第2話
4
それからというもの、鹿倉は時間を作ってはこの屋敷に顔を出すようになり、すっかり常連となっていた。
だが、それも毎日という訳にはいかず、彼が来ない日は桜未の気分は落ち込んだ。
閉店時刻が近付いたある日、客と過ごす部屋からグラス類を洗い場に置きに行くと、白菊に声を掛けられた。
「今日は鹿倉様いらっしゃらなかったわね」
「そうね。世間体だっておありでしょうし、こんなところに毎夜足を運ぶ訳にもいかないわよ」
「そうよねえ、きっとお琴や生け花なんかのお稽古事もあるでしょうしね」
「え? どういう意味?」
「どういう意味って、女性なんだからお稽古事くらいあるでしょ?」
白菊のその言葉を聞いた時、桜未は独り言のように呟いた。
「私ね、鹿倉様に初めてお会いした時違和感を感じたの。あの方、やはり女性だったんだ」
「鹿倉様ってご子息の他にご息女が三人いらっしゃるんですって。私も最初お会いした時、ご子息がいらっしゃったんだと思ってたけど」
彼のの言葉に、何も答えずに頷く。やはり自分が感じていた違和感は正しかった。おそらく、あの軍帽と軍服は兄の私物だろう。
桜未は洗い場から渡り廊下へ出た。白菊も慌てて後を付いて来る。
「鹿倉様、内密にっておっしゃっていたけれど、そんなの無理よ。いつもお客様の少ない時刻を見計らっていらっしゃるけれど、限界があるわ」
「あら?」
白菊が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
桜未も同じように立ち止まる。白菊は桜未の問いには答えず、
「変ねえ、いつもならこの時間にお客様を通さないのに」
そう話す白菊が見つめる先には暮埼と立派な洋装に身を包んだ男性が三人ばかり、屋敷内の奥に面している応接室に入って行った。
暮埼と男達が消えて行ったのを確認すると、白菊はその部屋に近付いて行き、扉に耳を近づけた。桜未に目で来るように合図する。少し迷ったが、同じように耳を扉へと近づけ、会話を聞き取ろうとした。
「閉店時刻が迫っているというのに申し訳ない。こちらに鹿倉家の者が出入りしていると伺ったものですから」
「は、はあ……」
「単刀直入に申し上げます。鹿倉家のご長女である
その瞬間、血の気が一気に引いた。呼吸が一瞬止まったように感じた。
「ええ、大変御贔屓にして頂いております」
男の溜息を吐く音が聞こえた。それから、再び話し出した。
「このことは幸いにも旦那様にも世間にも知られておりません。暮埼殿」
「は、はい!」
「このことが世間に広まるようなことがあれば、こちらは営業が難しくなるでしょう。その時は覚悟なさって下さい」
そこまで話を聞くと、桜未は扉から耳を離した。おぼつかない足取りで渡り廊下を歩いて行く。
後ろを付いて来た白菊が心配そうな顔で桜未を伺う。
「やっぱり知られてしまったんだ」
掠れた声で桜未が呟く。
「まだ旦那様に知られた訳じゃないんだから、大丈夫よ」
桜未の背中を摩りながら励ましたが、それでも彼の不安は晴れない。もし知られるようなことがあれば、この屋敷も自分達も終わりだ。
「私、もう部屋に戻るから……」
そう言い残して、少年達が寝室として利用している部屋へと一人向かった。
5
「最近雨の降る日が続いていますね。季節の変わり目ですが、お身体は大丈夫ですか?」
桜未は鹿倉にサイダーが入ったグラスを渡してからそう尋ねた。
鹿倉がグラスを受け取り、
「ああ、大丈夫だよ。桜未の今日の着物の柄は紫陽花なんだな。よく似合っているよ」
「ありがとうございます。今月から六月ですし、今の時期はこの柄が合うのではないかと思ったので」
「こちらで働いている少年達は皆、自分で着物の柄を選ぶのか? そういえば、どの少年も着物の柄が花柄だな」
「ええ、着物は自分で選ぶ者がほとんどです。着物の柄については、この屋敷の主の決まりで花柄のものしか準備されていないのです」
説明した後、桜未は窓際まで行くと静かに窓を開けた。
「今は夜ですからよくは見えませんが、こちらの庭には多くの種類の花が植えられています。勿論、季節によって咲く花も違います」
鹿倉も持っていたグラスを卓上へ置くと、窓際まで近付いて来た。開け放たれた窓から庭の花々へ視線を向ける。部屋とたくさん吊るされた提灯の明かりに照らされた夜の庭は明るく、昼間程ではないにしろそれぞれの花の形や色もはっきりと認識することが出来た。
「君の言う通り様々な花が咲いているな。昼間に見たら大層見応えがあるだろう」
「鹿倉様、何故この屋敷が『花屋敷』と呼ばれているかご存知ですか?」
桜未は外に視線を向けたまま、鹿倉へ問う。
「初めてこちらを訪れた際、暮埼殿から教えて頂いたが……。理由は二つあるそうだね。一つは、屋敷内にたくさんの花が咲き誇ることから。もう一つは、君達一人ひとりを花に例えているからと——」
「その通りですよ、鹿倉様。けれど、花の一生は短いです。とても短い」
桜未は窓枠を掴む手に力を込める。
「勿論、ずっとここにいることは難しいだろう。歳を重ねれば重ねる程居づらくなるだろうから。なあ、桜未。ここにいる少年達は皆、源氏名に花の名が付いているね。前から気になっていたんだが、桜未という名は本名ではないんだろう? 君の本当の名前は何というんだ?」
一瞬鹿倉へ顔を向けてから、すぐに伏せた。押さえた声のまま、
「私達に本当の名を尋ねることは控えて頂くよう、事前に主が申し上げているはずですよ、香子様?」
名を呼ばれた鹿倉——。香子は目を見開いた。驚いた顔で桜未を見ると、静かな口調で尋ねた。
「懸命に男に見えるように振舞ったんだが、駄目だったか……。やはり、本物の少年から見れば分かるんだな。何時から気付いていた?」
「鹿倉様にはご子息の他に三人のご息女がいらっしゃるとのことでした。最初は、ご子息がお忍びでいらっしゃったのだろうと思いましたが、初めてあなたにお会いした時、男性にしては何か疑問に思うところがございました。香子様はあの日、私を少年とおっしゃいましたね?」
香子は黙ったまま、桜未の顔を凝視している。桜未はそんな彼女の顔を見て、うっすらと笑みを浮かべた。
「同じですよ。いくら男性のように振舞ったところで、本物の男性にはなれません。軍服に身を包んでも、声を低く出して立ち居振る舞いに気を付けたとしても、男性になることなど出来ないのです」
「桜未……」
「もうこちらにはいらっしゃらない方が良いでしょう。鹿倉様の家の方々が何日か前に訪ねて来ました。こんなところに通っていることが明るみになったら、鹿倉様の名にもあなた自身にも傷が付きます」
暫く沈黙が続いたが、やがて香子が口を開いた。悔しそうに顔を歪めてから、
「私がこのような恰好をしているのは、自分の意思ではない。周りが求めたから、その声に従っただけだ」
桜未は思わず振り向いた。愕然としたまま彼女を見る。香子は構わず続けた。
「私の兄は日露戦争で死んだ。その知らせを受けた両親は大層落ち込んだ。当たり前だけどね。そして、兄と顔の似ていた私を見て男として振舞えと言ってきた」
「それは、ご子息の死を受け入れられない反動からということですか?」
「分からない。それに、そんなもの知りたくもない。最近私のことを兄の名前で呼ぶようになった。最初はそんな私を見て、哀れんでくれていた妹達も『兄様』と呼ぶようになって……」
香子は口をつぐみその先を話そうとはしなかった。桜未もなんと声を掛けて良いものか分からず、ただ彼女を見つめていることしか出来ない。
表情こそ分からないが、桜未には顔を伏せた彼女が泣いているように見えた。
しばしの沈黙の後、香子が立ち上がった。無言で襖まで歩いて行く。
襖の前で立ち止まると、桜未に背を向けたまま続けた。
「君の言う通りだよ。もうここには来ない。失礼する」
「待って下さい、香子様!」
部屋に一人取り残された桜未はその場に立ち尽くした。そして自分の口にした言葉に後悔し、唇を噛んだ。
店が閉まった後、白菊が掃除用具を仕舞いに行くと、ふいに誰かに名を呼ばれた。声のした方を振り返ると、窓越しに香子の姿が見えた。
白菊は思わず、声を上げそうになったが、なんとか飲み込んだ。慌てて彼女の元へ駆け寄る。
「どうなさったんですか? こんな時間に」
「事情は後で説明させて欲しい。君に頼みたいことがある」
そう口にした香子の表情はいつになく真剣に見えた。
6
皆が寝静まっている中、桜未は眠れずにいた。
香子はもう本当にここには来ないつもりなのだろうか? あんな言い方をしてしまった自分が腹立たしく、情けなかった。
「桜未、起きてる? 桜未?」
自分の名を呼ぶ白菊の声に気付き、驚いて飛び起きた。
「何? どうしたのよ、こんな時刻に?」
「あんたにね、お客様よ」
「こんな時刻に? まだ日も昇ってないじゃない。一体、誰よ?」
「内緒。行けば分かるよ」
白菊は口元に人差し指を当てると、さっさと渡り廊下へ出て行ってしまった。
桜未は寝ている少年達を起こさないように、細心の注意を払いながら部屋を出た。
真っ暗な渡り廊下を二人で歩いて行く。普段気にすることのない、廊下を踏む足の裏のたひたひたという音がやけに大きく己の耳に聞こえてくる。
「あんた、その抱えている風呂敷は何なのよ?」
「それも内緒」
「ねえ、こっちって裏口の方じゃない」
桜未が小声で白菊に言うと、彼は質問には答えずに笑みを浮かべてこう尋ねた。
「香子様と喧嘩したんだってね。ここにはもう来るなって言ったんだって?」
「何で知ってるの?」
「実はね、閉店後に香子様がいらしたんだ。俺に頼みたいことがあるってさ」
「ん? あんた話し方……」
裏口の木扉が見えて来た。白菊は桜未の腕を掴むと走り出した。まるで、早く来い、とでも言うように。
裏口を出てからもそのまま走り続けると、やがて枝垂桜の陰に女性の姿を捉えた。暗闇の中だが、女性が立派な着物を身に着けていることは分かった。顔はこちらに背をむけているため、確認出来ない。
女性がこちらに気付いて振り返った。桜未は振り返った女性が誰か分からず、困惑した。そのまま立ち尽くす。
「桜未」
その声で、目の前の女性が誰なのかを理解した。何度も耳にした、低音で落ち着いた声――。
「香子様」
慌てて彼女の元へ駆け寄る。
「一体どうなさったんです? こんな、まだ日も出ていない時刻にお一人で外出されるなど……」
「驚かせてしまってすまない。白菊に頼んで、君を外に連れ出して貰ったんだ。桜未、よく聞いてくれ。私は近いうちに鹿倉の家を勘当される。その前に家を出ようと思って、今こうして出て来た」
桜未は絶句した。言葉が出てこない。白菊は何も言わず黙って聞いている。
「だから、遠くへ行こうと思う」
「最後に私に会いに来て下さったのですか?」
香子は少し困惑した表情を浮かべた。だが、やがて意を決したように真剣な面持ちで、
「違う、そうじゃない。一緒に来て欲しいんだ。私の傍にいて欲しい」
また声が出なくなる。後ろにいた白菊を思わず振り返る。自分が付いて行くと答えたら、残された彼はどうなってしまうのだろう。
「香子様。でも、私は……」
言いかけた時、白菊が見かねたように、、それでも笑って、
「行けよ。香子様に何かあったらどうするんだ。男のお前が付いて行った方が安心だろう? 後、これ」
そう言って抱えていた風呂敷を桜未へ渡した。
「中に男物の着物が入ってる。着替えたら今来ている着物は適当な場所に捨てろ」
「白菊……」
「それから俺の名前、本当は
あっけらかんと笑って答える彼の顔はとても清々しく見えた。
「お前は? いつか聞こうと思ってたんだ」
「
「元、あの屋敷はもう終わりだ。俺達も出ることになると思う。だから、そうなる前にお前はここを出ろ」
「是はどうするんだ? 是も一緒に」
「心配するな。俺も時期を見計らってあの屋敷を出る。元、また絶対会おうぜ」
「是……」
「自由になれ。俺は大丈夫だから」
「ああ、また絶対会おうな」
「勿論」
そう言って是はまた笑った。
香子は是に向かって深く頭を下げた。
元は彼女のもとへ駆け寄り、共に歩き出した。
(了)
花屋敷 野沢 響 @0rea
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