骨と飴

和田カオリ

第1話

 吹く風の冷たさと共に、大分日が暮れるのが早くなってきたのを感じる。

 授業が終わり、下駄箱まで降りてくる頃にはもう日差しは夕暮れ前のそれになっていた。濃い黄金色をした光がやたらきらきらとまぶしく輝く。急いで靴を履き、まぶしさに目を細めながら昇降口のガラス戸の方を見ると、もうすでに靴を履き終えてガラス戸に背中をもたれ、じっと俯いて自分のつま先をつまらなさそうに見ている琳香りんかの姿が目に入った。

「おーい。お待たせ」

 声をかけると琳香はぱっと顔を上げ「遅いよー」と甘えの混じった不満そうな声を出す。逆光でいまいち表情はよく分からないが、待たされて本気で機嫌が悪くなっているというわけではないようだ。背中をドアから離し、琳香はひらりと体を翻して先に外に出る。ふわりと舞ったセミロングの髪や体の輪郭を、黄金色の日差しがそれぞれ綺麗に縁取っていく。夕暮れの光は輝きが強い。どんどん小さくなる彼女の背中を眺めつつ、その眩しさに思わずぐっと目を細めてしばらく立ち止まる。と、さっさと出て行った琳香が「早く早くー!」と大声で呼んでいるのが遠くから小さく聞こえた。


 いつもの帰り道。いつものように横には琳香。そしていつも通り彼女はドロップ缶をカラカラ振って私に見せる。

「食べる?」

「ん」

 黙って突き出した私の掌の上で缶を振ると、中から薄い黄色のドロップがひとつ、ころんと飛び出した。そのまま鼻先に持ってきて匂いを嗅ぐ。砂糖の甘い匂い。口に入れると甘酸っぱいレモンの味がした。

「今日の宝石は、甘い香りのレモン味」と報告すると、「分かったよー」とくすくす笑いながら琳香は答える。

「いつも律儀に教えてくれてありがとうね。えーっと、レモンなら琥珀、シトリン、アングレサイト…」

 楽しそうに指折り黄色い宝石の名前を挙げる琳香の横顔を見ながら、私は思い出す。私にとってはとても大切でこの先もきっと忘れられない程衝撃的な、でもおそらく彼女にとっては何でもないただの平凡な日常の一コマであったであろう、あの出来事を。

 黄色い宝石が私の口の中でころんと音を立ててじわじわ溶けてゆく。


「ねえ、聞いて‼」

 小学校2、3年生の頃だっただろうか。ある日の朝の教室。入ってくるなり真っ直ぐ私のところに走ってきた琳香が、高揚した頬とキラキラした目でそう叫んだ。

「ちょ、琳香、うるさいよ…」

 しー、と周りの目を気にして注意する私を無視して琳香は続ける。そんな些細なことより私の話を一刻も早く聞いて欲しいと興奮した顔が言っていた。

「私の名前、すっごかったんだよ‼」

「え?」

 一瞬、何を言われているか分からなくて戸惑う。遅れて、そうか昨日の宿題か、と思い当たる。昨日の国語の時間に”自分の名前の漢字の意味を調べてくる”という宿題が出ていた。

「私の琳は、美しい玉とか宝石って意味なんだって‼で、香りの香でしょ?だから、いい匂いのする宝石ってことなんだよ‼どう⁉すごくない⁉」

「あ、う、うん、すごい」

 正直、何が凄いのか分からなかったが、勢いに押されてこくこく頷きながら同意する。と、琳香はさらに頬を桃色に上気させ、ものすごく満足そうな笑顔で「でしょう‼」と嬉しそうに言った。

 と、その時、急に自分がおかしくなったのが分かった。

 キラキラの目、桃色の頬、全力の嬉しさがこぼれんばかりの笑顔。確かにその日の笑顔はいつもより格別に嬉しそうではあった。だけれども、幼馴染である私にとって琳香の笑顔は物心ついた頃からずっと、何百、何千回と見てきた見慣れたものだ。だから、今更何かを感じる訳などないはずだった。これまでに何度も繰り返してきた普段通りの光景。ただ、いつもよりは琳香が少しはしゃぎ過ぎているなという程度。

 なのにその時は違った。それはいきなり撃ち抜かれたかのような突然の衝撃だった。何故か琳香の笑顔から目が離せない。私は呆然と琳香の笑顔をただ見つめ続ける。この時、私の中で確実に何かがカチンと音を立てて変わったのが分かった。

 そんな私の中の大事件には全く気付かずに、琳香は話をどんどん続ける。

「私、宝石とかきらきらしたキレイなもの大好き‼いい匂いのする宝石ってなんだろう?見てみたいなぁ」

 うっとりとした顔で話し続ける琳香を見ながら、私の中には何とも言えないむずむずした感情が湧き上がってくる。そうすると今度は琳香の顔が真っ直ぐに見られない。さっきまで全然平気だったのに。何だ?何なんだ、これは。自分の頬がどんどん赤くなってきているのが分かる。頭に血が上り、視界が狭くなって、頭の中がぐるぐると混乱してくる。何だこれ、何が起こっているんだ。

「私、絶対にいい匂いのする宝石を見つけてみせるよ‼そしたら一番に見せるからね!約束!」

 琳香は全力で自分の決意を表明し、ふん、と鼻を鳴らすとキリッとした笑顔で小指を突き出してきた。私は混乱し過ぎてぼんやりしてきた頭と視界の中、これはとにかく約束をしろということなんだなと何となく理解し、そろそろと小指を差し出して琳香のそれと絡めた。正直、自分のことに精一杯でろくに彼女の話は聞いていなかった。

「指切り、げん、まん…」

 絡めた指が何故だか恥ずかしくて上手く声が出ない。これも今まで数えきれないくらいしてきた動作だというのに。とにかく指切りも真っ赤になってしまった顔も全てが恥ずかしくて、琳香にそれを悟られないように下を向く。一方、対照的に琳香は元気いっぱい、いつも通り繋いだ指をぶんぶん上下に振りながら私の言った続きを歌った。

「うっそついたらハリセンボン飲-ますっ!指きったっ!」

 ぶんっ、と振り下ろした勢いで指をきる。今度は、もっと繋いでいたかったような、恥ずかしくてたまらないような、でも寂しいような、混ぜこぜの複雑な気持ちが沸き上がる。私は一体どうしてしまったんだろう。下を向いたまま横目でちらりと琳香を見ると、私の変化などまるで気付かない様子でよーし頑張るぞーと元気にこぶしを握っている。いつもと同じで元気で無邪気な、昨日までと何ら変わらない琳香。変わってしまったのは私だ。さっきの琳香の笑顔ひとつで、劇的に何かが変わってしまった。もう笑顔を見る前までの自分には戻れないことが本能的に分かる。この感情に付けられた名は何というのか、それをすぐ悟るには、その頃の私はまだ幼過ぎていた。


 口の中からレモン味は消えかかっている。最後の欠片を奥歯で噛み砕きながらあの出来事の続きを思い出す。

 あの数日後、琳香は「いい匂いのする宝石、見つけたよ‼」と缶入りのドロップを誇らしげに私に突き出して見せ、その後今に至るまで毎日ドロップを持ち歩いている少女になった。そして私は本当の心を隠したまま琳香の隣にいることが上手な人間になった。

「もいっこ、ちょうだい」と手を突き出すと、「甘いものの食べ過ぎは良くないよ~?」と笑いながらもうひとつ手のひらに乗せてくれる。手のひらにちょこんとかすかに触れる指先、そしてさっと離れていく熱の寂しさ。きゅっと胸が締め付けられる。感情はあの日からずっと複雑なままだ。が、決して表には出さない。色々なものを押し殺して「ありがとう」と無難な笑顔を返す。こんな時、いつも胸の奥に小さな針がちくんと突き立つ。私は嘘つきでずるい、でも隣にいたい。そんな矛盾の針でもう私の心はハリネズミのようにびっしりと刺々しい。この小さな針の鎧が私の本心を隠し続けている。

 幼馴染というポジションはお互いの存在を当たり前に思っているから成り立っているだけの、実はもろい絆だ。もし琳香に本当の気持ちを伝えてしまえば、空気のような当たり前の存在から脱してランクを上げようとすれば、このゆるくて優しい絆は一気に崩れてしまう。告白が上手くいくにしても駄目だったとしても、だ。そんなことは耐えられない。なら今のまま、少なくとも今は自分が琳香に一番近しい人間であるというこの関係を崩したくない。嘘つきで構わない。一番そばに居られるのなら。そう思ってずっとやってきている。

 でも、もし琳香に彼氏ができたら私のポジションはどうなってしまうのだろう。私は、どうなるのだろう。それを考えると、私の心は冷水を浴びせられたようにさっと一気に冷たくなり動きを止める。考えたくもないけれど、確実に近づいているであろう未来に私は耳を塞ぎ、目を瞑る。時々、全て壊れてもいいと本当の気持ちを吐きそうになる口には慌ててドロップを詰める。琳香の宝石。毎日、何気なく私に分け与えてくれる琳香の宝物。これが自然に分けてもらえる位置にいたいだけなのだ、できるなら永遠に。だから私は全てから目を背けて逃げる。そんな日は来ない、いつまでも隣に居られるとありもしない理想に弱々しく縋る。

 カラン、と琳香の持つ缶の中からドロップの音がした。その音に一気に現実に引き戻される。澄んでいてきれいな音。無邪気で素直な琳香によく似合う音。

「そういえばさー」

 前を見ながら、琳香がどこか楽し気に言う。

「何」

「昨日ネットで見たんだけどさ、死んだ人の骨を焼いて宝石にしてくれるサービスがあるんだって!すごくない?」

「…へぇ、すごいね。琳香が好きそう」

 不吉なワードに一瞬心がざわつく。できれば琳香の口からは聞きたくない言葉だ。が、当の本人はまったく気にしない様子で続ける。

「でしょでしょ?私、絶対やりたいって思ってさー。ちょっと調べたんだ」

「うん」

「そしたら、宝石って言うよりは白い石みたいなのがサンプルで出ててさ。色は基本白みたいなんだけど、人によっては緑が入ったりするって。飲んでた薬とかが関係してくるみたいなんだけど」

「へぇ」

「ちょっとがっかりしたよ~。宝石って言うからもっと透き通ってキラキラしたのを考えてたんだけど。骨から作るから仕方ないのかなー。んで、他に無いのかと思って調べたら、人工ダイヤにもできるんだって。色はイエロー」

「ふぅん」

「私だったら絶対人工ダイヤの方かな。キラキラの方がいかにも宝石!って感じだし。でも、もう片方のやつの、自分の色は真っ白なのか、緑がかった感じになるのか、それも気になるんだよね。そっちはもう自分だけの色でしょ?自分の過ごしてきた人生が色に現れる、みたいな感じで素敵じゃない?ただ、どっちにせよ自分では見れないのが悔しいんだよねー。でも、絶対やりたいなぁ」

 軽い調子で言いながら、カラカラとまた缶の中からドロップを取り出す。乳白色の飴。薄荷だ。琳香はそれをつまみ、夕暮れの光に透かすように目の高さまで持ち上げる。光はさっきまでよりさらに濃く、強くなっている。もうすぐ日が暮れる。

「混じりけなく真っ白だとこんな感じかなぁ?緑入るのもいいけど、真っ白も素敵だよねぇ。健康に生き抜いた感じする。でも、いかにも骨過ぎるかなぁ?」

 言い終わると、ぽいっと口に入れて琳香はがりがりとそれを噛み砕き始めた。

「…よくその話した後で食べられるね…感心する」

「あはは、繊細だね。でも、骨の味ってどんなんだろう?宝石にしたら無味無臭になるのかな?っていうかそもそも骨が無味無臭?これみたいに薄荷味…はさすがにしないかなぁ」

 話しながらがりごりと口の中のものを砕き続ける。見ていると琳香が自分で自分を砕いているような不思議な感覚に陥った。琳香の骨の宝石。それはどんな色、どんな匂い、どんな味なんだろう。

「味はともかく、匂いはして欲しいな。いい匂い。それでこそ”琳香”だしね」

 確かにそこは”琳香”としては譲れない条件だろう。まぁ、そもそも匂いがあるものなのかどうか自体が疑問だが。でも昔、自分の名前にあう宝石は何かと一生懸命探し回っていた彼女が自分の骨にもそうあって欲しいと願うのは当たり前だろう。

 だとしたら、どんな匂いがいいだろうか。あまりくよくよしたところがなく、さっぱりした性格の彼女なので、さわやかな柑橘系の香りがいいだろうか。それとも可愛らしく甘い香りか…。どれも生前の姿をよく表してくれそうだ。

 私が黙り込んで考えているうちに、琳香から聞こえていた噛み砕く音がだんだん小さくなり、やがて聞こえなくなった。どうやらもう食べ切ってしまったらしい。と、琳香がくるりとこちらを向き、にっこりと言った。

「もし、将来の旦那や子供に反対されて宝石にしてもらえなかったら、あんたに頼むわ。私の骨、こっそり持って帰っていいから、焼いて宝石にしてね」

「え、」

 それは完全に不意打ちだった。突然のお願いの真意が分からない戸惑いと、彼女の骨について考えていた自分の頭の中を見透かされたような気がして、心臓がどきりと跳ね、一瞬自分の全てが止まる。

 ふ、と琳香は優しく笑いながら、

「お願いしたからね?こんなこと頼めるの、あんたしかいないんだから」

「…え」

 あんたしかいない、の単語が頭の中で繰り返し響く。期待してはいけないと思いつつ、もしかして、も浮かぶ。

「私のこと、昔から一番よく知ってくれてるのはあんただもんね。安心して私の骨を任せられる人は今のところ他にいないんだから、よろしくね?」

「あ…うん。…分かった」

 やっぱり、という思いと一瞬でも何かを期待して高揚した自分を恥じる気持ちで一気にすっと心が冷えていくのを感じる。琳香の無邪気な言葉が勝手に胸にぐさりと突き刺さる。

「旦那が良いって言ってくれる人だったら良いんだけど」

「…彼氏いたことないくせに」

「あ!そういうこと言う⁈もー」

 ちょっとむくれて見せながら、琳香は私より先を笑いながら歩く。私はゆっくりと琳香の後を追う。全く、そんなこと分かりきっていることなのにしっかりダメージを食らう自分が情けない。幼馴染の自分が恋愛対象になるなら、もうとっくになっていないとおかしいのだ。こんなに時間が経って今更芽吹く芽がある方がおかしい。分かっていても悪気の無い琳香の言葉は時に苦しい。でも、それでも隣にいることを選んだのだから強く逞しくならなければ。

「…分かった。琳香の骨は責任を持って宝石にする。約束」

「ありがとう!あ、骨はそのままあんたが持っててね。旦那がいてもいなくても、ね」

「え、」

 私の差し出した指に琳香はごく自然に指を絡め、ぶんぶんといつも通りに振ってから指を切る。指に残る温かな熱を感じながら、遠い将来、彼女の骨を宝石に焼き上げる時のことを考える。琳香の旦那や子供が何を言おうと、私は白い綺麗な琳香の骨を少しだけ奪い、ドロップのような宝石にこっそり変える。出来上がった宝石を私はそっと口に含み、どんな味だったか、どんな匂いだったかを確かめる。そのことをそっと琳香に報告しよう。それは私と彼女だけの秘密。その秘密ぐらい、私だけが貰ったって良いだろう。それを今、彼女はきっと許してくれたのだから。

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