやってね、タコが(痛いっ)って頭にやった足が手ですよ」

 真顔で聞いていた由梨だったが、オチがある話だったのでまた笑った。

 すくっと突然蛸蔵が立ち上がり、向かいの蛸蔵に向かって自分で指さす。

 鯛蔵が笑いながら、横の由梨さんだよと云わんばかりのゼスチャーをした。

「若旦那がお呼びですよ」

「私がですか」

「行きましょうか」

 有無を云わせず蛸蔵は立ち上がる由梨の手を取った。

 自然な形だったので、由梨は別に何とも思わなかった。

「若旦那の命令は絶対的なんです」

「何でもやります」

「人を殺せと云ってもですか」

 一瞬目を閉じてそれからゆっくりと云った。

「殺します」

 すでに鯛蔵の周りには、祇園の舞妓、芸妓連中が取り巻いていた。

 その中を蛸蔵が手を取り先導しながら、鯛蔵の横に由梨を座らせた。

「何にしますか」

「じゃあワインで」

「祇園1800でどうぞ」

 鯛蔵自らワイングラスに注ぐ。

「どうぞ」

 由梨は手が震えていた。

 今人気絶頂の歌舞伎役者から注がれたのだ。

 辺りは、しんと静まり返った。

「おい、誰か歌えよ」

 鯛蔵が叫ぶ。

「自分歌います」

 蛸蔵が愛の讃歌を歌い出す。

「あのお客様はどうなったのですか」

 鯛蔵は、蛸蔵と同じ質問をした。

「ええ、すっかり元気になられました」

「それはよかった。でもあの衝突は開演してすぐ。つまりあのお客様は、ほとんど僕の芝居を観てないと云う事だ」

「そうです」

「やはり、もう一回見せてあげないとねえ」

「劇場側もご招待しようと取り組んでいます。でも全期間売り切れですよ」

「らしいねえ。困ったなあ」

「お知り合いなんですか」

「全く。でも歌舞伎通なのは、わかる」

 鯛蔵の話では、毎回自分の公演を見に来てくれるファンらしい。

「有難いことだよ。だって京都から新幹線に乗って東京まで見に来てくれるんだからなあ」

「それは、私もそう思います」

 やはり、お金に余裕がある人は、どこか違う。

 働くストレスがない代わりに、生きるストレスでも云おうか、何か由梨にはない負のオーラが多恵から感じられた。

「由梨さんは、どうして都座に入ったの」

「どうして私の名前をご存じなんですか」

「胸にネームプレートしてるじゃん」

「ああそうでした。私、やはり接客が向いているんじゃないかと思うんです」

「でもサービス業なら他に幾らでもあるよ」

「はい、やはり都座が好きなのかなあ」

「確かに都座は違うよね。他の劇場と比べて雰囲気が違うよね」

「どこが、どう違うのですか」

「全然違う。持ってるオーラが違う」

「まるで鯛蔵さんですね」

「おだてても何も出ないよ」鯛蔵は笑った。笑うと大きな歯が目に入る。

(何て綺麗な歯をしているんだろうか)

 由梨はそう思った。

 昼間は春の日差しがあり暖かいが、日が陰って来るとやはり冷たい。

 ひんやりした風が、いつまでも身体にまとわりつく。

 こんな時は、鯛蔵が呼び寄せた「祇園おでん」の出張店のおでんが、身体の底から温めてくれる。

 由梨は立ち上がって自分と数人分の皿を持って鯛蔵らの席に戻ろうとした。

 しかし、もう由梨の席には、他の舞妓らに占領されていた。

 鯛蔵は、もう由梨の事など最初からいなかったものと云わんばかりに、他の舞妓と夢中に話していた。

 春の風が持って来たおでんの湯気を揺らす。

 ゆらゆらと陽炎のように、小さく上へなびき消えて行く。

 立ったまま、由梨は春の風を目で追いかけた。

 時折、大きな風が地面から、暗闇のあちこちから、同時に巻き起こった。

 その風は宴席の紙コップや紙くずを一瞬のうちに、空中へ救い上げた。

「うおーーーー」

 思わず鯛蔵が声を上げた。

 皆呑む、食べる手を休めて、空中に舞い上がった紙コップを追いかけた。

 風は、桜の大木を揺らした。

 鯛蔵の宴席にも桜の花びらが、ひらひらと散りゆく。

 偶然にも鯛蔵が持つワイングラスにも、桜の花びらがゆっくりと着地した。

「おい見ろ、天然の桜ワインだ」

 ひと際大きな声を貼りあげてはしゃぐ鯛蔵だった。

 自然の風は、自然の桜の木を揺らしても、都座の大道具が持って来た舞台で使用する桜の木は揺らせなかった。

 こんな風を計算に入れて、木のうしろに(人形)と呼ばれる補助木をつけさらに、(シズ)と呼ばれる、重い長方形の鉄の重しを乗せていた。

 ぶるっと由梨は身震いした。

「大道具さんよ」

「はい何でしょうか」

 大道具で最年長の百万遍虎三がすぐに返事した。

「やはり作り物は駄目だなあ、自然には勝てない。自然の桜のように、風で桜の花びらを落とす事は出来ないだろう」

「いいえ、若旦那よく御覧下され」

 百万遍が顎で大木の下にいる若手の大道具の鞍馬に合図した。

 鞍馬はジャリ糸と呼ばれる、大道具の仕掛けもので使う糸を手で引っ張る。

 すると桜の上部に拵えた、籠から桜の花びらがひらひらと舞い落ちる仕掛けだった。

「おおやるなあ」

「さすがは都座の大道具さんやわあ」

「綺麗どすなあ」

 舞妓は手のひらを差し出し、桜の花びらを受けた。

「お見事!」

 鯛蔵は大きく拍手をした。

「そのまま食べずにいたら、冷めるぞ」

 いつの間にか由梨の傍らに蛸蔵が来ていた。

「お疲れ様でした」

「誰も聞いてない状況でアカペラで歌うのは、かなり勇気いります」

「音響さんにマイク借りればよかったのに」

「うまい!」

 蛸蔵は由梨が持って来たおでんのタコを美味しそうにほうばった。

「蛸蔵さんがタコを食べてる」

 由梨はおかしかった。

「共食いかな」

「はい」

 二人は顔を見合って微笑んだ。

「おいもっと降らせろよ、桜の花びら!」

 大分酔って来た鯛蔵の声はさらにでかくなる。

「はい」

 舌打ちしながら百万遍は立ち上がると両手をぐるぐる回し始めた。

「おい鞍馬、最大級やったれ」

「はい」

 鞍馬は力いっぱいジャリ糸を何度も上下に引っ張る。

「もっと降らせろ」

 さらに鯛蔵が叫ぶ。

「何だ何だ、都座の大道具はその程度か!」

 この鯛蔵の一言が百万遍を始めとする大道具魂に火をつけた。

 ジャリ糸に百万遍らがしがみつく。

 鯛蔵の周りは、桜の花びらが急激に舞い落ちる。

 舞妓も芸妓も口々に叫ぶ。

「すごおすなあ」

「桜の洪水どすがな」

「もうこんなん初めてどす」

 桜の土砂降りに近辺の見物人が押し寄せて盛んにスマホで写真を撮る。

「すごい」

 由梨ら案内係も声を上げた。

 次の瞬間、ジャリ糸が、桜の花びらが入ったザルが切れた。

 そして、鯛蔵の頭にザルが落ちた。

 桜を頭から被った。

 皆、鯛蔵の烈火の怒りが、炸裂すると身構えた。

 一瞬、静寂さが辺りを包み込む。

「蹴田屋!」

 由梨は、大向こうの掛け声をかけた。

 それを合図に鯛蔵は、右足を前に出して、睨んで見得を切った。

 右手でゆっくりとザルを取り、そして自分の頭の後ろに大きく右手を伸ばして高々と持ち上げた。

 見物人から、万雷の拍手が巻き起こった。

(やっぱり鯛蔵さんはすごい!)

 由梨は目の前で起きた大道具のミスを事故をそのままにせずに、すぐに芸に取り込んで当意即妙で芸にした鯛蔵の鮮やかなそして俊敏な行動に改めて脱帽した。

 ネット社会を反映して、一分後にはもうあちこちのツイッター、フェイスブックにこのザルを頭に被り、桜まみれの鯛蔵写真がアップされた。

 五分後には海外のネットにまで拡散した。

 同時に動画も海外まで拡散した。

 翌朝のワイドショーは、この鯛蔵さくらネタオンパレードだった。

 翌朝由梨が、開場前に場内で掃除をしていた。

 同じ頃、舞台では昨夜使った桜の木の解体作業が行われていた。

 百万遍の姿が目に入ったので、最前列の客席から声をかけた。

「お早うございます」

「お早うさん」

 百万遍は、後ろを向いたまま返事した。

「昨夜は大変でしたね」

「大変やったで。桜見物であない疲れるとは思わなんだ」

 と云いながら百万遍は振り返った。

「でもお見事でした。拍手パチパチ。いやすごい拍手でしたよ」

「ああ、でもあまりジャリ糸引っ張り過ぎて、鯛蔵の頭に桜のザルがばさっと被ってしもうた。けど、おもろかったな」

「はい」

 にこやかに由梨は答えた。

「わしも長い事、この大道具の仕事しとるけど、あの鯛蔵歌舞伎役者は、ある意味化け物やな」

「どこが化け物なんですか」

「普通、あそこで大道具がミスして自分の頭に桜のザルがドカンと落ちて来たらどうする。そらあお笑いタレントやったらおいしい役割やけど、天下の名門、蹴田屋やで。怒って当然。けどあいつはそれをせずに、上手い事、それこそ新作歌舞伎のように、ザル使って蹴田屋の見得まで披露してしまう。ほんまに化け物や」

「化け物ですか」

 由梨は反芻した。

「けどなあ、あんたのあそこでの大向こう、タイミングよかったわあ」

「有難うございます」

「ほんまタイミングよかった。凍りついた空気を一瞬にして溶かしてしもうた」

「本当ですか」

「ああほんま、ほんま」

「私、実はあれが大向こうのデビューなんです」

「そうかあ素質あるでえ」

「何十年もこの世界で生きて来た百万遍から褒められた由梨は、ますますこの都座が、そして案内係の仕事をしている自分が嬉しくて仕方なかった。

 朝礼が始まる。

「皆さんお早うございます」

 醍醐がいつものように、挨拶を始める。

「昨日は円山公園での蹴上鯛蔵さん主催の夜桜見物会ご参加有難うございました」

 案内係一同は無言でうなづく。

「まだ公式には発表されてませんが、追加公演が決定しました」

「はあい、知ってます」

 和美が大きく云った。

「白川さん、どうして知っているんですか」

「だって、今朝の鯛蔵ブログに載ってます」

「本当?」

 由梨は聞き返した。

「本当です」

 その言葉に数人の案内係がポケットから、スマホを取り出して確かめようとした。

「はい、はい確かめるのは後にしましょう」

 醍醐の言葉に、慌てて案内係はスマホをポケットに戻した。


 追加公演は、楽日の前日の夜公演に実施された。元々この日は昼一回公演だった。

 今回わりと昼一回公演が多かった。

 しかし売れっ子の鯛蔵は、東京へ戻ったり、関西のテレビ出演がすでに決まっていたりして中々、すきがなかった。

 この夜公演も、すでに決まっていた再来月のポスター撮り、パンフレット撮影を別の日に移しての苦肉の策だった。

 何故そこまでしてやったのか。

 実は桜騒動がネット、テレビのワイドナショーで放映直後、都座にクレームの電話が殺到した。

「桜見物する余裕があるなら、追加公演やれ!」と。

 個人のツイッター、ブログにも同様の声が載せられた。

 そこで否応なく追加公演が決定した。

「正式な告知は明日午前十時に発表します。それまでフェイスブックなどにアップしないで下さい」

 と醍醐が云ったけど、すでにもうネット上、ツイッターでは周知の事だった。

 昨今、情報はマスコミより個人のツイッター、ブログの方が早かった。


 追加公演。

 開場風景を撮るために多くのマスコミが詰めかけた。

 チケットはプラチナチケットとなり、一等一万七千円の席がネット上で五十万円で売買されていた。

 運よく追加公演を見られる恩恵に預かった人々の中に、多恵の姿があった。

「多恵さん」

 由梨が声を掛けた。

「嵐山さん。その節は有難うねえ」

「よくチケット取れましたね」

「そうなの。実は鯛蔵さんの番頭さんから戴きました。ご招待です」

「へえそうなんですか」

 劇場側も同様の対応をやりかけたが、鯛蔵の方が一足早く対処していた。

「それでね、嵐山さんに折り入ってお願いがあるんです」

 と云いながら多恵は、鞄をゴソゴソかき混ぜるかのように、両手を忙しく動かしていた。

「ああやっと出て来た」

 多恵が取り出したのは、小さな古びた薄い箱だった。

「これを鯛蔵さんに渡して欲しいのよ」

「何ですかこれは」

「渡せばわかるから。それとこれも」

 と祇園にある和菓子の包みも渡した。

「どうせなら、ご自身でお渡しになられたらどうですか」

「いいからお願いね」

 半場強引に多恵は、由梨に押し付けると客席の中に入った。

 なるべく早い方がいいと思った由梨は、幕間に楽屋に行った。

「お忙しい中すみません」

「どうしたの」

 鏡に映る由梨の姿を見ながら振り返らずに鯛蔵は答えた。

「これを鯛蔵さんに渡してくれって。例の堀川多恵さんからです」

「そう」

 白塗りしながら、鯛蔵は振り返り薄い箱を開けた。

 その途端、顔色がさっと変わった。

「このお菓子は戴くが、これはお返し下さい」

「ああでも・・・」

「お返し下さい」

 あの大きな目で睨まれると、さすがにそれ以上拒否は出来ない由梨だった。

 すぐに客席に戻り、多恵に事情説明して戻そうとした。

「ああそうなの。だったら由梨さん、あなたが持っていて下さい」

「ええっ!」

「お願いだから」

「でも何の関係もない私が預かっても意味がないと思います」

「今の私は決めたの。もう未練ないから受け取らない」

「でも・・・」

「ご迷惑なら捨てて頂戴」

 これも語気の強い声だった。

 終演。

 再び正面玄関に姿を見せた多恵だった。

「由梨さん有難うねえ」

「はい」

「もしよかったら」

「何でしょうか」

「あれ、あなたがお使いになってもいいですよ」

 例の薄い箱の中身だ。


 帰宅して自室で由梨は、そっと箱を開けた。

 中から手鏡が出て来た。

 黒い下地に桜と紅葉の螺鈿(らでん)で作られた高価なものだった。

「私が使ってもいいの」

 由梨は手鏡に映る自分に自問自答した。

 手鏡は何も答えない。

 由梨は自分が持つ手鏡と見比べてみた。

 数倍、多恵の手鏡の方が美しく見える不思議な手鏡だった。

 その手鏡を持ったままずっと考え込んで何度も深いため息を吹きかけて、曇らせた。

 まるで由梨の気持ちを映してもいるようだった。
























































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