第11話 劇場ことば6 大詰・顔見世
十一月二五日。まねき上げ当日。
都座案内係は八時出勤だった。
通常十時出勤なので、いつもより二時間早い。朝の二時間は大きい。
「お早うございます」
少し眠い目を擦りながら由梨は出勤した。
「お早うございます」
すでに美香は、制服に着替えていた。
チーフの美香はいつも一番に来る。誰も美香の着替えを見た者はいない。
そして帰り、着替えるのは誰よりも遅い。
帰りは各自着替えるとすぐに出て行くから、帰りも誰も美香の着替えを見ていない。
「チーフ早いですねえ」
由梨はスマホで時間を確認した。
七時一〇分。
「ううん、普通」
にっこりほほ笑む美香だった。
まねき上げの前日深夜。
すでに数枚のまねきを残して大方のまねきは、都座の劇場正面上部に掲げられていた。
翌日の八時半からのセレモニーで一枚のまねきが上げられる。
今年は顔見世初登場の蹴上鯛蔵のまねきが上げられる。
今回特別にまねき上げの行事に鯛蔵が駈けつけていた。
案内係は、都座のまねき上げの行事を一目見ようとする見物人への警護と、行事の中で行われる塩まきの儀の時に、見物人へ塩を配る役目があった。
塩まきの儀とは、劇場正面扉前に置かれた「おおまねき」に向かって今出川支配人、衣笠副支配人が、興行の大入りを祈願して塩をまく。その後、見物人が一斉に塩を投げるのである。
それによって興行の大入りと無事故を祈願するのである。
八時半。
案内係都座の法被(はっぴ)をはおり、所定の位置につく。
すでに劇場前は大勢の人であふれて狭い歩道に広がっていた。
その見物人と通行人の安全を図るために、都座従業員が駆り出されていた。
「では、只今よりまねき上げの儀式を行います」
都座宣伝部の人が司会を務めていた。
今出川、衣笠の二人が裃(かみしも)の正装着物姿で登場した。
二人は三方を持ち、それに盛られた塩を「おおまねき」に向かってまいた。
この姿を、由梨は丁度正面後ろで見ていた。
その時、堀川多恵の姿が目に入った。
多恵は四月の花形歌舞伎公演の時に、ロビー通過で鯛蔵とぶつかった客だ(1話参照)。
「多恵さん」
思わず由梨は声をかけた。
「まあ嵐山さんお久しぶり」
「来ていらしたんですね」
「そりゃあ鯛蔵初の顔見世デビューですから来ますよ」
「根っからの鯛蔵ファンなんですね」
「もう生まれた時から」
「多恵さん」
「はい?」
「あの時預かった手鏡の件ですけど」
「ああ鯛蔵が出て来た!」
多恵の声で、会話が中断してしまった。
鯛蔵が劇場正面から出て来た。
「今年の顔見世最大のトピックスは、蹴上鯛蔵さんが、初の顔見世出演なさる事です」
周りから大きな拍手が巻き起こった。
「蹴田屋(けりたや)!」
動員された関西大向こうの会、見物人から、鯛蔵の屋号の「蹴田屋」の大向こうが何度も叫ばれた。
「いよいよ鯛蔵さんのめねきがあがります。今の心境をお聞かせ下さい」
「いやあ、舞台にあがるくらいの緊張と嬉しさでいっぱいです。私も長年歌舞伎やってますが、この伝統ある都座の顔見世に出演出来るのを誇りに思っております」
「有難うございました。では蹴田屋、鯛蔵さんのまねきを上げて下さい」
イントレを組んだ中に三人の職人がいた。一番下の職人がまねきを持ち上げる。
中間の職人がそれを受け取り、上部の職人に渡す。
上部の職人は所定の位置にまねきを設置した。
再び見物人から大きな拍手が出た。由梨はふと見た。
多恵が両手に何か握りしめていたものを。
「それは一体なんですか」
「私の宝物よ」
少し照れながら、多恵は隠した。
「私に見せて下さい」
「駄目」
一瞬真顔で多恵が答えた。
まねき上げを境に、出演する歌舞伎役者の番頭さんが、相次いで入洛(京都入り)する。
御贔屓筋への切符の配達、お茶屋への挨拶もある。
都座は、京都五花街(ごかがい)(祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町(ぽんとちょう)、上七軒(かみしちけん)と密接な関係がある。
それぞれの花街(かがい)が総見日と称して、都座の左右の桟敷を買い占めてそこに舞妓を並ばせ、前の席には芸妓が並ぶのだ。
その光景は圧巻で、一般客の中にはその光景を見たくて、わざわざ劇場に総見日を問い合わせて、その日に観劇の切符を手に入れる人もいる。
番頭席と云うものが、都座一階西側ロビーに設けられる。
ここから四条大橋、鴨川べりが見渡せられる。
昔は歌舞伎役者の番頭は、男だったが、昨今は女性が大半を占めていると由梨は美香から聞いた。
由梨らは、その設営準備をしていた。
地下の案内控室前から、長机四つとパイプ椅子を運び、机の上から白布をかけた。
また内線電話を置くが、最近は携帯電話の普及でほとんど使用されない。
さらに昨今は、パソコン、スマホの充電に、電源コードが必要である。それらの作業をしている最中だった。
ひょこっと蛸蔵が顔を見せた。
「蛸蔵さん」
由梨と和美が同時に云った。その声に美香が反応した。一同は手を休めて蛸蔵に注視した。
蛸蔵の後ろには、あの八月に都座の屋上から飛び降り自殺を図ろうとした、ジョニーズ下鴨の追っかけの北山晴美がいた。(7話参照)
「どうも皆さんお早うございます。」
えらく礼儀正しい蛸蔵の挨拶だった。案内一同は、軽く会釈した。
「実は若旦那から、紹介して来いと云われて来ました。こちら今月から蹴田屋、蹴上鯛蔵の番頭を務める事になりました北山晴美です」
案内一同から、小さなどよめきが起こる。蛸蔵は晴美に視線を送る。
「前の番頭さんはどうしたんですか」
即座に美香が聞いた。
「実は病気で入院しまして」
「そうだったんですか」
それ以上美香は聞かなかった。
「北山晴美です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げて、再びあげると由梨に視線を一瞬送った。
「じゃあ僕は北山さんを、都座館内を見学させて来ます」
と云って二人は立ち去った。
ジョニーズの追っかけと、歌舞伎の番頭がどう云う切っ掛けでリンクしたのか、由梨も美香も誰もわからなかった。この答えは本人か、蛸蔵に聞くしかなかった。
控室でお昼休憩を取った。
「でもねえ例の一件、鯛蔵さんも蛸蔵さんも知っているのかなあ」
和美がつぶやいた。
「もちろん知っていると思うよ。本人が喋らくても都座関係者に聞いたらわかる事やし」
「でもよりによって何で北山晴美なんですか」
和美は語気を荒げた。
「さあどうなんやろねえ」
「蹴田屋と云えば歌舞伎界の名門。そこの番頭をしたい人なんて、幾らでもいると思います」
由梨もそう云って同調した。
「まあこの世界は、色々ありますから」
美香が言葉を濁した。
「色々て何ですか」
和美はしつこく食い下がった。
「まあしがらみとか、ほんま色々。もう言葉で云われへん」
「何や、ようわかったようなわからんような。いつもの美香節やなあ」
それは由梨も同じ思いだった。
肝心な事は、ほほ笑んでかわす。
「それより来月に迫った、都座案内検定試験勉強は、はかどってますか」
するりと話の矛先を、今由梨も和美も一番気にしている話題にすり替えた。
「痛いっ、チーフその話題やめて」
「ああ、私も同じ意見です」
と云って由梨はうつむいた。
「もう一か月ないのどす。せいぜいおきばりやす」
まったりとした京ことばを美香は喋った。
顔見世が始まるまでに、一度休日があった。
その日由梨は、美香と京都文化博物館を訪れていた。ここでは、
「都座と顔見世の歴史」と題した展覧会が開催されていた。
「ここは元々日本銀行京都支店で、明治の名建築家の辰野金吾が設計したのよ」
美香が解説してくれた。一階は大きな吹き抜けになっており、往時を忍ばせる作りだ。辰野金吾は東京駅を設計した事で有名だが、それより先にここを完成させている。
「京都人は、明治に作りはった貴重な建物をすぐに壊さんと別の用途を考えはる。ええ事やねえ」
と美香は追加説明してくれた。エレベーターで上がる。ここは上から下へ降りながら見て回る作りになっていた。
都座の顔見世の歴史が展示してあった。今回の展示の目玉は、やはり蹴上鯛蔵の歴史だった。鯛蔵の一歳の写真があった。
「可愛い」
由梨は思わず叫んだ。
「可愛いでしょう。イケメンはやはり小さい時から可愛いのよ」
その横には、父重蔵と母喜美子の三人の写真が出ていた。
「鯛蔵さんって誰に似たのかなあ」
写真を凝視しながら由梨はつぶやいた。
「お父様とお母様のいいとこどりなんよ」
と美香が答えた。
「そうかなあ」
と由梨は思った。よく見れば父にも母にも似てない。でも誰かに似ていた。
今はその誰かは思い出せない。
「けどどっかで見た事ある」
確信を持って由梨は云った。
「そりゃあ鯛蔵さんだから」
「そうじゃなくて」
由梨は顔を激しく左右に振った。
「また思い出したら云います」
と言葉を続けた。
「はいお願いします」
一通り見て、再び出口に向かっていた。
エレベーター前に知った人がいた。
「蛸蔵さん!」
由梨は叫んだ。蛸蔵の後ろには。都座横の和菓子屋「満月堂」の従業員の出町柳子がいた。(3話参照)
「出町さん」
次に美香が叫んだ。
「あっどうも」
蛸蔵は悪びれた様子もなく、にこやかに笑った。
「私達結婚します」
何も聞かないのにきっぱりと柳子は宣言した。
「けっ結婚!」
由梨らが叫ぶ前に、蛸蔵が絶叫した。
「はい、結婚です」
じろっと蛸蔵を睨みながら柳子は云った。
「本当に結婚するんですか」
今度は由梨が蛸蔵を睨み付けた。
「いや、その、急にそんなあ」
急に蛸蔵は、半身を折れて声も小さくなった。
「昨日の晩、ベッドで云ったでしょう」
生々しい柳子の言葉に由梨も美香も顔が引きつり、全身が固まった。
「そんな事云いましたっけ」
次の瞬間、パチンと柳子が蛸蔵の頬を叩いた。
「行きましょうか」
美香が云った。無言で由梨は続いた。
途中でくるっと振り返ると、まだ二人の痴話喧嘩が続いていた。
「どうなってるの!」
次の日。案内所で由梨が昨日の一件を話したら、和美が吠えた。
「さあ知りまへん。はっきり云えるのは、うちもあんたも振られた事です」
そう云いながら心の中で由梨は、高笑いしていた。
喧嘩両成敗なる言葉がある。これはさしずめ「恋愛両成敗」なのだ。
「あいつめえええ」
一人和美は興奮していた。
「あのうちょっといいですか」
晴美が案内所に近づき、遠慮気味に云った。
「何よ!急に話しかけんといて!」
腹立ちまぎれに怒りの矛先を晴美に変えて、和美は叫んだ。
「怖がる事ないよう。今はこの人、機嫌悪いだけなんやから」
由梨が弁解した。
「はい。預かり切符っていつぐらいから受け付けてくれるんですか」
「基本的には、観劇日の前日から。でもケースバイケースで受け付けてます」
「そうですか。有難うございます」
「それから切符の代金は、案内係は受け付けてませんから」
「はいわかりました」
そそくさと立ち去ろうとした晴美に由梨は云った。
「何で蹴田屋の番頭なんですか」
「ジョニーズファンやめたんですか」
続いて和美が畳みかける。
「お仕事は蹴田屋でえ、趣味はジョニーズです」
「わからん。番頭やりながら、出来ないでしょう」
「公演始まったら休みないし」
「えっそうなんですか」
晴美は意外な答えを発した。
「そうよう。顔見世始まったら千秋楽まで休みなし」
晴美への波状攻撃に美香も参戦した。
「続いて一月公演の稽古、初日開けてまた休みなし」
「じゃあずっと休みないんですか」
「たぶん」
「ずっとずっとずっと休みなし」
「これに巡業、テレビドラマ、映画撮影入るし」
「蹴田屋さん売れっ子やし」
「若旦那が休まない限り休みなし!」
「ジョニーズコンサート見に行けないんですか」
「見に行けるわけないでしょう」
「まあ詳しくは蹴田屋さんの事務所の人に聞いてみたら」
そこでやんわりと話題を打ち切った。
一気に憔悴した表情を浮かべて晴美は去った。
「大丈夫かなあ」
「大丈夫じゃないでしょう」
三人は、後姿を見送った。
顔見世の舞台稽古は、案内は客席二階で観劇した。
役者が花道から出る時、花道に入る時、案内係は立ち上がって、お客様の通路使用を禁止する。ロビー通過もある。
また、花道の奥の鳥屋口(とやぐち)の後ろのロビーを封鎖して役者の着替えのエリアを拡大する事があった。
これらの事象をメモして頭に叩き込んで、初日を迎えるのである。
顔見世に備えて、急きょアルバイト案内を増員した。その研修会が二階ロビーで行われた。
講師は醍醐が受け持ち、美香、由梨、和美は補助でついた。
新人アルバイトは十名で大半が京都市内の大学に通うものだった。
その研修が始まる時だった。
晴美がひょっこり顔を出した。
「ああどうぞお座り下さい」
と醍醐が云ったので、由梨らは驚いた。
「実は蹴田屋の若旦那じきじきに指導してくれとお話があったんでねえ、引き受ける事にしました」
「そうなんですか」
由梨はそう返事するしかなかった。
「では始めようか」
醍醐の声で研修は始まった。
主に劇場でよく使う用語解説から始まった。
上手、下手、花道など。
途中で醍醐に来客があり、抜ける事になり後は美香が引き継いだ。
「次、キレ、ハテ、バレ、打ち出し、これらの言葉は何ですか。嵐山さん」
「はい終演時間です」
「そうですね。次、芸ウラ、ドブ。これは何ですか」
「はい、花道を境にして、舞台に向かって左側の席です」
「そうですね」
晴美は、一生懸命にメモを取っていたが、ここで手を上げた。
「はい北山さん何でしょうか」
「それらの言葉は、お客様に使ってもいいのでしょうか」
「それは、あまり使わない方がいいですね。切符を見て芸ウラですとは、云わないでね」
「じゃあ何て云えばいいんですか」
「花道の左側。そして扉番号を云ってあげればいいですね」
にっこりと美香がほほ笑んだ。
「次、顔見世は歌舞伎興行ですので、屋号を覚えて下さいね。例えば蹴上鯛蔵さんは、蹴田屋が屋号です」
美香は晴美の顔を見ながら云った。
晴美は美香に見られて少しはにかんだ。
「あと歌舞伎興行ならわではの人物がいます」
と云って美香は、(大向こう)の事を話した。
歌舞伎では、決め台詞、演技、見得を切った時に、三階席から屋号を叫ぶ人がいる。それを大向こうと呼んでいる。
「昔は誰でもやっていたんですが、今では大向こうの会の人達がやっています」
「大向こうのかけ声が入る事によって、お芝居が盛り上がり、お客さんも役者さんも楽しみ、感動が倍増です」
と由梨は付け加えた。
「大向こうの人は、胸に木戸銭御免と書かれたカード持って入って来られます」
「木戸銭って何ですか」
晴美が再び質問した。
「切符代の事。それから切符売り場の事、テケツとも云います。これは外人がチケットの事を、テケツと聞いた日本人から派生したとも云われています。また出札(しゅっさつ)とも云います。これは紙が貴重だった江戸時代、切符は紙の代わりに木札を渡していた名残りです」
と美香が説明した。
約一時間で研修は終わった。
終わると晴美は、由梨らのそばに駈け寄った。
「何も知らない事だらけです。色々ご迷惑かけますが、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた。
くるっと身体を反転させるとダッシュでその場から立ち去った。
「早いっ!」
和美が叫んだ。
「若いわあ。羨ましい」
美香がつぶやいた。
「チーフも充分若いです」
と和美は云いながら、美香の肩を叩いた。
「はい慰めは、それぐらいねえ」
どこまでも美香は醒めていた。
顔見世初日。
男子従業員は、礼服に白ネクタイ姿。
これは都座では、顔見世が新年でもあると云う事だ。
「顔見世」の由来は、江戸時代、芝居小屋は新年のお披露目興行を「顔見世」と呼んでいたからだ。
事件は初日にさっそく起きた。一回目の幕間、三十分休憩の時だった。
「三階席です。今、お客様が大変怒ってられます。至急来て下さい」
半泣き状態の新人の案内係の声がイヤホン通して飛び込んで来た。
チーフの美香は、案内所で番附(筋書)(パンフレットの事)を買いに来られるお客様対応で抜けられない。
「嵐山さんお願い、行って来てね」
「はい」
都座にはエスカレーターもエレベーターもない。だから、駈足で上がるしかない。
少し息を荒げて上がると、一人の男性客が案内係に詰め寄っていた。
「お客様、何かありましたか」
由梨の声に男は振り返った。
中年の眼鏡をかけた小太りの男だった。
「何かありましたじゃないよ。あんた、さっきの芝居見てたか」
「はい、一階席後方にいました」
由梨はじっと男の目を見据えて云った。
「だったら、あの異常事態を知っているだろう」
「異常事態とは何ですか」
男の云っている真意がわからず、由梨は即座に聞き返した。
「お前もわからんのか。どいつもこいつもこの都座の案内係は、頼りないのう」
「ですから、もっと詳しく教えて下さい」
「あの芝居の最中に、何度も奇声を上げてた奴が、確か三階席にいるだろう。俺はその犯人探しに、わざわざ一階から三階までやって来たんだ」
と云って背広の内ポケットから切符を見せた。
(一階・七列九番)
ちらっと見た由梨は、即座に座席番号を記憶した。
「それは大変でしたね。私もさっき階段駈け上がって、息がぜいぜいしました」
「あんたみたいな若い人でも、息が上がるか」
「はい、運動不足でして」
「わしと一緒やな」
由梨の機転を利かした切り返しの言葉で、男は少し機嫌を取り戻した。
新人の案内係は、身体を小刻みに動かして由梨の背後で敵に囲まれたウサギのように身体を小さくしていた。
由梨は頭を巡らす。
先程の芝居で、男と同じ一階席にいたが奇声なんか一度も聞かなかった。
「お客様、その奇声は確かに三階席から聞こえたんですか」
「俺は一階席にいたから、確証はないけど、確かに三階席付近から聞こえたんだ。それも何度もね」
男の(何度も)の言葉に由梨はピンと来た。
「ひょっとして役者が花道から出て来る時に、頻繁に聞こえませんでしたか」
「花道って何だ」
「一階席の中央よりやや左寄りの、縦の舞台と揚幕とを結ぶ道です」
「ああ、あの廊下かあ」
(廊下じゃなくて、花道!)
由梨は心の中で叫んでいた。
そして男が歌舞伎の観劇はおそらく初めてであると確証していた。
「確かに廊下から役者が出ると叫んでいた。どうしてあんな変質者を注意しないんだ」
「お客様、あれは変質者じゃなくて大向こうと云いまして」
「その説明は、あんたの後ろに隠れている案内係から聞いた。しかし、俺の耳には変質者の叫び声にしか聞こえん」
「大向こうは変質者ではない!」
大きな声が一同の耳に入った。
「ああ、まさしく今の声だ!」
男は声の持ち主を指さした。
振り返ると、関西大向こうの会・会長の千本通夫が仁王立ちしていた。
「歌舞伎に大向こうは、切っても切れないものなんや。あんた、歌舞伎見るのん初めてやろう」
「始めてで何が悪い」
男は気色ばんだ。
「わしは悪いて云うてやおへん」
「むむむ。男の喋る京都弁は、気味が悪い」
「京都弁やのうて、京ことば」
「会長」
由梨は、千本の袖を引っ張った。
「断わる」
鏡に向かって顔の拵え(こしらえ)しながら、ひとしきり大笑いした後、真顔で鯛蔵は断言した。
「歌舞伎と大向こうは、切っても切れない事は、千本会長もご存じのはずでしょう」
と鯛蔵は、先程の千本と同じ言葉を投げかけた。
今、由梨と千本は鯛蔵の楽屋を訪れていた。由梨の隣りには晴美もいた。
さきほどの大向こうのクレームをつけて来た男は、大向こうがどんな存在であろうと、次の芝居は大向こうなしでやれと宣言した。
千本がどんなに説明しても男は聞き入れてくれず、仕方なく鯛蔵の楽屋を訪れて、今日の昼の部だけでも、大向こうなしでやろうと、その許しを乞うためにやって来た。
「ですが、そのお客様が実は蹴田屋のお客様でして」
由梨の横から晴美が、遠慮がちに補足説明した。
楽屋に向かう前に、席番から営業のパソコンで検索して貰い、蹴田屋の番頭・組券と判明していた。
今では席番から、パソコンでどこのプレイガイドで購入したか、ネット予約か、窓口買いか、それとも役者関係の切符かがすぐに判るシステムになっていた。
「へーえーうちの客にもそう云う奴がいるんだ。でもそれと芝居と大向こうの件は別問題。逆にさあ、いつもより沢山の大向こうやってよ。その客に大向こうの素晴らしさを知って貰うためにさ。いわゆる荒療治ってやつだ。
顔の拵えを済ませた鯛蔵は、じろっと由梨ら三人を睨みながら念押しした。
「どうするんですか!チーフ」
由梨は美香に泣きついた。
「さあどうしましょう」
どこまでも呑気に構えた美香だった。
「もう、いつも呑気なんだから」
由梨は愚痴った。
その時、千本が案内所にやって来た。
「あの蹴田屋の客も頑固でなあ、さっきまでもう一辺駄目もとで説明したけど、あかんかった」
「そうでしたか」
「で、次の芝居で大向こうかかったら、即座に席を立つ。帰るから切符代返せとぬかしよった」
「切符代返却ですか」
ここで美香が初めて眉をひそめて事の重大さを認識していた。
その時、由梨らの焦りをあざ笑うかのように、開演五分前を知らせるブザーが響き渡った。
「お願いします」
美香が由梨に笑みを送った。
「はい」
由梨は言葉短く返事した。
次の狂言(演目)は、蹴田屋十八番にも入っている、歌舞伎で有名な、
(江戸喧嘩桜屛風)である。
幕が開くと、ほどなく花道から植木職人に扮した鯛蔵が出て来るのだ。
もちろんここで、
「蹴田屋」
「待ってました植木職人!」
といつもの大向こうがかかるのだ。
由梨は開演前から、席を立っていた。
(ああどうする。落ち着け)
と自分に云い聞かせた。
無情にも人の思いを叫びも無視して、時間が時を刻んで行く。
幕が開く。
鯛蔵が花道のライト、上手サイドフォローライトに照らされて、植木鋏みを持って出て来た。
「蹴田屋!」
「待ってました植木職人!」
定石通り、大向こうが非常にもかかる。
「この植木職人風情に待ってましたとは嬉しいねえ」
満面の笑みを、場内にいる観客に披露しながら答える鯛蔵だった。
次の瞬間、男が席を立ち、ずんずん由梨の方に向かうのが目に入った。
鯛蔵が、
「このしがない江戸の植木職人風情に、待ってましたとは、嬉しい町衆の言葉だなあ」
の台詞を云いながら、男の歩みを目で追うのが由梨にはわかっていた。
男は由梨と対峙した。そして外に出るよう合図した。
由梨は覚悟を決めて男の後に続いた。
男は、外のロビー出たら、
「さっき鯛蔵が廊下から出た途端、大向こうかかりましたね」
静かに云った。
「はい。鯛蔵さんの楽屋に行って、事情をお話しました。しかし、鯛蔵さんも同じく歌舞伎と大向こうは切っても切れないものだから、大向こうを続けろと云われました。申し訳ございません」
由梨は頭を床に届くくらい下げた。
「嵐山さん、頭を上げて下さい」
由梨の頭上で男の柔らかい声を聞いた。
「はあ?」
半信半疑のまま、恐る恐る由梨は、云われた通りに頭を上げた。
「頭を下げるのはこっちの方だ。さっき鯛蔵が植木職人姿で、廊下から出て来たのを見て、ぞくぞくっとしたよ。わしは東京で植木会社を営んでいて・・・」
男が喋っている最中に、扉が開き、中年の女が出て来た。
「あんた、何してるんですか」
「あっ椥辻(なぎつじ)さん!」
思わず由梨は叫んだ。
「何だお前、都座の案内さんとも知り合いなのか」
「ええ、まあ」
由梨は一瞬にして脳裡に、七月四条エリ公演での、椥辻が愛人の北大路との逢瀬が蘇った。(5話参照)
「この人、私の主人なんです。もう植木職人で田舎者で、今日初めて歌舞伎見るんです。田舎者やから、ご迷惑かけると思います」
「そんなに何回も田舎者と云うなよ」
「だって芝居の最中に席を立つ、しかも鯛蔵さんの花道出で席を立つなんて最悪!田舎者の真骨頂でしょう」
どこまでも強い椥辻夫人だった。
「ところで案内さん捕まえて、また何いちゃもんつけてたのよ。都座の案内さんにはお世話になってるんやから、いじめたら許しませんよ」
「わしは廊下から出て来た鯛蔵の姿が格好良いと云っただけだよ」
「もう恥ずかしい!あれは廊下じゃなくて花道なの。ああ恥ずかしい!。やっぱり一緒に連れて来るんじゃなかった!」
顔をゆがめて椥辻夫人は云った。
「でも我が家の廊下と幅も長さも同じくらいだろう」
「廊下じゃなくて、花道!」
鬼の形相で返答した椥辻夫人だった。
椥辻夫妻が席に戻ろうと扉を開けた瞬間、扉の中から、客が飛び出した。
その客は、北大路で、椥辻の元愛人だった。(5話参照)
「あっ!」
と同時に由梨、北大路、椥辻夫人が叫んだ。
「知っている人か」
「いえ、知りません」
「じゃあ何故叫んだ」
「急に扉が開いたからです」
大向こうクレーム男は北大路を睨み付けた。北大路はすぐに視線を外した。
「さあ、鯛蔵植木職人の芝居の続きを見ましょう」
由梨は、椥辻夫妻を席へ追いやった。
「いやあ驚いたなあ」
北大路は、椥辻夫妻が席に戻るのを確認してから、扉を自ら閉めた。
「驚いたのは、こっちの方です」
由梨は北大路を見た。
「で、一体どうしたんですか北大路さん」
「ああそうだった、イヤホンガイドが急に聞こえなくなってしまって」
北大路は手のひらからイヤホンガイドの子機を見せた。
「それはどうもすみませんでした」
イヤホンガイドと云うのは、劇場では主に歌舞伎公演で貸し出される機械である。
美術館でもお馴染みのあの品物である。
イヤホンを通して、歌舞伎のストーリーや、見どころ、出て来る役者や台詞、時代背景などを逐一わかりやすく説明してくれるすぐれものである。
由梨はすぐに代替え機を持って戻って来た。
「今日は奥様とご一緒なんですか」
「ああ、まあ」
北大路の目は、池の鯉のように忙しく泳ぐのを由梨は確かに捉えていた。
(まったく男って奴は)
半場あきれ返る由梨だった。
初日夜の部が始まる。
さきほどからずっと喋りっぱなしの堀川多恵である。(1話参照)
じっと案内所で多恵のお喋りに付き合わせられていたのが由梨と美香の二人だった。
「あのう多恵さん、もうお芝居始まってますけど」
やんわりと美香が、場内へ入るのを促したが徒労に終わった。
「ええの。私は三本目の蹴上重蔵、鯛蔵親子の芝居が見られたらええの」
先ほどから多恵のお喋りを聞き、見ながら由梨は半年以上前の出来事を思い出していた。
都座に入って公演の初日、多恵が鯛蔵のロビー通過でぶつかり一緒に救急車に同乗して病院へ行った。翌日自宅にも伺った。
改めて由梨は、時間の過ぎ去る速さを実感した。
劇場勤めを始めてから、さらに時間の速度が倍加した気がしていた。
顔見世夜の部の最大の人気狂言(演目)は、やはり蹴上重蔵・鯛蔵親子共演の所作事(踊り)、(二人囃子夢月夜)である。
月の精と公家の淡い恋の物語で、これも蹴田屋十八番の中に入っている。
東京では何度か演じられているが、都座で演じるのは今回が初めてである。
昼の部は親子共演がないので、切符の売れ行きは夜の部に集まった。
関西はどんな公演も夜の部の売れ行きが、芳しくない。
それは東京に比べると、交通機関の終演の早さに起因するかもしれないが、とにかく、昔から夜の部の入りがよくない。
製作する側は、客の流れを少しでも、夜の部へ流れるように知恵を絞る。
今回、その読みは大当たりした。
昼の部の切符を買えなかった客は、夜の部へ流れ込んでいた。
多恵は、三十分の幕間、都座一階東側の「花賀茂」で食事する事になった。
食事を済ませた多恵は、扉の前に立つ由梨に声を掛けた。
「嵐山さん、お願いがあるの」
「何でしょうか」
「お恥ずかしいお願いなんですけど、御不浄へ一緒に来てくれないかしら」
「ゴルフ場へ行くんですか」
真顔で由梨は聞き返した。
「ゴルフ場じゃなくて、御不浄。トイレの事よ」
笑いながら多恵が云った。
「どうも失礼しました」
「もう面白い人ねえ」
都座一階東側には、多目的トイレが完備されていた。
「ああ年は取りたくないわねえ」
「そうなんですか」
多恵を正面で抱きかかえて便器に座らせた。
都座案内係は、不定期ながら専門の介護士を呼んで介護講習を実施していた。
由梨は講習を受講していなかったが、冊子を手渡されて読んで勉強していた。
「ああ皮肉ねえ」
「何がですか」
「年取ると、再びよちよち歩きの子供に戻るのねえ。昔、子供をよくこうして向かい合ってトイレでお話したわ」
「どんなお話ですか」
「男の子なのに、意気地なしでトイレを怖がるのよ。それで面白いお話」
昔は水洗でなかった。だから怖がったそうだ。
「その男の子が今では立派な大人」
「へえよかったですねえ」
「ええ手元にいればねえ」
「えっ亡くなったんですか」
「亡くなってはいないけど、もう手元から離れて大きな存在です」
「よかったですねえ」
立派に成長して、今は家を出て独立しているのだろうと由梨は推察していた。
「さあよかったかどうかは、不明ねえ」
多恵の言葉の真意を測りきれない由梨だった。
蹴田屋の踊りを見終わった多恵は、幾分顔を紅潮させていた。
「いやあよかったわあ」
「それはよかったですねえ」
「嵐山さん、お願いがあるの」
「何でしょうか」
「蹴田屋の楽屋に連れていって貰いたいのよ」
「わかりました」
蹴上重蔵、鯛蔵親子の楽屋は、四階の隣同士になっていた。
楽屋の前には蛸蔵が立っていた。
「若旦那は、今ちょっと重蔵さんと芸の打ち合わせをやってまして」
「いいよ、今終わったから。誰?」
暖簾越しに鯛蔵のよく通る声が響いた。
「すみません、お忙しいところ。お客様をお連れしました」
由梨に続いて多恵が暖簾をかき分けた。鯛蔵も重蔵も多重を見るなり、
「さあ、お入り下さい」
と丁寧に招き入れた。
由梨はここで帰ろうとした。
「ああ嵐山さんもここにいて」
多恵が云った。
「でも」
「いいから」
「はい」
「若旦那、初日おめでとうございます」
畳に頭を擦り付けて多恵は挨拶した。
「有難うございます」
鯛蔵も重蔵も同じ様に頭を下げた。
それを見た由梨も慌てて同じ仕草をした。
「これ返しに来ました」
多恵は懐から小さな桐箱を取り出した。
「いやそれは多恵さん、あなたが後生大事に預かっていて下さい」
まだ中身を見ぬうちに、一瞬にして察知した重蔵は云った。
「僕もそう思うよ、お母さん」
「えっ、お母さん」
由梨は重蔵、鯛蔵、多恵の顔を交互に見比べながらつぶやいた。
「ああそうとも。多恵さんは僕の生みの母親なんですよ。そうですね、御父上」
「お前急に云うねえ」
「江戸っ子なんで、せっかちなんです」
「しかし、何でわかった」
「僕とこの人は、初対面ではありません」
鯛蔵は春先のロビー通過の一件を重蔵に説明した。
「そうだったのか。でも初対面で口もきいてないのによくわかったな」
「役者だから、直感が鋭いんです」
「多恵さん、その桐箱の中身当ててみましょうか」
「ええ、お坊ちゃんわかるんですか」
「僕のへその緒と写真」
多恵は幾分はにかみながら、ゆっくりと桐箱の表を開けた。
「大正解です」
多恵は頬を紅潮させながら云った。
白黒の写真は若き重蔵と多恵と、多恵に抱かれる幼子の鯛蔵の三人が写っていた。
若かりし頃、祇園で舞妓をしていた多恵は、重蔵と恋に陥り鯛蔵を宿した。
本妻に子供がいなかった重蔵は、すぐに鯛蔵を認知して引き取ったそうだ。
「で、この写真は、子別れの時のもの。この後、鯛蔵は本妻に引き取られたのよ。
ほらっ写っている私、どことなく寂しいでしょう」
「なるほど」
由梨は食い入るように写真を見つめた。
「多恵さんはどうしても親子の証が欲しいとねだるんでねえ、この写真撮ったんだ。確か寺町京極の写真館だったよね。今でもあるのかなあ、あの写真館」
「はいあります。今はお孫さんが引き継いでます」
「さすがは、伝統の京都だ」
「今度また写真撮りましょう」
「今撮りましょうか」
由梨はスマホを取り出した。
「おおきに」
由梨は三人を写真に収めた。
「いつでもどこでも気軽に写真が撮れるなんて、良い時代になりましたね」
「確かに」
多恵の言葉に重蔵は追随した。
「でも私、あの思い出の写真館で再び撮りたいんです」
「撮りましょう、御父上」
「ああわかった」
「約束ですよ」
いつになく強気の多重を由梨は見た。
夜の終演は十時四十五分だった。
「昔は午前零時過ぎる事もあったのよ」
と美香は終礼の後云った。
さすがに十三時間以上都座勤務の一日だったので、美香の顔は、いつもの輝きは失せてどんより暗かった。
「チーフ大丈夫ですか」
「大丈夫」
「顔色が冴えないみたいですけど」
「そうねえ、さすがに今日はちょっと疲れたみたい」
少しだけため息をついて云った。
そう云う自分も充分に疲労困憊である。
これから長い一か月が始まるのだ。
(気合を入れなければ)再度自分に云い聞かせた。
数日後今度は鳴滝弥生がイチジョウジと一緒に姿を見せた。(9話参照)
「まあ弥生さん、それにイチジョウジさんまで」
「残り少ない人生、時間を弥生さんと過ごす事に決めました」
「私はねえ、早くアメリカへお帰りなさいと説得したんだけどねえ。この人本当頑固だから」
「これでも軍人のはしくれですから」
と云ってイチジョウジは、ウインクした。二人は仲良く腕を組んで一階席の前へ進んだ。
続いて九条社長が、下鴨大地と共にやって来た。(7話参照)
「九条社長、下鴨さん」
「いやああの時は、世話かけたねえ」
「どうしたんですか」
「どうしたもこうしたも顔見世を見に来たんだよ」
「はあ、それはそうですけど」
「実は来年、この都座で下鴨を中心としたジョニーズ歌舞伎をやろうと思ってね」
「下見を兼ねた観劇です」
下鴨の笑顔を久し振りに見た由梨は、こころが豊かになった。
「本当ですか」
「今のは極秘事項だからね」
「社長自ら、極秘事項を漏らしたら駄目でしょう」
即座に下鴨が突っ込んだ。
「下鴨君の勝ち!」
と由梨は云った。
とこの時、席に着いた弥生とイチジョウジが再び正面ロビーにやって来た。
「弥生さんですよね」
恐る恐る九条が声をかけた。
「はい、そうですけど」
「僕、終戦後祇園甲部歌舞練場で、あなたのレビュー見ました」
「ひょっとして九条さん?」
「思い出してくれましたか」
「誰ですか」
イチジョウジが尋ねた。
「九条さん、この人、イチジョウジさん」
「はいはい、すきっ腹の私にハンバーグとコーラをくれた兵隊さんですね」
「ユー、九条ボーイ!」
「はいなあ、少年老いやすく学成り難しです」
「お前毎日、ただで見てたなあ」
「でもあなたは、それを見て見ぬふり。その節はありがとうございました」
九条とイチジョウジが力強く握手した。
「あと、ベースボールをこのイチジョウジが教えてくれたんだなあ。いやあなつかしいなあ」
九条は何度も握手を交わした。
「僕は高校野球で春夏甲子園に出ましたよ」
下鴨が二人の会話に入って来た。
「もちろんわかっているさあ。だから仲間に入れたんだよ」
「仲間って何ですか」
躊躇せず由梨は聞いた。
「事務所に入るのを、社長はいつも(仲間入り)って云っているんですよ」
下鴨が説明してくれた。
「へえそうだったんですか」
(繋がっているんだ)一人感心する由梨だった。
中日を過ぎた頃、百万遍が妻を連れて見に来た。
「ほんまは、顔見世期間中は、わしら大道具係りは役者と同じく休みないけどな、棟梁に云うて今日特別に休み貰うたんや、特別の日やから」
「特別の日と云いますと」
由梨は聞き返した。
「今日は、実は嫁はんの誕生日なんや」
少し照れくさそうに百万遍が答えた。
「おめでとうございます」
「座席に着く前に、ちょっとここで待たせて貰うで」
「誰かと待ち合わせですか」
「うん、ちょっとなあ」
「誰ですか」
「まあそのうち、わかるわあ」
と百万遍は云いながらにやりとほほ笑んだ。
ほどなく正面玄関から、演歌歌手の四条エリが姿を見せた。(5話参照)
「四条さん、お早うございます」
「お早うさん。お待たせ」
エリは百万遍に駈け寄った。
「ええか、おとなしゅうするんやぞ」
百万遍は、そう云って妻を睨み付けた。
「百万遍さん、怖い。今日は奥さんの誕生日なんでしょう。もっと優しく接してあげないと。ねえ奥さん」
エリは肩を組みながら百万遍の妻を元気づけた。
「よかったですねえ」
「エリさんのおかげで、今は嫁はんの容態は安定してるんや」
「それはよかったですねえ」
と由梨は答えた。
(ここでもまたつながった)
顔見世は単なる芝居ではない。きっと芝居の神様が人々の色々な思い、悩みを解決するために、一年に一度本当に降臨するんだと確信した。
百万遍夫妻が、場内に入ろうとして、エリが
「ちょっと待って」
と云って由梨の胸のネームプレートを確かめた。
「嵐山さんでしたね」
「はいそうですけど」
由梨はまた何か自分が粗相したのかと思い、少し不安げに答えた。
「夏のジョニーズコンサートの時、うちの姪がとんだご迷惑をおかけしました。本当にすみませんでした」
エリは深々とお辞儀した。
「姪って誰ですか」
「北山晴美です」
「えっ、晴美さん姪御さんなんですか」
「お恥ずかしながら。あの子、小さい時から高い所駄目な子で、公園の滑り台も駄目だったんです。それがあのような大それた事をやってしまって」
「そうでしたか」
由梨の脳裏に、目をつぶって都座の屋上から飛び降りる晴美が蘇った。
晴美が走ってこちらにやって来た。
「エリ叔母さん」
「丁度、あんたの噂してた所なの」
「北山晴美です」
ありきたりの挨拶をした。
「もうわかってます」
笑いを堪えながら由梨は答えた。
「あんたさあ、死んだつもりで頑張らないと」
「はい」
「一度死んだんだから」
「はい、死ぬ気で頑張ってますから」
「本当?まあ私が蹴田屋にお願いしたんだけども、大体さあ死にぞこない雇うなんて、蹴田屋も物好きねえ」
「エリさん、それは少し云い過ぎではないかと思うんです」
由梨は晴美とエリ両者に気を使いながら云った。
「なあに、これぐらいで凹むんなら、あんたこの業界やめた方がいいと思うけど」
エリはじっと晴美の出方を待つかのように、云うとしばらく晴美を睨み付けた。
「で何なの」
「次の幕間に、蹴田屋、鯛蔵の楽屋にどうぞ」
晴美はそう云ってから、蹴田屋の手ぬぐい、扇子、耳かきのセットを渡した。
「晴美さんは、生きる資格があったから助かった。わしともう一人の・・・」
百万遍は、言葉を詰まらす。
「清掃主任の烏丸さんです」
「そう、その烏丸と二人で助けた事になってるけど、あんたに命のエネルギーがあったからこそ助かったんやで」
「はい」
「その命のエネルギーは、自分一人だけの力で放つもんやないんや」
「と云いますと」
「こんな事云うたら、新興宗教の教祖みたいで、わしいややけどな」
ここで百万遍は息を継いだ。
「あんたもわしも、皆そうや。自分一人で生きてるんやないんや。多くの人の助けで生きてるんやで」
「はい」
「しやから自殺は、それらの多くの人への裏切りでもあるんや」
「もう二度としません」
晴美は声高に叫んだ。
「なあ、早よ席に行こうなあ」
この日初めて百万遍の妻が口を開いた。
百万遍の妻がぐずるのが、きっかけで百万遍夫妻、四条エリも席に着く。晴美も番頭席に戻った。
今年の顔見世も大好評の内に千秋楽を迎えようとしていた。
大入りの大きな要因は、やはり今歌舞伎界で一番人気の蹴上鯛蔵が、父重蔵と共演で初めて都座の顔見世に出演した事であろう。
ファン心理として、昼も夜も見たい。
遠方の客は、まず夜の部を見て一拍。次の日の昼の部見てから、帰途に就く。このパターンが一番多いのだ。
千秋楽前日の夜。
暖冬が続く京都地方に突如として、大雪警報が発令された。
昨今暖冬が長く続く日本列島だったので、人々を震撼させた。
歌舞伎役者の、長老の番頭が、
「雪で覆われたまねきを、ここ十年は見てないなあ」
と云った。
「雪のために交通機関が麻痺してストップする可能性が大です。ですのでチーフの墨染美香さんは、今夜ホテルに泊まって下さい。他の人は、明日の朝は、いつもより早めに家を出て下さい。遅れる場合は、電話かメールで美香さんに連絡して下さい」
醍醐が終礼の時に云った。
「はいわかりました」
美香はいつも通りにこやかに返事した。
案内一同が、控室に行きかけた時、
「嵐山さん、ちょっと」
と美香に呼び止められた。
「何でしょうか」
「今夜、私と一緒にホテルに泊まって欲しいのよ」
「えっ、でも泊まるのはチーフ一人だけとお伺いしましたけど」
「それがねえ、デラックスツインの部屋なのよ」
「だったら、万々歳やないですか」
「私、あんまり広すぎてもあかんのよ」
珍しく美香が弱音をはいた。
「でも私が勝手に泊まったら駄目でしょう」
由梨の家は、京都御所の西側にある。いざとなったら自転車で来れる。
「ううん。それは醍醐さんに了解得てるから大丈夫」
「やったー!だったら喜んで泊まります」
もろ手を挙げて由梨は賛同した。
泊まるホテルは、八坂神社脇にある弥栄(やさか)ホテルだった。
創業は明治十年。木造とレンガで作られた建物は、国の登録有形文化財に指定されている。
どの部屋からも東山連峰、八坂神社、円山公園の樹木が眺められた。
終演後、美香と由梨は八坂神社近くのワインとお肉の専門店で、京野菜、肉料理、ワインを飲んだ。
美香も由梨もそんなに酒に強くなかったが、ワインだけは飲めた。
二人とも酔ってないと自覚していた。
部屋は美香が云った通り、キングサイズのツインだった。
「確かに一人ではここは広すぎる」
「でしょう」
すぐに美香が勝ち誇ったように、宣言した。交代で湯舟に入る。美香が風呂に入っている時、カーテンを開き外を見た。
天気予報通り、夕刻から降り始めた雪は次第に降る量を加速し始めた。
「雪がロマンチックやなんて考えるのは、都会の人の感覚かも」
と由梨は思い始めた。
と云うのも窓から降りしきる雪を眺めていたら、この白い恐怖を感じ始めた。
「ああ、ええお湯。嵐山さんも入って来たら」
美香の言葉に誘われて由梨も入る事にした。
ここのホテルの売りは、トイレ別の大型浴槽の和式だった。
充分に、入れて身体を休める。
「ああ極楽、極楽」
じんわりと身体全体を沈める。
「極楽ですか」
ドア越しに美香の声が聞こえた。
「はい」
「そうしたら、うちももう一辺その極楽味わせて」
由梨の声を待たずに美香が入って来た。
上半身をすっぽり白いタオルを巻いていた。
「チーフ、私出ます」
由梨は慌てて湯船から出ようとした。
「ううん!そこにいて!」
美香の非常に力強い手で押し戻された。
「私ねえ、ずっと嵐山さんに、いや案内係の皆に黙ってた事あるんよ」
「はあ」
「もうずっとずっと黙っていようとこころに決めてたんやけど、何やこの頃その重圧に耐えきれなくなってしもうてねえ」
「はあ、チーフ、そんな重大なお話やったら、部屋で聞きます。何も浴槽の中でせんでも」
「浴槽の中やから、話が早いのよ」
「話が早いて」
一体美香が何の秘密を暴露しようとしているのか、皆目見当がつかなかった。
「案内さんの中でひとりだけでも、私の秘密知ってて欲しいと思ったのよ」
「はい」
「秘密はこれ」
美香はぱらっと白いバスタオルを剥ぎ取り、全裸を由梨の前にさらけ出した。
由梨は自分の目を疑った。
(目の前にいるのは、美香のはず)
でも、男の一物が目に入る。
(ああ疲れてる。だから、こんな夢、幻を見ているんだ)
目をつぶって自己分析した。
「嵐山さん、これ夢やのうて、現実なんよ」
まるで美香が、由梨のこころの壁にぐいっと上半身を、のめり込ませて入って来る感覚に襲われた。
「いややあ!いや!いや!」
由梨は両手を顔に当てて湯船から立ち上がると、今度は美香を押し戻して部屋へ駈けこんだ。濡れた身体のままベッドに入り込んだ。
「ごめんね、嵐山さん」
「嘘や、嘘でしょう」
布団をかぶったまま由梨は、唸り続けた。
「ううん。嘘やない。私は男なんよ」
「嘘や信じられへん」
「悲しいなあ」
「悲しいです。めちゃ悲しいです」
「でもこれが現実なんよ。嵐山さんが入って間もない頃、安井の金毘羅さんへお参りに行ったよねえ」
由梨は思い出した。
「悪い縁を切って良い縁を貰うもの。あれは私は男の縁を切って、女の縁を貰う事を願掛けしてたんよ」
真剣に拝む美香の姿が蘇る。
「でも所詮気休めでしかなかった。何度、皆に云おうとしたかでも云えなかった。云う勇気がなかった。でも、でもねえ日増しにその嘘を背負い込む自分がしんどくなって来た。誰か一人でも知っておいて欲しい。そう思うようになったんよ」
「その一人が、どうして私一人なんですか」
由梨は素朴な疑問を投げかけた。
「そりゃあ嵐山さん、あなたが私とは、ウマが合う。それに何より都座の案内さんで一番真面目で、物事に向かい合うからなんよ」
美香は下着をはき、服を着る。
「チーフどこへ行くんですか」
「まさか男と女が同じ部屋で寝るわけにはいかないでしょう」
「でも外は大雪ですよ」
「何とかなるわ」
美香はバスローブを持って由梨のベッドに置いた。
「駄目です」
「何が」
「こんな大雪に外出たら駄目です」
由梨は素早くバスローブを羽織ると、窓のカーテンを一気に開けた。
八坂神社の西楼門も両側に鎮座する狛犬も、白い化粧をし始めていた。
「ほんま久し振りの大雪やねえ」
「外出たら死にますよ」
「嵐山さんって面白い人」
美香が入り口のドアに向かう。
由梨は走ってドアの前に立つ。
「ここからは、チーフを出しません」
「嵐山さん有難う。でも見たでしょう、私の正体」
「見ました」
「私は男よ」
「チーフ!」
「はい」
「チーフは、男なんかじゃありません!」
と云うと由梨は、美香に突進して抱きついた。
「だから、ここから逃げないで下さい」
「嵐山さん」
「チーフ」
「私の正体知ってもですか」
「チーフはチーフです」
「有難う嵐山さん」
美香はゆっくりと鞄を床に置いた。
翌朝、都座の正面玄関に、「本日千秋楽」の看板が出される。
開場を待つ観客は、まねき、絵看板、そしてこの「本日千秋楽」の看板を写真に収めようと多くのシャッターが押された。
昨夜からの大雪で、まねき板にも雪がかぶっていた。
雪のために、交通機関に乱れが出た。
京都市内を走る阪急、京阪、近鉄、嵐電、叡電の私鉄、JRが軒並み徐行、運休した。新幹線は、関ケ原、米原付近の大雪のための徐行運転で最大二時間の遅れが出ていた。
今出川支配人を始めとする劇場関係者の判断で、昼の部の開演を三十分遅らす処置を取った。すぐに都座ホームページ、フェイスブック、インスタグラム、ブログにその情報をアップした。また阪急、京阪の鉄道各社には、車内放送での告知を願い出た。
そんな混乱の中、喜劇女優の東山直子が地下事務所にやって来た。(3話参照)
「千秋楽おめでとうございます」
まず由梨が声掛けした。
「おめでとうさん、ミヤコザル今日は寒いやろ。バナナ食べるか」
「ウッキー!喜んで!」
「喋ったらあかんて。あっバナナ忘れた」
「大きな荷物どうしたんですか」
「そらあもう案内さんや、事務所、裏方さんに食べてもらおうと持って来たんや」
「中身は何ですか」
「いわくつきの、満月堂のお団子」
「ああ、あの団子」
由梨は団子すり替え事件の事を思い出していた。
もう遠い昔の様に感じたが、あれは今年自分が都座に入って一か月半ぐらいの出来事だった。
「これは、正真正銘の満月堂の団子やから」
直子は、由梨の心中察してか、そう云った。
「私、蹴田屋の楽屋へ挨拶して来ます」
「じゃあ案内します」
「ええて。勝手知ったる我が家みたいなもんやから」
直子は西側の地下通路へ向かう。そこから楽屋へ行けるのだ。
夜の部が始まり、由梨も美香も和美もある異変に気づいた。
それは今月すでに観劇したはずの人達が、続々と再び終結していたのだ。
中には、昼は確かに見たが、夜はまだの人もいた。
本来切符を持っていない人は、入れないはずだったが、今夜は特別だった。
まず堀川多恵が来る。
「どうしたんですか」
「ちょっとイベントがあるんで」
「イベントって何ですか」
「それは秘密」
にこやかに笑う。
続いて鳴滝弥生もイチジョウジも九条社長、下鴨大地も顔を見せた。
四条エリ、百万遍夫妻、椥辻、北大路もやって来た。
「百万遍さんも、北大路さんもどうしたんですか」
「どうしたもこうしたも、やっとの思いで楽日の夜の部の切符取ったんや」
「ああそうでしたか」
中には本当に観劇に来られた人もいるのかと由梨は思った。
一つ一つの狂言(演目)が終わる度に、
(ああ、もう明日からは、しないのか)と深い感慨が、こころの中を通り過ぎる。
芝居が終わると云うよりも、祭が終わる、あの一抹の寂しさの雰囲気に近いものだった。
「本日はこれにて終演でございます。どなたさまもお忘れなきよう、お帰り下さいませ。本日はご来場誠にありがとうございました」
終演放送が、場内に流れる。
「また来年来ます」
観劇を終えた客がそう云った。
「お待ちしております」
由梨は深々とお辞儀しながら答えた。
「来年まで生きてたらの話やけどな」
「劇場の神様が見守ってくれますから大丈夫です」
「あんた、ええ事云うなあ。劇場の神様かあ」
客は笑いながら立ち去った。
醍醐の終礼で、全ての謎が氷解した。
「今から十分後、都座劇場正面に集合」
「何があるんですか」
美香が聞いた。
「蹴上鯛蔵が、まねき板を背景に案内さんや、ゆかりの人々と写真を撮りたいと云っております」
「ラッキー」
まず和美が声を上げた。
案内一同が口々に歓喜の声を上げた。
劇場前に各人がたむろしていると、鯛蔵が、蛸蔵と晴美を従えてやって来た。
「お待ちどう」
「はい皆さん並んで下さい」
醍醐が指揮を執る。
まねき板には、まだ所どころ、雪が残っていた。
次にカメラマンが一人やって来た。
「あのカメラマン、ひょっとして世界的に有名な北山糺(ただす)じゃないですか」
由梨が叫んだ。
「はい、私の父です」
少しはにかみながら晴美が答えた。
「あんた、すげえ親父さん持ってるねえ」
和美は感心した声を上げた。
「おい何やってるんや」
そばを百万遍夫妻、北大路夫妻、四条エリ、椥辻夫妻が面白いように通りかかる。
「早く入って、入って」
勘違いした醍醐は、無理やり入らせようとした。
「俺はええから」
「百万遍さん、早く早く」
鯛蔵が笑いながら手招きした。
「しゃあないなあ」
「鯛蔵さんの前で、何がしゃあないのんなあ。この罰当たりめが」
百万遍の嫁が叫ぶ。
「はい皆さんこっち向いて、にこやかに笑う門に北山来る!!!」
北山は、叫ぶながら踊る。それを見て一同は笑った。すかさず連写していた。これが、プロの仕業だ。
翌日の朝の京都駅。
案内係は休みだった。美香と由梨は京都駅の新幹線乗り場にいた。
あれから、鯛蔵じきじきにここへ来るように依頼があった。
鯛蔵は蛸蔵と晴美を連れてやって来た。
晴美の横には、カメラマンの北山糺がいた。
「ごめんねえ、せっかく休みのところ来て貰って」
鯛蔵は美香と由梨の姿を見つけると駈け寄り声をかけた。
「いえ、お早うございます」
「お早うございます」
「まず渡して」
鯛蔵の声に促されて晴美は、二人に噛み包みを渡した。
噛み包みには、墨文字で(松の葉)と書かれていた。
「嵐山さん、蛸蔵の事これからもよろしくね」
突然、蛸蔵の事ふられたので、ドギマギした。
「でも蛸蔵さん、結婚するんでしょう出町柳子さんと」
「あ、その彼女とは別れたって。やっぱりあんたがいいって」
「急に云われても」
由梨は途中で口を閉ざす。
「だろう。本当にあいつは、調子いいんだからな。俺もそう思う。調子こくでねえとね。けど、ワンモアチャンス!もう一回こいつにチャンス与えてやってよ」
「はあ」
どう答えてよいものか、由梨のこころは逡巡していた。
「俺さあ、こいつの事見張ってるから大丈夫」
鯛蔵は胸を張って答えた。
「若旦那!」
ここで初めて蛸蔵が言葉を発した。
「お前からきちんと云え」
蛸蔵は、一歩前へ進んだ。
「嵐山さん、これからも私をお忘れなく」
「気がきかねえ。選挙に出た議員じゃないんだから」
「自信ありません」
「そう云わずに」
「蛸蔵!深追いするな」
「はい」
鯛蔵は次に視線を美香にやった。
「色々これからもあると思うけど秘密は秘密。守り続けた方がいいと思うよ」
「若旦那、美香さんの秘密って何ですか」
横から蛸蔵が尋ねた。
「いいから、お前は黙ってろ」
「はい」
「人間、誰しも他人に云えない、云わない秘密を抱えて生きているもんだよ。だからその秘密抱えて生きて行きなよ」
そこまで云うと鯛蔵は、そっと美香の手を握りしめた。
「有難うございます」
少し涙ぐむ美香を見て由梨ももらい泣きした。
「何だか今生のお別れみたいでいやだなあ。東京と京都、新幹線で二時間ちょっとだろう、近い、近い」
「これからも、晴美の事よろしくお願い致します」
北山が、深々とお辞儀した。
「わかってるって」
鯛蔵が照れ笑いした。
「都座の案内さんでしたね」
「はい」
「こいつとんでもない事しでかして、すみませんでした」
「お父さん、もうその話はやめて」
「そうやめよう。それは晴美さんがこれから一生背負う秘密。秘密出来てよかった。俺も秘密持ってるから」
「若旦那が!どんな秘密ですか」
蛸蔵が聞いた。
「バーカ。答えたら秘密にならないだろう」
「それもそうですねえ、鯛蔵さん」
声を改めて由梨は云った。
「実はもう一人今日、お見送りに来られた方がいます」
「誰ですか」
「その柱の陰で隠れてないで出て来なさい」
後ろを振り返り由梨は手招きした。
一呼吸おいて、柱の陰から多恵が顔を覗かせた。
「多恵さん」
鯛蔵がつぶやいた。
「多恵さん、さあご挨拶して」
「お坊ちゃま、どうかお元気で」
「多恵も元気でな」
少し身を屈めて鯛蔵が多恵の耳元でつぶやいた。
「多恵さん、やっぱりこれお返しします」
由梨はポケットから半紙に包んだ手鏡を取り出した。
「何だかこれとっても多恵さんにとって意義がある代物なので」
「そない云われても」
多恵は迷った。
「これは、俺の父、重蔵が使ってたものなんです。多恵さんが都座の楽屋で俺に渡そうとしたでしょう。包んでいたけど、ピンと来て断ったんだ」
「そうだったんですね」
改めて由梨は問いただした。
「そうです。私が重蔵さんに云ったんです。何か二人が暮らした証しを欲しいと。それで重蔵さんはその場で、この手鏡の裏にサインしてくれたんです」
「だったら、なおさら持ってないと駄目でしょう」
と鯛蔵は即答した。
「でもこれからお坊ちゃまは、蹴田屋の看板を背負うお人でしょう。私の存在は邪魔なはずです」
「何を馬鹿な事を。近日俺は包み隠さず、出生の秘密を話すつもりなのさ。だから持っていていいんだよ」
鯛蔵はそっとそれを再び多恵の手に戻した。
「おおきに、おおきに。わてが死んだらきっとお坊ちゃまに戻して下さいませ」
「ああわかったから」
鯛蔵のこの一言でようやく、多恵は納得した。
東京行きの新幹線が滑り込んで来た。やがて発車ベルが鳴る。
「また来るから、待っていてくれよ」
「はいお待ちしております」
美香が云う。
「お待ちしてます」
由梨も云う。
ホームに美香、由梨、多恵を残して、鯛蔵、蛸蔵、北山晴美、糺が列車に乗り込む。
「俺の秘密は・・・」
そこでドアが閉まった。
ゆっくりと列車が動き出す。
最初美香も由梨もその動きに合わせて走り出した。しかし、すぐにあきらめて立ち止まる。ドアの窓越しに鯛蔵と蛸蔵の笑顔がいつまでも残っていた。
「さて何が入っているのかなあ」
美香がさっき晴美から手渡された紙包みを開く。
(松の葉)と書かれた祝儀袋から五万円が出て来た。
「すごい!」
「もう松の葉やなくて、松全体やね」
「チーフ上手い事云いますね」
別の紙包みを開くと、(鯛焼き)と(タコ焼き)のセットが入っていた。
一枚の便せんが添えられていた。
「これを食べて鯛と蛸を好きになって下さい」
と書かれていた。
翌日、都座会議室で、都座案内検定試験が実施された。
試験問題は前半は、語句の意味を問うものだった。
そして最後に論文問題が出題された。
「あなたにとって最大の都座でのおもてなしは、何ですか」
由梨は一瞬考えた。思い出していた。
この四月から今日までのお客様との色々なトラブル、事件を。
そして答えを書き始めた。
途中でふと顔を上げた。
試験官を務める美香と目が合う。
美香はいつもの通り優しくほほ笑んだ。
そのほほ笑みに勇気づけられて由梨はペンを走らせた。
( 終わり )
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