人魚は踊る、青い涙の海で

恵喜どうこ

人魚は踊る、青い涙の海で

「地球はなんで青かったのか、知ってる?」


 ぼくの隣に座って空を見上げた彼女は独り言とも取れるほど、消え入りそうなか細い声でそっと聞いた。藍色の空の上にはまんまるい月がぽっかりと浮かび、白い光の手を広げて泣いている。静けさに満たされた小さな部屋から空を見上げる彼女の横顔もまた、月同様にどこか憂いを帯びていて、肩甲骨を覆う長い黒髪が月明かりに切ない煌めきを散らしていた。


「月にいた人魚が落とした涙の最後のひとしずくなんだって」

「なんで最後のひとしずくなの?」

「月の海が干上がって死んでしまう、そのときに流した涙なの」

「ずいぶんな話だね。そもそも月に海はないし、地球よりも後で生まれてる。月の人魚の涙は現実ありえない話だよ」


 ぼくの返事に彼女は「知ってる」と微かに笑みをたたえた。病に侵され、肉の削げ落ちた白く細い両手を月へと伸ばしたあとで、愛おしそうに抱えこむように隣に腰かけるぼくを抱きしめた。彼女の熱が薄いシャツの向こうから伝わって来るのに、ぼくの心はひどく怯えている。


「温かい……心臓の音」


 彼女はぼくの胸に耳を押し付けて呟いた。小さくて枯れてしまった肩にかかる細い髪を掬い上げると、ぼくはそっと彼女の額に口づけした。固い感触が唇に触れる。


「ねぇ、ティアは元気?」

「うん、とてもね」

「そう……はやくあの子に会いたいわ」

「もちろんさ。病気だって、きみの思いには負けるに決まってる。だからおやすみ。あまり無理をしたら、あの子に会うのが先延ばしになっちゃうよ」


 怯えているのを隠して、彼女を励ます。彼女は小さくうなずくと、ベッドに横たわった。月明かりだけしかない部屋の中で肉の削げ落ちた彼女の顔が青白く浮かび上がる。まるで手の届かない遠い月のようで、ぼくは身震いしそうになるのを押し殺した。


「おやすみ、ルイ」

「おやすみ、アオイ」


 ぼくらの夜は更けていく。あと幾度、こんなに愛おしい夜を過ごせるのだろう。ルイの命の灯が静々と零れ落ちる夜をあと幾度――



 ******


 地球が青い海だったのはもう百年以上昔の話になる。核戦争による地球破壊によって、大地も海も大気も、すべて汚染され、生命いのちを紡げなくなった。放射能にまみれたプランクトンが大量発生した海は紅く染まり、窒息してしまった。なんとかもう一度生きた青い海を取り戻したくて、ぼくは地球科学研究員になった。その研究施設に彼女はいた。

 絶滅生物の研究員だった彼女の一番のお気に入りはジュゴン。そう、人魚と結びつけられる生物なんだとぼくに熱弁をふるっていた。


「私の夢はあの子を本物の青い海で泳がせることよ」


 クローン再生技術でこの世に誕生させ、『ティア』と名付けた一頭のメスのジュゴンが泳ぐ巨大水槽を彼女は愛おしそうに撫でながら、熱い眼差しでぼくに語った。そんな彼女の傍らでぼくは囁いた。


「きみの人魚が泳げる海を作ってみせる」

「わたしたち二人ならきっとできるわ」


 青い海に恋い焦がれていたぼくらが、友人から恋人に昇格するのに時間はかからなかった。来る日も、来る日も同じものを食べ、飽きるまで大好きな海の話をし、情熱を通わせ、しあわせを抱いて眠った。繰り返される当たり前の日々がずっと続くものだとぼくらは信じて疑わなかった。それくらい、毎日が愛おしくて、満たされていた。キラキラした輝く海を夢見た日々はどんな宝石よりも美しく、尊いものだったと今ならわかる。


 けれど夢は覚めるもの。ぼくらが夢から覚めたとき、絶望が一緒に降りてきた。

 彼女が奇病にかかったのだ。古代病と呼ばれるそれは、地球汚染によってもたらされた感染症だった。その病原菌を持った個体の研究中に、誤って体内に宿すことになってしまった。身体の内部をじわじわ壊される奇病はさまざまな合併症を引き起こす。有効な治療手段もなく、症状の進行を緩やかにすることはできても完治は望めない。高熱に苦しみ、血を吐きながら、のたうちまわるほどの痛みを経て、生きる力を徐々に削り取られていく後で訪れるのは死だ。苦しみから解放されるのであれば、それは安らかなものかもしれないと、そんなふうに考えたこともある。それでもぼくは望みを捨てきれなかった。もしかしたら紅い海を青く変えるくらい簡単なことではないにしても、彼女の命を繋ぎ止める方法がいつか生まれてくれるかもしれないと――そんな一縷の希望にぼくらは縋りつき、その上で未来を語る。それは愚かしく、意味のないものだと笑う人もいるかもしれない。それでもぼくらは未来を、希望を紡ぐのをやめられなかった。


 彼女の命が削られる、その時間の中でぼくは必死に研究を続けた。どうしても青い海を取り戻したかった。彼女が生きているうちでなければ意味がない。二人手をとり、熱く語ったぼくらの海を現実にすることで、彼女が完治する可能性を明日へ繋げたい、このままで終わらせるものかという一心で……


 だから寝る時間も食べる時間も惜しんで研究に明け暮れた。あともう少しのところまで来ている。ときどきティアがぼくを心配そうにのぞきこんだ。あの小さな瞳でぼくに大丈夫?と聞くのだ。彼女に代わって、ぼくを水槽ごしに抱きしめようと、可愛らしい手をのばして……


「ティア、大丈夫だよ。ぼくは大丈夫」


 強化アクリル板にぼくは手を添えた。板一枚なのに遠い向こうの世界にいるみたいなティアがルイと重なって見えて目頭が熱くなる。柔らかな流線型のティアの身体は病気になる前の彼女のようにふっくらとして、とてもやさしくて、その姿が滲んで溶ける。頬に温かな筋が走るのをぼくは止められなかった。


「ルイ……絶対に……きみとティアの海を作ってあげるから」


 ぼくの嗚咽まじりのつぶやきを彼女は拾ってくれるかのように、アクリル板に顔を擦り付けた。



 ******


 ぼくはこれでもかと腕を振り、足を前に出し、力の限り走っていた。いつの間にこんなに足が遅くなってしまったのか、ずいぶんと重たくなった足を叱咤し、一秒でも早く辿り着きたくてぼくは必死で走っていた。どうして今日なんだと叫びたかった。

 全身汗にまみれたぼくが見た光景はひどく残酷だった。一週間前とは違う、動かなくなった彼女がベッドの上にいた。触れた青白い肌は温もりをとどめているのに、その瞳に光が宿ることは二度とない。


 一週間前、同じように病室に飛び込んだあのときの彼女はひどく驚いたように目を見開いたのに。肩で大きく息をし、必死で呼吸を整えるぼくを抱きしめてくれたのに、今は指一本動かすことができない。彼女はぼくとの約束を果たすことなく旅立ってしまった。もう二度と届かないあの月へ。


 一週間前にぼくは彼女に報告した。青い海を取り戻せると――そう言ったときの彼女の笑顔はぼくが見てきたどんな笑顔より輝いていた。月の輝きなんてかすむくらい、凛と美しく、生気に満ち溢れた顔だった。


「本当……なのね?」


 ぼくの報告に目を潤ませ、熱い眼差しを向けた彼女に、こくこくと何度も、何度も強く首を縦に振った。寝る間を惜しんで向かい合った研究の成果がやっと出たのだ。


「一週間後だ、ルイ!! 研究所内の海水プールだけど、きみのティアを泳がせてあげられるよ!!」


 彼女は骨と皮になってしまった両手で口元を覆った。窪んだ瞳からはとめどなく涙があふれていた。細い肩を小刻みに揺らし、彼女は小さく何度もうなずいた。


「あの子の泳いでいるところ……わたし見たい……!!」


 掠れた小さな声でふりしぼるように彼女は訴えた。もちろん、ぼくは即答した。


「一緒に見よう!! あの子もきみを呼んでる!!」


 彼女はぼくの胸にしがみついて泣いた。喜びに全身を震わせる彼女をぼくは逃がすまいと強く抱きしめた。ぼくらが恋い焦がれた青い海をやっと掴める、間に合った、そう思ったのに……


「間に合わなかった……」


 ぼくの心は魂の抜け落ちた彼女の身体みたいにからっぽになってしまった。彼女のために必死で頑張ったのに、あと少しだったのに、それでも間に合わなかった、間に合わせられなかった。ぼくの身体から力が抜け落ちる。彼女の眠るベッドの足元にへなへなと座り込んでしまった。ポトリ、ポトリと雫が落ちて床に小さな海を作る。

 そのときだった。


 ――あの子の……海へ……連れて……行って。


 ハッと我に返って、急いで顔を上げた。彼女の声が聞こえた気がしたのだ。しかしそんなわけがないと否定しようとしたとき、またハッキリ聞こえた。


「あの子の……海へ……連れて……行って」


 繰り返されるその声はボイスレコーダーから流れるものだった。タイマーがセットしてある。ぼくが迎えに来る一時間以上前に設定され、十分おきに繰り返し流れるように設定されていた。血の跡がべったりと残ったそれは彼女の手の中にあった。死を予感した彼女が最期の力を振り絞ってぼくに残したメッセージだった。

 動かなくなった彼女の頬に両手を添え、紫色に変わってしまった彼女の唇にぼくは震えながら口づけをした。


「連れて行くよ、の海へ……」


 額をくっつけ、ぼくは彼女にほほ笑むとそう囁いた。



 *****


 研究所内にある実験用海水プールにティアはいた。ぼくの気配を察したのか、ティアは名前を呼ぶよりも前に二十五メートルほどしかない小さな海水プールの水面から顔を出した。小さな瞳がぼくたちを見つけると、母親を呼ぶ子供みたいな甘え声を上げた。


「ティア、ルイを連れてきた」


 ぼくの腕の中にいるルイの顔が見えるようにプールサイドに膝をついた。彼女の亡骸に何度も鼻先を寄せ、微かに甘えるようなしぐさを見せた。けれど、意味を悟ったらしく、今度は彼女ではなく、ぼくのほうに鼻先を向けた。


「そうだ、ティア。彼女は……逝ってしまったよ」


 ティアの鼻先に伸ばしたぼくと彼女の手に、ティアは頬を寄せるように顔を近づけた。本当の子供のようなしぐさだった。ぼくの胸は熱く膨らんで、爆ぜてしまいそうになっていた。この子にもう一度、生きて会わせてあげたかった思いがこみ上げて、目頭が再び熱を帯びる。

 するとなにを思ったのか、ティアがぼくの手をくんっと鼻先で柔らかく持ち上げた。何度もだ。

 ぼくになにかを訴えているティアの小さな瞳からポロリと一滴の雫が落ちて、ぼくは目を見開いた。人魚が泣いている――その愛おしい雫が水へ溶けてひとつとなる。


「彼女と一緒に泳ぐかい?」


 ぼくの問いかけにティアは切ない声を出した。それが許されるならと言っているような気がして、ぼくは彼女を静かに青い水に浸すと、片手でティアの頭を撫でた。


「頼んだよ……ぼくたちの大好きなルイを……さぁ、泳いでおいで」


 彼女を手放した瞬間だった。ティアは沈む彼女を抱くように泳ぎだす。太陽光が降り注ぐ中、光を反射して煌めく真っ青な海が二人を包み込む。彼女の黒髪が透き通る青の中で揺らめいていた。ティアはやさしくその腕に彼女を抱いて泳ぐ。

 彼女の力のない腕や手がまるで生きているみたいにのびやかに、しなやかに水の中で踊る。楽しげにくるくると回る彼女の傍にぴったりと身体を寄せるティアと重なって、ルイはまるで人魚になったように見えた。


 水しぶきが上がり、それが太陽光を乱反射する。ぼくはまぶしさに目を細める。


 月の人魚はもう一度泳ぐことができるのだと、恋い焦がれた海と同じ色の青い空を見上げて思う。きっと月の人魚は悲しくて泣いたのではなかったのだろう。いつか自分がそこへ帰ると信じて落とした涙なんだと――あのとききみに伝えられたらよかったのに。冴えわたる空の海の向こうできみはなんて思うだろう。「知ってる」と笑うのだろうか?


 ティアが呼ぶ。ぼくを呼んでいるのか、彼女を呼んでいるのか、それとも今は亡き同胞たちを求める声なのか、それはぼくにはわからない。


 潮の香りを含んだ風がさらさらとぼくの髪を揺らして駆けていく。大気圏のそのまた向こうでほほ笑む月へ、ぼくの言葉とティアの声を伝えに行くかのように軽やかに走っていくのだ。


 ぼくはもう一度、前を見る。

 青い涙の海で、人魚は踊る。光る水しぶきをあげ、しなやかに、たおやかに、愛しいきみの夢と希望をしっかりと包み込んで――












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