第3話 劇場ことば2 「消えもの」
ついこの間、円山公園で夜桜見物をしたかと思えば、桜は一週間もしない内に散り始め、新緑の季節を迎えた。
毎年ながら、この四月下旬から始まるゴールデンウイークは、特に京都は観光客でごった返す。
近年はアジア、特に中国、韓国、台湾を始め、外国人観光客の急増で、混雑がより一層ひどくなる。
生まれてからずっと京都に住む由梨は、騒がしい京都が苦手である。
季節も観光客も、何かに追い立てられるかの様に、気忙しく次々と京の観光の本のページを人より早くめくろうと、押し合い圧し合い、寄ってたかっているかのようだ。
「昔は、もっと春の季節が長かったような気がしますねえ」
美香が呟いた。
「私もそう思います」
「嵐山さん、まだ若いのに、何云うてるんですか。嵐山さんの昔てせいぜい十年くらいでしょう」
「はあ、まあそんなもんです。チーフは」
「私は十二年くらいかな」
「チーフ、さらりと、身内で年、サバ読むのはやめましょう」
と由梨は宣言した。
今年の冬は戦後一番寒かったので、京都の人はこの春の到来を待ちかねていた。
都座の前の川端通りと鴨川べりの遊歩道の樹木も日に日に、緑が濃くなる。
京の景色に、色彩のクレヨンが一本、また一本と増え、色重ねて行く日々だ。
日中は汗ばむ日が多い。
「さて、横道にそれないように」
軌道修正したのは、醍醐だった。
ここは、都座の地下の会議室。
三日後に控えた(東山直子爆笑公演・初日館前行事)についての打ち合わせだった。
「それでですねえ、東山直子さんの方から依頼がありまして、初日館前行事に、案内係一名と、都座のゆるキャラ(ミヤコザル)の三人のトークショーをやっていただけないかと云う事です」
「何故案内係なんですか」
美香が聞いた。
「さあわかりません。たぶん、日頃お世話になっているからだと思います」
「そうですか」
「はあい」
元気よく由梨は手を挙げた。
「何ですか嵐山さん」
「私、立候補します」
「本当に」
「本当です」
「ああ、よかった」
美香がほっと胸をなでおろした。
「じゃあ、案内係は嵐山由梨さんで、ゆるキャラ、ミヤコザルの被り物は誰が入りましょうか」
醍醐はゆっくりと会議の席上を見渡す。
皆、授業中当てられないように、一斉に下を向く生徒のように、会議室の床を眺めていた。
「ミヤコザルも案内係さんにしてもらって、最後は頭を取る。居合わせたお客様は、どうせ男が入っていると思うでしょう。そのギャップが面白いと思うのよ」
いつになく今出川支配人が熱く語る。
「誰も反対しない」
「そうですねえ。じゃあ人選はチーフにお願いします」
「わかりました」
「チーフ自ら被ってもいいですよ」
「ええっ!」
「賛成!チーフ一緒にやりましょう」
完全に周りから浮いている由梨だった。
案内控室で、案内さんだけで話し合った。でも誰一人立候補は出て来なかった。
「じゃあ私がミヤコザルやります。チーフがサポート役の案内係やって下さい」
由梨が提案すると、今まで黙っていた案内さんは一斉に拍手した。
商業劇場では、館前行事と云うものがある。
大抵初日に、開場前の劇場正面で、出演役者が挨拶。時には鏡開きを行い、詰めかけた観衆に升酒を振舞う。
今回東山直子が提案して来たのは、この館前行事で案内係とからみたいと云って来た。
からみ内容は当日決める。つまり打ち合わせなしである。
都座のゆるキャラ(ミヤコザル)は、昨年のゆるキャラ日本一決定戦で見事優勝したすぐれものである。
そのデビューも同時に行う事をも提案したのは東山直子で、今出川支配人も無条件で賛成した。
実は都座にもゆるキャラを作ってはどうですかと提案したのは、美香だった。
由梨は後日この事を知った。
「東山直子さんのトークかあ、怖いなあ」
都座の一階の案内所で深いため息をつきながらいつになく落ち込む美香だった。
「チーフらしくない。一体どうしたんですか」
由梨は声をかけた。
「嵐山さんは、東山直子の御芝居見た事ある?」
「いえ、テレビドラマは、ありますけど、お芝居は見た事ないです」
「アドリブがすごいのよ」
台本はあってないようなもので、当日の客の雰囲気を瞬時に察知して、客の好みに合わせた進行をするらしい。
「だから、かなりミヤコザルの嵐山さんは、いじられると思います。頑張ってね」
美香のどこか他人事のような云い方に、由梨は気にかかった。
「チーフも私と一緒に出るんですよ」
「うん、私は大丈夫、うしろで微笑んでいるだけだから」
「ああずるい」
「でもゆるキャラは、喋らないからいいでしょう」
「ふなっしーは喋ります」
「ひこにゃんは喋らないわよ」
にこにこ微笑みながらも、じんわりと意地を通す美香を見て生粋の京都人を垣間見た由梨である。
「いじられて、いじられて最後は頭を撫でてくれはるわあ」
根拠もなく美香が断言した。
経験のない由梨は、ただうなづくしかなかった。
東山直子爆笑都座五月公演。
五月一日初日。快晴。世間はゴールデンウイーク真っ最中。
都座の正面玄関前の歩道は、一目東山直子を見ようとする群衆で埋まり、さらに溢れた客は、四条通りの車一車線を完全に封鎖していた。
さらにゆるキャラ(ミヤコザル)を見ようとする、ゆるキャラ情報局ファンも詰めかけていた。
由梨らは、都座の正面玄関入った所で待機していた。
「緊張してますか」
直子が、由梨に声をかけた。
「ええ、かなりしてます」
由梨は正直に答えた。
「でも嵐山さん、今回は自ら立候補してくれました」
「でも最初は、チーフの役でした。途中で入れ替わりました」
「何やそうやったの。顔に似合わず目立ちたがりやないの」
にこっと微笑んで瞬時に真顔で直子が云った。
取り囲む今出川支配人、衣笠副支配人が必要以上に笑い声を立てた。
おとな社会は、大変だとこの瞬間思った。
由梨は、頭の部分はまだ被らずにいた。
「このゆるキャラ(ミヤコザル)は、あんたが考えたんやて」
直子は、話の矛先を美香に振った。
「はいそうです」
「今のうちに、この二人に、ゆるキャラ使用料しっかり話ときや」
また笑う関係者。
「支配人ほんまの話。あのくまモンなんか、年間数百億円らしいよ」
「らしいですねえ。まあ都座の場合、権利、使用料関係は全て都座に帰属すると思います」
「そんな衣笠副支配人、ケチ臭い事云わんと、ちょっとは色つけたりいなあ」
直子はそう云いながら、由梨の方を見た。
この女優は、喋らなかったら案外美人かもと、こころ密かに由梨は分析していた。
「あんたら二人、館前行事終わったら、支配人からたんとサバキ貰いな」
「サバキって何ですか」
「嵐山さん、サバキも知らんの」
「はい、教えて下さい」
「まあ祝儀の一種で、本来の業務とは違う事をやった事に対する、ご褒美」
「お願いします」
由梨と美香は声を揃えた。
この時、醍醐が走って来た。
「お三方、そろそろ出番です」
由梨は、頭の部分を被り、気を引き締めて都座の正面玄関に出た。
出た瞬間、割れるような拍手、歓声。
そして群衆の大半は、スマホ、デジカメで写真を撮り出す。
由梨は自分の視界に広がる人々のにこやかな顔をまじまじと見つめた。
今、自分の目の前に広がる人々の大半は、東山直子とゆるキャラ(ミヤコザル)がお目当てであるのは、百も承知だ。
しかし、自分を今、この瞬間見られているのも事実だった。頭と脇の下からぼとぼとの汗が噴き出した。
しかし、由梨は、左右に歩き回り、大きく手を広げて振った。
時折スキップまでした。
何だか嬉しくなり何回も回った。
「東山!」
「直ちゃん!」
「ミヤコザル!」
直子も手を振り、愛嬌を振りまいた。
「もうええか」
直子はミヤコザルの頭をはたいた。
再び直子は、正面を向いた。
「東山直子でございます。私は京都生まれの京都育ち。一年ぶりの都座公演でございます」
「待ってたよ、直ちゃん」
ひと際大きな太いおっさんの叫び声が響いた。
その声を聴いた群衆から大きな笑い声が漏れた。
その大きな笑いが静まるのを待つ直子。
(間)の時間。
時間にして数秒だろう。いわゆる何も喋らない、素の時間が群衆を、いや都座正面玄関全体を覆う。
「おっちゃん、私は待ってません」
と直子が真顔で云う。
どっとさっきより数倍大きな笑いの波が、辺りを呑み込む。
云われたおっさん本人も笑っていた。
「いえ嘘、嘘。すんませんねえ、おっちゃん」
「愛しているよ!」
おっちゃんは調子よく野次を飛ばし始めた。
「おっちゃん、暫く黙っててくれる」
「出来ない!」
間髪入れず即答した。
さらに大きな笑いの波が辺りを呑み込んだ。
すぐに直子は反撃に転じる。
「出来へんかったら、その口と額、タコ糸で縫うぞ、タコおじさん」
野次を飛ばしているおじさんは、頭が剥げている。その特徴を瞬時に見極めた直子の返し野次だった。
(うまい!)と由梨は心底思った。
「こちらにいるのが、都座案内チーフの方です。お名前は」
「墨染美香です」
「何で都座の案内さんになられたんですか」
「ここにおられるお客様もそうですが、お芝居を見て楽しまれるお客様の笑顔が見たくてです」
「はい、台本通りのお返事、うまく出来ました」
また笑いの渦が巻き起こる。
「実は皆さん、この人ミヤコザルを考案した案内さんです。はいもう一度拍手!」
拍手の波が広がる。
「都座とサルとどんな関係があるんですか」
「サルは、災難がさると云いましてとても縁起がよい動物なんです。それで思いつきました」
「それであなたの災難は去りましたか」
「はい」
「私にも聞いて」
「東山直子さんの災難は去りましたか」
「今来てます。タコ災難が。私、サルに変身してタコ食って来ます。タコ社長!ガオー!!」
直子は再びタコおっさんに食ってかかろうとした。
好評のうちに館前行事は終わった。
由梨も美香も(さばき)を貰う。
支配人からではなく、直子からだった。
控室に帰り、由梨は封を切る。
中からはピン札五枚、五万円も出て来た。
(すごい!)
(たった、あれだけやっただけで五万円!案内係だったら、何日分の給料だろうか)
しかし、少し早とちりだった。
実は、館前行事のあと、(ミヤコザル)を芝居に出さしたらどうかと直子が云い出した。
縫いぐるみなので、中に入る人間は、誰でもよいはずだ。
しかし直子は云った。
「あの中に入るのは、美香さんか由梨さんだけ」
と条件を出していたのだ。
出る場面は、幕開きで時代物の峠の茶屋。直子が休んでいると奥からひょっこり出て来る。
「で、台詞はあるんですか」
一番気になる事を由梨は聞いた。
「ありません」
きっぱりと醍醐が云った。
初日は昼一回公演だった。終演後、早速美香と由梨のために、わざわざ舞台稽古をしてくれた。
ダブルキャストのミヤコザルなので、二人とも舞台にいた。
今日は、由梨が被り物をしていた。
舞台での抜き稽古、場当たりは実にあっさりしたものだった。
「はい私が床几座ってお茶飲み出したら出て来て」
由梨が出て行く。
「はい、何やらありました。私が入る切っ掛け云うから、そしたら上手に引っ込んで」
由梨はうなづいた。
それでミヤコザルの出番は終わった。
あまりにも簡単すぎて怖かった。
「こんなんで大丈夫なんかなあ」
ちょっと不安を口に漏らす由梨だった。
「私も同じ気持ち」
舞台袖で台本片手に見ていた美香も同様の感想を漏らした。
急遽、差し込みで作られた台本を見ても、
ミヤコザル、上手より出る。
(東山直子とからみあり。よろしく)
ミヤコザル上手入り
と三行で終わっていた。
「前にも云うたと思うけど、東山直子さんて、アドリブばっかりなんよ。それこそ毎日台詞が違うのよ。それで共演者も困った顔しはるの。そしたらさらに輪をかけてアドリブ連発しはるの。そのつもりで舞台立たんと。お互い気をつけましょう」
美香の困惑な顔を見ていると、由梨はまで暗い、音と光が遮断された川底にいきなり突き落とされた気分が一気に全身を覆いつくした。
相手は喜劇だと云うのに。息がしにくい。
やっぱりこれは誰でもよかったんだと思った。
別にそれこそ今出川支配人でもよかったんだ。
「何で私ら二人に限定したんかなあ」
美香も合点いかぬ様子だった。
しかし、その不安も翌日に解明された。
東山直子爆笑公演二日目。
十時半開場。十一時開演。
しかし昨日同様、朝九時ぐらいからぽつぽつと都座前に人が集まり出していた。
直子の「ミヤコザルを出そう」と一言云ったために、番附(パンフレット)の場割(ばわり)の所に、わざわざ、
第一場 峠の茶屋
ミヤコザル・・・墨染美香・嵐山由梨(Wキャスト)
と書かれたシールを宣伝部員が、夜通しで貼り付けていた。
都座舞台上手袖。
上手とは、客席から見て、右側で、袖とはふところ、幕袖の事。
今日は由梨が被っていた。
背後には、美香も様子を見に来ていた。
「落ち着いて行きましょう。上がる事ないよ。台詞なから、楽なもんよ。リアクションだけ。大げさに行きましょう」
と助言する直子だった。
見ると鬘を被り、着物を着ている。やはり役者だ。決まっている。
そう由梨は感じた。
「そうよ。いつもの由梨さんなら大丈夫」
美香も応援の言葉を発した。
「はい」
と元気よく返事した由梨だったが、直子に耳元でそう云われると余計に気分が高ぶっていた。
「そしたら、一足先に行ってます」
直子は花道出なので、姿を消した。
やがて開演ブザーが鳴り、オープニング音楽が流れ出す。
いよいよ芝居の始まりである。緞帳が上がる。
通りすがりの通行人と女将の軽いやり取り。
やがて軽快な鳴り物の音楽とともに、花道から直子が出て来る。
花道七・三にて立ち止まる。
花道七・三とは、揚幕、花道の出る所から七部、舞台から三部の所である。
「何とまあ、きれいなお花畑や事」
ぎっしり詰まった客席を見渡しながら直子が云う。
再び客席から大きな拍手が起こる。
例によって、拍手が鳴り終えるのを待ってから
「所々、枯れた花おるけど」
ぼそっと呟く。
どっと客席を揺るがす笑いが巻き起こる。
上手袖で待機していた由梨も美香も思わず笑ってしまう。
この台詞は、昨日の初日にはなかったはずだ。
昨日の初日は、台本通り、
「ああ一里も歩くともうしんどなって来た。丁度あそこに茶屋がある。ちょっと一休みしよかい」
だった。
その後台本に戻り、直子は茶屋の前に座り、団子とお茶を頼む段取りだ。
いよいよ由梨の出番が近づく。
女将が団子とお茶を持って出る。
直子が団子を食べる。女将が、
「ごゆっくりと」
と云ってお辞儀して引っ込む。直子がお茶を飲む。
ミヤコザルの出番の合図だ。
「はい、どうぞ」
舞台監督が出のキュウ出しをしてくれた。
上手から由梨ミヤコザルが出る。
しかし直子は全く無視する。昨日の稽古ではなかった直子の演技だった。
由梨は、背後から直子の肩をポンポンと叩く。
「いや、今団子食べるのに忙しい」
百合子は再び肩を叩く。そのやり取りが続いて、やおら直子が振り返り、由梨と目が合う。
「出たああああああああ!」
直子は団子とお茶を投げ飛ばして大げさに驚いた。
「お前は誰や」
喋れない由梨は、考え込んでから、仁王立ちのリアクション。
「偉そうに」
今度は頭をぼりぼりかく仕草。
「お前はどこかで見た事ある猿やなあ。ああわかった。都座のゆるキャラ(ミヤコザル)やなあ。一緒に客席に向かって挨拶しよ」
と直子の台詞に促されて、由梨は客席に向かって直子と一礼する。
「都座のマスコット、ゆるキャラ、ミヤコザルくんです。皆様よろしくお願いします」
由梨の一礼が、少し直子より長過ぎた。
「いつまで自分の足元を見てるんや」
頭をパシンとはたきながら早速突っ込みが入る。
さらに舞台に落ちた団子を拾って、口でフーフーと息吹きかけてから、
「ミヤコザル、さあ美味しいお団子お食べなさい」
直子が口元に団子を持って行く。
「食べなさい」
由梨は手を振って食べられないアクション。
「いいや、サルは団子が大好きなはずや。食べるまでこの芝居先に進まない」
客席から失笑が漏れる。
「食べられへんかったら、食べさしたる」
直子は立ち上がり、無理やり食べさそうとする。
由梨は逃げる。直子は追いかける。
花道、舞台全面を使った二人の追っかけが始まる。
音響さんが、すかさず、追っかけでよく使われる「天国と地獄」の音楽を流す。
客席は笑いの大波の連続となる。
直子は、倒れた由梨の上に馬乗りになる。そこで頭を取る。
由梨の顔が客席に知れ渡る。
「ああ、あんたは、都座の!!」
直子はそこまで云ってから、由梨を立ち上がらせる。
「案内係の嵐山由梨さんでした!」
と直子は云いながら、自ら拍手した。
その拍手に誘われて客席からも続いてさらに大きな拍手が由梨に送られた。
由梨は客席に向かって大きく手を振りながら笑顔で答えた。
「はい、じゃあ上手に退場」
云われるまま由梨はそのまま上手へ行きかける。
「頭、頭忘れているで、ミヤコザル」
由梨が振り返ると、直子がぬいぐるみの頭を持って振っている。
慌てて由梨は舞台に戻った。
直子がわざと頭の前、後ろ逆にずぼっと被せた。
由梨は慌てて違うとゼスチャー。また客席から笑いがはじき出される。
「ええ、違うて。何が違うの?前後違うかあ」
由梨は、両手と頭を大きく振って説明した。笑いはまだ続く。
直子は自分でも笑いながら、頭を今度は横に被せた。
「ええ、何て?まだ違うて。どこが?あああ、横か」
ここでやっと直子は、まともに被せた。
「案内さんも大変やねえ」
万雷の拍手を浴びて、上手袖に戻った。
「ご苦労様」
パチパチ拍手しながら、美香は縫いぐるみの頭を外してくれた。
「お疲れ様」
「熱い!」
由梨は開口一番叫んだ。顔は汗で、幼子が行水で遊んだかのように、頭から汗が噴き出していた。
「そない熱いの」
由梨とは対照的に涼しげな顔で美香は口にした。
「舞台出たら、照明の明りとセンタースポットで地獄の熱さです」
と云いながら由梨は何度も大きなため息をついた。
改めて舞台役者が、いかに重労働か身を持ってわかった瞬間だった。
夜の部は、美香が務めた。ほぼ昼の部と同じ段取りだった。
終演後、由梨は、醍醐、美香の三人で直子の楽屋を訪ねた。
「お疲れ様でした」
と云いながら三人は、楽屋の暖簾口で正座して挨拶した。
「お疲れ様。由梨さん!」
「はい」
「バッチグー!」
にっこり微笑んで直子が云った。
「有難うございます」
「私が睨んだ通り、ギャップがええのよ」
「ギャップと云いますと」
直子の言葉の真意を理解出来なかった醍醐は、聞き返した。
「醍醐さん、今日の芝居見たの」
「はい見ました」
「見てたのにわからんかなあ」
そこで直子は大きくわざとらしく大袈裟にため息をついた。
「猿の縫いぐるみの頭取ったら、誰でも男と思うやん。そやけど実はこんな可愛い案内さんやった。そのギャップが受けるんよ」
「はあ」
「醍醐さん、もう一辺喜劇勉強しよし」
「はい」
土下座する醍醐を直子、由梨、美香の三人の女性は見ていた。
直子はぺろっと舌を出して見せた。
そこで由梨と美香は笑った。
「何がおかしい。不謹慎やぞ」
醍醐が頭を上げて云った。
(これがアドリブ喜劇か)
(これが東山直子の真骨頂なのか)
由梨は身を持って経験した。
今日の由梨の段取りが基本となり、以後日替わりで由梨と美香がミヤコザルを務めた。
公演が始まって一週間後の事だった。
夜の部の幕間が終わり、第二幕開演五分前を知らすブザーが場内に響き渡る。
まるでそのブザーが切っ掛けの如く、一人の客があたふたと案内所に駆け込んで来た。案内所の中に美香、その前に由梨、和美が立っていた。
「えらいことしたあ」
息を弾ませながら女性客はそう云った。
「大事な写真、写真、弁当箱、弁当、写真」
由梨らに到底理解出来ない言葉の羅列。
「お客様、落ち着いて下さい」
まず由梨が声をかけた。
「これが落ち着いていられますかいな」
客がきっと由梨を睨み付ける。
「どうされはったんですか」
いつものはんなりとした京ことばと共に、満面に笑みを浮かべながら美香が尋ねた。
「最善の幕間に、お弁当食べててその弁当がらをゴミ箱に捨ててしもうた」
「はあ。それならいいと思いますけど」
由梨が答えた。
「ええ事ないんや!」
再び客は、由梨を凝視した。
「お弁当食べてその後に、重大な事に気づいてしもわれたんですね」
さすがは案内チーフの美香である。お客様の行動に察知して的確な説明をしたと由梨は思った。
「そう。うっかりしてしもうて大事な写真を、その弁当がらと一緒に捨ててしもうたんや。消えてしもうたんやわあ」
「大丈夫です。じゃあ一緒に探しましょう」
にっこりと微笑む美香だった。どこまでも冷静さを全身につけていた。
都座のゴミは、半地下の機関室の奥に一か所に集められる。
先程の幕間が終わると、清掃係がゴミのカートをすぐに回収される。
和美は案内所に残り、美香と、由梨と客の三人はゴミの集積所に向かう。
「ここは昼の部、夜の部のゴミが一か所に集められるんです」
清掃係の主任の烏丸節夫が説明した。
「昼と夜の部は、ゴミ袋区別してないんですか」
由梨は質問した。
「残念ながらしてません」
大きなゴミ袋が五十以上ある。昼夜で二千のお客様から出されるゴミだ。
家庭で出されるゴミと規模が違う。
「でも夜の部なら当然、手前にあるはずですよね」
由梨は食い下がった。
「いい質問ですね。その通りです。まず手前の袋から開けて調べてみましょう」
烏丸が率先垂範して行動した。
「お食べになったお弁当はどこのものですか」
美香が聞いた。弁当の名前がわかれば、その弁当がらだけを探せばいいわけだ。
「ええっと都座の売店で売ってた、祇園屋さんの弁当やわ」
「銘柄がわかって、大変助かりました」
にっこりと美香が微笑む。
(一番数が多い!)
美香の笑顔とは対照的に烏丸も由梨も暗雲を顔に浮かべていた。
「こっちにまず祇園屋さんの弁当がらを入れる事にしましょう」
烏丸が大きな空の袋を持って来て説明した。
各自手分けして袋を開け始める。一人一袋ずつだ。
「私も手伝います」
客が手をかけた。
「いえ、大丈夫ですよ」
由梨が云った。
「そうです。見てるだけでいいです」
「でも何かお手伝いさせてよ」
自分の不注意から、大の大人三人がゴミと格闘しているのを見て忍びないと思ったのだろう。
「じゃあ我々は、祇園屋の弁当がらをそちらの袋に入れて行きますから、中身を確認して下さい」
烏丸が提案した。
「じゃあやりましょう」
作業を始める。点検が終わった袋は別の所に移した。
作業は思いのほかはかどる。
この場になって弁当がらの銘柄特定は有難かった。
最後の袋から探し物が出て来た。
「あった!これや!」
客が、叫ぶ。
祇園屋の弁当がらの中から小さな写真盾が顔を覗かせた。由梨らは一斉に集まる。
見るとお爺さんの写真。口元にご飯粒をつけていた。
「ご飯粒」
「もういややわあ。昔からこの人、食い意地はってましてん」
客は何度もお礼を云った。
「見つかってよかったですね」
「これからは、昼夜だけでも、区別するよう、袋の色を変えてみます」
すぐに烏丸は、改善策を提案した。
由梨と美香は案内所に戻った。
「こんなケースよくあるんですか」
「たまにね、あるのよ」
由梨と美香のミヤコザル役出演は、思わぬ波及効果を呼んだ。
見た客が、ツイッター、ブログ、フェイスブックに取り上げ、二人は時の人となり、観劇した人の中にはサインを貰う人も出て来た。
醍醐の提案で、ミヤコザル関係のグッズのファイル、ノート、ストラップ、饅頭、せんべい、写真などを毎回違うものを持って出て直子に舞台で宣伝してもらう事にした。この商法も大当たりした。
幕間には、由梨と美香が臨時の売り場に駆けつけて売り子となって貢献した。
これに後からマスコミが食いついた。
「都座にミヤコザル来襲!」
「東山直子対ミヤコザル」
等と、まるで怪獣映画さながらの見出しをつけたスポーツ紙もあった。
昼の部の終わりだけ、由梨と美香は直子の楽屋に挨拶に行く事になった。
夜は、帰るのに忙しいから省略した。
「もうそんなんええよ」
と直子は云ってくれたが、やはりけじめとして行く事にした。
ある日、由梨が楽屋に顔を出すと、
「ああ丁度ええわあ、こっち入って」
直子が声をかけた。
「ええ、でもお客様が」
暖簾越しに来客が見えたからだ。
「ええから、用事あるから」
由梨が部屋の中に入る。
「あっ、ミヤコザル!」
客が叫んだ。
「ウキーミヤコザルです」
「これ、ちょっと食べてみて」
テーブルの上には、都座の隣りの満月堂の団子があった。
「はい、戴きます」
由梨は食べる。
草餅にきなこがうっすらかかる、甘さを抑えた味だ。
「おいしいです」
「じゃあ、こっち食べてみて」
直子が皿に盛った団子を差し出す。
見た目は同じ団子に見える。
「うーむ、こっちの方が甘いかな」
「つまり同じ団子じゃないと」
「そうですねえ、見た目は同じでも若干違う気がしますね。何かあったんですか」
と由梨は聞いた。
直子の話によると、毎日ではないが、ちょくちょく味が違う団子があると云う。
直子は幕開きの第一場の茶店の場で、毎回本当に団子を食べていた。
今日たまたま、楽屋見舞いの客が、満月堂の団子を持って来たので、食べ比べが出来たと云う。
「小道具さんに云うと、毎朝満月堂から買って来る云うてるんやけどな。ちょっと小道具さん呼んで来て」
直子は、暖簾の向こうで待機する付き人に云った。
「はい」
「えらい騒ぎになってしもうて」
客は恐縮していた。
「あんたはええのよ。逆にこっちが確信したんやから、よかったわあ」
「まさか舞台で満月堂さんの団子を食べてるとは思いませんでした」
「ええそこまで告知してませんから」
と由梨は云った。
やがて小道具係りの上桂千代と松尾育子がやって来た。
「まずはお二方食べてみてよ」
直子は、由梨にやったように、まず客が持って来た満月堂の団子を食べさせた。
次に舞台で使用した皿に盛った団子を食べさす。
「何や違いますねえ」
小道具係りベテランの千代が呟いた。
「そうやろう。気色悪い。どうなってんの」
「毎朝、私満月堂まで買いに行ってます」
新人の育子が半泣きで云った。
「上桂さんも一緒に行ってるんか」
「いえ、松尾さんが休みの時だけ行ってます」
「毎日領収書貰ってます」
嫌疑をかけられた育子は、ポケットからレシートを出した。初日から今日までのレシートだった。
直子に再び勧められて、小道具の二人はもう一度食べ比べをした。
「やっぱり全然違う」
千代がきっぱりと云い放った。
「はい、こっちの方がおいしいです」
泣きながら育子は味見していた。
「あんた、食べるか泣くかどっちかにしいて」
さすがの直子も気の毒になったのか、それ以上追及しなかった。
しかし、根本的に問題は解決していなかった。
翌朝、開場前案内所に詰めていた由梨を松尾育子が訪ねて来た。
「昨日は大変やったねえ」
育子が声を掛ける前に、由梨の方から言葉を発した。
「どうも。あのう嵐山さん、お願いがあります」
「何でも云ってみて」
「これから私と一緒に満月堂さんについて行ってくれますか」
「えっ私が」
由梨はピーンと来た。
(自分は、清廉潔白である事を証明したいんだ)
(そのためには、証人である、第三者の存在が必要である)
それはわかっていた。しかし・・・。
「それなら、相棒の上桂千代さんについて行って貰った方がいいかと思うんだけど」
「上桂さん、今日はお休みなんです」
「仕方ないわねえ」
由梨は、チーフの美香に事情を説明した。
「開場前に戻って来るならいいわよ」
快く承諾してくれた。
満月堂は、都座のすぐ東隣にある和菓子屋である。
今回の舞台の様に、毎回舞台で消費するものを、幕内では「消えもの」と呼んで小道具係が担当していた。主に食べ物が多かった。
育子の話によると、芝居で使う饅頭、団子、せんべい等の消えもののほとんどは、ここでまかなっていた。
役者によっては、菓子の銘柄を指定する者も中にはいたが、それは昔の話で、今ではそんな気難しい役者はいなくなっていた。
満月堂は、創業二百年の新興の和菓子屋である。
京都では江戸時代創業の店は老舗ではなく、新興、新参者扱いである。
やはり千年の都である。時間の物差しが、東京とは決定的に違うわけだ。
四条通りに面した側が和菓子の店舗。その奥が喫茶室になっている。
さらに坪庭の向こうに離れの茶室がある。
ここは予約が必要だが、予約さえすれば誰でも使える。
お忍びでの逢瀬には持って来いの空間だった。
元々、蔵だったのを取り壊さずに、再利用していた。
天井が高く、一度にゆうに十人は入れる。
長方形の漆黒のつやのある机があり、掘りごたつ式だった。
由梨と育子が行くと、店員は、
「お早うございます。ご苦労様です」
と云いながら陳列ケースから団子を取る。それを簡易包装で包んで渡す。
代金を払うと領収書をくれる。
(何の問題もない)由梨は確信した。
次の日は由梨、育子、千代の三人がついて行く。
「千代さんが一緒なら私はもういいでしょう」
と由梨は云った。
「いやあ、嵐山さんにはついて来て」
千代も育子も、小道具以外の人間の随行が欲しかったのだ。
「わかりました」
由梨も腹をくくった。
「一体何があったんですか」
満月堂の店長が聞いて来た。
そりゃあそうだろう、団子一つ買うのに三人もの都座の人が来店したのだから。
店長自ら包装した。
「東山直子座長、何ぞお味で云いましたか」
恐る恐る店長が聞いて来た。
「いえいつも美味しく舞台で食べてはります」
由梨はにっこりと微笑んで答えた。
「ああそれやったら聞いてほっと一安心ですわあ。何せ御覧のようなポップ文字が店内踊ってますからね」
陳列ケースを指さす。
(東山直子も、毎日舞台で美味しく食べてます)
(一口食べては大笑い。二口食べては大幸せ。三口で皆が幸せの団子)
等の説明ポップ文字が躍っていた。
店内の壁には、今月の都座のポスターが貼られていた。
東山直子の写真の横には、手製の吹き出しマークが出ていた。
(京都で一番美味しい団子!)
決して(日本一)とは書かない。
何故なら京都一は、そのまま日本一なのだ。
この辺が京都人の自負と矜持の現れとも云えた。
異変はその三日後に再び起きた。
昼の部終演後、再び直子の楽屋に、小道具係りは呼ばれた。
育子からのメールで由梨も駆け付けた。
たまたま、由梨のミヤコザルの日でもあった。
「食べ比べしてみて」
事前に弟子に買いにやらせたのか、満月堂の包装紙にくるまった団子が置いてある。
「確かに違いますね」
千代が前回と同じく、醒めた声を出した。
「何でやのん」
少し怒気を含んだ声を直子が発した。その声を由梨はぐっと受け取り、
「でも今日も私は、小道具係りの人と一緒に、満月堂に行きました。確かに店の陳列ケースから、団子を取り出していました」
「ほんまかいな」
まるで直子のその言葉を待っていたかのように、由梨は手元のスマホを起動させて動画を見せた。
由梨はあれからすぐに、やはり証拠を残すべきと考えて写真と動画をスマホに記録していたのだ。
由梨は黙ってスマホの画面を直子に突き付けた。直子もしっかりと見届けた。
「わかった」
と一言だけ云った。
「画像処理してるやろうと云われたら、もうそれまでですけど」
「わからん。そしたら何が考えられるのん」
由梨も考えた。
「つまり、こう云う事ですね。確かに満月堂の団子を小道具係りが買う。それを都座に持ち帰る。そして舞台に出す。しかし違ってた」
「そこや!」
大きな声で直子が叫んだ。
「どこですか」
直子の大声にびくっと反応してから由梨は聞き返した。
「都座に持ち帰ってから、舞台に乗せるまでの間や」
「小道具部屋に置いてますけど」
憮然と千代が答えた。
「つまり誰かがすり替えたと云いたいのですか」
由梨は云った。
「そんな阿保なあ」
千代は鼻で笑った。
「ちょっと待ちよし」
直子は弟子に、満月堂の店長を呼ぶよう指示した。
「ここは、プロの判断を仰ぐとしましょう」
と直子が云った。
ほどなく店長が飛んで来た。すぐに舌調査が始まる。
店長はちょろっと舐めただけで、
「ああこれは、うちの商品と違います」
断言した。
「これ、うちの商品の類似品で、近くのスーパーで売ってるもんですよ」
店長の話によると、満月堂本社にも、この一件については消費者からたびたび苦情が寄せられるそうだ。
しかもネーミングが「満月堂」と「満月軒」確かに紛らわしい。
「でも確かに満月堂で買いましたよ」
由梨は食い下がった。
由梨は店長にも、スマホで同じ画像を見せた。
「しやから、その時点では、まだすり替わってないの」
直子が云った。
「けどすり替えて、何の目的があるんですか」
育子が素朴な疑問を挟んだ。
これには誰も答えられなかった。
「困りましたね」
「本当に困りましたね」
由梨の報告を受けて、今出川支配人と衣笠副支配人は、最前から同じフレーズを繰り返していた。
「万が一を想定して、直子さんには食べるのではなく、食べる仕草でしのいで貰うのは」
衣笠副支配人が提案した。
「でもあの台詞のくだりは、やはり食べて貰うのが普通でしょう」
今出川支配人が反論した。
「嵐山さんはどう思われますか」
と言葉を続けた今出川支配人だった。
「私は・・・」
「何でしょうか」
「犯人の目的がわかりません」
涙をこらえて由梨が返答した。
「確かに一理ありますね。毎日じゃなくて数日ごとに、味の違う団子にすり替わる。何の意味もありません」
「しかし犯人はそれをやり続けている」
再び沈黙が関係者を覆う。
「あのう、一つ提案があります」
遠慮気味に由梨が呟いた。
「何でしょうか」
「劇中、まず私、いや(ミヤコザル)が最初に団子を食べる演出にしてみてはどうでしょう。で味が違っていたら何かサインを出すと」
「それじゃあ直子さんの代わりにきみや、美香さん二人が危険にさらす事になりますよ。それは賛成出来ません」
と今出川支配人が答えた。
「それに事の解決にはなりませんね」
衣笠副支配人が横やりを入れた。
「衣笠副支配人は、何か解決策をお持ちなんですか」
思い余って由梨は、切り込んだ。
「今までの事実経過を見た限り、小道具部屋で何者かが何らかの目的を持って団子をすり替えたと見るのが自然だと思います」
「で?」
今出川支配人が衣笠副支配人を凝視した。
「結論から申し上げます。小道具部屋に監視カメラをつけて見るのはどうでしょうか」
「何いい!」
今出川支配人が叫んだ。
「たちどころに事件解決です」
自信満々に衣笠副支配人が宣言した。
「いやあ、それはまずいよ、衣笠副支配人」
「どうしてですか」
「きみわからないのか。昨今は個人のプライバシー尊重の嵐はすごいよ。それを遮る人、物は即座に遮断、隔離されるんだよ」
とつとつと今出川が説明した。
「じゃあいつまでもこのまま千秋楽まで事態を見守るだけなんですか」
二人は激しく対立した。
「あのう一つ、また提案があるんですけど」
再び由梨は、二人に提案した。
由梨の話を聞き終えた今出川支配人は、
「それで行きましょう、異論はないですね、衣笠副支配人」
と力強く後押ししてくれた。
「はい」
本日初めて二人の意見の一致を見た由梨だった。
都座の小道具部屋は、舞台の奈落、つまり地下にある。
正確には、奈落の一角に畳を敷き手製の間仕切りを施した空間である。
朝、小道具係りが満月堂で購入された団子は、小道具部屋の冷蔵庫の中にある。
しばし千代と育子は談笑した後、舞台に上がる。
開場前、小道具セッティングのために舞台に上がった。
団子は食べ物なので、開演五分前に改めて置く事になった。
頭上からかすかに舞台の喧騒が聞こえる。
(ああ嫌な役目だなあ)
由梨は何度も親指の付け根を噛んだ。
しかし、痛いと云う感触は全然伝わって来なかった。
それもそのはず、由梨は(ミヤコザル)の縫いぐるみの中、小道具部屋の中にいた。
ミヤコザルの縫いぐるみは、稽古までは別の場所にあったが、初日から小道具部屋に保管されるようになった。
(ああ何事も起きませんように)
由梨は縫いぐるみの中で身を小さくして祈願した。
改めて自分が発案した考えを後悔した。
つまり、監視カメラの代わりに、縫いぐるみの中に入った由梨が監視の役目を担っていた。
数分後、一人の男がぶらっと小道具部屋に入って来た。
その男は、大道具の若手の鞍馬寺男だった。
四月の蹴上鯛蔵主催の夜桜見物会でジャリ糸で桜の花びらを降らせてたのを由梨は思い出した。由梨の前で鞍馬は大きく手を後ろに反らせて伸びをした。
「あれ、ミヤコザル今日はえらいきちんとしてる」
鞍馬はしゃがんでミヤコザルの中の由梨の瞳を見つめた。
思わず反射的に由梨は目を閉じた。
(目を瞑るな、由梨!事実を見極めろ!)自分自身を叱咤激励した。
すぐに気を取り直してゆっくりと目を開けた。
鞍馬が冷蔵庫の扉を開けて団子を食べた。
(あっ!)由梨は、思わず口をついて出たので、慌てて自分の手で口元を押さえた。
(やばい!まじかよ!)叫びたかった。
(皆さん!団子のつまみ食いやってたのは、鞍馬です)
鞍馬は団子食べながら携帯電話した。
「ごめん、また食べちゃった。補充しといて」
短く云って電話切る。
ほどなく人が来て団子を補充した。その人間は満月堂の売り子出町柳子だった。
「合点が行くように、最初からきちんと説明してくれるかな」
直子は云う。
「はいわかりました」
ミヤコザルの縫いぐるみを脱いだ由梨は、さっき見た一連の光景を順を追って説明した。
聞き終わるなり、
「それやったらおかしいやないの。満月堂の人が補充したんなら、別に何もすり代わってないやないの」
「それもそうですね」
楽屋モニタースピーカーから、
「只今、開演十五分前です」
の放送が流れた。
由梨は客席場内に戻った。
醍醐にも報告して、それは今出川、衣笠の正・副支配人にまで報告が行った。
由梨の報告を受けて直子は、夜の部団子を食べて確信した。
終演後再び楽屋に関係者が揃う。
その中には大道具の鞍馬、満月堂の店長、団子の補充をした出町柳子もいた。
直子は一連の事を話した。
「これで間違いないの」
「そうです。間違いございません」
「で、出町さん補充してた団子は、満月堂やないよね」
ぐいっと身体を乗り出して直子は聞く。
「はい違います」
「何をしているんや、きみは」
「横に座っていた店長が云った。
「店長さんはちょっと黙ってて」
語気を荒げる直子だった。
「その補充した団子はどこのものですか」
「近くのスーパーで買ったものです」
「何でそんな面倒な事しはったんですか」
「はい、その方が安いからです」
「安い?」
柳子は説明を続けた。
鞍馬のチョイ食べがよくあるので、満月堂のものなら自腹である。それなら少しでも安いのがいいと考えて、スーパーで買い置きしていたと云う。
「ちょっとそこの大道具の兄ちゃん、何とか云いなさい」
「食べてすみませんでした」
「あんた、舞台の消えものて知ってたんやろう」
「はい、知ってました」
「そない食べたかったら、満月堂へ買いに行ったらええやろう」
「それが邪魔くさいんで」
「都座の隣りやないの」
「それが邪魔くさいんで」
「どこまで邪魔くさいんや」
「でもここまで、どうしてばれなかったんですか」
今出川支配人が素朴な疑問を呈した。
「そう云えば、たまに鞍馬さんが口をもぐもぐさせながら、小道具部屋にいるのを見ました」
小道具係りの千代が口を開く。
「でもいてても何の不思議でもないから」
育子が云う。
鞍馬と出町柳子の仲がこれで明らかになった。
「兄ちゃん食べるだけで、金は払わんのか」
「はいこの人デートの時も全然お金払いません」
「お前はへたれやのう」
「へたれですみません」
鞍馬が頭を下げた。
「もうこんなへたれと付き合うのやめや」
「いえ、いいんです」
「あかん、惚れたおなごの弱いとこや」
と急に育子が泣き出した。
「どうしたん、松尾さん」
由梨が声をかけた。
「私、私、この鞍馬さんと」
「兄ちゃん、二股かあ」
「いえ、あのう、そのう」
「スケコマシ鞍馬め」
直子が叫んだ。
「松尾さんあなた、縁切りの安井の金毘羅さんへお参りしてましたね」
由梨は、いつぞや見かけた事を云った。
「はい、鞍馬さんが出町柳子さんと付き合ってるの知ってました。二人の仲が切れるよう絵馬まで奉納しました」
「その絵馬の文言は、(出町柳から鞍馬まで行きません)やったんやね。出町柳は駅名じゃなくて、出町柳子さんやったんやね」
「はい直接書いたら、もし見つかったら怒られると思って」
「最後の名前の大社は、松尾大社、つまりあなたの名前やったんやね」
「はい、その通りです」
「嵐山由梨探偵、大活躍でした」
最後まで由梨らの話を聞いていた直子が、そう云って話を締めくくった。
「ああ女って怖い」
美香は呟いた。
翌日案内所で、朝礼が始まる前、案内係が集まってだべっていた。
「チーフも同じ女じゃないですか」
由梨はすぐに反応した。
「ええ・・・まあ」
「けれど結局出町柳子さんと鞍馬くんは別れなかったんでしょう。縁切りの金毘羅さんも効き目なかったのかなあ」
と由梨は云った。
「それはわからへんよう」
もっとこの件で話したかったが、醍醐が来たので中断した。
朝礼のあと、醍醐が、
「嵐山さんとチーフ宛に荷物が届いています」
と云って小箱を渡した。
由梨は差出人を見た。
「御池敏子。誰ですか、チーフの知り合いですか」
「いいえ、私も知りません」
包み紙を取ると中から手紙が出て来た。
「前略。先日はそそっかしい私のミスで、案内係のお二方と清掃の方に多大なご迷惑をおかけしました。
無事にゴミの山から、大事な人の写真が出て来た時は、ほっとしました。あの一件ですぐに写真屋さんに行き、焼き増しして貰いました。
これで万が一外出先で落としても大丈夫です。
亡くなったこの人は私の主人です。生前、
(俺が死んだら、お前がいつも写真持って外出してくれ。仏壇の中で一人は淋しい)
と申しておりました。
それで遺言通り、持って出歩く事にしました。
ぶしつけながら、お粗末な物ですが、贈る事にしました。
どうか清掃の方にも、お配り下さい。
これからも都座のご発展と案内係様の益々のご繁栄を祈願しております。
都座 墨染美香様 嵐山由梨様
追伸 今回の一件で益々私は、都座の大ファンとなりました」
「ああ、あの時の、ご飯粒の写真のお爺さん」
由梨と美香は同じフレーズを口走っていた。
「で粗品は何ですか」
由梨は聞いた。
「さあ何やろねえ」
ゆっくりと美香は二重包装を解いた。
「はいこれです」
美香が中を開けた。
「出たああああああああ!」
中身は満月堂の団子だった。
「君らは団子とご縁がおありのようだね」
醍醐と他の案内係が大笑いした。
「おいしそうです」
和美が笑った。
開場ブザーが鳴り響く。
「さあ開場しますよ」
醍醐の声が大きくなった。
由梨は慌てて持ち場に向かった。
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