Blue Rose

みのり

Blue Rose


 数年前――記憶障害を患い、何度目かの眠りから覚めた七海が最初に見たものは、父が差し出した一輪の青い薔薇だった。


 ぼんやりとしながら父を見上げ、その傍らに立つ男に視線を移す。無機質な目をしたその美しい男は、アンドロイドと呼ばれるものだった。


 その日から、有馬稔ありまみのると名付けられたアンドロイドは、七海だけの執事になった。


「――プログラムされた感情が、〈本物〉でなかったとすれば」


 男は話しながら、慣れた手つきで紅茶を淹れる。


 七海には、その仕草が機械的に見えなかった。二分半、きっちりと紅茶を蒸らすあいだ、有馬の細長い指が神経質そうにゆっくりとテーブルの端を叩いたのだ。


 人間らしく見せるためのプログラムだとすれば、苦笑するしかない。少なくとも、同級生の家のアンドロイドはこんな人間味のある仕草をしない。


「自然のプログラムの中で生きる人間も、本物とは言い難い。それに、人間の認識なんてものは、ひどく曖昧なものですよ」


 七海が別のことを考えていると見抜いたらしく、有馬はひやりとするような流し目を寄越した。


「そんなの屁理屈だわ。アンドロイドは不完全な人間が生み出した作り物。だけど、自然が生み出した人間は、少なくともアンドロイドとは違う」


「どう違いますか」


「どうって……人間には感情があるわ」


「〈本物の〉感情が?」


 淡々と聞き返されて、七海は口ごもった。


 目の前に置かれたティーカップから、ローズの甘い香りが漂ってくる。立ち上る湯気が、二人を隔てる壁のように見えた。


「自分の感情が〈本物〉だと、どうして言い切れるのでしょう」


「本物、偽物という区別がお気に召さないなら、言い換えるわ。自然か、人工か。私は人工の感情を信じられない。――それが答えよ」


 先ほど、有馬が口にした問いの答えだ。


 ――私があなたを愛していると言ったら、どうしますか。


 冗談とも本気ともつかない質問に、人間である七海は滑稽なほどうろたえた。


 そして、心のうちで、確かに歓喜した。


 その気持ちを顔に出さなかったのは、脆い理性がぎりぎりのところで働いたからだ。


 アンドロイドに恋をするなんて、馬鹿げている。


「どうして、急にそんなことを――」


 最後まで言わないうちに、有馬に肩を引き寄せられた。


 柔らかな黒髪に、形のいい眉、思慮深そうな瞳が、すぐ目の前にある。無機質な目は初めて会った頃よりわずかに柔らかくなっているが、相変わらずの無表情だ。


「読めないな……」


 そう呟いたのは、七海ではなく有馬だった。


 人形遊びの延長だと、七海は自分の心に言い聞かせた。


 心拍数が上がっているのが、忌々しい。


「そう簡単に、心を読まれてたまるもんですか」


「質問を変えましょう。アンドロイドに恋をするのは、可笑しいことですか?」


 肩から手が離れたかと思うと、有馬は怖いほど真剣な面持ちで囁いた。さっきから、七海の答えを必要としているのかそうでないのか、わからないような言い方だ。


 無礼だと怒るタイミングを失って、行き場のない戸惑いを少しでも晴らそうと、七海は軽く鼻で笑ってみせた。


「私が、あなたに恋をしているとでも?」


「ただの一般論です」


 盛大に墓穴を掘る形となって、顔が火照るのがわかった。


「別に……本人が幸せならいいんじゃないの。だって、それこそ自然現象みたいなものでしょ。理屈抜きで心惹かれるんだから、仕方ないじゃない」


「まるで、そんな恋を経験したような口ぶりですね」


「経験なんてあるわけない……。私には、わからないわ」


「それじゃあ、わかったら教えてくださいね」


 背けていた顔をそっと有馬のほうに向けると、とびきり甘い笑顔があって、七海は今度こそ言葉を失った。


 甘いのに、どこか切ないーー影のある、不思議な笑みだった。



 高校が終わるとすぐに、迎えが来て車に乗せられる。お嬢様学校には珍しくない光景だけれど、今まで一度も放課後に外で友達と遊ばせてもらったことがないというのは、どうかと思う。


 運転手が有馬だから、不服は言っても、これまで実際に何かを要求することはなかったが――。


「あれ、有馬じゃないの?」


 校門で待っていたのは、有馬ではなく、父の秘書だというスーツ姿の女性だった。


 基本的に父は研究所ラボに籠りきりで、滅多に会いに来てくれないけれど、来るときは必ずこの女性を伴っている。


「今日はメンテナンスの日ですから」


 秘書がそれだけ答えると、車内に沈黙が流れた。


 べつに不仲というわけではない。いつも事務的な対応なので、こちらも必要以上の会話はしないというだけだ。


 メンテナンスと聞くと、やはりアンドロイドなのかと実感する。同時に、あんなに本物の人間そっくりなのに本当だろうかという疑問もわく。


 ――無性に、メンテナンス中の彼を見てみたいと思った。


 アンドロイドなのだと――人間ではないのだと、実感したかった。


「あの、すみません。そこのお花屋さんで、薔薇を買ってもいいですか?」


「薔薇ですか?」


 秘書が意外そうに聞き返してくる。そんなに突飛な発言だっただろうかと考えながら、黙って頷いた。


「私が買ってきますから、待っていてください」


 思ったとおり、秘書は鍵をさしたまま車から降りた。


 秘書が店に入るのを見届けると、七海はすぐさま運転席に移った。外で運転したことはないけれど、限りなく現実に近いバーチャル・トレーニングでは最高点を取ったこともある。


 実際の運転免許の試験にも導入されているのだから、と言い訳を呟きながら、七海はさっきの彼女の反応を思い出していた。


 考えてみれば、自分には物欲があまりない。ただ、薔薇だけは別だ。記憶障害を持つ七海だから断言は出来ないけれど、あの研究一色の父が、おそらく初めて七海にプレゼントしてくれたのが、薔薇だったのだ。


 美しい、青い薔薇を。


 アンドロイドをプレゼントと言っていいのなら、有馬は二番目の贈り物ということになる。だから、七海は有馬に愛着を持っているのだろう。


 ーーそれだけだと、七海は自身に言い聞かせた。


 父の研究所は厳重なセキュリティに護られているけれど、娘なら関係ない。一人で来るのは初めてだったけれど、父に呼ばれたのだと言えば、すぐに通してもらえた。


 父には既に、七海が逃げ出したことが伝わっているだろうから、有馬を一目見たらすぐに帰るつもりだった。


「――逃げ出したっ?」


 こそこそと研究所のなかを歩いていると、曲がり角から有馬の声が聞こえてきた。


 あんなに焦った声は聞いたことがない。後で盛大にお小言を食らうだろうと覚悟したけれど、あの有馬が慌てているのだと思うと、くすくす笑いを抑えるのに苦労した。


 壁から顔の半分を出して、声のした方を見ると、いつもの執事服ではなく、白衣に眼鏡という出で立ちだった。


 アンドロイドに眼鏡という組合わせには違和感がある。それに、白衣なんてものを着ているから、メンテナンスを施す側ーー父と同じ研究者のように見える。


 なんだか、すごく嫌な予感がする。


 その予感がなんなのかを考えるよりも早く、背の高い有馬の影になって見えていなかった人物の顔があらわになって、息を呑んだ。


「今はライバル会社だけでなく、新聞記者までが私の研究を嗅ぎ回っているんだ。もしかしたらあのイカれた研究者は、もう人間に限りなく近いアンドロイドを開発したのではないかーーとな。私は七海を世間にさらすつもりはない。早急に見つけ出せ。そのあとは、君の好きにしていい」


 お父さん。


 七海は口元を手で押さえた。そうでなければ、発狂してしまいそうだったから。


「好きにしていい、とは……」


 有馬の戸惑うような声が、どこか遠くから聴こえる。さっきまで、あれだけ近くに感じていたのに。


「言葉通りの意味だよ。アンドロイドの研究はもう終わりだ。倫理がどうとか、世間もうるさいからな。君にやる」


 父が何を言っているのか、全く理解できない。


 ふと、七海はガラスの壁に自分の姿が映っていることに気がついた。


 ガラス越しに、父と視線がぶつかった。


 七海は何も考えずに、とにかくこの場から逃げることを優先した。


 〈自分のほうが〉アンドロイドかもしれないなんて、信じられなかった。



 乗ってきた車に飛び乗って、あてもなく車を走らせる。そのうちに海岸が見えてきたから、適当な場所に車を停めて、浜辺へと降りた。春先の海なんて寒々しいだけだけれど、今の七海にはぴったりだ。


 潮の匂いがつんと鼻先を刺激する。海水に触れれば、冷たいと思う。こんなにも、リアルに感じることができるのにーー。


 何かの聞き間違いだったんだろうか。自分を人間だと信じて疑わないアンドロイドなんて、ありえるのだろうか。


 食事だって普通に、と思ったところで、ぞっとした。食べたという記憶はあるのに、どんな食べ物の味も、とっさには思い出せなかったのだ。


 記憶は、自分を人間と思い込むように、プログラムされたものだった?


 記憶喪失は病気ではなかった、ということか。


 七海は足元から崩れていくような感覚に耐えられなくなって、その場にしゃがみこんだ。


 時折、波が足首まで濡らす。どこまで耐水加工されているのだろう、と考えたところで、叫びそうになった。


 七海はすでに、自分がアンドロイドだということを受け入れつつある。普通の人間なら、きっとそうはならない。


 馬鹿な私ーー忠実なアンドロイドだと思っていた相手は人間で、自分のほうが作り物だったなんて。


 このまま、海の底に沈んでしまおうか。


 ふらふらと歩きだした七海の腕を、誰かが後ろから掴んだ。


「有馬」


「ばか、入水するアンドロイドがあるか」


 いつもはきっちりと整えられている髪が乱れていた。息もあがっている。必死になって自分を追いかけてきたのかと思うと、胸が熱くなる。


 この感覚さえも偽物なら、一体何が本物なんだろう。


「私ーー本当に、アンドロイドなの? 人間じゃないの?」


 有馬は痛ましげな目をしたけれど、残酷にも「ああ」と肯定した。


「なんで、そんなことーーどこまでが本当の記憶なの? それすらわからない」


「俺といる間の記憶は、実際の出来事だ。俺と交わした会話、見聞きしたことーー」


「でも、有馬は私のことを騙してたっ」


「それはーー悪かった」


 そんな痛ましげな顔をされたら、七海が傷つけたみたいで胸が苦しくなる。


 もうアンドロイドの〈フリ〉をする必要がない有馬は、敬語ではない。眼鏡は外しているけれど、すぐに七海を追いかけてきたせいか、白衣のままだ。


 人間の有馬と、アンドロイドの私。


 騙していたとか、そんな話ではないとわかっていても、非難せずにはいられない。


「そんな格好、似合わないよ……」


「ごめん」


 七海はかっとなって、有馬の胸を殴りつけた。


「簡単に謝らないでよ……これなら、記憶喪失のままが良かった! なくす記憶すらないなんて、ひどすぎる……」


 アンドロイドの七海は、涙を流せない。それなのに、どうして喜怒哀楽があるのだろうと、不思議で仕方なかった。


「人間だと思い込ませたら、本物に限りなく近づけるんじゃないかーーそういう実験だった」


 有馬は動かなくなった七海の肩を優しく包み込んだ。


 作り物に、そんなことをしないで欲しい。まだ何かすがれるものがあるのではないかと、期待してしまう。これ以上絶望してしまったら、本当に壊れてしまいそうなのに。


「自分が作り物かどうかは、君自身が知っているはずだ」


「なにーー?」


「七海。俺が好きか? 自分がアンドロイドだとわかった今でも?」


 有馬の目は真剣そのものだった。


「うぬぼれすぎ……」


「どうなんだ」


「好き……好きだよ。有馬が好き。でも、これもプログラムの内だったら? 怖いよ……」


「心配しなくていい。そんなプログラムは施されていないよ」


 有馬は優しく笑って、大きな体で七海を抱きしめた。


「君の脳と心臓だけは、人間のものだから。人工じゃない」


 七海は有馬の胸に手をついて、体を離した。


「誰の?」


「博士の死んだ娘さん」


「でも、そんな記憶はないよ」


「記憶は回復できなかった。だから、君は死んだ娘とは関係ない。少なくとも、博士はそう考えている。その証拠に、娘の名前は七海じゃない」


「それって……」


「君自身を愛そうと思ったんじゃないか」


「でも」


 さっき立ち聞きしてしまった話が思い浮かんで、混乱してしまう。


「もう、私のこといらないって……」


「わざとああいう言い方をしたんだ」


「なぜ断言できるの?」


「弟子にしかわからないこともある。君を実験対象とすることに、耐え切れなくなったんだ」


 沈黙が落ちる。七海はうつむいて、水平線の彼方を見つめた。


 ――私はこれから、どうすればいいんだろう。


 アンドロイドだとわかった今では、もう学校に通いたいとも思わない。そんな演技はしたくない。


 貝殻を見つめながら歩き出すと、そうすることが当然のように、有馬も七海の隣に並んだ。こうしていると、今までと何も変わらないような錯覚に陥る。


「私、これからどうしたらいい?」


「嫁に来ればいい」


 七海が立ち止まると、有馬が前に回り込んだ。


「アンドロイドを本気で愛せるの?」


「七海は、俺がアンドロイドでも愛せるんだろう?」


 悪戯っぽい笑みを向けられて、心拍数が跳ね上がった。


「なーー」


「でも、好きになったのは俺のほうが先だと思うけどな」


 有馬は不意に真剣な顔に戻って、はっきりと言った。


「愛せるよ」


 有馬の目は、すでに障害を乗り越えたような清々しさがあった。


 有馬だって、アンドロイドを好きになることについて、悩んだに違いないのだ。

 

 ようやく、差し伸べられた手を素直に受け入れられる。


 ふと、有馬の白衣のポケットに青色の何かを見つけて、取り出した。


「青い薔薇?」


「いつの間に……」


 有馬自身も気づいていなかったようだ。


 美しい人工の色が、最初に見た記憶を思い起こさせる。


 ブルーローズ、奇跡と言われた、人工の薔薇。花言葉は、「奇跡」「神の祝福」だ。


 父が、最初にくれたプレゼント。


 有馬も思い出したのだろう。七海の両手ごと、青い薔薇を包み込んだ。


「それで、返事は?」


「わかっているくせに……」


 ーーあの日、目覚めた時の記憶が嘘でないなら、全てを受け入れられるような気がした。愛しいものを見つめるような、温かな眼差しに包まれて、七海は<生まれた>のだから。


「アンドロイドだなんて気にならないくらい、愛してあげる」


 私があげられるだけの愛を、いつか壊れるその日まで。


 そう心に誓って、七海は愛しい人の胸に飛び込んだ。

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Blue Rose みのり @schwarzekatze22

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