ビタードリップ
みのり
ビタードリップ
――気になるのは、世界が狭すぎるせいだ。
電車の向かい側の席で無防備に眠っている男を見て、
女子校に通って五年。唯一話す機会のある男性は教師だけ。その教師が不意に無防備な姿を見せたものだから、ついつい視線が吸い寄せられてしまう。
――それだけの、話だ。
千晶はためらいがちに、眠っている男の顔を観察した。
別段顔が整っているわけではない。人好きのする顔で、真面目そうに見えるけれど抜けているところもある。
生徒受けはまあまあ。彼女はいなくて、一人暮らし。かっこよくはないけど、愛嬌はある。三年前にやって来たばかりの先生だから、たぶん、歳は二十代後半くらいだろう。
塾に通い始めたら、帰宅中の先生と同じ車両に乗り合わせるようになった。先生の寝顔を見るのは、今日で三回目だ。
先生ってこんなに遅い時間に帰るんだ、というのが一回目の感想。いつもと違う様子に興味を持ったのが二回目。
それから――廊下を歩くたびに、ついつい先生を探している自分に気づいてから、ちょっと可笑しくなった。
学校に行くのが楽しみになったし、先生と廊下ですれ違っただけでラッキーだと思う。話しかけられると緊張するのに、視界に入る道を通ったり――とにかく、色々と可笑しいのだ。
不意に、先生の肩がびくりと揺れた。
笑いを押し殺していると、何の前触れもなく目が合った。
千晶は半笑いを浮かべたまま、硬直した。
当の先生は驚いたように目を見開いてから、へらっと笑みを浮かべた。眼鏡を外していたから、その笑顔はいつもよりあどけなく見えた。
――心臓が、跳ねた。
「お前、俺の寝顔を見て笑ってたな」
「笑ってませんよ。今日が初めてじゃありませんし」
千晶は動揺を押し殺して、うそぶいた。
「まじか。完全に気ぃ抜いてたわ」
いつになく、砕けた口調だった。国語の教師だからか、先生はどちらかと言えばいつも丁寧な物腰で、「まじか」なんて言葉を使うとは思わなかった。
けれど――学校にいる時の先生は、〈先生〉を演じているのかもしれない。
急に先生が知らない男に見えて、緊張した。
「そっち行っていい?」
「え?」
空いているとはいえ、向かい合って話せるような雰囲気ではない。
先生は急に立ち上がると、当然のように千晶の隣に座った。
「なんで来るんですか!」
驚いた千晶は、思わず大きな声を出してしまった。
「そんなに嫌がらなくても……痴漢に間違えられたらたまらないから、やっぱ離れるわ」
「す、すみません。意外だったんで……席、移らなくていいですよ」
腰を上げかけた先生を慌てて止めると、先生は「最近の女子高生は難しい……」とぶつぶつ文句を言いながら座り直した。
――どうしよう、緊張する。
――何を話していいかわからない……。
沈黙を恐れたけれど、そんな心配は杞憂に終わった。相手は一日中話している人間なのだ。心配しなくても、向こうから話を振ってくれた。
塾のこと、今度の文化祭のこと、最近読んだ本のこと――。
先生と話すのは、気が楽だった。相手がこちらを気遣って話題を振ってくれるから、ただ自分のことだけを話していればいい。先生はどんな答えでも何かしら反応をくれるし、否定しない。
――それが、妙に虚しかった。
先生は、自分のことは話さない。当然だけれど、千晶に個人的な興味がないのだ。だから、自分のことを話す必要がない。
先生に自分のことを知ってもらいたくて、一生懸命話している自分が滑稽に思えてきた。
「先生、質問ばっかり」
「え? ああ、悪い。嫌だったか?」
「嫌じゃないです。話を聞いてもらえるのは、嬉しいです」
「やっぱり難しいな」
「先生のことも、話してください。私ばっかり答えるんじゃ不公平です」
心臓がうるさい。勇気を振りしぼって言ったのだが、先生は何も感じなかったようだ。
「俺のこと? 急に言われてもなあ」
「先生って、いつも職員室で珈琲飲んでますよね。缶珈琲じゃなくて、インスタント? なんか、すごくこだわりを感じるんですけど、好きなんですか?」
「よく見てるなあ。そうなんだよ、俺、缶珈琲は好きじゃないんだ。インスタントじゃなくて、挽いた豆を持ってきて淹れてるんだよ」
「ふうん。珈琲って苦くて飲めないんですよね。大人の味?」
「あー、女性は男より、苦味に敏感だって言うよな。でもまあ色々種類はあるから、苦くないのもあるし……そういえば、苦味って二種類あるんだよ」
珈琲の話が気に入ったのか、先生の口調にわずかだけれど熱がこもる。
先生が子どもっぽく見えて、意味もなく勝った、と思った。
そんなことを考える時点で、子どもなのだけれど。
「コーヒー豆を焙煎するとき、焦がすか焦がさないかで後味が変わるんだ。焦がさないほうが、苦味がソフトで後味が爽やかだ」
「焦がすと?」
「苦味がきつい。刺のある苦味って言うか……俺は焦がさないほうが好きだな」
「私も、珈琲飲んでみようかな……」
「おう、たまには親孝行で、お父さんに淹れてあげな」
誰かのためというのもいいけれど、自分のために淹れたかった。恋かどうかもよくわからないものに振り回されている自分を、少しだけ甘やかすために。
もちろんそんなことは口に出せないから、千晶は曖昧に頷いた。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
「はい。ありがとうございました」
最寄り駅に着き、別れの挨拶を交わす。
――先生は、焦がさない珈琲がお好き。
一人になると、千晶は歌うようにこっそりと呟いた。
――恋かもしれないし、恋じゃないかもしれない。
どちらかわからないけれど、久しぶりにわくわくした。
――どうやら、好きな人がいるというのは楽しいことらしい。
日曜日の朝は、いつもより少しだけ早く起きた。
珈琲豆の専門店なら、家の近くに一軒だけある。前から気になっていた、いつも戸の閉まっているお店だ。
近寄りがたい雰囲気にたじろいでいたけれど、今日は入れそうな気がする。
千晶は思いきって、引き戸に手をかけた。
カウンター席と、テーブル席が一つ。壁にはギターが無造作にかけられていて、誰かの家に迷いこんだような内装だった。
「いらっしゃい」
店の奥から白髪まじりのおじさんが出てきた。
席には長居お断りの札があり、黒板に書かれたメニューは珈琲だけ。そこにはさらに、当店ではミルクを出さないとまで書いてあった。
豆を買う前に、飲んでおきたい。千晶はカウンター席に座り、恐る恐る珈琲を頼んだ。
店主が奥へと引っ込む。
音楽のかかっていない無音の店内では、通りの物音がやけに響いた。
車や自転車の通る音、人の話し声、そして足音すらも、耳に届く。
不思議な静寂のなか、珈琲を淹れる音が綺麗な音楽のように聴こえた。
どうぞ、と店主が珈琲を持って戻ってくる。
砂糖を入れようとすると、
「待った! 砂糖を入れる前に、そのままの味を味わって!」
急に大きな声で待ったがかかり、千晶は声も出せずに硬直した。
嫌だと言える雰囲気ではない。千晶は言われたとおり、渋々、砂糖を入れずに口をつけた。
予想していたようなきつい苦味は感じないけれど、甘党の千晶には少し苦しい。
けれど、ね、おいしいでしょうと言われれば、そうですね、と返すしかない。
すると、店主はティーカップにお代わりを継いでから、そこにお湯を足した。
「苦いのが好きじゃないなら、砂糖よりもお湯を入れたほうがいいよ」
飲んでみて、と促されて再び口をつける。確かに、苦味は薄まっていた。
「おいしいです……」
そうだろう、と言わんばかりに、店主が鷹揚に頷いた。
そこから何故か、珈琲談義が始まった。
「珈琲一杯に八百円もつけてるところは、何もわかっちゃいない。うちみたいに四百円くらいがちょうどいいんだ」
千晶にはよくわからない職人気質だが、話を聴くのは新鮮で、案外面白かった。
「――ま、これで君も、ちょっとは珈琲通になれたんじゃない」
そう言って、店主は話を締めくくった。
――珈琲の苦味は、大人の味。
苦いけれど、でも後味は爽やかで、舌の上に淡い余韻を残していく。
「先生、私も豆から珈琲飲んでみましたよ」
そう報告すると、先生は嬉しそうににっと笑った。
「珈琲もいいでしょう」
――学校向けの話し方だ。
「ああいう苦さなら、美味しいと思います」
苦い部分も受け入れてみれば、後味が楽しみになる。
もしかしたら、恋もそんな感じなのかもしれない――と考えるのは、大げさだろうか。
「でも、自分で淹れたのは薄すぎて、正直そんなに……」
「美味しい珈琲を飲んで、何回も淹れていれば美味しくなるよ」
「美味しい珈琲っていうのがどんなものか、よくわかりませんけど……」
「美味しい珈琲の店を知っているんだけどなあ……ま、高校卒業したら連れていってあげるよ」
えっと驚いていると、先生は少年のように笑った。そして、声を落としてこう言った。
「俺さ、生徒の記憶に残るような言葉を贈れる教師を目指してるんだ。だから、卒業したらハイ終わりじゃなくて、たまには遊びに来てほしいんだ。そしたら、自分がどんな言葉を残せたか、わかるだろ?」
思わせ振り――とは、思わなかった。
期待しそうになったのは確かだけれど、先生が恋愛対象として自分を見ることがないのはわかっていたし、先生とはそういうものなのだ。だから、安心して追いかけられるのかもしれない。
「珈琲が好きな、大人の女になってるかも」
「そうだとしたら嬉しいな。何かにこだわりを持つって、大事なことだからさ」
こだわり――自分にはまだ、ないものだ。
「確かに、なんか大人って感じがしますよね」
そう言うと、先生は小さく吹き出した。
「やけに〈大人〉にこだわるな」
「……そういう年頃なんです」
「ま、今は〈今〉を楽しんだほうがいいぞ。背伸びも大事だけどな、結局、何歳になっても俺は子どもだなあと思うんだよ。そういうもんだから、楽しめる時に楽しんでおきな」
そういうことをさらっと言えるあたりが、やっぱり大人だと思うのだけれど――先生の驚く顔が見たいから、今から少しずつ、大人の女を目指してみようと思った。
ビタードリップ みのり @schwarzekatze22
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます