菜の花は食いもんです

江田 吏来

菜の花は食いもんです

 一年三組の名簿を取り出し、姫川ひめかわたもつはコーヒーとタバコの匂いが混じる職員室を抜け出した。

 ふと廊下の窓に目を向けると、穏やかな春の陽射しの中を黄色い蝶が飛んでいる。陽気な春風と手をつないで、踊るように舞う姿があまりにものどかで、つい口元が緩んだ。うぐいすの森中学に赴任してまだ間もないが、古びた窓からみえる春らしい景色に、すっかり魅了されていた。


「姫川先生」


「ひゃい!」


 廊下に響いた鈴の音のような声に、姫川の足がビクッと止まった。だが、止まったのは足だけではない。心臓もドクンと跳ねあがり、息がつまった。

 そんな姫川を見つめるのは、愛嬌のある瞳。絹糸のような髪をかきあげて、小さくて可憐な右耳をのぞかせている桜本さくらもと先生が、白くて細い指を姫川の胸に伸ばす。


「驚かせてすみません。ネクタイ、曲がってますよ」


「あ、ありがとうございます」


 熱い血がドキドキと胸の中を駆けめぐっているのに、桜本先生は顔色ひとつかえないで「次は、どこのクラスですか?」と、ほほ笑む。その笑顔があまりにも無邪気で、姫川をただの同僚として扱っているのが、手に取るようにわかった。 


「次は、一年三組です」


 苦笑いをすると、桜本先生は眉を寄せた。


「私も、あのクラス、ちょっと苦手です。幼い生徒が多いというか、授業に集中してくれないので……。姫川先生もいじられないように、がんばってくださいね」


 ポンッと軽く肩を叩かれた。

 弾けるような余韻がしっかりと残っていても、これは赴任してきたばかりで右も左もよくわからない同僚に、エールを送るようなもの。桜本先生が優しいだけで、特別な意味はない。


「頼りない教師に……みえますか」


 キュッとくびれた腰に、濃紺色のタイトスカートから伸びる、白く輝くような足を見送りながら、ため息まじりでつぶやいた。

 姫川は二七歳で、桜本先生より三つも年上だ。それなのに、窓ガラスにうつる姫川の線は細く、地味な眼鏡をかけているから大人しくみえる。


「コンタクトにかえようかな」


 前髪をササッと整えて、また歩きだした。

 脱げば立派な筋肉を持っているが、そんなものを披露する機会はない。本当にどうでも良いことをあれこれ考えながら、授業開始のチャイムと同時に、教室の扉をあけた。


「おいっ、チャイムがなったぞ。席につけ」


 姫川センセイが現れても、ガヤガヤしてにぎやかだ。教科書をひらいて授業をはじめても、どこかふわふわとして落ち着きがない。

 音読をする女子生徒の声だけが響く教室。というのが理想的だが、つまらない授業がはじまった。と、抗議しているかのような私語が飛びかっている。それでも、音読をする生徒はまじめだった。教科書をギュッと握りしめて、頬を赤く染めながら、雑音に負けないように大きな声を出してくれた。


「菜の花や 月は東に 日は西に

 この俳句は、江戸時代の画家でもあり俳人でもある与謝よさ蕪村ぶそんによってまれました。蕪村は、ほかにも菜の花の句をたくさん残しています。

 菜の花や 摩耶を下れば 日の暮るる 

 当時の摩耶山まやさん(神戸市灘区)では、菜種油を生産するために菜の花が栽培されていました。春のこの時期、蕪村がどんな思いでこの句を詠んだのか、思いをはせてみてはいかがでしょうか」


「はい、そこまで」


 生徒を座らせた姫川は、バーバリーチェックのネクタイを少し緩めた。ここからは、授業を進めたい教師と、勉強から逃れたい生徒との戦いなのだ。

 気を引き締めて教室内を見渡す。授業に集中できない生徒は、すぐにでも退場していただきたいが、今の教師にそんな権限はない。できることと言えば……。

 鼻で深く息を吸ってから、一番うるさいおしゃべり女子の田辺たなべに、少し国語の授業らしくない質問をする。


「いま読んでくれた『菜の花や 月は東に 日は西に』 この句からわかる月の形は? はい、田辺さん」


「はぁ? 月ぃ?」


 授業中なのに、堂々と後ろを向いて雑談をしていた田辺は、明るすぎる栗色の髪をふって姫川を睨む。

 長い栗色の髪を指で巻きながらキッと睨まれても、ほんの数か月前まではランドセルを背負っていた小学生。姫川は毅然とした態度で「答えは?」と、静かな低い声を出す。

 答えのわからない田辺は、バツの悪い表情をして顔を背けると、すぐさま隣の三浦みうらが手をあげた。


「なぁんでぇ、国語なのにぃ、月ぃなのぉ」


 田辺と仲がいい三浦は、しゃべり方までも田辺と同じで、ダラッとしている。悪い生徒ではないが、この語尾を必要以上に伸ばしたしゃべり方は苦手だった。でも、それを顔に出してはいけない。


「それはな、地球からみて、月が太陽と同じ方向にあると新月になる。だが、この句は「月は東に 日は西に」だから、月と太陽が反対の方向にみえている。月と太陽が同じ方向なら新月、反対の方向なら新月じゃなくて、満月ということだ。わかるか?」


 両手を使い、身振り手振りで説明していると、いつの間にか姫川の声だけが教室に響いている。これは理想的な授業風景だった。気分がよくなり、ついつい冗舌になっていく。


「春の夕暮れ、目の前には鮮やかな色の菜の花が広がり、黄色い花も青かった空も、優しい茜色の光に包まれている。まだ消えたくない太陽が懸命に光を放つのに、東の空からは月が顔を出している。月といってもまだ白いベールをかぶったような月だ。それでも刻々と陽は沈み、光りを失っていく。すると今度は、月が真珠のように輝きはじめるんだ」


 姫川は子供の頃を思い出していた。

 太陽が沈んでも、泥んこになりながら遊んでいた日々。田んぼがあって、山がある。そんな田舎の風景がキライだったくせに、今はとても懐かしく感じている。

 できることなら、陽が沈み、月が輝く幻想的な世界を生徒たちにみせてやりたくなった。でも――。


「センセー、菜の花ってマズイよな」


「は?」


 手をあげて、突然わけのわからないことを口走ったのは、野球部の藤森ふじもり。青々とした坊主頭が、感傷的になった心を現実へと引き戻してくれたが、せっかく静かになった教室がまたザワザワと騒がしくなる。


「菜の花って、川に咲いてるやつ?」

「えっ、食いもんなん?」

「あ、天ぷらとかでみたことがあるかも」


 男子生徒が口々に話しはじめると、女子生徒もつられて話し出す。小さな声がだんだんと波紋のように広がり、大きくなっている。収拾がつかなくなる前に、なんとかしないといけない。再び教室を静かにさせるには「静かにしろッ!」と、一喝するのが鉄板だが、姫川は違う。


「キミたちは、菜の花のおいしさを知らないのか?!」


 思わずバンッと教壇に両手を叩きつけた。

 国語の教師をしているが、姫川は美味しいものを食べるのが好き。もちろん料理だってできる。生徒たちの「菜の花って食いもの?」と訴えている顔つきに、頭をかかえた。

 比較的自然が多いこの場所でも、秋の七草や春の七草をスラスラ言える子供は少ない。正月が終わり、七草がゆを楽しむ家庭もわずかだろう。


「はぁ……」


 自然とまた深いため息が出た。

 いくら中学生とはいえ、まだあどけなさが残る子供たち。菜の花のような、ほろ苦い春の味覚を楽しむ年齢でもない。だが、菜の花を「マズイ」と言われるのは許せない。

 姫川は、ボタンを外して袖をめくった。


「菜の花の天ぷらよりも、パスタにいれた方が食べやすいだろう。でも、今の季節ならサンドイッチにして、外で食いたいなぁ。作り方も簡単だぞ。まずは、少し多めの油でベーコンをしっかり焼くんだ。カリカリにな」


「ベーコン?」


「そうだ。油がよくはねるから気をつけて。こんがり焼けたら、キッチンペーパーで余分な油をよく取って、バターを塗ったふわふわのパンにみっちりと隙間なくのせるだろ……。あ、バターには和からしをちょっと混ぜておくとうまいが、これは好みによってだな」


「和からしって、おでんとかのカラシ?」


「それそれ。洋からしと違って、和からしは非常に強い辛味からみを持っているから、辛いのが苦手ならバターだけでいいぞ。……おっと、話がそれたな。こんがりと焼いたベーコンは一番下に配置すること。かたい食材は下に置く方があとで切りやすいんだ」


「へぇー、ベーコンか。うまそうだな」


 前の席に座る生徒から、ゴクリと唾を飲みこむ音が聞こえた。四時間目にベーコン(肉)の話は、腹の虫を刺激している。

 グッと生徒たちを惹きつけた所で――。


「ベーコンの上に、今回の主役。菜の花の登場だ」


「エェーッ」


 ガッカリとした、残念そうな声が教室中に響く。

 腹がへった四時間目に、うまそうなベーコンの香りを想像させておいて、その上にのっかるのは、未知な食べ物、菜の花。その邪魔な存在をかき消そうとする、生徒たちのブーイングも理解できるが、菜の花は消せない。大切な主役だ。


「まぁ、待て。続きを聞けって」


 姫川は手をあげて、叫び声をあげる生徒たちを制する。


「菜の花は、塩を加えたお湯で一分から二分ほど茹でるんだ。そして氷水にダイブ! そうすることで、アクや余分な苦みが流されて、水気をしっかり取れば、シャキッとした爽やかな風のような食感が楽しめるんだぞ」


 菜の花のおいしさを力説しても、生徒たちの顔は完全に曇っている。そんな話、信じられないと、目で訴えている。

 なかなか菜の花の美味しさが伝わらないことにたじろぎながらも、姫川はあきらめない。

 料理が大好きな国語教師として、美味しさを言葉で伝えられないのは屈辱的であり、負けるわけにはいかなかった。


「……確かに、菜の花はほろ苦い。だがな、葉物野菜にはマヨネーズ。しかも、粒マスタードとハチミツを加えて、粗挽き胡椒で味を調えたソースをかけるんだ。ハチミツの甘さと菜の花のほろ苦さが、絶妙なハーモニーを繰り出すんだが、それだけではまだまだ足りない」


 独り言のようにつぶやき、首をふる。

 バターを塗ったパンに、こんがりと焼けたベーコン。その上にのせた菜の花には、葉物野菜と相性抜群の特製ソース。これでもうサンドイッチは完成したと言っても良かったが、姫川はサンドイッチにこだわりを持っている。


「サンドイッチに欠かせないのは、やはりタマゴ。バターをとかしたフライパンに、牛乳を混ぜた卵液をいれて、サッと混ぜる。あまりそぼろ状にならないように気をつけてスクランブルエッグにするんだ。それをドーンと菜の花の上にのせたら完成。どうだ? ひと口食ってみろ」


 生徒の頭の中には、カリカリに焼けたベーコンの香りと、マヨネーズに粒マスタードとハチミツが入った未知なるソース。菜の花の味はよくわからなくても、ひと口食べた場面を想像する。

 うららかな春の陽射しの中で食べたい、サンドイッチの断面は――。


「ベーコンは土の色、菜の花は緑。スクランブルエッグは黄色で、菜の花だッ」


 藤森の歓声に、姫川はニヤリと笑った。


「センセイ、すげぇー。なんか菜の花、食いたくなった」


 教室内は祭りのような騒ぎになったが、羨望と尊敬のまなざしを一身に集めて、悪い気はしない。菜の花のおいしさを伝えることができて、「どうだ」と言わんばかりに胸を張ったが、四時間目終了のチャイムが鳴り響く。


「……あっ」


「しまった!」と、言いたそうな姫川の小さな「あっ」に、まず藤森がいたずら小僧のようにニカッと笑う。それはまるで授業をつぶした勝利の笑み。


「なんかぁ~、サンドイッチィ~、食べたぁいよねぇ」


 田辺と三浦はダラッとした言葉遣いで楽しそうに話しながら、勝手に教科書を片付けている。

 授業を進めたい教師と、勉強から逃れたい生徒との戦いは、教師の完敗で終わってしまった。

 姫川は頭をかきながら「日直、号令」と、言いたくないけど言うしかない。


「俳句のページは各自、しっかりと読んどけよ。漢字テストもするからなッ」


 情けない捨て台詞を残して、にぎやかな教室をあとにした。

 姫川は肩をおとして職員室にもどる。授業をせずに得意な料理の話で熱くなり過ぎたと、ひどく落ち込んでいた。でも――。


「今夜はホタルイカと菜の花の酢味噌あえで、酒でも飲むか」


 さっと茹であがったピンク色のホタルイカに、緑鮮やかな菜の花。サッパリとした酢味噌を味わいながら、なんとも言えない甘い香りが広がる純米大吟醸酒をいただきたい。

 いますぐにでも家に帰りたくなったが、明るい窓のそばで大きく背伸びをする。すると、猫になって昼寝をしたくなるような、清々しい外の景色が飛び込んできた。

 次、がんばれよ。と、のんきにあくびをしているような四月。


「春は、いいなぁ」


 目を細めた姫川の頬に、子供のようなえくぼが浮かんでいた。

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