今、そこにある成分

本栖川かおる

あたりまえの日常ごと

 大切なもの――有形なものであれば、目にしただけで大切だと思うことができる。おもちゃであったり、仕事の道具であったり。恋人からの手紙もそうかもしれない。


 ――では、無形なものは?


 無形とは形をなさないもの。目で認識することが出来なくても大切なものは多い。例えば、生きていくために欠かせない空気もそのひとつ。特殊な環境に身を置いている人は別だけれど、普通は「空気さん、今日もありがとう」と感謝を捧げることはない。

 そんな、誰もが普段その存在を気にしていない空気の成分は、七十八パーセントが窒素で酸素はほぼ二十一パーセント。他にも構成している気体はあるけれど、空気は窒素と酸素であるといっても過言ではない。それがなければ人間のみならず、他にも多くの生物が生きていけない。

 目に見えない大切なものの多くは日常に深く溶け込んでいるため、存在のありがたさを感じることが少ない。それはきっと、私たちが安寧あんねいな日々を送れている証拠なのだろうと思う。


 ――たまには、日常にある大切な存在を探してみるのも良いかもしれない。


***


 自宅マンションのベッドで私は目を覚ました。厚手のカーテンの合わせ目から漏れる朝陽あさひによって自然と目が覚め、新鮮な光のまぶしさに目を細めながら思いっきり伸びをする。そんな素敵な一日の始まりであれば、モーニング珈琲を飲みたくなったのかもしれない。けれど、残念なことにその日の目覚めは良くなかった。


――夢を見た。怖い夢というよりも、とても寂しい夢だったと思う。


 私は家事をあまりやらない。もちろん、手伝うことはある。洗濯ものを取り入れたり、食器を出したり仕舞ったり。でも、基本は夫である彼がやってくれる。

 お互い働いているので、結婚してすぐに家事は分担にしようと私が言い出した。こういうことは初めが肝心だ。ここでミスをすると、この先に待っているのは仕事と家事に追われる日々でしかない。そんなのは真っ平御免だと意気込んで提案した私は、何の迷いもない彼の快諾によって少し肩透かしを食らってしまった。


 私的には、食事を作るのは誰で洗濯するのは誰といった固定分担制だったのに対して、彼が提案した分担は少し違っていた。

 誰が何をやるのかではなく、例えば彼が料理をしたのであれば洗い物は私がやる、掃除をやっているのであれば洗濯は私が、といった感じの融通分担方法だった。ひとりが一度にすべて同時にやることなど出来ない訳だから何かしらの家事は残っている。それに、どちらが先に帰宅するのか分からないのに食事の分担は私だからと、彼が先に帰って何もやらなければ効率が悪い。確かにそうだなと感心した私に、それはあくまで建前上のことであり、大切なのはお互いに相手のことを気遣って行動することなのだと彼は言った。

 こうして、うちの家事分担は何の問題もなく平穏に決まったのだが、蓋を開けてみれば殆どを彼がやることになっていた。


 家事を多くやっていることに関して、彼から不満を言われたことはない。一度も面倒くさいとか、私に対して何をやってくれなどといった指示も出さなかった。やらなければいけないことを淡々と次々にこなしていく。


 食事は先に帰宅した方が作ることになるけれど、私は帰宅したらまずソファーに座りくつろいで日中の疲れを一旦吐き出さなければとても家事なんて出来ない。だけどそれには重大な欠点があって、座って大きく息を吐きだした時には根が生えてしまい、台所に立つことが面倒臭くて仕方がなくなることだ。はたから見たら、リビングで寛ぐ私は便々べんべんたるトドにでも見えたことだろう。そうやって時間を無駄に消費していると彼が帰宅する。私は重くなった腰を気持ちでは動かそうとするけれど、深く根を張ってしまったものは簡単に引きちぎれない。ただ「おかえり」と言うのが精一杯だった。


「今日は、疲れているみたいだから俺が作るよ」と、彼は帰宅して休むことなくぐに夕食を作りだす。「」というけれど、今日だけではない――いつもだ。そもそも分担制を言い出したのは私であって、方法を提案したのは彼だったけれど異論はなかったし固定分担制よりも良いと思ったのだから、先に帰った私が彼を押しけてでも作らなければいけない。それなのに、後から帰って来た彼に甘えてしまった。

 そうやって過ごすうちに、それが日常となり当たり前のことになって、いつの間にか私は家事のすべてを手伝い程度にしかやらなくなっていた。


***


――朝起きると彼はいなかった。いない理由など考えることはなく、私はいつものように会社に行き夕刻に帰って来た。それがルーティーンだったからそうした。

 帰宅してソファーに腰を下ろした私は、いつものように気だるさが襲い立てなくなってしまった。どれ程の時間が経過したのだろう。お腹は減っていたけれど作るのが面倒臭くて、もう少しもう少しと台所へ行くのを引き延ばした。つらい。身体が重い。なんで人間は食事をしなければ生きていけないんだと、そんな根本的なことへの苛立ちを覚え、こんなに疲れて帰って来たのにやらなければならないことがあるなんて理不尽過ぎると訳の分からない不満ばかりが胸を突く。こんな時、誰かが作ってくれればいいのにと心底思った。それと同時に、何か違和感のようなものを覚えた。


 いい加減お腹がき、くだらない葛藤をしたところで結局は何かを作って食べなければ空腹は治まらないことにようやく到達して、重い足を引きずり台所へ向かう。冷蔵庫から食材を取り出してまな板に置くと、目の前にある肉の名前が出て来ない。この肉の名前なんだっけ――この肉を使って何を作ろうとしているんだっけ。そのうち、なぜ台所に立って肉を前にしているのかも分からなくなってきた。


「ねぇ、この肉って名前なんだったけ?」

 静まり返っている室内には返って来る言葉はない。この部屋には私しか住んでいないのだから当然だ。でも、何か違和感がある。

「ねぇ、聞いてるの?」と、返事がなかったのでもう一度大きな声で訊いた。誰もいない静まり返った室内に、冷蔵庫のサーモスタットが入る音だけが響く。

 いつも問いかければ必ず答えが返って来たのにと、違和感の正体を肌で感じるのと同時に、私は結婚していて傍にはいつも彼がいたことを思い出す。

 顔が、声が、家事をやらずゴロゴロとしている私に不満のひとつも言わなかった彼のことが鮮明に頭の中へよみがえる。今まで感じることがなかった寒さが一気に全身を貫く。ザワザワと胸の辺りがとても気持ちが悪い。

 無精をしてもそのうち彼がやってくれるということが日常であり当たり前だった。でも、一人になったときに初めてそれがどんなに大変なことでどんなに有難いことだったのかを知った。

 問うた言葉に返える言葉。用意出来ている食事。そして何より、この静かな世界に一人ではないことを教えてくれる存在。普段は気にすることのない大切なもの。それがすべて無くなってしまった。

 さっきまでは胸のあたりだけだったザワつきが一気に全身に広がり、最悪とも言える不安や恐怖にさいなまれた瞬間に、私は現実の世界へと帰還した。


***


 悪夢から目覚めると、心臓の規則正しいリズムが全身へと鼓動を伝えていた。決して速くはないけれど、トク、トクと、いつもより大きくな音をたてて脈を打っているのが分かる。横たわった私の視界に映ったのはクローゼットの無垢な白い扉だけだった。昨晩目を閉じる時には、いつものように見慣れた横顔が確かにあったはず。少しだけ落ち着きを取り戻しつつあった下腹のあたりが、またもザワザワと不安を掻き立てる。ベッド脇の目覚まし置時計は午前四時三十分。カチ、カチと規則正しく刻む微かな音が私の憂虞ゆうぐを剥き出しにした。


 ふかふかと熱を蓄えたベッドからするりと抜け出して足早に寝室の扉へ近づきドアノブに手を掛ける。今は夢の中ではない。扉の前に立っているのは間違いなく現実の私だと実感できている。

 正直このノブを回すのが怖い。そんな思いが扉を開くことを躊躇ためらわせたけれど、勇気を振り絞りゆっくりと扉を開けた。開け放たれた向こう側が夢で見た光景でないことを祈って。



 刹那せつなの時しか見せない太陽が昇る直前の淡い色彩がリビングのソファーを染めている。向かい合わせのカウンターキッチン奥にある換気扇の下で、右手に菜箸を握る彼が立っていた。見慣れたいつも通りのその顔を見たときに、私は緊張していた筋肉を一気に弛緩しかんさせて寝室出入り口のドアパネルに手を掛けていなければその場にへたり込んでしまったと思う。


「おはよう」

 横目でチラリとこちらを見て、フライパンを細かく揺すりながら菜箸を動かし挨拶した彼。横顔から見える口のはしかすかに上がっている。なんだろう。昔感じたことのあるこの温かな空気。それが、新婚当初に毎日感じていたものだったと思い出すのに少し時間がかかった。

 やわらかくあたたかい、そして愛おしい。最近ではこの空気に慣れ過ぎて何も感じなくなっていた気がする。いつもと変わらない見慣れた彼の横顔が、結婚当初に見ていた横顔に見えた。何も変わっていないんだ。私が幸せすぎる日常に慣れ過ぎてしまっていたのだと気が付いた。


「おはよう」

 私は挨拶の返事をした。

 この時、この瞬間、私を取り巻く空気はどんな成分で構成されているのだろう。窒素や酸素などといった無粋なものではなく、この成分で構成されている空気も私には生きていくうえで必要不可欠な無形で大切なものなのだと感じた。


「こんな早くにどうしたの?」私は微かに笑みを浮かべ何気に問いかける。

「どうしたのって……今日月曜日だろ。君のお弁当、一緒に作っておいたから」

 そうなんだ。これが彼にとってのいつもの日常なんだ。最近は気にも留めず、そこに置いてあるのが当然のように私は会社へとそのお弁当を持って行く。眠い目をこすり、冷蔵庫を覗き込んで何にしようかと頭を悩ませながら作るお弁当がどんなに大変なことなのかを忘れていた。お弁当だけではない。結婚してから今まで、どれだけ私の為にやってくれていたことが多いのかを夢が教えてくれた。


「いつもごめんね」自然と口から出た言葉。

「ん? どうした、熱でもあるんじゃないか?」彼は笑いながら茶化ちゃかす。


 相変わらず温かな成分が私を包んでいる。この気持ちは、決して忘れてはならないことなんだと思う。それを表現するのかしないのかは別として、心のどこかに置いておき思い出す。その当たり前なことも日常に溶け込んでいる大切なことなんだと。


 私は、彼に聞こえないように呟く。


「いままで、ごめんなさい。そして、ありがとう」と。

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