一、待宵
十数年も続いた戦が終わった。
長きに渡る隣国との戦は、我が国の勝利という形で幕を閉じた。が、勿論我が国も無傷ではいられなかった。
焼け果てた大地があった。荒れ果て人の住めなくなった村があった。戦の爪痕を大きく残す田畑があった。そして、数多の戦傷者と戦死者がいた。
こうした犠牲の多くは《戦の者》が背負っている。故に、我ら《文の民》は彼らに報いなければならない。それが古から続く盟約なのだ。
この婚礼も、その報いの一つだ。《文の民》の貴人である《姫》が、《戦の者》の長の一人である《将》と契りを交わすことで、彼らに慶事をもたらすと同時に、二つの異なる民の絆をより確かなものにする。それこそ古より幾度となく繰り返されたこと。そう。ありふれたことだ。
唯一つありふれていないのは、《将》が亡くなった姉の大切な人だったこと――
婚礼の儀を終えて屋敷に帰ると、すぐさま付き人である
「ご成婚、お慶び申し上げる」
無感情にそう言って、まったく無駄のない動きで叩頭する。相も変わらず隙のない男である。
「……ありがとう、空祇。着替えをお願いするわ」
「仰せのままに」
多少気心の知れた空祇には、砕けた口調で話すこともあった。それに対する咎めはない。この男はただ淡々と自らの職務をこなすだけだ。
空祇は鈴を鳴らして女中を呼ぶ。リンと、明朗な音が夜の静けさに響く。
「お着替えが終わりましたら、すぐに禊をしていただきます」
「あら……、なら着替える必要はないのではないですか」
「そのままですと、婚礼衣装を傷つけてしまう可能性もありますゆえ」
お許しください、と再び叩頭する。私は首を振った。
「分かったわ。別に文句があるわけではないから安心して」
「恐れ入ります」
女中が到着する前に、もう一つ確認したいことがあった。
「フユツキ様はまだ、この屋敷には着いていらっしゃらない。もしかしたら、大分遅くなるかもしれません」
フユツキ様はまだ《戦の者》達とやらねばならないことがあるらしかった。申し訳なさそうな顔をして、私に先に帰って欲しいと告げてきた。
私は特に気にすることもなく了承したが、口さがのないものは色々に言うかもしれない。それは避けたかった。
「後のことを御前に頼みたいと思います、空祇」
「承りました」
必要最低限の命令で自分のやるべきことを理解する。本当に有能な男だ。私には勿体のないくらい。愛想がないのが玉に瑕だが。
女中が来ると、空祇は現れたときと同じく音もなくさがっていった。後は空祇が何とかしてくれるだろう。私は女中に気づかれぬ様に、そっとため息を零した。
禊を終え、私は寝所に入った。女中が下がるとすぐ静寂に包まれた。私は布団の端に座り、姿勢を正す。
本音を言えば、明日から始まるであろう公務の資料を読んでおきたかった。私は優れてはいない。必死に努力して、やっと当主の役目を果たせる程度の人間だ。だが、上に立つ人間としてその努力を誰にも見せるわけにはいかない。フユツキ様が何時帰ってくるか分からない以上、この寝所で資料を広げることはできない。
私は手持ち無沙汰になって、なんとなく周りを見渡してみる。
ここは去年までは母の寝所だった。病に冒されていた母は、ここで息を引き取った。もう三ヶ月前の話だ。姉の戦死を知り、まるで姉に手を引かれるように亡くなった。
(母上は……結局姉上のことをどう思っていらっしゃったのだろう)
母は確かに姉を忌み嫌っていた。それでも、母は姉をこの家から排斥しようとはしていなかった。
憎みながらも、どうしようもなく愛していた。若くして亡くなった父の面影を強く残す姉を。そんな気がしてならない。
滲みそうになった涙を咄嗟に堪えるように下を向く。
ふと、視線の先に皿に乗った餅があるのに気づいた。私は心を落ち着けるように、それをじっと見つめる。
貴なる一族として、この家では初夜をそれなりに重要視している。丹念に禊をし、いくつかの手順を踏まされる。床を共にする前にこの餅を食べるのもその手順の一つだ。なんでも、子を授かりやすくするための祈願の意味があるという。
「……」
彼は――私を抱かないだろう。確信にも似た予感があった。
「姫様」
抑揚のない空祇の声がした。私は顔を上げた。
「婿殿がいらっしゃいました」
「お通ししてください」
少しの間を持って、襖が開く。
「お待たせして大変申し訳ありませんでした、波璃姫様」
月明かりに照らされた銀の髪が僅かに煌き、白い面立ちが仄かに闇から浮かび上がっている。神秘的な美しさに私は刹那見惚れた。だがすぐに取り繕うように、微笑を浮かべてみせた。
「いいえ。お待ちしておりました、フユツキ様」
私がそう言うと、ほんの一瞬だけフユツキ様は悲しそうに顔を歪めた。
玻璃の音 森沢依久乃 @morisawaikuno
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