花降る心地

 年が明けると雪の降る日がいっそう増えた。

 雪が止むとしずめが夫と共にやってくる。屋根の雪を降ろすのに男手がいるからだ。

 夏子も何か手伝おうと外に出ようとしたが、危ないからと家の中に戻されてしまった。足手まといと言うことらしい。

 大ぶりの火桶には炭があかあかと燃えている。力仕事から戻ったら二人に食べさせようと、夏子は火桶の灰に満が送ってきた餅を埋けた。

 満は夏の庭に、妻の一人である女二宮を移す気になったらしい。春に続いて夏の庭の主を失った六条院が、寂れてしまうのも惜しいと、夏子が満にすすめた事だった。

 夏子は二度と六条院へは戻らない。

 源氏の薨じたこの庵で、一生を終えるつもりだった。

 六条院は美しかった。

 夏子が与えられたのは夏の庭。山里風にこしらえた庭の東には広々とした馬場があり、涼し気な泉も配されている。

 夏子が暮らした対のそばに植えられていた橘は、姉の女御敏子と共に暮らした、京のはずれの邸から移したものだ。

 敏子の死後、邸は夏子に残された。

 その時になって始めて、夏子は亡き父である「お殿様」長時の財産の殆どが、長姉昌子の母である最初の北の方のものであったことを知った。最初の北の方のただ一人の子である昌子が、殆どの財産を受け継いだのも故のある事だったのだ。

 敏子の邸は数少ない本当の長時名義の財産だった。夏子は源氏の支援を受けながら、しばらくの間その邸で暮らした。

 そういえばあの邸はどうしたのだったろう。

 あの邸は夏子が始めて「女主人」として暮らした邸で、「女主人」である難しさをまざまざと感じた邸だった。


 「夏の君、しっかりなさって下さい。」

 女房たちのくすくすと笑う声がする。一応邸の主である夏子を嗤うのに、彼女たちは声をひそめもしない。

 敏子のいなくなった邸は夏子にとっておそろしく居心地の悪い場所になった。

 夏子は姫君ではない。

 本人も自分をそういうものだと思った事はないし、まわりもそう扱ってはこなかった。

 その夏子が邸を相続して、女主人になったのだ。面白くなく思う者がいることはどうしようもなかった。

 もともと敏子は配下の女房を厳しく躾ける主ではなかったので、どちらかというと古女房がのさばっていたという事情もある。

 麗景殿に暮らした頃から、廃れ女御である敏子を侮って、派手な男出入りを許す女房も珍しくなかった。夏子が源氏に出会ったのはそういった環境の結果だ。

 その中でも気の利いたものは概ね勤め先を替え、残っているのはぱっとしない者ばかり五人。そういう者ほど他者を侮りたがるのは不思議なものだ。

 今も夏子が置いたはずの場所に鏡がないのを訝しんでいるのを見て嘲笑っているのだ。

 本当はわかっている。

 鏡は「隠された」のだ。

 もしかしたら「盗られた」のかもしれない。

 そしてそれは女房の誰かがやったことで、他の女房たちにもわかっているのだ。

 敏子が亡くなって以来こういうことはよくある。敏子の形見の蒔絵の櫛も、硯箱も、いつの間にか見当たらなくなった。

 ただ、今回は夏子も引くわけにはいかない。鏡の箱は先頃源氏から贈られたばかりの品なのだ。

 「返して下さいな美濃どの。」

 夏子は迷うことなく少し離れたところにいた女房に話しかけた。大人しげで地味なその女房が、他人をけしかける名人である事はよく知っている。

 「まあ、なんの証拠がありますの?」

 美濃は案の定、反論した。

 美濃は憤慨したりはしない。哀れっぽく意地悪く、反論するのが美濃のやり方だ。

 「なぜ証拠がいるんでしょう。返さないなら探すだけです。大人しく返せば尼寺ぐらいは紹介致しましょう。それとも身一つで出てお行きになりますか。」

 ひと息に言ってのけたのは、考え抜いた言葉だったからだ。

 美濃だけでなく五人の女房が全員息を飲むのがわかった。

 実は夏子は女房がいなくても困らない。

 彼女たちに出来ることは夏子にもできるのだ。敏子に一番まめまめしく仕えていたのが夏子だったのだから。

 五人全員に暇を出せば、確かにしばらく手は足りなくなるが、どうせまともに働いてはいないのだし、新しい女房を雇って一から仕込むほうが早い。

 失くなっていたものは次の日全て返ってきたが、夏子は構わず美濃を知るべの尼寺に送った。

 出家するもしないもあとは好きにすればいい。

 そういう気持ちで、実際にその後美濃がどうなったのかまでは知らない。

 残りの四人の女房は、それ以来大人しく勤めるようになった。


 しばらく住んだ邸ではあったが、結局地券を源氏に預け、仕える使用人ごと全て任せて、夏子は二条東院に移ったのだ。そこで夏子は源氏の嫡男の母代の役目を任される事になった。

 源氏に六条院の夏の庭を任された時には、嬉しいと言うよりは信じられなかった。

 春の御方は源氏の権の北の方。

 冬の御方は源氏の一人娘の生母。

 秋の庭は源氏の養女である中宮の里邸。

 そこに夏の御方として夏子が迎えられたのだ。

 ただ、最初の女であるというだけで源氏の訪れも間遠な夏子が、まさかそこに迎えられる事になると予想した者はいなかったろう。確かに嫡男の母代はつとめていたが、嫡男は既に元服もすませており、育てるというほどの仕事があるわけでもない。

 だから夏子自身にとっても青天の霹靂とでも言いたいような驚きだった。

 六条院の庭を任された御方たちはただの通い所ではなく源氏の妻だ。夏子は自分がそんな晴れがましい扱いをされる日が来ようなどと、夢にも思ったことはなかった。


 せっかく雪を下ろしてもらったのに、夜にはまたちらちらと雪が降り出した。

 月明かりに舞う雪は花の散る様に似て、どこか春の心地のするようだ。

 あかあかといこった炭をいくつも埋けた火桶の側で、夏子は静かに降る雪を見る。

 ひとひら、ひとひら。

 舞い落ちて降り積む影は物思いを誘う。

 自分は父である人を父と思った事はない。

 自分は母という人が誰なのかもろくに知らない。

 ただ、その時その時を、必死になって生きてきただけだ。

 そして源氏。

 夏子にとって源氏を愛するという事は待つという事だった。

 そしてその待つ時間は苦痛ではなかった。

 もしかしたら夏子はその待つ時間の間にこそ、源氏との愛を育てたのかもしれない。

 確かなものなどこの世にない。

 夏子はその事をたぶん誰よりもわかっている。

 それでもその不確かで曖昧な世界の中で、夏子は源氏を待つことを選んだ。

 源氏は夏子がいつも待っていることに気づいた。

 結局はただ、それだけのことなのかもしれない。

 そして、待ち続けた夏子がはじめて自分から赴いたのがこの庵だ。それは夏子が源氏に近づこうとする最初で最後のわがままだった。

 源氏が最期に暮らした場所で、自分も最期を迎えたい。

 そう思ったらいてもたってもいられなくなったのだ。その、源氏に近づこうという意志が、夏子に髪を剃らせ麻の衣をまとわせた。

 白い雪が舞う。

 夏子の中でそれはいつの間にか橘の花びらへと変じる。

 あれは源氏が須磨へ落ちようとしていた頃。夏子は久方ぶりに源氏の訪れを受けた。

香り高く橘の香の満ちる庭を、二人で眺めたのを覚えている。

 あの住まいをあの時、源氏は花散る里と呼んだ。

 今、この庵もまた花の散る里だ。

 空からふわりふわりと白い花びらが舞い落ちる。

 夏子はずっと待っていた。

 なかなかこない源氏のことを。

 だからここに源氏がいなくても、愛することは辛くない。

 不確かで、曖昧で、きっと信じられるものなんて何もない。

 それでも夏子は源氏を愛している。

 いつかその思いがほどけるその時まで源氏のことを思うだろう。

 

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花の散る里 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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