彼女の願い
「熱くない?」
「大丈夫」
二人がけのソファに座ったヨアキムの赤毛にドライヤーをかけながら、コルネリエは彼の首筋を眺めた。昨晩の自分のどこにそんな理性があったのかわからないが、服を着ていてもわかるようなところに、唇の跡は付いていない。
――よかった。
寮で集団生活をしている少年に、そんなわかりやすい痕跡を残してはいけない。週末の外泊は公認とはいえ、規律と規範を重視する名門校で、立場が危うくなるようなことになってはならない。
ふわふわと乾いてきた髪に手櫛を入れる。正面の鏡の中で、少年が咄嗟に目を伏せるのが見えた。髪の根元をもう少し乾かすために、地肌に指を這わせる。
「……ドライヤーかけたのなんて、初めてだ」
「あれ、そうなの? そっか、短ければ寝るまでに乾いちゃうもんね。うらやましい。わたしが寮にいたころは、毎晩ドライヤーの奪い合いだったのになあ。みんな貧乏で、自分用のを買う余裕もなかったから、先輩が残したものを融通して使ってた」
「寮……?」
「言ってなかったっけ? ベネディクタ学寮」
清貧と自主性を尊ぶ、州立の女子中高等学寮だ。生徒の階級は様々で、優秀な者には潤沢な奨学金を与える。ただし、生徒一人一人が使える小遣いの額は決まっている。自由な学風だが、学力のレベルは怖ろしく高い。今コルネリエの通うロイヒテン大学インペラート校にも、毎年多くの卒業生を送り込む。
「先生の人件費と教材費と奨学金に予算のほとんど使っちゃうから、施設はぼろくてねー、最初の冬は隙間風が辛くて辛くて、泣きたくなったよ。あんまりにも寒いから、同室の子とはひとつのベッドで寝たりして。で、同じベッドの子に蹴り出されて肺炎になったこともあったなー」
「……えっ?」
振り向いたヨアキムが、無防備に驚いているので、電源を切ってソファにドライヤーを放り出し、思わずぎゅうと頭を抱きしめる。
「んわ、なに!?」
「あはは、大したことはなかったよ、ちょっと一ヶ月ばかり寝込んで試験が最悪の出来だったくらいで」
「それ、大したことあるよ! ていうか放して」
じたばたするヨアキムが顔を真っ赤にするので、やり過ぎたのかと思い、腕を緩める。それでも彼の呼吸が荒いままなので、心配になり、顔を覗き込んで尋ねる。
「ごめん、苦しかった?」
ぱっと顔を逸らされる。
「……ううん、大丈夫」
「……そう?」
こういうことはよくある。不用意に彼に近づいて、……なんというか、怯えられるのだ。べたべた触り過ぎだろうか? 小耳に挟んだことだが、彼の故国では、親しい間柄でも、日常的に体を触れ合わせることは少ないらしい。この程度なら、コルネリエの家では家族に対してもしていることなのに。最も、弟には年々煩わしそうにされるようになってきたが。
――一回寝たくらいじゃ、そう大きく変わらないか。
絶対に本人には言えないが、昨晩のことは、一足飛びに彼に近づけるようになろうとした結果だった。もう少し、ゆっくり距離を縮めてもよかった。
昨日は雨が降っていた。いつもの待ち合わせ場所――市電の停留所のベンチの前で、彼は待っていた。停留所には屋根がかかっているのに、端に身を乗り出しているせいで、彼は傘を差していた。コルネリエの姿を認めると、彼はぱっと笑みを広げ、大きく手を振って彼女の名前を呼んだ。
そのとき、コルネリエは、家に着いたらすぐ、寮に外泊の連絡をしてもらわなきゃと思った。
――箍が吹き飛んじゃったんだから、しょうがないよなあ。
自分が意外と短気だったことを反省しながら、
「胸なんて、さっき飽きるほど見てたでしょう」
爆弾を落としてみた。
「……!! コルネリエ……ッ!」
彼が首まで赤く染めるのを見て、自分の直感が図星だったことに気づく。それに笑いをこらえながら、肩をすくめる。ボタンを留めていない白いポロシャツの襟元は、彼には刺激が強かったらしい。
「そんなことじゃ、街中歩けないよ? この国の女性はみんな、胸元見せるのが礼儀だと思ってるからね」
今は冬だからそれほどでもないが、室内であれば襟ぐりの深い服は当たり前だ。
「フェアヌンフト学寮だって、試験明けのパーティするでしょ? そういうときの女子連中の気合の入れ方はやばいよー。制服のときとは別人かってくらい変身しちゃうもの」
「……みんな、きれいだったけど」
「いいなあ、共学は。楽しそう」
ベネディクタ学寮のパーティは、近くの男子学寮と共同で行われたので、それこそ皆の気合の入れ方はすさまじかったが、共学は常に異性がいるのだ。無理に意識することなく、男女が関わり合えるものなのかもしれない。実際、コルネリエも大学に入ってそのような経験をした。利害関係なく、男女が友人になれるというのは、貴重な機会なのだ。
「……そうかな」
ヨアキムはフェアヌンフト学寮に入るまでは男子校だったらしい。戸惑うことも多いだろう。
「そうだよ、異性とも友達になれるもの。女の子の友達できた?」
「……どうかな……」
気の乗らない様子で首を傾げる。
「グループ研究とかで一緒になれば、仲良くなれるよ。それか趣味が同じとか」
「……まあ、気軽に話せるって子なら、いるけど」
「ふうん? よかったね」
ヨアキムは顔を俯けた。
「でも、コルネリエが学校にいないのは、さみしい」
「……」
「無理だってわかってるけど。おれがインペラートに入るまで、学校で一緒にいられないのは……辛い」
――そうか。共学なら、毎日一緒にいる恋人同士を多く間近に見ているのかもしれない。
コルネリエはヨアキムの正面に回ると、跪き、彼の顔を見上げた。
「ヨアキム、わたしもさみしいよ」
少年の瞳は弱弱しく揺れ、コルネリエが視線を合わせようとしても、それを避けた。
「……おれは、なにか楽しいことがあると、その場にあなたがいればいいのにと、よく思う」
コルネリエは手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「わたしもそうだよ」
「――本当に?」
ようやく、視線が合う。
コルネリエは一瞬だけ口の両端を引き上げ、笑ってみせた。
「うん」
「……わかってるんだ。あなたは一九歳で、おれは一六歳で――だからこそあなたはあなただし、おれはおれなんだ」
「……うん」
コルネリエのことばに安心したのか、ヨアキムは微笑んで、コルネリエの手の感触に身をゆだねるように目を閉じた。
「コルネリエに会えてよかった。……一緒にいる時間が長くなくても、その時間が満たされていればいいんだ」
「ヨアキム」
ヨアキムは自分の頬に当てられたコルネリエの手を、自分の両手でとらえると、目を閉じたままその指に口づけた。それからゆっくりと目を開き、身を乗り出して彼女の唇に口づけた。
その感触の柔らかさに、コルネリエは思わず縋りつくように彼を抱き締めた。彼がわずかに驚いた気配がして、しかしすぐに更に激しい抱擁が返ってきた。息を詰めるまもなく、深く口づけされる。その瞬間に、昨晩の快楽が思い起こされて、頬に熱が上った。
――あなたが好きだ。
くり返し耳元に吹き込むように搾り出された声が蘇る。暗闇で灯りを求めるような、ひたむきで切迫した、汗ばんだ手の感触。
彼の中で、自分がそんな存在になってしまったことに驚いた。
同時に、彼の想いにどうしようもなく切なくなった。
――彼に応えられる人間になりたい。
彼が与えてくれるものと、同じものを――それ以上のものを返したい。
ああ、そうか。
「ヨアキムが好き」
わたしは彼を愛しているんだ。
そう自覚してしまうと、今度はそれを伝えたくてたまらなくなった。彼が怯まないように、彼を傷つけないように、丁寧に触れた。欲しかったのは快楽と、それを共有できることで生まれる新しい関係だった。その両方を手に入れたいと、はっきり自覚した相手は、彼が初めてだった。
――もっと触れたい。
昨日味わいつくしたはずの感触を、もう一度手に入れたい。
「……コルネリエ……っ」
シャツの下の腰に触れられて、ヨアキムがびくりと体を震わせる。彼を見上げる。
期待と恐れの入り混じった、濡れた青い瞳が現れる。
こういうとき自分がどんな顔をしているのか、考える余裕もなかった。
「……もう一回、したい」
その直截なことばに、彼が一瞬で顔を赤らめる。
不安に胸が痛む。拒まれるだろうか。軽蔑されるだろうか。それを表明できないことで、彼が傷ついたりしないだろうか。
「……嫌、だったら言って」
「……」
無言で俯いたまま、彼はぶるぶると首を横に振った。
「本当に?」
「……ほんと」耳の後ろの赤毛に自分で片手を入れ、ぐしゃぐしゃと掻き回しながら、身を縮めた。
「ほんとなんだ。ただ、どうしていいかわからなくて――感情に、頭が付いていかなくて。自分がこんな風になるなんて、前は思ってもいなかった。
あなたが欲しくてたまらない。でも――理性が吹き飛ぶのが怖いんだ。……あなたを傷つけてしまいそうで」
――自分にも、そんな時期はあっただろうか。
コルネリエは、目の前の相手の気持ちを理解しようとして、過去の記憶を探ってみた。あまり、あったようには思えなかった。そもそも欲望を満たすことは、相手を傷つけることとは全く関係がなかった。それは、肌を重ねる前や、そのさなかに、言葉や態度で意思を確かめる積み重ねがあったからだ。
――あれ。
それってつまり――
「ヨアキム、ごめん」
「……えっ?」
ぽかんとしてこちらを見たヨアキムの額に、そっと口づけする。
「もうちょっと、ヨアキムのほうに準備ができてからにするべきだった」彼を落ち着かせようと、緩く抱きしめて背中を撫でる。はあっと、溜息をついた。「いきなり部屋に泊めるなんて、急過ぎたよね。ヨアキム、ここに来たこともなかったのに」
彼が堅い育ちの人間だと、理解していたつもりだったが、ここまでとは思っていなかった。もう少し、段階を踏みながら壁を取り払っていく方法もあったはずだった。
「体の関係ができたからって、距離が縮められるなんて思っちゃいけなかったんだ。怠慢だよね」
「――えっ? いや、おれは今日、少しは縮められたかなって、嬉しかったけど」
「ほんとに?」
背中に回していた腕を戻して、顔を向き合わせた。
彼は微かに笑みを浮かべて言った。
「うん」
――だめだ、押し倒したい。
彼が戸惑うのにも構わず、快楽に引きずり込んでしまいたい。自分が誘えば、あっさりそうなりそうなことが怖い。
でもそれでは、彼は自分のなかにあるわだかまりと向き合う機会を逸してしまう。
――わだかまり。
それはそんなに大事なものだろうか。たしかに彼がこれまでの人生で培ったもの、彼を形成する一部ではあるが、一瞬で捨て去ってしまっても、全く問題ないのでは?
――だって。
コルネリエのなかで、純粋な欲求が生まれる。
彼がわたしを選んだのだ。彼が今見ているのは、わたしだけだ。
「ヨアキム、聴いて」
彼の青い瞳を覗き込む。素晴らしい色の目。
「……うん」
しっかりと見つめ返されて、胸が苦しくなる。期待で、逸る気持ちで、胸がいっぱいになる。
「これから、たくさん、たくさん、こうやって向き合う機会があると思う。楽しいときでも、苦しかったり、悲しいことがあったときでも。あなたに八つ当たりしたくなったときでも」
眉を上げておどけてみせると、彼はくすくすと笑った。
「でも、どんなときでも、わたしはあなたを愛しているし、尊敬している。もしそう思えないようなことになったら、嫌だと言って。それでも変わらなかったら、わたしたちは――おしまい。一緒にいても、なんの意味もなくなる」
コルネリエは、口の端に微笑を浮かべながら、静かに言った。
「ヨアキムに、わたしと同じ気持ちがあるなら、なにも怖いことなんてないんだよ」
「……コルネリエ。おれは……」言葉を選ぶように、瞬間、彼の顔が真剣になった。それから、ゆっくりと、風が雲を払うように、彼の顔に笑みが広がる。「あなたを愛するよ。ずっとあなたのことを考えている。あなたを大切にする方法を考えている。あなたに幸福でいて欲しい」
「なら、わたしと同じ。わたしも、あなたに幸せでいてもらいたい」ぎゅう、と、コルネリエはヨアキムを抱きしめた。ほぼ同時に、自分の背中にも彼の腕が回される。「あなたが気持ちいいようにしたい」
「おれだってそうだよ。どうすればいい? 教えて、コルネリエ」
熱を帯びた声音に、コルネリエの心臓が跳ねた。
――うわ、この子、今すごいこと言った。
とっさに声が出ない。
腕をほどくと、ヨアキムはコルネリエの顔を下から覗き込んだ。
――教えて。
囁いた声に返すことができないまま、コルネリエは彼に口づけした。もう今日はでかけるどころじゃないな、と思いながら。
晴れゆく朝 鹿紙 路 @michishikagami
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