プリンセス・ダービー

一之瀬安杏

パドック:かつての天才騎手

「……ごめんな。お前を殺したのは、誰でもない俺自身だ……」


 北海道・新冠町にあるとある牧場内にある石碑。かつて緑の絨毯の上を一生懸命に駆けていった競走馬達の墓標である。それぞれの時代を彩ってきた名馬達が眠る地で、一人の男がある墓標の前で膝を崩して泣いていた。墓標には『ソウルビースト』という競走馬名が刻まれており、その下には生没年と競走成績が書かれていた。


「お前は、絶対に生きて返さなければならなかったのに……なのに、俺は……っ!」


 生涯成績の最後の項目。『宝塚記念(G1)・競走中止』と刻まれていた。それを見るたびに彼の心は抉られるような感覚に陥っていた。


~*~


 今から数年前、彗星のごとく現れた一人の天才騎手がいた。その騎手の名は『小原怜おばられい』。18歳の若き騎手は、デビュー戦でいきなり人々の度肝を抜かした。

 デビュー戦となったのは、中山競馬場の『3歳未勝利戦』。ダート1200mという短距離戦で彼の騎乗していた馬はスタートから滑るような出だしになってしまい、離れた最後方となってしまう。しかし、彼は落ち着いた騎乗で内から徐々に進出を開始すると、最内からの強襲に打って出た。約310mという短い直線に、前が開かなければ負けは確実。そんな博打に出たのだ。しかし、彼は一瞬開いた隙間に馬を入れ、ムチを一発入れると、馬はそれに応えるようにぐんぐんと伸びていき、ゴール前で差し切り勝ちを収めたのだ。初騎乗初勝利を収めた上に、人気は16頭中15番人気。デビューから2桁着順が続いていた騎乗馬を一気に勝利へと導いたのだ。

 しかし、彼はそれだけに留まらず、その日だけで新人騎手としては異例の3勝を挙げたのだ。そのうちの2勝は15番人気と12番人気という2桁人気馬を勝利へと導いた。

 それからというものの、彼は着実に実力を上げていき、7月に入る頃には重賞に乗っているのが当たり前のようなところまでになっていた。そんな彼の初重賞勝利は10戦目のオールカマー(G2)であった。

 騎乗馬は3年前の皐月賞(G1)で3着に入り、今年の夏に条件戦を2連勝し、新潟記念(G3)で4着になった6歳馬・ブリリアントライトである。ゲートを出ると好位5番手に付けていき、道中は折り合いに専念することに。直線手前で前を射程圏に捉えると、直線で抜け出していく。その後ろからはG1・2勝のスカーレットが迫ったが、1馬身の差をつけて優勝した。

 口取り写真ではそのブリリアントライトの首筋を撫でている姿があった。嬉しい重賞初制覇の瞬間だった。

 それ以降も着実に勝ち星を重ねていき、2年目の2月にはついに通算100勝を果たしたのだ。

 そんな彼のもとに2頭の3歳馬の騎乗依頼が来た。1頭は去年の夏にデビューし、2戦目の新潟2歳ステークスで2着以来の実践を控えていた3歳牝馬・クレアルージュ。もう1頭は去年の暮れにデビューし、次走に若駒ステークスを控えていたエターナルブレインである。2年目としてはクラシックを意識している競走馬を任せられるのは異例のことだが、調教師の協力もあり、この2頭で騎手になって初のクラシック参戦をすることになった。

 クレアルージュの成績は初戦のクイーンカップ(G3)を優勝すると、間隔を開けてG1・桜花賞へ出走した。レースは中段より前目で競馬を進めると、直線に入ってうちに入るとグングンと末脚を伸ばして先頭でゴール板を駆け抜けていった。続くオークス(G1)はハナ差の2着に破れ、秋はローズステークス(G2)を快勝するも、本番の秋華賞(G1)は3着に敗れてしまった。

 エターナルブレインの成績は若駒ステークスを1馬身差の快勝を収めると、2戦目の弥生賞(G2)を2着、皐月賞(G1)を3着の成績で日本ダービー(G1)に駒を進めた。レースは後方4頭目で馬群を見る形で進めていくと、4コーナー手前で進出、直線では大外に持ち出すと、前で逃げる馬を交わして3馬身差の快勝劇でG1初制覇を果たした。秋には神戸新聞杯(G2)を危なげなく勝つと、本番の菊花賞(G1)では後方2頭目で折り合い専念の競馬をすることに。3コーナー坂の手前で少しずつ上がって行き、坂のくだりでは馬群の中段に、直線では先に抜け出した馬を並ぶ間もなく交わしていき、最後は後続に5馬身差の圧勝で見事に2冠を達成したのだ。

 怜はこの2頭でG1・3勝、クラシック競争の半分を2年目で掻っ攫う格好になったのだった。その後も5年の間にG1・13勝上げる大活躍で一気に飛躍していった。

 しかし、彼の騎手人生は突然終わりを迎えることになってしまった。


 6年目に入ったその年、彼には絶対的なパートナーがいた。その馬の名はソウルビースト。ここまでG1・4勝、勝ち鞍に朝日杯フューチュリティーステークス、日本ダービー、天皇賞(秋)、有馬記念がある。今年の目標を日本人誰もが夢見る『凱旋門賞制覇』に置き、春の目標は宝塚記念(G1)を念頭に置いていた。

 始動戦となった大阪杯(G2)を快勝すると、一度放牧に出され、リフレッシュした状態で春の最大目標である宝塚記念に向けての調整が行われた。調教は順調そのもの。最大限の力が発揮できる状態で宝塚記念当日を迎えた。


 怜は10レースでの騎乗馬がいなかったため、調教師のもとへと駆けつけていた。


「先生、馬の方はどうですか」

「おお、怜くんだね。うん、当日輸送だったけどうまくいっているようだよ。後はレースを待つだけだ」

「それにしてもソウルビーストも立派になりましたね」

「そうだね。まさか当時の2歳王者で凱旋門賞を目指すことになるなんて、まるで夢を見ているような感覚だよ」

「馬主さんには感謝しきれないですね。その凱旋門でも僕を乗せてくれるだなんて……」

「でも、僕だって君に任せようとしていたさ。君はまだ伸びしろを残しながらこの成績だからね。期待しているよ」

「ありがとうございます。でも、俺もまだまだですよ。俺はただ周りに助けられてもらっているだけです。力のある馬を提供してくれる方々がいてくれるからこそ、ですよ」

「ハハッ、君は本当に謙虚だよね。っと、そろそろ行かなければならない時間じゃないのかい?」

「そうですね。それではまた後ほど」

「ああ。いい騎乗を期待しているよ」


 怜は調教師と別れ、調整ルームに入る。部屋の雰囲気は行く前と違い、少しだけピリピリとしていた。しかし、怜はそれが心地よくも感じている。ダービーとは違えど、緊張感が伝わってくるこの雰囲気が怜は気に入っていた。

 今から思えば、初めてG1レースに乗せてもらった時、緊張してその週はなかなか寝付けない日が多かった。そう思うと、当時の自分がとても可愛らしく感じてしまう。慣れてしまえば緊張はするものの、逆にしっかり寝て明日に備えようと思えるのだ。

 頭にヘルメットを装着し、ムチを手にして調整ルームからパドック内へ。係員から止まる合図が掛かると、パドックに入り、ソウルビーストの元へ。ソウルビーストに跨ると、調教師と作戦を練っていく。が、調教師からは


「君に任せるよ」


の一言だけであった。最近よくあることである。特に注文がないと馬のペースでレースが進められるのでこちらとしても神経質にならずに済む。

 パドックを1周してから地下街道を通っていく。本馬場に出てくると、スタンドから大きな歓声が揚がる。自分の馬が登場したことでさらにスタンドが湧いているのだろう。因みに、怜が乗っているソウルビーストは単勝1.3倍の圧倒的な1番人気だった。軽く馬を走らせて体を解しておく。本馬場入場はいわば競走馬達のストレッチのようなものである。そのため、騎手もそれなりに神経を研ぎ澄まさなければならない。

 スタンドを横切ってゲートが置かれている奥にあるポケットへと入っていく。既にポケットにいる競走馬達もおり、ポケット内を何度か周回する。


「馬場の感じはどうだった?」

「馬場、ですか?」

「そう。人によって感じ方が違うと思ってね。だから小原に訊いてみたんだ」

「そうですね。内はやっぱり最終週ということもあって結構芝が剥がれてるんですよね。そこに昨日の雨もあって馬場は濡れている。稍重って発表されてますけど、コンディションは最悪ですね」

「やはりそうか」


 訊いてきたのはベテラン騎手である『大涌谷蔵人おおわくだにくらうど』騎手。これまでにG1・36勝を誇る腕利きのいい騎手だ。彼はG1当日になると馬場を気にしてよく騎手仲間でこのように訊いて回っているのだとか。まさかレース前に訊かれるとは思いもしなかったが。

 しばらく時間が経つと、他の競走馬達がゲート近くまで歩いていく。そろそろ発走時間になるのだろう。スタンドのボルテージも最骨頂になり、ファンファーレが鳴るのと同時に手拍子が湧き上がる。

 ファンファーレが終わると、続々と競走馬達がゲートの中へ誘導されていく。ソウルビーストも同じように誘導され、大人しく入る。大外枠に最後の1頭が収まると、大歓声が揚がり、ゲートが開いた。

 続々と馬が前に行く中、ソウルビーストは後方3番手につけていく。隊列が決まるとしばらく向正面むこうじょうめんでは淡々と走っていく。そして3コーナーが見えてくる。


「よし、一気に行くぞ!ソウルビースト!」


 先頭目掛けて上がっていった、まさにその時だった。


ガクンッ


という今までにない衝撃が襲ってきた。顔を地面に向けると、ソウルビーストの足が泥濘ぬかるんで出来た馬場の窪みに取られていた。怜は為す術もなく背中から地面に叩きつけられた。立ち上がることなど到底不可能。痛みを堪えながらソウルビーストの無事を祈った。しかし、ソウルビーストはその場に倒れ込んだまま立ち上がる気配がない。意識はあるみたいだが、馬自身が立とうとしなかったのだ。

 係員の人達が集まり始めているのを横目に、一つの考えが頭の中をよぎった。


『ソウルビーストは、予後不良なんじゃないか?』、と。


~*~


 ソウルビーストの安楽死処分を知ったのは開催日から2日後だった。病院のベッドで知らされた時はショックのあまりその場で吐き出してしまった。ただでさえ身体的ダメージが大きいのに、そこへ精神的ダメージが加わってきたのだ。それからしばらくは病院でリハビリを行ったが、心が追いつかず、デビューからわずか6年で天才騎手・小原怜は『引退』することとなった。

 それから数年がたった今、彼は墓標の前で決意した。


「ソウルビースト、俺をもう一度競馬の世界へ戻してくれ。もうお前みたいな悲劇を生み出さないためにも、そして、俺が好きだった競馬ともう一度向き合わせてくれ」


 許されなくたって構わない。憎まれたって文句など言わない。反対されても仕方がない。しかし、これだけは言わせて欲しい。


「俺は、お前と出会えたこと、一緒にいれたことに感謝してる。騎手としての復帰は無理だとしても、調教師への復帰は大丈夫だよな。だから、これから見守ってて欲しい。ありがとうな、そしてよろしくな、ソウルビースト」


 物語は、北海道・新冠町から美浦へと場所を移すことになる。





~ミニコーナー・怜先生の競馬講座~

怜「初回連載だが、いきなりミニコーナーやるぞ」

京「怜さん!私出てないんですけど!?」

怜「『さん』じゃない、『先生』だろ?」

京「はい……怜『先生』……」

怜「よし。それじゃあ気を取り直して、今回は競馬の基本知識として歴史について話すぞ」

京「それなら知ってます!イギリス発祥なんですよね?」

怜「それくらいは知ってて当然だ。そもそも競馬は貴族達によって行われたいわば娯楽だ。そこから成績のいい馬達を配合していってより強い馬を作り出していくんだ」

京「あれ?そうするとサラブレッドって馬の何の種類なんですか?」

怜「お前、その頭でよく騎手になれたよな……」

京「失礼です!」

怜「サラブレッドは英国の牝馬に東洋のアラブ馬などを配合して長い年月をかけて作られた馬のことだ」

京「え!?てことは、サラブレッド達に流れている血って、いろいろ混ざっているってことですか?」

怜「そうなるな。だが、今の競走馬達の血統は3頭の馬に絞られる」

京「何ですか?」

怜「ダーレーアラビアン、バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアンの3頭だ。この3頭を総称して『3大始祖』と呼ばれている。因みに、ゴドルフィンアラビアンは資料によってはゴドルフィンバルブとも呼ばれているんだ」

京「へぇ、勉強になりました!」

怜「次回は『日本の競馬の歴史』についてだ」

京「うぅ……、絶対に勉強できない子だって思われてる……」

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