明日香岬の五尺玉
エディ・K・C
明日香岬の五尺玉
幼稚園から数えると、人生で十五回目の夏休み。
その貴重な一ページを虫食いにした一週間の夏期補講に、今日でお別れをした。
「スクールゾーン」の文字が貼られている電柱を横目に、
午後七時。
他に出歩く者もなく、無数の羽虫を従えた街灯だけがのんびりと頭上を過ぎていく。
道沿いに並んだやや年代を感じる住宅郡からは、思い思いの献立の匂いが漏れている。
その匂いを運ぶ風に、直樹の前髪がさらさらとなびいている。
緩くつないだ彼の手は、よく見れば腕時計やら指輪やらの日焼け跡で微かな縞模様が浮かんでいる。
紗那絵の指が、その模様をなぞる。
付き合って一年。
最初はおどおどと直樹の後について歩くしかなかった紗那絵も、今では堂々と手をつないで歩いている。
それが当たり前になった。
「紗那絵ちゃん、あの花、咲いたよ。すごくイイ香り」
直樹がスマートフォンを取り出し、紗那絵によこした。
液晶いっぱいに映し出された白い花。
紗那絵は、ああ、と頷く。
黄色くぽってりとした花芯部と、その周囲を縁取る白い花弁。
カモミール。
直樹の誕生日に紗那絵が栽培セットをプレゼントしたのだ。それが花を咲かせた。
「気分がすーっと、穏やかになるっていうか」
カモミールの香りにはリラックス効果があるらしく、よくハーブティーに使われる。
ミルクと蜂蜜を入れるのが紗那絵のお気に入りだ。
カモミールの効果なのかどうかは良く分からないが、それを飲むと心が落ち着くのは本当だ。
「忘れてないと思うけど、萎んじゃう前に、花の部分をちぎって陰干ししておくこと」
「はいはい店長。カモミールティーって、紗那絵の店にも置くの?」
紗那絵の店。
今はまだ見ぬ、想像上の喫茶店。
それは紗那絵の夢だ。
実現方法とか、本当にやりたいことなのかとか、それすら真面目に考えたことのない、夢で終わるはずの夢。
直樹に会うまでは、そうとしか思っていなかった。
* * *
「じゃあさ、直樹は他にやりたいことあるの?」
とある漫画に触発され、物分りがよくてカッコいい教師に憧れていたが、最近はそれが揺らいできたと語る直樹に、紗那絵はちょっといじわるな質問をしてみた。
「うーん……強いて言えば自由人、かな。縛られたくないって言うか」
「なにそれ、フリーターの日本語版?」
真面目な表情を崩さずに言う直樹がおかしくて、紗那絵はくすくすと笑った。
「フリーター自体がどっちかっつうと日本語だろ。小林さんはもう決めてるの? 進路」
この反撃は予想の範囲内だったが、紗那絵は少し迷った。
絵空事のような夢をここで話すべきか、否か。
後から思えば、何も考えていないように見える直樹に対して、少しだけ背伸びをしたかったのだろう。
結局口を割った。
「いつか喫茶店を開きたい」
するとその言葉を待っていたかのように直樹はおもむろにスケッチブックを広げ、図面を引き出しだ。
カウンターはこの位置がいい。
入り口はここ。
テーブルの配置はどうする?
メニューを書く為の黒板もいるね。
そうそうお店の名前は?
紗那絵は、それまでぼんやりと空想していた喫茶店の構想を、洗いざらい吐きだすことになった。
その有象無象が直樹とのやりとりの中で再構築された結果、喫茶店は大きな樫の扉を備え、ステンドグラスあしらった窓と照明を備え、コルクの床を備え、欅の丸太を縦割りにしたカウンターを備え、楢のテーブルと椅子を備えた。
もはやそれは夢ではなく、設計図であり、チェックリストであり、早めに手を付けさえすれば苦にもならない夏休みの宿題のようなものに思えた。
はるか山の向こう側にあると思っていた景色が、突然目の前にまで引き寄せられたような気分だった。
直樹となら、何だってできる。
そう思い始めてからまもなく、紗那絵と直樹は付き合うようになった。
* * *
紗那絵の家は
毎年八月の第三土曜日に、近所の
そこでは紗那絵の家で作られた花火もたくさん上がる。
そして、今年は、例年にも増して特別なことがある。
数ヶ月前に亡くなった紗那絵の祖父、
五尺玉。
直径一五〇センチ。
現時点で間違いなく世界最大級だ。
その記念すべき日は、明日に迫っている。
「明日、行けそう?」
「ごめん……まだわからない」
直樹の態度がはっきりしない理由に、紗那絵は心当たりがあった。
「……今回の模試、重要だもんね」
直樹がハッと驚きを隠せぬ眼差しでこちらを見た。
「知ってるよ。T大模試受けるって。直樹、
女子高生の情報ネットワークをなめてはいけない。
「ごめん。隠すつもりじゃなかった」
わかってるよ、紗那絵はうなずきながら、しかし心の中で湧き上がる暗雲を抑えきれなかった。
わかってるけど、でも、話が違う。
「小林といるときは、受験のこととか、忘れたいんだ」
「わかるけどさ……なんか、ずるいよ、それ」
T大模試を受けるということは、T大を受験する気があるということだろう。
そんな話は、クラスメイトに聞かされるまで思いもよらないことだった。
そのときになって初めて、直樹が自分自身の目標を、沙那絵の知らないどこかへと定めていることを知った。
ところでさっきのカモミールのことだけどさ。
直樹が努めて明るい調子で言いかけたが、紗那絵はいたたまれなくなり、それを遮った。
「もういいよ」
声が震えそうだ。
なんで? どうしてこうなったんだろう?
「直樹、勉強してよ。喫茶店のことなんか、もうあたし一人で大丈夫。義理で話合わせてもらうのワルいし、あたしだって……」
だめだ、声が続かなくなってしまった。
感謝しなくてはいけない。
ここまで付き合ってもらったのだって、普通なら考えられないことだ。
直樹のおかげで自分は夢をあきらめずにいられた。
それ以上は、望む方がバカだったのだ。
でも壊したくない。
一人で大丈夫なんてウソだ。
直樹がいなくなるのが怖くてたまらない。
だから、これ以上は言ってはならない。
直樹もそれきり何を言ったらいいのやらという感じで、そのまま駅に着いてしまった。
直樹は電車、紗那絵の家はここから近いので歩きだ。
じゃあ、と、それだけ言って別れようとしたとき、改札口の方から鉄道会社の制服を着たおじさんが近づいてきた。
話したことはないが、よく見慣れた駅員のおじさんだった。
* * *
「ちょっといいですか? あなた森下直樹さんでしょ?」
突然の呼びかけに直樹がうまく応答できずにいると、おじさんはいつものニコニコ顔を崩さず、懐から一枚の封筒を取り出し、直樹に差し出した。
「小林源太っていう人からね、ずっと預かってて。今日、あなたに渡してくれってね」
「ええッ?」
驚きの声を上げたのは紗那絵だった。
小林源太とは、紗那絵の祖父その人だ。
「その小林って人ね、私の知り合いだったんだけど、これ私に預けたまま、ちょっと前に亡くなっちゃったんですよ。ご遺族に相談しようとも考えたんだけど、でもとりあえず僕にとっては遺言みたいになっちゃったから、言われてた通りにしようと思ってねえ。それじゃあ、渡しましたから」
駅員のおじさんはそれだけ言うと、質問も発せられないでいる紗那絵たちを置き去りにして、さっさと駅員室に引っ込んでしまった。
知ってか知らぬか、目の前の女の子が小林源太の孫だということまでは、気が付かなかったようだ。
「源太さんて、紗那絵のおじいさんだよね……中、見ていいのかな」
直樹がおそるおそるといった様子で封筒の中を覗くと、二つ折りにされた紙が一枚だけ入っていた。
「岬神社 参拝のしおり」
それだけ書かれた表紙には神社の遠景が写されており、裏表紙には神社へのアクセスが書かれていた。
「御鈴鳴らし」の行われる明日香岬のすぐ近くだ。
しおりを開くと、「御祭神」という見出しに続いて、聞いたこともない難解な名前が書かれている。
その下段は「御由来」となっている。
おそらくその難解な名前の神様の素性がつづられているに違いない。
「これ、何だろう?」
直樹が言っているのは、「御祭神」や「御由来」のことではなくて、紗那絵の祖父がなぜこれを、しかも今日という日を指定して、直樹に渡るようにしたのかということだろう。
「……さあ」
まったく祖父の意図は読めなかった。
「一応、貰っといたら? 私じゃなくて直樹にってことだし。そういえば、神話とか好きじゃなかったっけ?」
「まあそうだけど。でも俺、紗那絵のおじいさんって、一回しか会ったことないよ」
「うーん。最期まで頭はしっかりしてたけどな。まあ、勉強の息抜きにでも読んだら?」
皮肉っぽい言い方になってしまって、紗那絵は少し後悔した。
* * *
一年前。去年の「御鈴鳴らし」の前日。
直樹は紗那絵の祖父、小林源太に会った。
やはり駅前だった。直樹が紗那絵と立ち話をしていると、少ししゃがれた、しかし威勢の良い声の老人に呼び止められたのだ。
「おう、紗那絵じゃねえか」
紗那絵はやや驚いていたが、二人を屈託のない笑顔で見つめる祖父に安堵した様子で、直樹を紹介してくれた。
「おお、直樹くんね。そうかそうか。娘をよろしく頼むよ」
三人はその場で少し世間話をし、花火大会の話をし、その後祖父はやや大げさな振りで直樹と握手を交わし、やって来たときと同じく意気揚々と去って行った。
直樹が紗那絵の祖父を見たのはそれきりだった。
* * *
明日の模試は「T大受験完全対応」を謳い文句に大手の予備校が実施する全国的なもので、直樹にとってはこの夏最大の山場だった。
以前試しに受けてみたときは、全く歯が立たなかったが、今回は違う。
ここ数ヶ月間、大好きな映画や小説には目もくれずに勉強してきた。
それを見て、家族もようやく直樹の本気を認めつつある。
今となっては何の意味も持たないが、受験のことを紗那絵に知られたくなかったので、わざわざ遠くの試験会場に申し込みをしていた。
そのせいで、最後の英語に手間取ると花火大会には間に合わないかもしれない。
だが、今回ばかりは仕方がない。
直樹は勉強に煮詰まり、紅茶を飲んで一息ついていると、「参拝のしおり」のことを思い出した。
カバンから取り出して一読する。
聞き覚えのない神の名前と、その神にまつわる神話が書かれていた。
天界で悪事を働き、雷によって放逐され地に下った蛇神と、その蛇神を追い払わんとする土地の神の物語。
最初、土地の神は蛇神に敗れ、蛇神は人々に生贄を要求するが、最後に土地の神は、沢山の鉦や鈴や太鼓を打ち鳴らして雷に似た音を響かせ、蛇神を追い払う。
しかし蛇神は去り際に、人々を呪う。
この世に明日が続く限り、蛇神はいつの日か必ず戻ってくる、と。
この神話を元に、蛇神=凶事を祓う儀式として、岬神社の祭りでは盛大に鈴を打ち鳴らす「御鈴鳴らし」という行事が行われるようになったという。
戦時中に鈴が失われたこともあって、戦後は夏の花火大会にその名前が受け継がれた、と結ばれている。
「御鈴鳴らし」という名前が何らかの宗教的経緯を持っていることは直樹も想像していたが、そのルーツとなる物語については初めて知った。
それにしても。
直樹は一息に紅茶を飲み干した。カップを持つ手が、微かに震えた。
直樹の心を満たしたのは、まず紗那絵に対する疑念だった。
二人の関係について祖父に話していたのではないかと。
しかし、一年前に見た、紗那絵の祖父の邪気のない笑顔を思い浮かべたとき、それは驚きに変わった。
明日の「御鈴鳴らし」で、紗那絵の祖父が命を賭して作り上げた五尺玉が上がる。
その本当の意味に、おそらく紗那絵は気付いていないだろう。
* * *
「知っていたんだね」
翌日の夜、紗那絵は五尺玉の残した煙幕の空の下、直樹の話を聴いた。
俄かには信じられなかったが、次の一言で全てのことがつながった。
「握手をしたとき、左手だったんだ。それで君のおじいさんは僕の薬指を見て、一目でわかったんだろう。僕が結婚してるってこと」
直樹の左手の薬指に輝く白金のリング。
これまで紗那絵といるとき以外は着けていたから、夏はその部分だけ日焼けから取り残される。
目を凝らしてじっと見なければ分からないような、わずかな色の違いを、その意味するところを含めて、祖父は目ざとく見抜いた。
「参拝のしおり」にこめられた祖父の想いとは。
世界最大の「御鈴鳴らし」でなければ打ち払えない「蛇」とは。
直樹は、自分が「蛇」だろう、と言った。
しかし、たとえ直樹が「蛇」だとしても。
心に描いた夢へ至る長く遠い道。
紗那絵は歩き出すこともできず、立ち竦んでいた。
蛇がやってきて美しい幻を見せると、たちまち荷物を放り出し、身も心も投げ出した。
求められて生贄に捧げられたのではない。
求めたのは紗那絵自身。
自ら進んで、蛇を必要としたのだ。
今、直樹の指に煌くリングに、紗那絵は意外にも勇気付けられている自分に気が付いた。
あるべきものはやがてあるべき場所に収まる。
そんな気がした。
魔法が解けた今、これまで預けっぱなしにしてきた荷物を受け取らなくてはならない。
その中には、孤独がある。
喪失がある。
苦悩がある。
挫折がある。
およそありとあらゆる不安がはちきれんばかりに詰まっている。
でもそれこそが、夢をみることの代償だと、今ならわかる。
大丈夫だよ、おじいちゃん。
もう、明日から目を背けない。
どんなに呪われていても、歩き出せる。
「直樹、いえ、森下先生」
直樹は口を引き結び、苦しげな顔をした。
苦しいのは、自分も同じ。
でも、ここが踏ん張りどころだと、おそらく彼も解っている。
「ありがとう。大人の大学受験、がんばってね。でもその前に奥さんと仲直りしないと」
「がんばるよ。君も、喫茶店のこと、あきらめないで」
直樹はふと、三千発の余韻を吸い込んだ星空を見上げた。
「あの花火、やっぱりアレの形だよね?」
どうやら気が付いたらしい。五尺玉の形、色合いが、明らかにカモミールの花を模していたことに。
「カモミールの花言葉、知ってる?」
直樹は首を振った。
紗那絵はにぃと笑って、直樹の背中を思いきり叩き、力の限り叫んだ。
祖父が夏の夜空に遺した、世界一大きな言葉を。
「逆境に、負けるな!」
直樹はその言葉をゆっくりと咀嚼するように目を瞑り、そして微笑んだ。
「まったく……君のおじいさんには負ける」
* * *
こうして、二人はそれぞれの明日を歩き出した。
――― 了 ―――
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