愚者のサイン

甲乙 丙

第1話

「俺はもしかしたら日本人じゃないかもしれない」と友人が深刻な顔をして呟いた。

 僕はどう受け答えすればいいのかわからずに、おう、とだけ返す。

 駅前の喫茶店にいた。まさか真面目な話をされるとは思ってもみなかった。僕はどうせいつもの馬鹿話だろうと高をくくって、呼び出されたついでに借りてたDVDでも返そうかな、と持参した紙袋からそれを取り出そうとしていた。とりあえず、元に戻した。

「お前、ジェスチャーサインってわかるか?」と同じトーンで友人が僕に尋ねる。

「ジェスチャーサイン? それってピースとかそういうの?」僕は友人に向けて右手の指を二本にして広げて見せた。

「やめろ!」と突然友人がすごい剣幕で怒鳴った。「いいか。ジェスチャーサインってのはな、日本人からしたら当たり前の行動だとしても、海外の人からしたら違った意味に見えるものなんだよ」

「それぐらい、知ってるよ。でもここは日本で、僕とお前は日本で生まれたし日本で生活している。ここには僕とお前しかいない。それなら問題はないんじゃないのか?」

「だから、言ったじゃないか。俺は日本人じゃないかもしれないって」と友人が困ったような顔を浮かべる。

 僕にはよく分からなかった。友人の名前はごく自然に日本人らしい名前だし昔から知ってるご両親はどちらかと言えば厳格な、と修飾しても良いくらいの日本人だったと記憶している。

「とにかくだ」と友人が話しを続ける。「ジェスチャーサインは海外の人からしたら違う意味に見えるというのが大事なんだ。それでだ。今巷の女の子はピースサインを、こう、裏にして写真とかとってるだろ?」と友人は周りを気にしているのか僕にだけ見えるように身体で隠しながら実演して見せた。

「ああ、それが失礼にあたるって事?」それは僕も知っていた。

「そうだな、失礼だよ、あれは。それでな、さらに巷ではこの裏にしたピースサインをこう……いややめておこう。口にあてて写真をとったりもするじゃないか」友人は実演しようとした手を途中で止めたが、僕にはそれがどういったポーズだか簡単に想像できた。

 友人が息をスーと吸い込み、緊張した面持ちで言い放った。

「俺はな、あれを見るとどうにも……興奮するんだよ」


「は?」突然の流れに僕は意味がわからなくなった。

「だから……。俺にはあのポーズがとても卑猥な、純情な少年なら眼を背けて顔を真赤にしてしまうんじゃないかってくらいのものに見えるんだよ」

 僕はどう受け答えしていいかわからずに、おう、とだけ返した。

「分からないか? 例えるなら……」と友人はウンウンと唸った。「お前、もし目の前に女の子がいたとして、その子がいきなりパンツをずりおろして股を広げたらどう思う?」

「それは衝撃的だな」

「そう、その衝撃と同じくらいの衝撃なんだよ。あのポーズは」

「そんなにか」と僕は愕然とした。なんという……馬鹿な話なんだろう。これは。

 友人は未だに、眉間に皺を寄せ伏し目がちになりながらさも深刻に悩んでいるんです、という顔をしている。

「お前が勝手に海外の話を持ち込んできて思い込んでいるだけじゃないか」僕は真剣に話を聞いてたのが馬鹿らしくなって、借りてたDVDをさっさと返そうと紙袋に手を突っ込んだ。

「そこなんだよ!」といきなり友人が人差し指を僕に向けて叫んだ。僕はその仕草もそういえば失礼なんだっけ? とふと思った。友人はすこし緊張の色を浮かべながら言った。

「いいか。お前は今、海外の話を持ち込んできてって言ったよな? そこに俺が日本人じゃないかもしれないと考える理由が潜んでいるんだよ。つまりだな。どこかで聞いた情報を俺が知ってしまったばっかりに、それを自分が海外の人だったらと勝手に思い込んで想像している、とお前は考えている訳だ」

「違うのか?」

「俺はな……そんな情報つい最近まで知らなかったんだよ。知らずに興奮していたんだよ。この気持ちがわかるか?」

「わからないよ」わかるはずがなかった。

 友人はふっ、と力を抜くと懐かしさに眼を細めて語った。

「あれは高校一年の時だった。俺は写真部でお前は帰宅部。だから知らないだろうが、俺は部活動の一環でよく部活動中の生徒の写真なんかを撮ってたんだよ」

「確かに知らなかったな。皆は知ってたのか?」

「いや、知らないはずだ」

「盗撮じゃないか」

「それでだ。ある時、いつものように部活動をしようとカメラを持って校内を歩いていたら声をかけられたんだ。女子バレー部に。その日、練習試合かなにかだったんだろうなあ、試合後の汗だくの姿で記念の集合写真を撮って、と頼まれたんだ」

「嫌な予感しかしないな」

「俺はさ、あー、いいっすよー、とか軽い感じで受け答えして内心は恥じらいで胸が張り裂けそうだったんだけどもそれを押し殺してカメラのシャッターを女子バレー部に向けたんだよ。そしたら……」

「ああ、わかったわかった」聞くに堪えなかったので話を打ち切ろうとしたのだが友人はその先を言ってしまった。

「全員、股おっぴろげやがった」

「ひろげてないよ」

「それぐらいの衝撃だって言ったろ! もちろんその時は海外の話なんて一つも知らなかった。なのにその衝撃だ。俺はその時思ったね。日本、終わったなって」

「何の話してたんだっけ?」

「え? なんでこの女子たちそんな恥ずかしい格好しちゃうの? なんとも思わないの? みんな何とも思わないの? もしかして恥ずかしいの俺だけ? なんでなんで……それからの俺は地獄の日々を送った。なんせ右を見ても左を見ても隙あらば女子は平気で恥ずかしいポーズを取るわけだ。例えるなら、授業中居眠りしていて起きた時に授業があと数分で終わると気づいた時の心境がずっと続いてるようなもんだった」

「それ男にしか分からん例えだな。今男の僕だけだからいいけど」

「こんな悩み誰にも言えなかった。もちろんお前にもな。俺はそれをずっと自分の欠点だと思って隠して生きてきたんだ。最近「ジェスチャーサインについての海外のあれこれ」という情報を手に入れるまでは」

「意外と話長いな。あ、これ借りてたやつ。ありがとう。返すね」DVDを手渡す。

「お前これ……せめてパッケージが見えないようにとか配慮しろよ。……まあいいや」と友人は少し困った顔をしたが気を取り直してDVDをそのままポケットにねじ込んだ。

「どこまで話したっけ?」

「お前は、情報を手に入れた」

「そう、俺は情報を手に入れたんだ。その時に俺はやっと分かったんだよ。それで考えた」

 友人は目の前に両手を突き出すと、指を一本ずつ立てた。この仕草も確か海外じゃ失礼じゃなかったっけ?とふいに脳裏に浮かんだ。

「ひとつ、日本人はあるジェスチャーサインを見てもそれを当たり前のように受け入れて何も感じない」と言いながら右指を強調する。

「ひとつ、海外の人はあるジェスチャーサインを見ると当たり前のように羞恥心や嫌悪を感じる」と言い左指を強調した。

「ここでお前に問う! あるジェスチャーサインを見ると当たり前のように羞恥心を感じてしまう、俺はどっちの指の人間だ?」

 僕は仕方なく左指を握った。

「そう! 俺は海外人なんだ!」友人の興奮は最高潮に達していた。


 海外人て何だろうと考えながら目の前の友人を見た。友人はやっと思いの丈をぶつける事ができたのが嬉しかったのかすっきりとした顔をしている。

「それで」僕は友人に尋ねた。「日本人じゃなかったとして、どうするの?」

「どうもしねえよ。話してスッキリしたし、行こうぜ」と平然とした顔をして席を立った。

「じゃあ、今までの話、結局なんだったの?」

「ただのいつもの馬鹿話だろ。気にすんな」と友人はあられもない事を言う。

 僕はなんだよそれ、と呆れてしまった。

 外では祭りの準備が始まっている。誰かが携帯で写真を撮っている。

 ハイ、チーズ……。

 ピース。


 後日、友人は暴行事件で逮捕されたのだが、「あいつが俺に侮辱のサインを出したから悪いんだ!」と警察に言っていたらしい。

 それはまた別の、馬鹿話だ。

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愚者のサイン 甲乙 丙 @kouotuhei

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