煌めくアオイナミダ

御手紙 葉

碧い涙

 僕はその海岸線をずっと歩きながら、彼女がこの間囁いていたその歌をそっと口ずさみ始めた。それは僕の胸に深く降り積もり、口ずさんだ瞬間に、ふわりと一斉に舞い上がる光の雨に似ていた。僕はその曲を歌っている最中、ずっと彼女と一緒にいて、お互いの魂をこの世のどこかに感じていた。

 潮騒が繰り返され、僕の心にひっそりとした落ち着きと、太陽に煌めく炎がせめぎ合い、溶け合って、胸の中で揺れていた。宵闇は海をどこまでも掻き消し、しかし彼女が腰を下ろした岩肌だけは月の光が満ちていた。

 そこに座っている一人の少女。いや、少女と言っていいかはわからないけれど、彼女はこの世のものとは思えない美しさをその姿に体現していた。その青い艶やかな髪は胸元を隠し、肌に直接触れている。服を着ていないその姿はあまりにもほっそりとしていて、彼女の尾びれがリズムに合わせ、岩肌を打った。

 人魚。彼女は人間ではなく、海に棲む生き物だった。

「また、歌を唄っていたのか」

 僕がそっと近づいていって囁くと、彼女はようやく歌うのをやめ、薔薇の花びらのように微笑んだ。

「歌っていれば、浩介が来ると思ってね」

 その言葉は人間のもので、何一つとして僕と変わらない人の心を持っている。でも、僕と彼女は致命的に別々の生き物なのだ。でも、惹かれ合っている。青空と水面がそっと水平線の上で交わるように。

「浩介も、私の歌を唄っていたでしょ」

「うん。そうしていれば、君に会えると思ってね」

 そう言って僕らは体を向け合って、声を上げて笑った。

「今夜が、最後なのね」

 彼女がそう、ぽつりと静かな囁きを零した。僕はぐっと密かに拳を握りながら、うなずいた。

「もう夏休みが終わってしまうから。僕はこの海を離れなくちゃ」

「私の心からも、離れてしまうの?」

 彼女は僕を責め立てる訳でもなく、懇願する訳でもなく、ただその決まった運命を打ち明けるようにその唇を開いた。

「それはないよ。僕はこの海から離れても、ずっとミアのことを想ってる。絶対に、忘れたりしない。僕はミアのことが、本当に好きで、絶対に会いに来るよ」

「本当に?」

 本当に、だよ。僕はそう笑って、そっと波を掻き分けて歩み寄っていくと、彼女の頭にぽんと手を置いた。

「大丈夫。来年の夏、また会いに来るから」

「絶対に……絶対に会いに来てよ」

 彼女はあくまでも笑みを浮かべたまま、そう強い口調で言った。

「うん。ミアの元に必ず帰ってくるから」

 彼女は僕の真意を探るようにすっと透き通るような眼差しを向けてきて、目を覗き込んできた。そして、微笑み、一つうなずいた。

「わかったわ。これをあなたにあげるから」

 彼女がそっとそれを僕に差し出してきた。

「これ……本当にいいの?」

「いいに決まってるでしょ。浩介の為に作ったんだから」

 それはこの海の貝殻を繋げて作ったブレスレットだった。とても綺麗な形に収められた貝殻が彼女の美しい指先で円を描いて繋がり、彼女のその純粋な好意が感じられた。

「ありがとう。大切にするよ」

「それをしている時、私達は繋がっていられるから。私もこのブレスレットを付けて、浩介の想いをいつも感じているから」

「うん、ミアと一緒にいられるね」

 ミアは僕の肩に額を擦り付けて、目を閉じていたけれど、やがて「そろそろ行くわ」とつぶやいた。

「ミア。元気で」

「浩介こそ、他の女の子と浮気したら承知しないからね」

「おお、こわ。でも、それは絶対にあり得ないよ」

 僕は彼女の頭をくしゃくしゃと撫でると、そっと身を離した。

「ミアの方こそ、僕と離れるって言うのに、そんなに笑顔のままで、つらくないのか?」

「私を馬鹿にしないで。浩介がいなくても、一人で生きていけるよ。今までずっとそうだったんだから」

 彼女はそう言って、とんと胸を叩いてみせた。

「そうか。その言葉が聞けてほっとしたよ」

 そう言って僕はミアへと手を振る。ミアはそっと海岸を滑って、水の中へと入った。

「じゃあね、浩介」

 彼女はその瞳をにっこりと微笑ませて、元気良く手を振った。僕も負けずに両手を大きく振って、それに応える。

「じゃあね、浩介!」

 彼女は少し離れてからまた海面から顔を出して手を振った。それを何度も繰り返し、彼女の姿が今度こそその暗い海の底へと消えていくと、僕はぐっと唇を噛み締めて、その溢れ出しそうな想いを堪えた。

 大丈夫。ミアとまた会えるまで、絶対に負けないように頑張るんだ。

 僕はすっと身を翻して歩き出した。砂浜を一歩踏みしめて歩き出すにつれて、ミアへの想いが強くなっていく。不思議なもので、離れれば離れるほど、ミアへの気持ちは膨らんでいく。

 また、来るから。

 そうつぶやき、もう一度振り返って、ミアがいる海へと大きく手を振った。


 *


 僕とミアが出会ったあの海岸にもう一度戻る時、僕は彼女に対してあるプレゼントをしようと決意していた。それに向けて、毎日疲れ果てるまで努力し続けた。僕が今生きる意味は、ミアと一緒にいることにあった。

 そうして僕は高校三年生になり、やがて受験勉強の日々が来た。僕は予備校に通いづめになり、その志望する大学に入りたい一心で勉強を続けていた。でも、ミアのことは頭から離れることはなかった。彼女のブレスレットに触れれば、確かに僕達は繋がっていると感じることができた。

 そこにミアがいなくても、ミアの心を感じることができるような気がする。そんな暖かな感触をブレスレットは僕に与えてくれた。

 そうして徐々に夏休みが近づいてきた頃、僕はいつものように学校から帰ると、自室に篭って勉強を続けた。ひたすら机に向かって問題を解き続け、ブレスレットの存在だけを頼りに前へと進んでいた。

 いつしか僕は机に突っ伏して眠ってしまっていた。ミアのことを考えながら、夢の中で出会えることを期待して、心地良い眠りへと入っていく。

 気づいた時には、あれから二時間が経っていた。やばい、と僕は机から顔を起して時計を見たけれど、そこで何か違和感を感じた。僕を支えていたあの暖かみがふっと消えていた。僕は自分の腕を見て、血の気が引いた。

 ブレスレットが机の端に引っかかって切れていたのだ。眠っている際に、誤って糸を切ってしまったのだ。貝殻が机に転がり、僕は唇を震わせながら、何か掠れた声を上げてそれらを掌で包み込んだ。

 もう彼女の心はすぐ側になかった。僕の世界が崩れ去り、何か僕の上へ重たい負の壁が圧しかかってくる気がした。

「ミア……ミア!」

 僕は慌てて貝殻を集めて糸に通し、何とかブレスレットを修復した。何でこんなことをしてしまったんだろう。ブレスレットを修繕している最中、僕は目頭が熱くなるのを感じた。本当にみっともなかった。こんな姿をミアが見たら、「情けないわね、浩介」とあのつんとした表情で言うに違いない。

「ミア、ごめん」

 僕はそれを手にしながら、ミアに繰り返し謝った。でも、その想いは彼女に届くはずがなかった。


 *


 そうして夏休みが近づいてきていることに少しだけほっとしながら、早くミアに会えないのかとそればかりを気にするようになった。ミアに会ったら、まず最初に謝らないといけない。そして、お詫びに新しくブレスレットをこちらからプレゼントしよう。

 僕はカレンダーに毎日印を付け、部屋に戻る度に何度もその日を確認した。あともう少し。もう少しなんだ。

 ずっとミアのことを思いながら過ごしていたけれど、ふとその日の夜、不吉な夢を見た。

 それはあの宵闇に沈んだ海岸だった。その夢の中では生温かな潮風の感触や、どこか遠くから深く響いてくる潮騒など、全てが鮮明で、僕の意識ははっきりしていた。

 ミア、と僕は囁きながら、周囲へと意識を向けたが、その時、ふとか細い声が聞こえてきた。それは小刻みに途切れ、掠れ、ナイフで空気を少しずつ切りつけるような、そんな泣き声だった。

 ミアが、ミアが泣いているのだ。

 僕は胸が固い拳で握り潰されるような感覚を抱きながら、彼女の姿を目に焼き付ける。彼女は顔を手で覆って、長い青い髪を乱れさせて、嗚咽していた。その肩が大きく揺れる度に髪がばらばらと崩れて、それは僕の腕から落ちた貝殻の残骸のようだった。

「浩介……浩介、浩介――」

 彼女はずっと僕のことを呼んでいた。必死に僕へと声を届けるように、そしてその願いが叶わないということを知りながらも、囁き続けた。

 ミア、僕はここにいる!

 僕は必死に意識の声を張り上げるけれど、彼女には届かない。

「浩介……私はやっぱり一人じゃ駄目だよ。浩介がいないと何もできないよ。浩介は私のこと、忘れちゃったの? もう会わないの? 私をこの海に捨て去るの? そんなの、そんなの嫌だよ、」

 彼女の声がざくざくと僕の胸を切り刻んでいく。違う、ミア、僕は必ず君の元に会いに行くよ! 信じて、悲しまないで。僕はずっと君の側にいるよ。でも、その言葉は彼女の悲痛な声に溶け込むことなく、無残に散ってしまう。

「なんで、私の約束を破ったの? 私と繋がっていたくないから?」

 ミアは自分の腕のブレスレットを握りながら、顔をぐちゃぐちゃにして泣き続けた。その鼻から流れ落ちる鼻水も、額にばらばらに張り付いた前髪も、彼女の純粋な心をただ表していた。だから、僕は声の限りに叫び続けた。

 ミア、そこで待っていて! 僕は絶対に会いに行くから。

 その声は届かない。

 会いに行くよ、ミアを見捨てたりしないから!

 その願いは届かない。

 だけど、僕はミアのその肩にそっと手を伸ばす。その時空を切り裂く掌で彼女に触れる為に。


 *


 次に目を覚ました時、僕の体は汗だくで、悪寒が肌を粟立たせた。僕はゆっくりとベッドから身を起して額に手を当てるが、彼女の耳を突き刺すような泣き声が今でも胸に刻まれていた。僕はそっと時計を確認して、五時半か、とつぶやいた。

 部屋の隅に置いてあったボストンバッグには、もうミアの元へと向かえるように荷物が用意されていた。あの海岸への路線は頭に叩き込んでいた。

 もう、迷う必要はなかった。

 ベッドから立ち上がって寝間着を脱ぐと、僕はTシャツを着て、ジーンズを履き、そのままボストンバッグを手に取る。明日からは土日が続き、何とか行けないこともないはずだ。ミア、と僕はつぶやき、母親にメモを残してそのまま家を出た。

 列車を乗り継ぎ、窓の外の景色を眺めながら、何度も僕は拳を握った。ミアの気持ちを理解してやれなかった僕は、本当に馬鹿だ。ミアが僕がいなくて平気な訳ないじゃないか。

 ――私を馬鹿にしないで。浩介がいなくても、一人で生きていけるよ。今までずっとそうだったんだから。

 僕はあの彼女の言葉を信じて、今まで何とか乗り切ることができたのだ。でも、それは彼女の精一杯の僕への愛情だったのだ。彼女は本当はあの夜に何度も涙を流し、僕に恨みの言葉と懇願の願いと、そしてただ純粋な気持ちを連ねていたのだ。

 これは僕があまりにもミアの気持ちをわかろうとしなかったことに原因がある。僕は今すぐにミアのところに行って、彼女に謝らないといけない。勉強なんてどうでもいい。何故そんな長い間彼女をほうっておいて、すぐにでも会いに行ってやれなかったんだろう。

 僕はミアがくれたブレスレットをもう一度取り出して見つめる。貝殻のその重みが掌に圧し掛かる度に、彼女の深い愛を思い出して僕はぐっと胸を詰まらせる。彼女はどういう気持ちでこのブレスレットを作ったのだろう。

 本当は離れたくないのに、仕方なく僕のことを想って、ただ心だけは繋がっていたいとそれを作ったのだ。それを僕は、ミアの心の結晶を引きちぎってしまったのだ。

 それはあまりにも残酷だ。だから僕は彼女にそのプレゼントを一足早く伝えようと思う。

 そこでふと気付く。その貝殻の内側に、何かが滑り込むようにして固まっていることに。それは青く透き通った石の欠片で、不思議と他の貝殻の端にこびり付いていたり、青い結晶がところどころに散りばめられていた。

 僕は何だろうと思ったが、その美しい青い結晶を見つめていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。その透き通った色彩を見つめていると、彼女がいるあの海の潮騒がどこからか聞こえてくる気がした。すぐ側に彼女の笑い声が聞こえたような、そんな安らぎを与えてくれた。

 ブレスレットをそっとバッグに仕舞うと、ただ目を閉じて祈り続けた。ミアの身に何もないことをずっと願い続けていた。そうして列車を乗り継ぎ、その窓の外の景色が移ろってやがて美しい夕焼け色に輝く海が見えると、僕は窓にしがみついて食い入るように見つめた。

 その海岸に着く頃にはすっかり夜になっていた。僕は駅からそっと出てくると、草いきれが漂う茂みに覆われた道を掻き分けるようにして進み続けた。その砂浜が見えた時、僕はもうボストンバッグを投げ捨てて、波打ち際へと駆け続けた。

「ミアーーッ! ミアーーッ!」

 声を張り上げても、あの岩の上には彼女の姿はなかった。僕は波打ち際に膝をついて息を切らせながらも、何度も何度も彼女の名前を呼び続けた。

 ミアは一向に現れず、僕の中であの悲しみの声が蘇ってきて、僕は今にも頭を抱えて砂浜に突っ伏し、喉を引き裂くような絶叫を上げそうだった。

 ミア、お願いだから。また僕の元に来てくれ。あのきらきらと輝く眼差しを見たいんだよ。

 僕は息も切れ切れになって、砂浜に崩れ落ちると、彼女がいつも歌っていたあの歌を囁き続ける。それは僕の彼女を呼ぶ声が潮騒に紛れて消えてしまわないように、海のどこまでも染み通っていく願いを籠めた歌声だった。

 ミア、もう一度会いたいんだ。

 そうして顔を上げた僕は、瞼を大きく見開き、その月明かりの下で輝く青い髪が翻るのを見た。

 気付いた瞬間には、僕はミアの腕で包み込まれていた。すぐ間近に彼女の少し水に濡れた柔らかい肌の感触がある。

「ミア?」

「うん、浩介。待ってたよ」

 彼女はそっと間近から見上げてきて、うっすらと微笑んだ。

「ごめん、ミア。僕はミアのこと、傷つけちゃったんじゃないかな」

「大丈夫。私は浩介のこと、ずっと待っていたけど、絶対に信じていたから。よかった、本当に……浩介が、浩介がここにいる」

 そう零すと、ミアの心の糸が切れたのか、彼女は僕の胸に顔を埋めて大声で泣き続けた。その泣き声は悲痛ではあったけれど、今までのつらかった気持ちを全て海に吐き出して空っぽにするような清々しさがあった。

 僕はミアの頭をぽんぽんと叩き、「もう大丈夫だから」と何度も声を囁いた。

「浩介のこと、ずっと感じていられたのに、突然ふっとその繋がりが切れてしまったような気がして。だから、浩介がもう私のことを忘れてしまったんじゃないかと怖くなって。でもね、やっぱり浩介のことだから、何かあったんじゃないかって信じたくて。でも、信じられない時もあって、」

 ミアの瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていく。そして、僕は気付いた。彼女の涙が青色に輝き、砂浜に落ちた瞬間に、透き通るような青い石に変わることに。

 僕の中で全てが繋がる。何故、あの貝殻のブレスレットに青い石が付いていたか……それは彼女が泣きながら、つらくとも僕を想って作ってくれたからだ。彼女はやっぱりあの時、泣いていたんだ。僕は本当に彼女の優しさに心を震わせて、そして嬉しくなって「ありがとう」とつぶやいた。

「私の涙、砂浜に落ちると固まっちゃうんだ。青く透き通った石になるの」

「うん。全部わかったから。少し、落ち着いた?」

「やっと浩介に会えた。それだけで十分だよ」

 彼女はそう笑って、涙をふわりと散らせた。

「私がいない間に、他の女の子に手を出さなかった?」

「大丈夫、それはないよ」

 よし、と彼女はうなずき、目元を拭った。

「それより、ミア。僕、君にプレゼントを持ってきたよ」

「え……プレゼント?」

 ミアがきょとんとした顔で僕を見つめる。

「貝殻で作ったブレスレット、壊しちゃっただろ。だから、この海岸の貝殻もう一度集めて作ろうかと思ってたんだけど、もっといいものが見つかったから」

 僕はそう言って、足元のその青く輝く石を見つめて、笑う。


「うわあ、こうして見ると、綺麗だね」

 彼女はそのブレスレットに繋がれた青い石を見つめて、興奮したような声を上げる。僕も自分の腕に繋がれたそのブレスレットを宙に掲げながら、「こっちの方が」と零す。

「こっちの方が、お互いにずっと繋がってられるだろ」

「うん、そうだね」

 ミアはもう一度水が弾けたような、月明かりの差した美しい笑顔を見せた。

「ミアに、一つだけ言いたいことがある」

「何?」

 ミアはわずかに期待を篭めた声を僕に返してくる。

「来年になったら、ミアにプレゼントがあるよ。そうしたら、ミアはもっと僕に会えるから」

「え、え? どうして?」

 ミアが目を輝かせて僕の腕をつかもうとする。僕はそれを避けて、立ち上がった。

「それは、内緒。来年までのお楽しみってことで」

「それはないでしょ、浩介! ちょっと、聞いてるの? 逃げないでよ、バカ!」

 僕達はそうやって砂浜の上を踊って遊びながら、夜の海に二人の一時を浮かべていつまでも語り合っていく。

 来年、僕はこの海のすぐ近くにある海洋大学に入学しようと思ってる。もしそこに入れたら、ミアとずっと一緒にいることができるようになる。だから、ミアの為に僕は勉強を精一杯やっていたんだ。だからーー。

 僕はミアのその微笑みを見つめながら思う。

 もう、あんな綺麗な涙は見せなくていいよ。笑ってる方が、もっと一番に綺麗だから。



 碧い涙

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