秘めごと

奈古七映

前編


 生糸商として名を知られた月岡つきおか二郎じろうの息子が病床に伏したのは、大正二年の秋口のことである。


 血筋の良い正妻との間に生まれた二十三歳の一粒種ひとつぶだねは、後継者として大切に育てられたのではあるが、生来あまり丈夫な方ではなかった。1年間の仏蘭西ふらんす留学を終えて帰国した時分から、妙な空咳を繰り返していたという。

 結核との診断が下りた当初は帝都でも指折りの大病院で治療を受けていたのだが、三ヶ月ほどで鎌倉のサナトリウムに転地療養することとなった。

 それと時を同じくして、月岡二郎は庶子を自分の戸籍に迎え入れた。

 妻をめとる前に女中に生ませ、生みの母から奪うように手元に引き取ったものの、使用人同然に扱ってきた庶子であった。


 月岡二郎は上州の豪農の生まれながら東京に出て貿易会社を立ち上げ、辣腕をふるって財を成した男である。

 嫡子である咲良さくらが不治の病とわかった途端、庶子の秋郎あきろうを長男に直して後継者の首をすげ替えるなど、あまりに情の無い仕打ちのようであるが、二郎にとっては当然の判断でしかない。

 自らが築いた富と家を守ることが何より重要で、そのためには息子らの気持ちなど斟酌しんしゃくする必要はないと言わんばかりであった。






「何をしにいらしたんです?」

 月岡咲良の声は冷たいものだった。

 安楽椅子に深く身を沈めて窓に顔を向けたまま、ふり返りもしない。

 病室の入口で果物籠を抱えて立っているのは、澤井子爵さわいししゃく家の令嬢・真唯子まいこである。

「お見舞いに来てはいけませんでしたか?」

 甘やかでしっとりと落ち着きある真唯子の声は、まだ十七歳の女学生とは思えぬほど大人びていた。

「いけませんね」

 咲良はその言葉が終わるやいなや、手ぬぐいを口もとに当てて軽く咳きこんだ。


 サナトリウムの特別室は暖房がよくきいており、スチームで窓はすっかり曇っている。真唯子の方をふり向かないのは、窓の外の景色を見ているからではなさそうだ。

「咲良さん……」

「お帰りください。うつったらどうするんです?」

 真唯子からは横顔しか見えぬのだが、咲良の肌色は透きとおるように白く、黒髪にふちどられた頬は熱でもあるのか微かに朱をいたようで、紅い唇がまたなんとも艶めかしい。

 帝大生の頃から美男と名高かったこの病室の主は、数日前まで真唯子の許婚者いいなずけであった。



 月岡家から咲良との縁談を持ちかけられたとき、澤井子爵は「成金なりきんの分際で図々しい」などと陰で散々なことを言いながら、金銭の援助を条件に三女の真唯子を差し出した。

 年頃になればどこぞの金持ちに売り飛ばされるものと覚悟していた彼女は、相手が月岡咲良と聞き、年寄りや脂ぎった豚のような男でなくて良かったと安堵あんどしたものだ。

 侯爵の分家筋という血統の良さだけが自慢の澤井子爵は、これといって財産があるわけでもないのに定職に就かず、体裁ていさいを保つために借金を重ねるばかりの無能な男である。真唯子の姉らもとっくに、華族の血というはくを欲しがる金満家にそれぞれ嫁がされていた。

――売ればお金になるから女子ばかりもうけたのかしら?

 自らの力で成せることなど何ひとつないくせに気位ばかり高い両親を、真唯子は軽蔑していた。の価値が身分や財産で測れるとは、全く思えないからである。



蜜柑みかん、召し上がりませんか?」

 真唯子は応接セットのテーブルに果物籠を乗せながら問いかけたが、返事はなかった。このようにはっきりした拒絶は予想していなかったので戸惑ってしまう。

 しかし、真唯子には今日この日、どうしてもしなければならぬことがあった。

 咲良の白い横顔を見つめ、思い切って口を開く。 

「お慕い申し上げております」

 このために、渋る両親を説き伏せて鎌倉行きの許しを得たのである。羞恥心で失神しそうになりながら、彼女は言葉を続けた。

「家同士の決めたことではありましたが、わたくしは心から咲良さんを……」

「おやめなさい」

 ガタッと大きな音を立てて咲良が立ち上がった。

 分厚いガウンを羽織った下は寝間着や病衣ではなく、仕立ての良いシャツとスラックス姿だった。もともと線の細い体ではあったが、東京の病院にいた時より痩せたようである。

 咲良は真唯子に冷ややかな眼差しを向け、皮肉な笑いを口もとに浮かべた。

「貴女が慕っていたのは僕ではなく秋郎でしょう?」

「それは誤解です!」

「嘘はもう結構。こんなところまで言い訳しにやって来るなど、貴女という人はどこまで欲深いのですか」

 吐き捨てるように言う。

「どういう意味ですの?」

 咲良は物腰の柔らかい紳士のはずで、こんな失礼な物言いをするような方ではないのに……そう思うと真唯子は悲しくなってくる。

「死にゆく僕にまで良い顔をしたいのは何故なにゆえです? ご自分の胸によく聞くといい」

 容赦のない言葉が矢継ぎ早にかけられた。

「悲劇のヒロイン気取りに巻き込むのはやめていただきたい」


 真唯子の目から一筋の涙がこぼれれ出た。


「わたくしのことはどれほど悪しざまに罵られてもかまいません。ですが、死にゆくなどと弱気なことは、どうかおっしゃらないでください」

 咲良は真唯子から顔を背け、唇を噛みしめる。

「父から、咲良さんではなく秋郎さんに嫁ぐようにと言われましたが、そんなことは出来ません。お断りするつもりです」

「……断れるわけないでしょう」

 ひどく低い声であった。

「安い同情などいりません。僕の望みは、貴女と秋郎が結婚して月岡の家を守っていってくれること。それだけです」

 再び窓のほうを向いてしまった咲良は、それきり黙ってしまった。

「それでも、わたくしは咲良さんに嫁ぎたいと……」

 真唯子は言葉が喉につかえたようになってしまい、ただ静かに涙を流し続けることしか出来なかった。



 月岡二郎は咲良に廃嫡同然の仕打ちをしただけでなく、許婚者まで庶子の異母兄に譲らせようとしていた。

 あまりの非情さに正妻が食をってまで抗議したが、二郎は揺るがなかった。彼は愛息のが不自由ないよう厚く手配しているつもりなのである。死病に罹ってしまったからには後継者の椅子も血筋の良い嫁も負担であろう、というのが彼なりのであった。

 しかし二郎は自らの考え方を家族に話すような人物ではなく、そのは妻子に全く伝わっていない。

 新たに後継者とした秋郎は二十八歳という年齢であったので、真唯子との婚約が調えばすぐにでもめとらせるつもりで話を進めていた。澤井子爵も同意の上である。

 そこに当の本人である秋郎や真唯子の意志が入る余地はない。

 破談にしたいと言っても通るはずがないことは、真唯子もよくわかっていた。



「真唯子さん」

 どれほど時間が経ってからか、真唯子は咲良の声で我に返った。

 顔を上げると、彼はベッドに腰かけてこちらを見ていた。

「そんなに僕を慕っているというのなら、を見せてくださいますか?」

 紅い唇が誘うように少しひらいた様は、咲き初めた花のようでひどく美しく、その誘惑に逆らえるものなどおらぬのではないかと思えた。

 真唯子は未だ、その花に触れたことがない。

「咲良さん……」

 吸い寄せられるようにベッドの傍に近づいていく。

 婚約してすぐ仏蘭西へ渡ってしまった咲良とは、手紙のやり取りだけが交際の全てで、彼のことは礼儀正しく丁寧に綴られた文字でしか知らない。生身の人としての咲良と触れ合わぬまま帰るわけにはいかないと、真唯子は覚悟を決めて今日ここに来たのである。

 彼女の手を取り、咲良は上目使いの濡れた瞳を向けた。

「暖房がいささか強いようですね。暑くはありませんか?」

 握られた手から伝わる燃えるような熱さが、真唯子の肌を赤く染めていく。

「ええ、少し暑いようですわ」

 彼女は自らの意志でブラウスのボタンをはずした。


 咲良は全身くまなく熱を帯びた肌を幾度も重ね、芯まで焼き尽くさんばかりの激情を真唯子に刻みつけていった。




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