滝くんは半透明

Tm

彼はニュータイプ

 わたしの教室には、ちょっと変わったクラスメイトがいる。

 彼は、軽快で、飄々として、つかみどころのない男の子だ。というかつかめないし触れないし地区指定のごみ袋よりもややクリアだ。

 誤解しないでほしいのは、わたしは別にそういうのが見える体質でもなければ、そういうのが見えるという主張をして周囲の気を引きたくなる性質でもないということ。

 だって彼は、このクラス、いやこの学校、いや、この世界のすべての人が視認できるという、例をみないほどの極めてニュータイプの幽霊なのだから。


「死人だけに? ぷっ、やぁーだー、安藤さんも幽霊ギャグいうんだね。でもちょっとそれオヤジ入ってない?」


 ぞぞぞっと背筋を冷たい風が通り抜ける。下を向くと、心なし血色の悪い青年がわたしのお腹のあたりからにょきっと生えていた。

 ぱっぱと手で煙を払うように腹の前を払うと、「あん」とオカマのような声を出した彼は音もなくすーっとわたしの腹から抜き出て目の前の机の上に軽やかに腰を下ろす。

 どうでもいいことだけど、彼は人に触れると人の表層意識をある程度読み取ったり、あるいは己の意識を憑依させることができるらしい。

 まさしく幽霊らしい幽霊のスキルといえよう。プライバシーの侵害甚だしい。誰かゴーストバスターズをここに派遣してほしい。


「何も言ってないけど。人のお腹通過点にしたあげくモノローグ勝手に覗き込まないで滝くん。モラハラセクハラ化けハラで訴えられたいの」


「僕もう死んでるから人権ないしこの世のルールなんかもう関係ないしぃ」


「人権ないなら駆除してもいいよね近いうちにどんな手を使ってでも除霊するから辞世の句を考えておきなさい」


「せめて浄霊にしてよぉ安藤さんの人でなしッ」


「おまいう」


 そう。この人の机の上に勝手に座ってくねくねしている半透明のヤツが、我が高に通う世界初視認できる幽霊、たきおぼろくんだ。

 除霊と言いはしたが過去どんな霊能力者超能力者科学者エトセトラをもってしても彼を滅することはかなわなかった。

 彼の両親なんかは死んだ息子が蘇ったと大喜びでこの現象を歓迎する始末。世も末だ。

 なぜ死んだ人間が生前を継続するように日常生活を送ることが許されたのか、だれもその疑問を口にしないところが余計に恐ろしい。


「なんでか知りたい?」


 ヒヤッとしたと思ったら、彼の右手がわたしの左手を包み込んでいた。

 コイツ、また人の表層意識を読み取りやがった。


「ねえねえ安藤さん、どうして僕が戻ってきたか知りたい?」


 生前と同じように悪戯めいたまなざしをキラキラさせて、けれど生前よりもずっと冷たく、いや涼しくなった彼がわたしを見つめてくる。

 その瞳は私を見つめても、もうわたしを映さない。


「べつに」


「ええっ、なんでさ!」


「もうホームルーム始まるから」


 チャイムが鳴ると同時に、わたしは目の前の滝君をノートで仰ぐようにかき消した。



***



 滝くんはなんなんだろう。

 生前にも思っていたことを、近頃は余計によく思い返すようになった。


 思えば彼は生きているころから飄々として、明るくて、誰にでも話しかけて、ムードメイカーで、クラスのみんなから慕われていて、でもどこか、死人となった今の今までずっと、ふわふわと捉えどころのないやつだった。


 彼は、生きているころから無愛想で、いつもぶすっとしていて愛想笑すらできず、口を開けばつっけんどんで皮肉ばかりの、友達が一人もいない女の子一人すら見逃さず、何度冷たくされてもめげず、くじけず、あきらめず話しかける。そんな男の子だった。

 生きているころから、今もずっと、そうだ。


 彼はなんなんだろう。

 彼が生前のころから、彼に話しかけられるたびに私はそう思った。


 なぜわたしに話しかけるんだろう。

 なぜあきらめないんだろう。なぜ呆れないんだろう。なぜ怒らないんだろう。

 なぜいつも、同じ笑顔を、わたしなんかに向けてくれるんだろう。


 今の今までずっと、彼が生きているころから、彼が亡くなったと知るその時まで、謎が解けることはなかった。

 でも、わたしが一番知りたかったのは、本当はそんなことじゃなくて。



***



 わたしには友達がいない。ただの一人もだ。

 そんなぼっちがお昼ご飯を食べるとき行くべき場所はトイレか、使われていない部室か、あるいは屋上しかない。


 滝くんがわたしに話しかけてくれるようになったころよりもずっと前から、わたしはお昼になるとお弁当を持って屋上で食べるようにしていた。

 屋上は解放されているけれど、風が吹いて夏以外は少し肌寒いくらいなのでわざわざここまで来てお昼を食べる人は少ない。ぼっちにはうってつけのスポットだ。


 いつものようにフェンスのフチに腰かけてお弁当を広げていると、頭上から声がかかった。


「安藤さん、また一人でお弁当食べてるの?」


「またもなにもルーチンワークです。滝くんは毎日学校に通うのにいちいち「また学校に行ってきます」とでも言って家を出るの?」


「うんごめん意地でもぼっち飯とは自称したくないのはわかった」


 本当だよ二度というな。

 無視して黙々と食べ始めると、滝くんも勝手知ったるとばかりに隣りに腰を下ろしてお弁当包みを広げ始める。

 毎度のことながら栄養バランス色彩バランス何もかもが整ったお弁当だ。何もかも生前と一緒。ただし幽霊なので、実食だけはできないけれど。


「幽霊になってもお弁当食べるの」


「うーん、食べる必要ないし意味ないんだけど、母さんがねー。まあ愛情食べると思ってありがたく受け取ってる」


「いいお母さんだね」


「うん。まあ前と違ってお弁当持ってるとちょっとみんな「ええ……」って困惑した目で見てくるけどね」


 気持ちはわかる。つっこまないのも優しさなんだろうけどあえてつっこむのも優しさだと思うぞみなさん。

 なんて、わたしが言う権利はないか。そんなこともできなかったから今こうなってるんじゃないのか。


「どしたの、安藤さん」


 箸の止まったわたしの顔を覗き込む滝くん。

 死してもなお、こんなわたしを気遣ってくれる。

 だから、わたしは、いい加減、そんな彼に応えなければならない。今度こそ。

 こみ上げてくるものを歯をくいしばって耐えて、どうにかこうにか声を絞り出した。


「わたしのせいなんでしょ」


「へ」


「滝くんが成仏できないの、わたしのせいなんでしょ」


「えっ」


 図星だ。

 いつも飄々として都合の悪いことはけむに巻く滝くんが、受け流せもせずに絶句したのがいい証拠だ。

 確信はすぐに悲しみにすり替わる。


「わたし、が……わたしのせいで、滝くんがいつまでも成仏できない、ことは知ってる。……知ってた。ごめんなさい」


「えっ、ちょ、えっ?」


 滝くんにも自覚があったのだろう。私が原因だということに。私だってすぐに気付いた。張本人の滝君が気づかないはずもない。

 なのに私は、彼がそこにいてくれることに甘えた。

 生前と一緒だ。ずっと、わたしは、彼に甘えすぎていた。

 箸を下ろして、彼に向き直る。

 やっと、今更、そしてようやく、彼を向きあう決心がついた。


「ありがとう」


「え?」


 戸惑う滝くんに頭を下げる。

 やっと言えた言葉に、胸が詰まって苦しい。

 でももっと、ずっと、わたしは言いたかったんだ。ずっとずっと前から、たくさん、言いたかったんだよ。

 彼の半透明の手を初めてわたしから握り返す。生前ならきっと、とっても、暖かかったはずの、滝くんの右手。


「ありがとう滝くん。ずっと、わたしなんかに話しかけてくれて。笑いかけてくれて。おはようって、さよならって言ってくれて。いつも、うれしかったよ。わたしも言いたかったよ。おはようって、さよならって。無視して、無愛想でごめんねって。いつもいつも、わたしを見てくれてありがとう、って」


 本当はずっと言いたかった。

 笑いかけられたら、笑い返したかった。挨拶されたら、それ以上に元気な声で返したかった。もっともっと楽しくお話ししたかった。

 滝くんともっと、仲良くしたかった。

 なのにわたし、拗ねて、ひねくれてて、意地張ってて、臆病で、ほんの少しの勇気も出せなくて、怖くて、いつもあなたを無視した。見ないふりをした。

 いつも向けられるあなたの笑顔が嬉しかったのに、気づかないふりをした。


「どうしてわたし、もっとがんばれなかったんだろう。ほんのちょっとの勇気も出せなかったんだろう。そしたらきっと今頃、滝くんの手がどんな温度だったかだって知ってて、思い出すことだってできたのに」


 もう知ることはできない。彼の肉体はないから。彼は幽霊だから。

 もう二度と、触れ合えないんだから。


「わたし、後悔した。こんなこと言うの滝君は不快かもしれないけど、死ぬほど後悔したの。なんでもっと滝くんに優しくできなかったんだろう。もっとちゃんと、滝くんを、見てあげられなかったんだろうって」


 自分のことが許せなかった。悔しくて仕方なかった。

 今なら言えるのに、絶対に言うのにって、できもしないことを考えて、後悔して、泣きわめいて、願った。


「だからでしょ」


「え? なにが?」


 今になってなおとぼける滝くんが生前とずっと一緒で、その変わらなさに少し笑ってしまう。

 だからわたし、喜んじゃったんだよ。あなたが戻ってきたことに。

 最低だよね。


「わたしが、滝くんが幽霊でもいいから戻ってきてほしいって願ったから、滝くんは成仏できなかったんだよね。そしてわたしが、いまも滝くんがいることを喜んでるから、ずっと逝けないでいるんだよね……」


 わたしのせいだ。

 わたしが滝くんをこの世に引き留めているんだ。

 彼が死んでもなお彼に甘えようとしている自分が恥ずかしい。

 でもだからこそ、今度こそ、間違えたくない。後悔したくないんだ。

 実体のない彼の手に触れる左手に力を込めて、精一杯伝わるように、彼の瞳を真正面から見つめなおした。


「滝くん。わたし、滝くんがいて、すっごく救われたよ。あなたがいたからこの学校生活、くじけずにいられたの。ひとりぼっちにならずにいれた。ありがとう滝くん。わたしは滝くんのこと、ずっとずっと、大好きだからね。忘れないからね。滝くんに恥じない自分になれるように、これから頑張るからね」


 一人でも。一人じゃないから。

 滝くんがいなくても、滝くんを想うから。

 そしたらずっと、がんばれる気がするから。


 精一杯の笑顔を込めて、はじめて彼に微笑み返した。


 もうあなたのことを縛らない。

 もうあなたに甘えない。

 ばいばい、滝くん。

 わたしのはじめての、たったひとりの、ともだち。


 わたしの渾身の惜別を受けた滝くんが目を見開く。

 ふわりと体が空に浮き、滝くんは――……。


「まさかの両想い……ッ」


 オマエほんとに幽霊か?

 と問い詰めたくなる勢いで赤面した。


「たきくん?」


 恥じらう女の子のように両手を口元で覆い真っ赤になった滝くんは、しどろもどろになりながら、けれど頻繁にわたしのほうをチラチラと見ながら震える声で言った。


「いや、ウン、なんか一部誤解があるみたいなんだけど、あー……いや、でもまさかとは思ったけど、イヤでも、まじかー……。いや、ウン、うれしい、デス……」


「は?」


 なにこれ。

 さっきまでの悲壮な空気を一瞬で吹き飛ばした滝くんは空中でもじもじしながらにやつく顔でうっとりとわたしを見つめてきた。

 えっ、なんかイライラする。


「あー、あのね? 僕が成仏できないのはそのー、安藤さ……雅ちゃんのせいではあるんだけどォ……」


 オイなんで今言い直した。

 許可してねーぞ名前呼びなんて。

 しかも心なしかじりじり距離が近づいてくる気がする。こっちくんな。


「僕がね、そのォ……雅、ちゃんにィ……片思いしてたっていうかァー……いやでも両思いなんだけどォー!」


 キャハーッと叫びながら真っ赤な顔を両手で覆い、塩をかけられたナメクジのごとくうねる滝くん。


 なんかおかしい。

 何かがおかしい。

 ついていけない。わたしが。


「いやでも念願かなったけど僕的には添い遂げたいとか思ってたしまだ道半ばだから安心してネ! 勝手に成仏とかしないし! 僕の雅ちゃんを置いて勝手に逝ったりしないから安心してネ!」


「はあ?」


 誰の雅ちゃん?

 は?

 いや待てさっきなんつったコイツ。

 わたしのせいじゃない? 片思いしてた?

 え? つまり?


「え。まって。つまり滝くんはわたしが好きで、自分の意志で、自己判断でこの世にとどまっていると……?」


「えーそうはっきり言われちゃうと照れるなあ……いやでもそうなんだなあ実は。でも結果両思いだしー、残ってみるもんダネ! 現世」


 語尾に星が見える。

 この世で僕が一番幸せです! とでも主張せんばかりの幽霊猛々しい快活ないい笑顔を浮かべた滝くんは、おもむろに両手を広げてスーッと私に近づいてきた。


「怨霊退散ン!」


 お弁当包みを全力で振りかぶり滝くんを振り払ったわたしは、体育の成績2の分際でここ一番の跳躍を見せ距離を取った。

 これが幽霊を前にした恐怖に突き動かされし人間が生み出す火事場の馬鹿力か。


「えっなんで雅ちゃん」


「雅ちゃん言うな。即刻あの世に退去しろ悪霊わたしの涙を返せ」


 えーやだやだなんでどうしてーなんて情けない声を上げた滝くんがぐるぐるわたしの周りをまわりだす。鬱陶しいことこの上ない。


「疲れた……」


 急激な脱力感とともに元いた場所に腰を下ろす。

 ギャンギャンうるさい滝くんを無視して目を向けた先には、手つかずの滝くんのお弁当。

 思えば本当は、お弁当のおかずを交換したりなんかもしたかったんだよなーと思い出す。


「ねえ滝くん」


「なんだいマイハニー」


「誰が誰のハニーだ。滝くんちの卵焼きとうちのタコさんウィンナー、交換しよ」


「えっいいの? するする! 超カレカノっぽい」


 そうだろうか。わたしは超親友っぽいと思う。

 認識の相違を放置して、許可も取れたことだしと滝くんのお弁当から卵焼きを拝借する。前からこれ、食べてみたかったんだ。ポイッと口に放り込んで咀嚼する。


「どう? どう? ぼくんちの卵焼き、どう?」


「……うん。甘くって、おーいしい!」


 口の中に、ふんわり、ほろほろと、広がる優しい甘さ。

 滝くんちの卵焼きは、今も前も変わらない滝くんみたいな、優しい味だ。

 見上げると、滝くんごしの空があんまりあおくて、眩しくて、目を閉じる。


 甘い心地に、空の蒼。

 生前よりもずっと間近に聞こえる滝くんの声。


 これが初めて感じる滝くんの感触。

 今日の日のことを、わたしは死ぬまで、死んだあとも、きっと忘れないだろう。

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