後編



 月岡秋郎と澤井子爵令嬢の結婚が紙面を飾ったのは翌年、大正三年の春、ちょうど彼岸の頃である。


 成金が女中に産ませた庶子が華族の妻をめとるなどということは、世間で面白おかしく噂されるに十分なゴシップ性のあるニュースであった。

 欧州帰りの優秀な嫡子が、死病とわかるやいなや後継者の椅子からあっさり外されたことや、嫡子の婚約者をめとった庶子のこと、更には令嬢が身籠みごもっているらしいとの噂も、おおいにちまたの関心を集めた。




「欧州では官民両面で不穏な動きが高まっているとのことだ」

 仏蘭西フランス語でつづられた手紙を手にした咲良は、ベッド脇で直立不動の異母兄を見上げて苦笑した。

「そうかしこまるなよ。月岡家の長男らしく堂々としててくれ」

 五つも年下の弟とはいえ、咲良とは長らく対等な立場でなく、使用人として仕えてきたこれまでを思うと秋郎は複雑である。

 自分を頼りに慕ってくれていた幼少の頃を思うと切ないが、立場が逆転してからは咲良の態度に苛立いらだちを覚えることも多かった。

 それでも今の咲良を見れば、一番に浮かぶ思いは憐憫れんびんであった。

 病状は、サナトリウムに転院してからも悪化の一途をたどっている。

 下がらない微熱に溶かされるように体から肉が消えていき、白い頬は痩せこけて頬骨が目立ち、今にも折れそうな枯れ枝のごとき指も痛々しい。

「また戦争になるかもしれないな」

 留学時代の友人から届いた手紙を読み終えると、咲良は大きく息を吐いた。

「戦争になったら生糸どころじゃなくなるかもしれませんね」

「いや、我が国が戦場になるわけじゃないから、逆に高騰するかもしれん。だが一時的なものだろう。好景気に浮かれず、次の手も打っておくべきだと思う」

 秀才の咲良なら、世の中がどうなっても乗り切れる才覚があるに違いないが、秋郎はそこまで有能ではないことを自覚していた。現状を維持していくだけで精一杯な気がする。

 秋郎とて教育は一通り受けて育ち、成人してからは父の秘書として会社に出ることもあったが、経営者として後を継いでやっていける自信などまるでなかった。

「そこの引出しに僕の手帳が入ってる」

 咲良はサイドボードを指差して秋郎を見上げた。

「今後の事業について、思うところや提案をまとめておいた。必要なければててくれても構わないが」

 その表情には無念さも口惜しさもない。

「遺書みたいなものだと思ってくれ」

「遺書だなどと」

「自虐のつもりはない。この体がもう駄目なことぐらいわかっている」

 

 咲良は結核とわかってから誰に対しても不機嫌を隠そうとせず、卑屈で冷淡になり、口数もめっきり少なくなっていた。なのに今、秋郎と会話する彼は穏やかで自信に満ちている。健康だった頃のような態度だ。


「そういえば、まだ言ってなかったね」

 咲良はにこりと笑みを浮かべた。

「御結婚おめでとう」

 ひび割れて白っぽく乾いた唇から出てきた言葉で、秋郎はすべてを理解した。

「……ありがとう」

 咲良に対等な口をきいたのは初めてだが、彼がにこやかな表情を変えることは、その日の最後までなかった。






 月岡咲良が亡くなったのは、その翌日のことである。

 夜明け前、サナトリウムの庭で大喀血だいかっけつして息絶えていたのだという。

 近くの町に宿を取っていた秋郎は、知らせを受けるやいなや飛び起きて駆けつけた。


 暁光ぎょうこうに照らされた満開の彼岸桜の下で、舞い散る桜吹雪に埋もれるように倒れていた咲良の姿は、この世のものとは思えぬほど美しいものであった。


 薄紅色の花びらと鮮血にまみれた遺体を前に、秋郎は膝をついて慟哭した。

「ずっと、おまえを愛しく思っていた」

 誰にも聞こえぬほど小さな囁き……それは彼の心の叫びであった。そして今日を限りに、生涯このことは口にすまいと固く決めた。


 咲良の死因は病によるものではあったが、夜半に薄着のまま病床を脱け出して庭を彷徨さまよい歩くなど、自死にも等しいふるまいではないか。

 秋郎にあてつけるように、彼が面会に訪れた日を選んで行為に及んだのであろうと、まわりの誰もが思った。

 むろん、秋郎自身もそのように受け止めており、咲良の選んだ死に様を綺麗事や美談で飾り立てて保身を図るつもりはなかった。






「看取れなかったことだけが心残りです」

 月岡邸の庭に咲く彼岸桜を眺めながら、秋郎は新妻に語りかけた。

 鎌倉より一足遅く満開となったその樹は、かつて咲良が生まれた記念に植えられたものである。

「本当はサナトリウムの庭ではなく、この彼岸桜の下で死にたかったでしょう。この樹は咲良が大切な嫡子として誕生したあかしですから」

 秋郎の妻となった真唯子は、腹部をかばうよう慎重に足を運んで夫に寄り添った。そっと触れた秋郎の手はひどく冷たい。

「後悔なさってる?」

 両手で包むようにやさしくさすると、武骨に筋張ったその手に少しずつ温もりが甦ってくる。

 真唯子は愛しさを覚え、ふと夫の顔を見上げた。

「いいえ、ちっとも」

 秋郎は長身を屈め、妻の額に軽く接吻した。

「貴女ので、咲良は思い残すことなく逝けたのです。感謝していますよ」

 真唯子は嬉しそうに微笑んだ。


 十以上も年の離れた妻の肌を、彼はまだ知らない。

 咲良の留学中に真唯子から恋心を打ち明けられた時は、この令嬢を奪って駆け落ちでもしたなら父親はどんなに驚き慌てるだろうと考えた。実行するつもりはなかったが、その妄想は秋郎に暗い喜びを与えたものだ。

 父親は憎いが、咲良は可愛い弟である。

 月岡が代替わりしたら公私に渡って咲良を支え、一生尽くしていくと決めていた。

 この手に抱いて愛することは叶わなくても、兄としてなら死ぬまで傍にいられる。気持ちを押し殺すことには慣れていたから、咲良にこの胸の内を悟られない自信はあった。

 何故なにゆえ、真唯子が華やかな咲良ではなく地味な自分を好いたのか、秋郎には理解できない。恋情をのらりくらりとかわしているうちに、咲良は死病に倒れ、秋郎が月岡の後継者に据えられてしまった。

 心を閉ざした咲良に、秋郎は深く絶望した。

 愛する咲良に憎まれていることは悲しく、どうしたら彼の気がおさまるか、必死に考えた。


 それに、咲良の死が避けられないのならば、せめてが欲しい。


 たやすく浮かんだ思いつきを実行に移すまで大いに悩んだが、咲良がサナトリウムに転院しても快癒の兆しすらないとわかった時、もうそれしか手段はないと決断するに至った。

 妻として愛し慈しむからと条件を切り出された真唯子は、秋郎の接吻ひとつで承諾してくれた。首尾よくやり遂げた彼女には感謝してもしきれない。


「女学校を卒業させてあげられませんでしたね」

 大切な命を宿した女の体を、秋郎はやさしく腕の中に包みこんだ。

「結婚のために途中で退学なさる方は少なくありませんもの」

 真唯子は夫のたくましい胸に頬を寄せ、うっとりと目を閉じた。

「わたくしは貴方のお役に立てて幸せです」


 この秘めごとによって不幸になる者など誰もいない――秋郎は父親によく似た薄い唇に笑みを浮かべる。


「体をいたわって立派な子を産んでください」


 彼岸桜の花びらが音もなく、どこか悲しげにはかなく散る。


 二人を包むようにくるくる舞った花吹雪は、やがて風に乗って遠くへ飛ばされ見えなくなっていった。




〜完〜

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秘めごと 奈古七映 @kuroya-niya

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