Act.013

*****




夢を、見ている。


繰り返す夢。


ある意味、終わりのない夢。


それだけに先もない夢。


そう、夢。決して現実にはならない夢。


分かっているからこそ苦しくて。


理解しているからこそ、一時の安らぎを得る。


何度も言おう、これは夢だ。夢なんだ。




*****




「…ん……」


寝覚めは、最悪だった。


視界が霞むと思って起き抜けの瞼を擦ってみれば、腕が水分で濡れるのが分かる。何故か。寝汗ではない、涙だ。


「また、かよ…」


自分のことながら嫌悪する。昨日から思うが、どれだけ情緒不安定なのだろうか。涙を我慢出来ないだなんて、一時期服用していた精神安定剤を再開しなくてはならないのだろうか。考えるだけでドン底に憂鬱であった。


そんな気分から一刻でも早く抜け出したい一心で飛び降りるようにしてベッドから出る。乱れた布団も整えないまま制服を引っ掴んで部屋を後にする。階段を滑るように駆け下り、真っ先に向かったのは洗面所。飛び跳ねることなど気にすることなく水を最大勢で出し、両手で汲んではそこに顔面を突っ込むようにしてクールダウンを図った。


火照っていた頬が冷やされる。心地よかった。


「……ふぅ」


息を吐いた後に手探りでフェイスタオルを探し、少し痛いくらいの力加減で顔を拭った。そうすることでまとわりつく何かまで剥がし落とすかのように。




*****




テレビはいつの間にか好きではなくなった。ただ無音の部屋に耐えられなくてつけるだけ。チャンネルなど興味もなく、流れてくる内容など一切耳に入らない。だがBGMとしてはある程度優秀だと言わざるを得ない。音楽は、曲は、そのメッセージに流される可能性がある。だから、選ばないといけなかった。それすらも億劫な時や、自分が何を求めてるのかも分からない時、俺は決まってテレビをつける。


今日も今日とて、日本は平和そうだった。


何が起こっても、例え誰かの命が失われようとも、それが名も知らない誰かのみに起こったことである以上、対岸の火事の域を脱し得ない。可哀想、大変だなどの感情のこもっていない感想を抱くことさえ失礼に思えた。不倫報道や汚職疑惑など知ったこっちゃない。人間って汚ねぇ、やっぱりそれだけ。


「…ふぅ」


熱めの紅茶を飲んで一息つく。珈琲はそこまで得意ではなかった。残念なことにブラックでは飲めない。紅茶も特に拘りがある訳ではないが、蜂蜜を少し入れて甘さを出すのが好きだった。これは母の味なのだ。


母の、味なのだ。


「…。あー、もう。ほんと鬱陶しい」


昨日も誰かに言われた気がする。デジャブというやつでしょうか、いいえ現実です。見ず知らずの少女に罵倒される、それで悦べるほど壊れてはいない。




*****




今日もまた同じ、場面場面が飛び飛びな日常だった。自分の日常にさえ興味が持てない結果がこれである、もう二日前に何を食べたかなんて必死に思い出そうとしない限り思い出せないだろう。


なのに、だ。


忘れてしまいたい筈の過去が現在に割り込んでくる。それは両親の笑顔だった。それは歌南の言葉だった。それは芳村や雅輝の優しさだった。


それは泣いている俺自身だった。


「ちっ…」


良くないと思う。舌打ちさえ自然に出るようになってしまった。こんな奴にはなりたくなと思っていた人間にどんどん近づいていってる気がする。余裕がなくなっているんだ。凝り固まっていく。


そんなことを考えていると周りが賑やかになってきた。共通の通学路に出たということだ。周りを見れば同じ制服を着ている生徒が数え切れないほど確認できた。数え切れないほどの笑顔に囲まれていると感じて、思わず吐きそうになった。危ない危ない味噌汁が。


一方で知っている顔がいないことに安堵もしていた。歌南も芳村も雅輝もいない。あいつらにこんな姿を見せれば、また心配されてしまう。また弱さを露見させてしまう。


「あー、やだやだ」


周囲の音にかき消されるほどの大きさで静かに呟いた。多分、今、笑えている。どんな笑顔なのかは別として。




*****




「西条、昼休み職員室に来てくれ」


ちょうど昼休み前の授業が担任の河合教諭だった。そのせいでこんな形で呼び出されることになる。授業が終わり、ようやく解放されたことで賑わい始めていた教室が一瞬静まり返った。


「あ、はい…」


針の筵状態である俺は勿論そそくさと河合教諭に続いて教室を後にするのだった。


「…わざとですか?」


「何がだ?」


「もうちょっとあるでしょ、呼び出し方」


「やだよ、めんどくさい」


この人、本当に教師なのだろうか。熱意というものを今まで微塵も感じたことがない。悪くはないが、決して良い訳でもない。普通の能力に、やる気が少し足りないだけ。それが俺個人としての河合教諭の評価だった。


「で、だ。聞きたいことは言わなくても分かるだろう?」


「と言いますと?」


「しらばっくれるなよ、めんどくさい。木暮のことだ、お前何か知ってるだろ?」


「え?」


「確かにな、両親からは体調不良ということで連絡を貰っている。今日もそうだ。だが、木暮が風邪にやられるようなタマか?」


「いやそりゃ人の子ですし...」


「年中無休のコンビニみたいな人間が突然休むのなんてな大抵異性絡みって相場が決まってんだよ。だから、もう一度聞く。西条、お前何かしただろ?」


「既に俺が何かしたのは決定事項に⁉︎」


「吐けば楽になるぞー、二日酔いみたいなもんだ。何ならカツ丼の出前でも頼もうか? 美味しいんだわ実は」


「いや...カマかけるつもりならもっと本気でやってくれませんか?」


「悪い悪い、お前の反応見てるとカマかけるのもバカらしくなってきて」


「はぁ。それじゃ、もう戻っていいですか?」


「あー、ダメだ。お前ちょっと近くの中華屋まで行ってこいよ、外出許可はテキトーに出しとくから」


「何でいきなり...」


「大丈夫だって、あそこそんなに美味しくないって評判だからさ。どこかのやる気のない数学教師としか鉢合わせることもないし」


やる気のない数学教師。河合教諭の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。表情を見てみれば自虐的な笑いを浮かべている。手にはいつの間にか財布が握られていた。


そういうことか。


「分かりました。でも、ちゃんと外出許可証だけは提出してくださいね」


「西条、構内で便を催すのを極度に嫌い仕方なく近所の中華屋の便所を拝借っと...」


俺が河合教諭の手からプリントを抜き取り、ビリビリに破り捨ててから職員室を後にしたのは言うまでもない。




*****




「いやぁ、まったく最近の若い者はキレやすくて困る。お、西条こんな所で会うだなんて奇遇だな」


棒読みだった、清々しいほどの。


「そうですね。でも、世間では我慢できない大人が問題になっていますよ。キレやすいし、突発的にとんでもないことをやらかすとか」


「ふーん、生き辛い世の中になったもんだな」


「そうですね」


「あ、おばちゃん。麻婆丼一つ、ご飯多めの辛味増し増しで」


あいよ〜とキッチンの奥から女性の声が返ってきた。店内はお昼時ということもあり、多くのサラリーマンで賑わっている。ウェイトレスであろう妙齢のおばさんも流石に忙しいのかキッチンからの出入りが激しい。


「で、お前は何を頼んだの? 油淋鶏?」


「おぇっ」


「素直な奴だなほんと」


「すみません…。餃子とライスのシンプルなセットにしました」


「足りるのかよそんなんで。お金なら別に気にしなくていいんだぞ」


「やだよ、借り作るみたいで」


「よく分かっていらっしゃる」


そこで一息つこうと二人とも汗をダラダラにかいたコップから水を飲む。冷房が効いた店内はしかし、それでもキッチンからの熱気が勝っているようで外とはまた違う熱気に包まれている。空気がなんだか全体的にスパイシーなのは中華料理店特有のお茶目さだろうか。


「はいよ、お待ち〜。先に餃子とライス。麻婆丼はもうちょっと待っときな」


豪快な人だった。まさにおばちゃんというイメージにピッタリの真っ赤なエプロンをした女性が俺の目の前に料理を置く。焼き立てであろう餃子からはまだ油の爆ぜる音が聞こえ、隣のライスは通常盛りだというのに山をなしているかのようだ。間違いなく男性向きの食事。野菜など餃子の中に含まれる数パーセントしかない。こんなの毎日食べると太ってしまう。その前に胃が拒絶反応を示しそうだが。


「ほら、気にせず先に食べろよ」


「いえ、伸びるものでもないので」


「でも、冷えるだろ」


「猫舌なもんで」


「軟弱だねぇ」


河合教諭の態度は構内よりもフランクなものだった。怠そうな感じが数倍増している。俺個人に対する態度というわけではなく、きっとプライベートではこんな感じなのだろう。周りに学校関係の人がいないと前以て呟いていたところを考えるに、河合教諭の息抜きの場なのかもしれない。


そんな観察をしていると、程なくして河合教諭の前に真っ赤な丼に入った麻婆丼が並べられる。香辛料がふんだんに使われている麻婆は見てるだけでも汗をかきそうで。下のご飯など全く見えないほどたっぷりとかけられている。胃がキリキリした。


「いただきます」


「召し上がれ」


あんたの作った飯じゃねぇじゃんとは言わない。不毛な言い争うに発展するのは目に見えていた。それよりも今は目の前の餃子に集中しよう。酢と塩胡椒だけで食べるのもいいかもしれない。


「あー、辛っ。なんだよこれ食べ物かよ」


「…。ツッコミ待ちですか?」


「いや、単なる独り言。あー、舌が痺れてきた。相変わらず容赦ねぇなここのオヤジ」


「そうですか…」


早速出鼻を挫かれたが、河合教諭の様子を伺うに独り言であるのは間違いなさそうだった。一口食べただけだというのに鼻の頭には玉のような汗をいくつも抱え、来店時に配られたコップは既に氷を残すだけとなっていた。どんだけ辛いんだよ、増し増しって。




*****




「…ふぅ。ご馳走様」


「ご馳走様でした」


先に食べ終わっていた河合教諭は俺を待ってくれているようだった。そりゃそうか。意味もなくただ中華料理屋に呼び出されたりはしない。


「どうだ、美味かった?」


「はい、胃がもたれそうです」


「軟弱だねぇ。痩せたんじゃないか、また」


「体重的にはそんなに」


「顔色の問題かねぇ〜」


「そんなに窶れて見えます?」


「自覚がないのは本人だけってやつさ。別に俺だけじゃないぞそう思っているのは」


クラスメイトも、他の先生たちも。と遠くを見るようにしてボソッと呟く。自分のことが話題になるのはあまり好ましくなかったので俺は聞こえないフリをした。


「で、だ。どうなんだ、最近」


「…どうとは?」


「言わせんなよめんどくさい。何年教員やってると思ってるんだ」


「……別に前ほど辛くはないです」


「そうか」


「でも、楽しくもない」


「そうか」


「気になることと言えば…歌南、じゃないや木暮の休んでる理由くらいです」


「幼馴染だねぇ。でも、個人情報だから教えてあげない。それでも知りたいのなら本人に聞くんだな」


「………」


「そんな睨むなって。別に意地悪したい訳じゃなくて、ほんとに教員人生に関わる問題なんだから。流石に職がなくなるのは困る」


「…、はい」


「ま、時間が過ぎればマシになることもある。それでもどうにもならないことだってある。誰しもが経験することじゃない。でも、お前だけが経験していることでもない」


「………」


「要らんお節介だとは思うが、もっと前を向けよ西条」


「はい…」


「じゃ、俺はニコチン摂取して帰るから」


河合教諭は言いたいことを言い切ったとばかりにあっさりと席を立つ。もっとこう…説教でもされるのかと思っていた。根掘り葉掘り聞かれるのかと思っていた。尋問のような時間を過ごすものかと。


しかし、目の前で会計を済ませている河合教諭にそんな様子は見えない。警戒しすぎたのかもしれない。それを悟られていたのかも。または、本当にただ気まぐれで気にかけてくれただけなのかも。


「あの」


「う〜ん?」


「ご馳走、様でした」


「おう、午後もサボんなよ」


ヒラヒラと手を振りながら河合教諭は暖簾の先へと消える。手には既に煙草の箱が握られていた。そんなに吸いたいのだろうか。


吸って、何かが変わるのであれば、俺もあやかりたいと思ってしまった。




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千歳玉響 ‐紅花‐ 灯火可親。 @takemottexi

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