五色の糸
京と違い北山にはよく雪が降った。雪が降るとどうしても室内に籠もりがちになってしまう。夏子は前よりも持仏の観音像に向き合っていることが多くなった。
夏子の持仏はささやかだ。
ちょうど夏子のうでの指先から肘ぐらいまでの高さの観音像は、庵の立派な壇にはまるでそぐわない。
夏子自身はこの観音像がとても気に入っていたので、壇にそぐわないことはまるで気にしていなかった。
ふっくらと柔らかな頬にそっと指先をあてた六臂の半跏思惟像で、半眼の目が立膝で座った足の指先あたりを見つめている。
宝珠や法輪、数珠も携えた観音像は不思議に可憐な姿をしていて、柔らかに流れる衣の重なりも美しい。共に出家を望んだ夏子のために源氏が用意してくれたものだ。この像の開眼供養が、夏子が源氏と顔を合わせる最後の機会となった。
夏子は源氏自身の持仏の大日如来像を見たことはない。
ただ源氏と同じ身長の立像であることは聞き及んでいた。おそらくは庵の壇に相応しい、荘厳な像であるのだろうと思う。
その像は源氏の死後、庵から程近い寺に納められたはずだ。
可憐にささやかな自らの持仏を見つめる。正面に座って向かい合っても、観音像と目が合うことはない。観音像の視線は自分のつま先にそそがれている。
夏子はこの像を見ているとほっとする。
観音像は思い悩み、考えているように見えるからだ。
菩薩でさえも悩み惑うものだとしたら、自分が様々に悩みながら失敗多い生を生きたのは、あたりまえのありふれたことなのだろうと思えてくる。
源氏はその死の折に、五色の糸を握りしめていたそうだ。糸は持仏の大日如来の手に繋がれていた。
朝、しずめが庵に来た時には、寝具から這い出たらしい源氏は、五色の糸を握りしめたまま、事切れていたらしい。少し風邪気味ではあっても、特にひどく苦しいという風でもなかった源氏の死は、周囲を驚かせた。
この庵ではじめて知ることのできた源氏の死の顛末は、夏子にとってそれなりに納得のいくものであった。
特に死に際して五色の糸で御仏に繋がれるという形を守っていることが、いかにも源氏らしい。夜中に発作でもおこして、まず糸をつかもうとしたものと考えると、少しおかしくて、余りに源氏らしくて、目尻に涙が滲んだ。
それでは源氏は一人で死んだのだ。
五色の光に彩られて生まれ、多くの女人によって彩られた人生を送った源氏の、それが辿り着いた場所だった。
風邪を引いて寝込んでから、源氏は持仏の指に糸をかけたままにしていたと言う。
正直に言えば風邪ぐらいでおおげさだとしずめは思っていたようだけど、結局はその仕度は正しかった。その仕度がなければ、源氏が型通り糸を握って最期を迎えることは、出来なかったはずだ。
夏子にとってはその用意周到さがいかにも源氏らしくて、おかしく切ない。
形から入るところのある源氏だったから、死もまた形を整えるところから受け入れたのかもしれないと思うと、無性に源氏が懐かしかった。
六条院で源氏が自身の本拠にもしていた春の庭。その庭を任された春の御方が、最後の春に行った法要は、とても見事なものだった。
患って以後、住まいを六条院から二条院に移した春の御方の法要は、二条院で行われた。
時はまさに春。桜の盛り。
春の御方のおられるあたりは桜襲の出衣で彩られ、御用を賜って行き交う女童も桜襲を纏っている。
夏子も冬の御方と共に法要に参列した。
源氏でなく春の御方が自ら差配をふるったのだろう。法要は春に相応しい可憐な華やぎに満ちていた。
法要の終わるころ、春の御方から文が届いた。
たえぬべき みのりながらぞ たのまるる
よよにとむすぶ なかのちぎりを
この人は逝こうとしている。
夏子よりも遥かに若い、華やかに美しい人が、すでに自身の死をはっきりと見据えていることを夏子は知った。
むすびおく ちぎりはたえじ おほかたの
のこりすくなき みのりなりとも
源氏という男を共に愛したことが女同士の契りであると言えるなら、ともに六条院の庭を任された者同士の契りは浅くない。
その夏、春の御方は美しいままに散った。
春の御方を失った源氏の憔悴は激しかった。どんな女君も側には寄せず、ただぼんやりと春の庭を彷徨い、二条院を徘徊した。
まるで春の名残を探す冬の蝶のようなその姿は、あまりにも傷ましかった。
夏子は源氏が戸を叩く音を知らない。
けれど、春の御方はきっとその音を知っていたに違いない。その事に思い至って、夏子の胸が今更のようにつきん、と痛んだ。
それからふと、姉敏子の臨終を思い出した。
風のいたずらがたてた戸を叩く音に喜色を浮かべて事切れた敏子。
敏子の暮した麗景殿は、清涼殿から桐壺への道筋にある。かつて源氏の母君である更衣が清涼殿に渡る折はもちろん、帝が桐壺を訪われる折も、麗景殿のそばを通っていった。
姉はもしかしたら帝の足音が止まり、密やかに戸が叩かれるのを、何度も夢想したのかもしれない。だとすれば臨終の折に浮かべた喜色にも納得がいく。
そして夏子自身、初めて気づく。
源氏を待つのは嫌いじゃない。いつまでだって待っていられる。
でも、それでも夏子は常に、戸の叩かれないうちに気づいてしまうほどに、源氏を待っていたのだ。胸に生じた痛みは、夏子のうちに眠る嫉妬の痛みだった。
年の瀬が近づくと、満から大きな荷物が届いた。今回の荷物のほとんどは食べ物で、干し柿や干した茸、その他にも干し野菜の類が色々に、陳皮や葛などの身体を温めるとされているもの。
中でも珍しかったのは蘇で、これは傷みやすいものなので、届いた日のうちにしずめにもわけて食べてしまった。思わぬ珍味の分け前に与ったしずめは、目を白黒させていた。
あとは米や麦、餅も入っている。
それからいつも通りの香木に墨や紙。糸を染めるための染料の各種。
夏子は日々の様々なことと、満への感謝を綴った長い手紙を書いて、小さな
衣被香は夏子自身の織り上げた麻を使って縫い上げたもので、中身の香も夏子の独自の配合だ。夏子は焚き上げる香よりはこういうそのまま香りを移すような香の配合が得意で、源氏のためにもよく香袋など縫い上げていた。
衣被香も単なる平たい袋にはせず、例えば今回託したものは、梔子でそめた布で銀杏を模した形に五色の飾り糸がついている。梔子はそれ自体が虫を寄せない染料なので衣被香の袋の染の定番で、銀杏のほかにも山吹や橘、菊、雀などはよく作る形だ。
しずめにあげた雀の衣被香は、可愛いからと部屋の飾りにされているらしい。
夏子は持仏の観音像のためにも、蓮の香袋をこしらえた。立体的な形に作り、五色の飾り糸をわざと長く垂らす。
自分はうっかり者だから、源氏のように周到に準備をして臨終を迎えたりは出来ないだろう。だからその時には香袋の糸を、観音像と自分の指に絡ませて貰えばいい。
そういう気持ちだった。
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