晴れゆく朝
鹿紙 路
彼のためらい
陽射しが燦燦と降り注いで、ヨアキムは目を覚ました。
屋根裏部屋の傾斜に沿って作られた、大きな天窓から、高い青空が見える。綿菓子のような大きな雲がいくつか、ゆっくりと流されてゆく。
見慣れない風景だった。普段は、朝のうちはまだ薄暗い寮の、二段ベッドの下段で、目覚まし時計の強烈な音に起こされるのに。
聞こえるのは、数ブロック先の大通りを走る市電のベル、子どもたちが近くの公園に出かける歓声、それから――
規則正しい、穏やかな寝息。彼のすぐそばに、ぎゅっと体を丸めて、彼女が横たわっている。
白い枕に顔を押し付けるようにして、なにも身に付けずにコルネリエは眠っている。朝の光の中で、黒く生え揃った長い睫毛が、薄紅色の頬に影を作っている。そのしっとりした肌に触れようとして、思わず手が動く。すると、彼女の睫毛がわずかに震えた。
はっとして、手を引っ込める。
一瞬で体に熱が上る。自分がなぜここにいるのかを思い出す。昨夜のことが次々に脳裏に浮かぶ。何度も彼女に触れた。首や背中に口づけされ、自分では思ってもみなかったこころよさに溺れた。ヨアキムの緊張は笑みひとつでほどかれ、甘い声が安堵を与えてくれた。
彼女にくりかえし好きだと言った。心に満ちるものをそのまま、ことばにして伝えることができた。彼女も同じことばを返してくれた。それが嬉しくて、笑みがこぼれた。
初めてだった。
そんなふうに誰かと笑いあうことも、自分のすべてをさらけだすことも、それを相手に受け容れてもらえることも。
一緒にでかけたり、食事をしたりしていただけでは、どこかもどかしかった。もっと近づきたくてたまらなかった。一方で、彼女のことを考えるだけで身体は勝手に疼き、それをなんとかする方法がわからずに途方に暮れていた。
彼女を犯す夢を見たことがある。あるいは、彼女がヨアキムの期待のままに、彼を誘惑する夢も。罪悪感と不安で一杯になった。彼女のことがよくわからなかった。わかっているのは、そばにいるときはさりげなく彼の手や、腕や、頬や、髪に触れ、嬉しそうに笑うこと。たまに率直に口づけをねだること。自分はそうされて、いつも胸が高鳴ること。でも、自分の故郷にはそういった習慣がないせいで、どう応えてよいかよくわからず、最初は彼女の手にも上手く触れられなかった。今は、自然に背中に腕を回すくらいのことはできるようになったが。
不思議だった。彼女も、彼と同じように、欲望をもって彼を見ているのか。彼女も……似たような夢を見たことがあるのだろうか。
相談すると、寮が同室の友人には笑われた。誰だって、最初はそうなんだ、と。相手がなにを考えているかわからず、不安に陥ると。相手は年上なんだから、おまえがじたばたしていることなんてお見通しだ、とも。そう聞いて少しだけ気は楽になったが、居心地の悪さは変わらなかった。
友人は、言ってしまえばいい、とも言った。なにを、と聞こうとして、その問いがあまりにも稚拙だと思った。おれだって言いたい。同時に、なによりも、言った後の反応が怖かった。
そんななか――今週の木曜の夜、寮の一台しかない電話が鳴り、にやにやした寮監から呼び出されて、ヨアキムは電話口に駆けつけた。いつもは、電話するのは自分のほうだった。コルネリエのフラットには、専用の電話があるから、取り次ぎなしで話ができる。
受話器から聞こえてきたのは、遠慮がちな声だった。
『ごめん、そっちにかけたりして』
ヨアキムは勢い込んで言った。
『ううん。嬉しいよ。ちょうど声が聴きたいって思ってたんだ』
寮監室の向こう側で煙草をふかしている寮監が聞耳を立てていることも、このことが明日には寮中に知れ渡るだろうことも、頭から飛んでいた。大体が生徒の恋愛沙汰は日常茶飯事だから、いちいちからかう暇な人間もあまりいないのだが。
コルネリエはヨアキムのことばに驚いたように一瞬黙り、彼女には珍しく、少しだけ聞き取りづらい口調で言った。
『……土曜日、うちに来れる?』
ヨアキムは音を立てないようにして起き上がった。日曜日の朝。サイドテーブルの置時計は八時半過ぎを指している。なるほど、朝の早い子どもたちならとっくに出かける時間だ。ベッドから抜け出して、彼女に毛布をかけなおそうとすると、その下から無造作に白い腕が伸びた。耳の後ろをとらえられ、
「わ」
「ヨアキム、おはようのキスは?」
あっというまにベッドの中に引き戻された。
夢中で口づけた。それでも足りなくて、自分の体を押し付けながら彼女の体を探った。彼女の手の中ですぐに達してしまう。
「……ごめん、……」
荒く息を吐きながら謝ると、コルネリエはくすくす笑った。
「どうして謝るの? 朝なんだから、そうなるよ」
汚れた手を簡単に拭うと、もう一度ヨアキムを抱きしめた。
「戸惑うことも多いかもしれないけど、自分が間違ってるんじゃないかってことばかり、気にしないで。あなたがわたしのことを大事に想ってくれているのは、わかってるから」耳に口づけ、ささやく。「昨日はすごく楽しかった」
衝動に駆られそうになるのを、ぐっとこらえる。伝えたくなったことを伝えることのほうが大事だ。
「……おれも……すごく楽しかった。……あの、体は、大丈夫?」
コルネリエは抱擁を解くと、唇に触れるだけのキスをして微笑んだ。
「うん、平気。久しぶりだったから、ちょっと心配だったけどね。ヨアキムがすごく丁寧にしてくれたから、大丈夫だった」
「痛くなかった……?」
肩をすくめる。
「少しはね。でも今は平気」
「そう……」
――気をつけよう。今は特に加減がわからない。彼女の負担になるようなことはしたくない。
「――さて」彼女は上体を起こすと、伸びをした。あっけらかんと自然光の下に裸体が晒されて、ヨアキムはどぎまぎした。豊かな黒髪も、まろやかな胸もまぶしかった。「今日はどうしようか」
同じく身を起こしたヨアキムを、上目で見上げる。ヨアキムは彼女の黒い瞳を見返して、即答していた。
「ずっと一緒にいたい」
途端、コルネリエは頬を染め、その後吹き出した。
「……そうじゃなくて、一緒になにしようかってこと」
「……一緒にいられる?」
ヨアキムも、自分の言葉が頓珍漢なことに気づいて顔を赤くしながら、想ったことをそのまま口にしていた。
「今日は大丈夫だよ。金曜のうちにがんばって課題も終わらせたし。ヨアキムこそ大丈夫? 月曜提出の課題とか、あるんじゃないの?」
「……ある」
嫌なことを思い出してしまった。金曜のうちにやっつけてしまおうと思ったのに、彼女に会うことが決まって、全く集中できずほとんど手付かずだった。
言ってしまってから後悔した。ない、と言えばよかったのだ。そうすれば彼女は一緒にいてくれただろう。
「何の課題? 手伝える?」
――手伝う。高校生の宿題を手伝っても、大学で首席をとる彼女には得るものはあまりないだろう。
「歴史の小論文と、物理の実験のレポート。あ、あと古典語の訳も。でも、おれの癖、知り尽くしてる先生もいるから、手伝ってもらったらばれると思う」
「じゃあ一緒に図書館に行こう。わたしもそろそろ次の試験に備えなきゃ」
さらりと、一緒にいる口実を作ってしまう彼女に、ヨアキムは感嘆した。
「……ごめん、古典語のほうは、ちょっと手伝って欲しいかも」
「だから、謝らなくていいって。古典語なんて、一年の必修で取ったきりだなあ。ひさしぶり」
にっと笑って、ヨアキムの赤毛をぐしゃぐしゃと撫でた。
「じゃ、その前に朝ごはん。じゃなくて、シャワーだね。一緒に浴びる?」
「……うん」
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