異色のエバ

青井 円

【 miss you 】

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 朝陽は雲に隠れてしまっていたが、仄明るく染まり始めた森の中をテアは駆けていた。

 吐き出す度に視界を塞ぐ雪色の息が行く手を拒む。吹き付ける風が頬を赤く染めていった。

 ふと、背後から声が聞こえた。テアは足を止め、荒くなった呼吸を無理矢理に落ち着かせると、声のした方へと体を向けた。

 少し離れた場所に見えたのは、じとじとと湿った地面に苦戦しながら必死に駆けてくるエイナの姿だった。そもそも、こんな森の奥まで入ってくるのはテアとエイナくらいしかいない。

「テア、速いよー。なんで先、行っちゃうの」

「お前が遅いからだろ」

 ようやく追いついたエイナは、咳き込みながらゆっくりと息を整えた。肩にかかる程度の金色の柔らかな髪の毛が風に揺れ、光を帯びているかのように輝いて見える。フテたようにテアを睨む丸く大きな瞳は夜空のように黒く、歳に似合わずどこかうれいを感じる美しさを持っていた。街に生まれていればどこかの劇場で働いていてもおかしくない。いつも着ているお気に入りの赤いローブには、微かに霜が付いていた。

 幼い頃から、いつからかも分からない程にずっと一緒に過ごしてきたエイナは妹のような存在だが、少しずつ高くなる目線に、少しずつ長くなる髪に、テアはなんとなく落ち着かない気持ちになった。

 エイナはどうにか息を整えて顔を上げると、「これ!」と言って手に持った小さな青い花をテアの顔の前へ掲げた。

 テアは反射的に顔を背け、何かを誤魔化すように冷えた手を擦り合わせた。

「……それがどうしたんだよ」

「家の前に咲いてたんだよっ。こんな季節に花が咲くなんてマコさんの所くらいしかないと思ってたのに。それにこの色、凄く綺麗でしょ? マコさんの目の色と同じ色だよね」

「ふーん……。とりあえず急ぐぞ。マコさんの事だから、多分、紅茶淹れて待ってるだろうし」

「そうだね。早く行こっ」

 そう言って持っていた花を大事そうにローブのポケットにしまうと、今度はその手でテアの手を握った。先に行っては駄目だと言わんばかりに。

 こういう所は本当に子供だなと、テアは思う。テアもまだ十五歳になったばかりで大人とは言えなかったが、それでもエイナ程子供ではないと、テアは思う。

 また何かを誤魔化すように一つ溜息を吐くと、エイナの歩幅に合わせて再び山の奥へと駆けていった。


 少しすると小屋が見えた。それを囲むようにして、色鮮やかな緑が広がっている。

 様々な種類、様々な色の花が一面に咲き、木々は果実を実らせ、草木を揺らす風が赤くなった頬を温めていく。木の葉を浮かべた小さな池の淵で、眠る事を忘れた数匹の小動物が飛び跳ねるのが見えた。

 どんな天候の中でも、ここだけはいつも柔らかな陽射しが降り注ぎ、緑は枯れる事を知らない。

 マコさんの庭、と二人は呼んでいる。

 小屋に着くとエイナは握っていた手を離し、勢いよくドアを開けた。

「マコさんおはよー!」

 ゆらゆらと揺れる椅子に腰掛け、彼女はいつもの微笑みを浮かべた。どうやら編み物をしていたらしく、足元には青色の毛糸と編み棒が入った籠が置かれている。

「朝からうるさいぞ。……おはよー、マコさん」

「おはよう、エイナ。おはよう、テア」

 エイナは一目散に彼女の元へ駆け寄ると、そのまま膝の上に飛び乗った。彼女は嫌な顔一つせず、光る髪を優しく撫でた。

 こうして見ると、二人は姉妹のようだ。金色の髪に、丸く大きな瞳を持っている。歳や背丈、髪の長さも瞳の色も違うけれど、どこか似ている。親子、には流石に見えないだろうが。

「おい、マコさんが迷惑してるだろ」

「ふふ、大丈夫だよ。テアも早く入っておいで。エイナ、紅茶とお菓子を用意してるから、持ってきてくれる?」

 膝から降りたエイナは「はーいっ」と軽快に答えると、そのままキッチンへと駆けていった。

「……マコさんはエイナに甘いよ」

「ふふふ、そんな事ないよ?」

 彼女は小さく微笑み、膝をポンポンと叩いた。

「私は二人に甘いんだよ?」

「……」

 テアは少し俯き、何も言わずにそっとドアを閉めた。

 甘い紅茶の香りが、部屋の中を満たしていった。


 ******


 マコさんの小屋には時計がない。

 朝焼けが、夕陽が、いつ来るか分からず時を過ごす事が幸せだと、マコさんは言っていた。どちらかと言うと時間には厳しいテアにはいまいちその考えが分からなかったが、この小屋にいる時だけは、あまり時間が気にならないのは確かだった。

 いつものように三人で話をしてしばらくした頃、不意にエイナは立ち上がり、マコさんの元へ駆け寄って耳元で何かを囁いた。

「……なに? マコさん」

 テアは怪訝そうに二人を睨んだ。

「ふふふ。すぐに分かるよ」

 エイナはまたキッチンに姿を消したかと思うと、すぐに戻ってきた。その手には、赤い花で作られた大きな冠が抱えられている。

「花の、冠?」

「うん! マコさんに手伝って貰って前から作ってたんだよっ。今日、テアの誕生日でしょ?」

「ああ……、そういえば」

 もちろん、テアは忘れている訳ではなかった。

「私からはこれだよ」

 マコさんはそう言うと、どこから取り出したのか植物の装飾が施された銀の箱を手にしていた。

「マコさんからも? なんだろう、オルゴールかな」

 受け取った銀の箱は不思議な程に、絹糸の様に軽かった。開けようとしたが、蓋が固くて開きそうにない。

「ふふ、まだ開かないよ。時間になったら開くようになってるから」

 時間になったらとはどういう意味か気にはなったが、テアはそれがいつなのかは聞かなかった。マコさんがそう言うのならそれ以外に選択肢はないのだろう。

「ん、分かった」

 エイナからも冠を受け取り(頭を出してと言われたが断った)、少し恥ずかしくなったテアは「ありがと」と小さな声でお礼を言った。

 二人はそんなテアを見て、クスクスと笑いながら顔を見合わせた。二人はわざと声を合わせて「どういたしまして」と言うと、また顔を見合わせて楽しそうに笑った。

 なんとなく抜の悪い思いをしていると、ふと、外で物音がする事にテアは気が付いた。まきを割るような音がする。ここにマコさん以外は住んでいないはずだが。

「ねえマコさん、外に誰かいるの?」

 その問いかけに彼女は微笑みで返し、立ち上がって窓を開けた。温かな花の香りが吹き抜ける。

「そろそろ入っておいでー。紅茶あるよー」

 それだけ言うと、マコさんは再び椅子に腰を下ろした。

 テアは何故か、不安を覚えた。何とも言えない、何の確証もない漠然とした不安。そして、ドアが開いた。

 そこに居たのは、上下黒い服を着た男だった。フードを深く被っているので目元は隠れているが、男なのは間違いないだろう。

「彼は……グリフォス。私の昔からの知り合い、かな」

 グリフォスという男は何も言わず、そのまま振り返って出ていってしまった。開かれたままのドアの先に夕陽が見える。思いの外時間が経っていたようだ。

「ふふふ、ごめんね。彼ちょっと人見知りだから。気にしないであげてね」

 外からはまた薪を割る音が響き出した。心做こころなしか、さっきよりそのリズムが早い気がする。

「マコさんに知り合いとか居たんだ」

 テアはなんとなく不機嫌になっている自分に気が付いて平静を装ったが、それが如何にも子供っぽかった。自分でもそれは分かっていたが、それを誤魔化す手段はまだ持っていない。テアは今日、十五歳になったばかりだ。

「いるよ、失礼だなあ。ああ見えて、結構いい子だよ」

 テアは「ふーん」と興味のない返事をして、おもむろに帰り支度を始めた。さっきまでの不安など、すっかり忘れてしまっていた。

「今日はお祭りだっけ。頑張ってね、テア」

「あ、うん。そろそろ帰るよ」

 マコさんも良かったら来てね、と言いかけたが、テアはその言葉を飲み込んだ。

 マコさんが村に来る事はないと、テアは知っている。

「エイナも早めに帰れよ。あんまり遅いとまたおばさんに叱られるぞ」

「はいはーい。頑張ってね、祭祀さいしさまー」

 紅茶のおかわりを淹れながら、エイナはヒラヒラと手を振った。テアが面倒くさそうに睨むと、きゃーとわざとらしい悲鳴を上げてマコさんの影に隠れた。どこかに隠れてはまた出てきたりと、本当に忙しい。そういうエイナの子供っぽさを面倒くさいと思いつつも、テアは嫌いにはなれなかった。

「……じゃあマコさん、また明日」

「うん、また会おうね。あ、これもあげるよ。それ持ってじゃ走り難いでしょ」

 差し出されたのは、茶色い革で出来た肩掛けの鞄だった。革の鞄なんて何だか大人になったみたいだなと、テアは密かに浮き足立った。

「うん、ありがとう。それじゃ」

 銀の箱と冠を鞄に大切にしまい、テアは家路に就いた。


 今日はテアの誕生日。それと同時に、テアとエイナの暮らす村で年に一度の収穫祭が催される日だった。

 収穫祭とは言っても、実際には村の大人達がお酒を飲みながら騒ぐだけの、親戚の集まりのようなものだった。お酒を飲めない子供にとっては、ただただつまらないものでしかない、ただの年中行事。

 一応、祭の始まりだけは厳かに行われる。そしてそれを取り仕切る祭祀として、今年はテアが選ばれた。今日はその本番だ。

 下らない行事だと、せっかくの誕生日なのにと、テアは思う。それでも祭祀に選ばれたというのは、悪い気分はしなかった。

 鼻歌混じりに森を駆け、村が見えたその時、異変が起きた。

 唐突に辺りが闇に包まれた。夜とは違う、暗闇。村はおろか、すぐそこにあるはずの木さえ見えない。

 あまりにも突然の出来事にテアは立ち止まる事も出来ず、そのまま転けてしまった。擦りむいてしまったのか、膝がじんじんと熱い。

「いっ……! なん、だ……!?」

 前が見えない。眼前に広げているはずの手も見えない。いつも柔らかく照らしてくれる月明かりも、見えなかった。何が起きているのか、理解が出来ない。

 テアは立ち上がり、両手を前に伸ばしながら恐る恐る歩いた。まるで赤子のように。

 指先に木の肌が当たる感触があり、思わずしがみついた。何かにしがみついていないと、どうしようもなく怖かった。二人はどうしただろうかと、マコさんの小屋のある方へ顔を向けた。

 振り向くと、そこは明るかった。太陽は見えないが、まるで真夏だ。目眩がする程の光に木々は照らされ、気味の悪い木漏れ日を落としている。

 テアは困惑した。もう一度村の方を見たが、やはりそこには闇しかない。

 こんな事があるのだろうか。どこが境かも判然としないが、昼と夜の間に立っているようだった。

 しかし、テアにとってそんな事はどうでも良かった。それ以上に気になる物が見えてしまった。

 駆けてきた道の先、マコさんの小屋がある方向に、一本の光が見える。

 いや、それこそ闇と言うべきか。

 長く、どこまで伸びているかも知れない天に登る一本の黒い光。光を放っているというより、全ての光を集めているようにも見える。足元を見ると影がその光のある方へ伸びていた。今までに見た事のない不気味な光景だった。

 無意識にテアは駆けていた。今ある疑問全てを無視して、光の方へ。嫌な予感とはこういう事かと、十五歳にしてテアは知った。


 エイナの歩幅に合わせなければ、テアは五分と掛からず小屋まで行く事が出来る。その五分を、これ程長いと思った事は無かった。

 光は近付くにつれて細くなっていく。

 森を抜けると、小屋が見えた。そしてその小屋から伸びる黒い光が、予感は確かな事だったとテアに教えた。

「エイナ! マコさん!」

 世界が終わるのか、昔妄想した悪魔のような怪物が現れたのか、そんな下らない事を考えた。そんな事しか、考えられなかった。

 今はただ、エイナとマコさんに会いたいという思いでいっぱいだった。テアは勢いよくドアを開けた。

「また会えたね、テア。……ふふ。泣いてないで入っておいで」

 そう言って、微笑むマコさんがそこにはいた。椅子には座っていない。床に仰向けに倒れていた。

 胸の辺りから、黒い光が伸びている。その根本から、床を濡らす程の赤い水が流れていた。何が起こっているのか、やはりテアには理解が出来なかった。

「マ、コさん……。マコさん……! これは──」

 彼女に駆け寄り、手を握った。握り返してくれたその手の体温を、感じる事は出来なかった。

「ごめんね。私は大丈夫だよ。落ち着いて聞いてね」

 いつもつい見蕩れてしまう青く澄んだ瞳の色は、そこには無かった。黒く澱んで、沼の底のような色をしている。

「私は死ぬの」

 彼女はそう言った。

「っ……なんで! 何があったの! ……さっきまで普通に……、一緒に。誰が、こんな……」

「ごめんね。分かんないよね。でも落ち着いて。聞いて」

 子供のように泣きじゃくるテアの頬を、彼女は優しく触れた。頬を伝って、その手に涙が線を描いた。

「エイナが『蛇』に攫われたの。助けてあげて」

「……エイナが、攫われた……? え? 蛇って……どういう」

 呼吸を落ち着かせようとするが、上手くいかない。

「まずはアーマガンという人を訪ねてね。アドルフ・アーマガン。東の街に住んでるから」

 流れる血が収まらない。それに対して光は少しずつ細く、弱まってきている気がした。まるで、命の灯火のように。

 消してはいけないものだと、何となくそう思った。

「やめろ……消えるな」

 気味が悪いと思ったその光が、今はとても尊い物のように思えた。手を伸ばしても掴めはしない。

「これからあなたは苦しい道を歩むけど、きっと大丈夫。信じているからね。また会おうね。だから、私からの最後のお願い、聞いて欲しいの」

「そんな事……言わないで、よ。やだよ、俺……」

 すると彼女はいつものように微笑み、最後のお願いを言った。

 最初のお願いを言った。

「エイナを救って。この世界から」

 そう言って、彼女は眠った。何も分からないままに、テアを残して。


 気が付くと黒い光は消え、血も止まっていた。窓から入る柔らかな月明かりが、二人を照らしていた。

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