【一杯の立ち喰いそば】🚃—特急雷鳥「富山駅」にて—⛰

千葉七星

🦆——特急雷鳥に乗って——🚈

 味は、忘れられない——。


 そんな特別な「ご馳走」というようなものが、人には一つや二つ、あるのではないか。ただ、私が言いたいのは、もう一度味わいたくともできない、たった一度の経験のような、そんな「味」のことなのだ。


 美味しいものやご馳走は「三ツ星レストラン」やの専門店に行けば、値段を気にしないなら味わえるだろう。

 しかし、私にとってあの「ご馳走」は、この先もずっと記憶の中に残り続けるものの、きっともう二度とは味わえないだろうと想うのだ。


 あれは、大阪にも雪が舞う寒い二月の日だった——。


 私は、工場が作った不良品に対するクレーム処理のために、北陸、富山に日帰り出張をする羽目になった。

 それは、富山の三軒の得意先から代理店を通じて納められた不良品を回収し、謝罪と今後の品質保証の対策を示さねばならないという、嫌な出張だった。


 いつもなら、冬の富山の出張は大歓迎だった。極寒の富山湾で獲れた冬の魚は美味で、寿司ねたにしようが、刺身で食おうが、それはもう絶品なのだ。

 駅前のビジネスホテルに一泊して、夜に地元の小料理屋を訪れるのが楽しみだった。


 しかし——、その日は違った。


「大阪駅」始発の特急「スーパー雷鳥」に乗るには、家を五時前に出なきゃいけなかった。夜明けまではまだ二時間近くある二月の朝は格別に冷えた。

 コートのポケットに手を突っ込んで、最寄駅の始発電車を待つ間に身体は冷えきり、今日の仕事のことを考えるとなんとも気が重くなって、このまま家に逆戻りして温かい布団にもう一度潜りこみたくなった。


 天気予報で、今日は大阪でも雪が舞うかもしれない——と、予報官が言っていた通り「大阪駅」に着いた時には粉雪が舞っていた。


 ——ああ、このぶんだと富山はかなり積もってるだろうな


 私は、駅ホームから夜が明けはじめた東の空が鉛色に沈んでいるのを見て、白い息をゆっくり吐いた。それは煙草の煙のようにしばらく消えず宙に浮かんでいた。

「北陸本線」の「米原駅」の手前辺りから、景色は一変した。

 一面の銀世界と、圧迫死しそうな濃い鉛色の空——それは、北陸の冬景色そのものだった。富山に近づくにつれ、どんどん酷くなり視界は二メートルもなくなる。

 十時前に「富山駅」に着いた。改札を出てタクシー乗り場に向かう前に、帰りの列車の指定席切符を買い求めた。きっと帰りの駅は混雑するだろうと……。

 

 タクシー乗り場の長蛇の列に嫌気がさして、しばし呆然と駅前の景色を眺めていたら、代理店の男が迎えに来てくれているのを見つけて、天の助けかと思った。


 ——おはよぉーございまっすぅー


 その男は、赤い頬っぺを雪で凍てつかせながらも、人懐っこい笑顔で朝の挨拶を呉れた。北陸の訛りも冷たい耳には優しかった。


 ——ああ、助かったよー

 ——こんな日は、富山でも年に何度もねーっすよぉ


 北アルプスの峰々を望む富山平野は、北陸といえど、さほど豪雪地帯ではない。晴れた冬の日は空っ風が冷たく、アルプスの峰がくっきり見える——それが何度か訪れた冬の富山の印象だった。

 春は春で、路面電車の軌道の向こうに立山の峰々に残る白い残雪を、沈丁花の香りと共に眺めると、ああぁー富山に来たんだ、と思うのだ。


 ——あれ、工場長さんは、お見えじゃないんっすか?

 ——ああ、すみません。今日は私一人です……


 普通、客先に不良品の謝罪に行く際は工場の技術者か、重要な客なら工場長クラスの人間が営業マンに同行するのは当然のことだった。今回の北陸の得意先は、工場サイドにしてみたら「どうでもいい客」としか思ってないらしい。


 ——いちいち、クレームで俺を担ぎ出すなよ、こんな時のためにお前ら営業マンがいるんだろ? 品物引き取ってきたら、代替品送ってやっから……


 そういう問題じゃない、第一、営業マンは謝罪マシーンなんかじゃない!——

 そんな風に電話口で噛み付いてやりたくなるのを、悲しきサラリーマンの理性がかろうじて抑えた。

 とかく、工場の人間というのは、自分たちが作る物にはプライド以上の不必要な拘りみたいなものを持っていて、客先を「客」としか思っていない。いくら口では「お客さん」と言っても、彼らにとって、取引量の少ない客先など「客」にしかすぎないのだ。


 案の定、行く先々で嫌味を言われた。


 ——あんた? 工場から誰もこないの、ふぅーん、大したもんだ

 ——すみません

 ——俺もさー、工場の人間だからわかるんだよ。営業に同行して客先に行った途端、いつもの威勢なんかどっかに消えちまって、ペコペコ頭下げるだけで、”物作りの矜持“なんか、あったもんじゃないもんな


 そこの客先は、そんな風に言ってくれただけマシだった。

 午後から廻った二軒じゃ、代替え品なんか要らないから返金してくれ、とか。もう二度とオタクからは買わないからな、と脅され、一軒の新規顧客を開拓する苦労がいかほどか身に沁みている私には、それは死刑宣告にも近い言葉で冷え切った足から一層力を奪っていったのだ。


 そして、出来ることと言えば、コメツキバッタのようにペコペコ頭を下げ、ひたすら謝罪の言葉を並べ、工場の人間が作ったのではない、自分が昨晩遅くまで書き立てた嘘ッパチな「品質保証対策」を神妙な声音で読み上げる。客は半分も聞いていないのに——。


 二十センチ以上も積もった幹線道路の雪は、進む車の速度をノロノロ運転に制限してなおも降り続いていた。結局、昼飯も食わず、夕方の六時近くまでかかって三軒の得意先を廻り終えた。ズボンの裾はもちろん、皮靴の中までびちゃびちゃに濡らして、まるで「八甲田山」の雪中行軍のようだった。

 空腹と寒さは、人の心を余計に荒ませるのがわかった。今頃、暖房の効いた部屋でヘラヘラ笑ってる工場のものたちのアホ面が思い浮かび、つくづくサラリーマン、いや、営業マンという仕事が嫌になった。


 ——お疲れさまでしったぁー


 代理店の男が寄越した通り一遍な労いの言葉だけど、凍てついて感触のない私の耳にほんの少しばかりの血の気を与えてくれたのには、正直情けなくて涙が出た。


「富山駅」に着くと、列車が発車する十分前だった。千円札を売り子に投げるようにして「鱒寿司」の折りをひとつ買い、駅構内を走った。正直言って、足の感覚はないし、吸い込む息は冷たく肺が悲鳴をあげる。

 鼻水が上唇まで垂れ落ちて来て、素手でそれを拭う。

 駅構内に、「大阪行き」の列車が滑り込んでこようとしていた。構内アナウンスでは5分後の出発を告げている。

 そのまま、列車の中に飛び込もうとした時———。


『立ち食いそば』の暖簾が目に入った。

 店内は白い湯気に煙っていた。私は踵を急展開して暖簾を潜った。


 ——月見そばっ!

 ——あいよっ


 店主の反応が小気味よかった。一分足らずで目の前に「月見そば」が出て来た。立食いそば屋らしい早業だった。


 白い湯気が煙り、ツンと出汁の香りが凍てついた鼻腔を突く。

 かじかむ両手でそば茶碗を包み込む……

 フリージングされた鮪の身が溶けていくように、手の平が血色と温もりを取りもどした。


 もう、時間は三分もない——。


 ズズーーーッ ズズーーーッ ズズーーーーッ 


 三回も啜れば麺はなくなった。口の中にはまだ麺が咀嚼しきれず残っている。そこに、醤油の濃いだし汁を流し込んでやる。


 ズーーッ、グビッ

 そして最後に、半熟の卵を一気に丸呑みした—————。


 ああ———っ、、、うまいっ!!……


 全身に満ち満ちてゆく生気———生きた心地とは、このことかっ!


 駅構内に発車のベルの音が響く。

 私は、百円玉三枚をカウンターにおいて


 ———おやっさん!、うまかった、ご馳走さんっ!!


 そう言い残して、列車に駆け込んだ。

 人間とは、胃袋が温まると、幸せになれるもんなんだ——。

 そんなことを想いながら、結露で滲む車窓から「立ち喰いそば」の暖簾を眺め、もう一度胸のうちで独り言ちた。


 ごちそうさん、うまかったよッ——。


 車中で買ったカップ酒を煽り、我が家の熱い風呂を想って眠りについた。

「特急雷鳥」は、私を乗せて大阪に帰っていった——。


       ———————🦆——————


 それから、一年後、私は同じ二月に富山へ出張をした。その日は、大口注文の御礼に工場長を連れての訪問だった。

 工場長は、終始ご機嫌だった。


 ——やっぱりな、を作ってりゃ、ちゃーんと売れるんだよ、なッ!!

 ——はぁ、そうですね……


 私は、一年前のことを忘れたわけではない。しかし、今それを持ち出してこの男に喧嘩を吹っ掛けても、所詮勝てる道理もなく、ぐっと重い鉛の球を飲み込むようにしてやり過ごすのがサラリーマンのすべだと、を見て鼻を鳴らした。


 客先の購買部長がうちの工場長の顔をしげしげと覗き込んで言った。


 ——工場長さん? 

 ——はい、この度は……

 

 購買部長は、太い人差し指をうちの工場長の鼻先に突き立てて 


 ——あんたね、いい話の時だけ来るってのは、どうなの? 去年のクレーム騒ぎの時、この営業マン一人だけ来させちゃって…… いい根性してるよね。大阪の人って、みんなこうなの?


 話を振られた私は、苦笑いを零すしかなかった———。


 帰りの「富山駅」で、私は工場長に「立ち喰いそば」を誘った。


 身体には、美味いっすよ!——。


 そう言って、私は、去年のあの「味」をもう一度、と期待して暖簾をくぐった。

 今日は、ゆっくり食える時間もある。


 ——ああ、ほんま、身体温もって、ほんま美味かったなっ


 工場長は、そう言って喜んでくれた。

 しかし、私は、そうは思えなかった。あの時の「味」じゃなかったのだ。

 なんでだろう——、帰りの車中ずっとそれを考えていた。そして、ひとつだけ、思い当たる理由ことを見つけた。


 ——そっか……

 あの日は、今日とは逆で最悪に嫌な想いをした一日だったなー、ゆっくり食べれなかったし、なにもかも今日とは真逆な日だったな。


 そして、私は想ったのだ。


 一杯三百円の「立ち喰いそば」でも、胃袋が空っぽで、身も心も凍てついてポキポキ音がなるような時に食すなら、それは何万円もするフランス料理にだって味わえない、特別な「味」となってずっと舌の記憶として残っていくんじゃないか、と——。


 そして、あれだけ客先に罵られても能天気ノーテンキで居られるこの工場長という男には、きっと「味」は経験できないだろうなとも、思った。



「特急雷鳥」は、大阪にむかって走る——。

 車窓に、西陽に赤く染める雪を讃えたアルプスの峰々が、私を見送ってくれていた。



 私は、あの「味」は記憶だけに留めておくことにしょう——、そう、想った。



【一杯の立ち喰いそば】ー特急雷鳥「富山駅」にて〜 【了】

                        

                   千葉 七星





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