アクアリウム・ナイト

ソラノリル

アクアリウム・ナイト

 陽がおちるとともに降りだした細雨は、寄せては返す静かな海の波に似て、降ったり止んだりを繰り返しながら、終電の足音がきこえはじめる頃になっても街を潤しつづけていた。空気はひんやりと水を抱き、髪と服とを湿らせて、じわじわと温度を下げていく。

 改札へ流れる人の群れが、緩慢に蠕動ぜんどうして消えていく。ホームの白線ぎりぎりの場所、柱の傍らで、人の波を遣り過ごしながら、僕はちらりと空を窺った。さらさらと降りつづける細かな雫。街の明かりに照らされて、雲に覆われた夜空は磨硝子のように、一様に仄白く浮かび上がっている。まるで巨大な水槽の天板みたいだ。

(どうするかな……)

 傘は持っていなかったけれど、凌げないほどではなかった。弱いよわい、霧のような雨だ。この駅からアパートまでは歩けない距離ではないが、短縮するなら地下鉄かバスを利用することになる。もちろん、タクシーという手もあるけれど。

 少し考えて、僕はバスターミナルへ足を向けた。タクシーは運転手に話しかけられたら面倒だし、湿気と酔っぱらいの人いきれが混じり合った地下鉄ほど不快な乗り物もない。この時間のバスなら、比較的すいている。

「……あ……」

 目的のバス乗り場の手前、コンコースの庇が切れたところで、僕の足は止まった。疲れた顔が並ぶ列の中に、彼の姿を見つけた。向こうも僕に気がついて、切れ長の目を僅かに大きくひらいた。冷たいけれど穏やかな夜風、舞うように降る霧雨が、僕の髪に雫をのせる。時刻表を照らす白いライトが、彼の輪郭を黒く縁取る。

 視線はおもむろに外された。小さく息をついて、彼は並んでいたはずの列をあっさりと棄てた。霧雨の降る中、僕のほうへ歩いてくる。ぱしゃん、と水溜りをひとつ踏んで。

「いいの?」

 もうすぐバス来るんじゃない? と笑った僕に、彼は歩く速さも無表情もそのままに、ただ視線だけ逸らしてひとこと答えた。

「煙草、もうすぐ切れんの思い出したんだよ。だからコンビニ」

 そう言って僕の横を行き過ぎておきながら、背中は僕が追いかけてくるのを待っている。苦笑をこぼして、後に続く。追いついて、隣に並ぶ。彼は甘くて、僕はずるい。彼の甘さに乗っかって、笑う僕は、きっと狡い。

「今日は遅いんだな」

「うん。……あなたは、早いね」

「まあな」

 雨の雫みたいに、ぽつぽつと会話を交わす。

 コンコースにあるコンビニで、彼は煙草と、透明なビニル傘を1本だけ買った。


 街のネオンを星屑にたとえるなら、走り去る車のライトは彗星だろうか。そんなに良いものじゃないけど、と胸中で苦笑交じりに考えながら、ひとけのほとんどなくなった大通りを歩いていく。

 彼の傘が、僕を雨から守っている。彼の左肩を、少しずつ濡らしながら。

 車のヘッドライトが、車道側を歩く彼の横顔を時折眩しく照らし出しては過ぎていく。降る雨が空気を濯いだのだろうか、いつもより光の透明度が高い気がした。黒く濡れたアスファルトは夜の海のように光を弾き、明滅するネオンは雨の雫を光の破片へと砕いていく。

 水を抱いた、澄んだ夜の空気。ひんやりと頬を撫でるそれは、今ここにある温かさを顕在化していく。なんだかアクアリウムの中にいるような錯覚をおぼえた。優しい闇の中を泳いで、深いふかい水底へと沈んでいく。陽の光のささないそこで、なにも見えないまま、見なくていいまま、委ねる。ゆっくりと酸素を失いながら。

――そんな夢想を、描いた。

「なに考えてたんだ?」

ろくでもないこと」

「だろうな、バカ」

 僅かに表情を緩めて、彼は再び道の先へと視線を戻した。

「お前は……」

 薄くひらかれた彼の唇が、半ばで結ばれ、言葉を殺める。

「なにを、言いかけたの?」

「いや……」

 彼は言葉を切った。けれど、その先に続いただろう科白を、僕は容易に想像できた。無邪気に未来を信じられる子供は、こんなことを考えたりはしないだろう。永遠は存在しない。継続すら儚い。温かさはいつだって絶望を育む子宮で、理想の数だけ理不尽があって、愛の数だけ殺意がある。それを知っているのだ。彼も、僕も。

(麻薬みたいだ)

 彼の隣を歩きながら思う。

 優しさには、きっと、依存性がある。

 このまま摂りつづけたら、いつか致死量に届くだろう。


 大型のトラックが一台、車道の脇を走り抜けていった。静寂を破るノイズが、揺蕩たゆたう空気を攪拌する。刹那、

「お前には、まだ、あるだろ」

 俺と違って、とこぼれ落ちた彼の言葉は、きっと、明確な意志をもって僕に宛てたものではなかっただろう。声の響きで分かった。だから僕は、きこえないふりをした。振り向きたい衝動を抑えて。車のノイズに掻き消されて耳に届かなかった、ふりをした。解りきった理論だ。僕には、まだ、未来がある。彼から手を離せば、代わりに未来を掴むことができる。ひとりで。僕なら。

 けれど、

(バカはどっちだよ、バカ)

 彼と引き換えに得る未来や将来が欲しいんじゃない。

「帰ろう」

「あぁ?」

「早く帰ろう。僕たちの部屋に」

 歩調を速めて、傘の下から抜ける。途端、霧雨がさらさらと僕の頬を濡らした。

 溜息とともに追いついた彼が、再び僕を傘の下に入れる。

 彼は甘くて、そして僕は、やっぱり狡い。


 切れかけた街灯が、不規則に点滅しながら、僕たちの家を夜闇の中に浮かび上がらせている。くらい窓を抱えた四角いコンクリートのアパートは、ひっそりと佇む、ひつぎに似ている。なにもかもを赦しながら、甘く温く闇を抱く場所。俯きたくなくて振り仰ぐ。

 透明な傘の向こうで、水に濡れた光が滲む。

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