無償の愛ではございません
「いやいやいや。
なんで、全員、燕尾服?」
これ、そんなパーティだったっけ? と自身はふんわりと広がったミニの淡いピンクのワンピースを着た桜子は佐丸たちに向かい、そう呟いた。
ビルのオープン記念パーティは最上階に近いフロアを使って行われた。
招待状にはカジュアルな服装で、と書いてはあったが、もちろん、本気でカジュアルな格好で来ているものは居ないし、会社帰りに寄った取引先の人なども多いので、男性陣は普通にスーツだ。
……が。
「なんでうちだけ、全員、燕尾服っ?
やり過ぎでしょうっ。
全員、執事っ!?
っていうか、佐丸っ。
普段は、着てないのになんでっ?」
と叫んでしまったが、女性陣には大人気だった。
まあ……いい宣伝にはなるか。
宣伝にはなるが……。
あまり目立たないで、佐丸、と思いながら、桜子は物陰から佐丸をずっと視線で追っていた。
あ、ミーアキャットが……。
失礼。
太田課長が現れた、と思っていると、太田は何故か、出くわした年下の芹沢にペコペコし始める。
気分的にはわかるな、と思いながら、桜子は、その様を眺めていた。
持って産まれた風格というか。
靴磨き職人になりたい、というわりには、相変わらず王様のような芹沢の前に出ると、普段、こういうタイプの人間に、頭を下げ慣れているサラリーマンの方々は条件反射でか、ペコペコしてしまうらしい。
だが、芹沢はそれを気にする風にもなく、太田の前にしゃがむと、その靴をつかみ、
「磨いてやろう」
と言い出した。
おい、此処はパーティ会場だ、と思ったが、太田は素直に芹沢に連れられ、会場の隅へと向かう。
「いい靴だ。
よく働いている人間の靴だな」
と芹沢に言われ、今にも、はっ、ありがたき幸せっ、とでも言い出しそうな有様だった。
……どんな靴磨き屋だ、と思っている端から女子たちが集まってくる。
ダンスを踊っていただけませんか? 王子様、とでも言い出しそうな様子で、ラベンダー色のドレスを着た女性が芹沢に言っていた。
「あのっ、私の靴も磨いていただけませんか?」
だが、彼女は、その靴の何処を磨く気だ、というような、細いラインの新品のハイヒールを履いている。
芹沢は女の顔ではなく、靴をチラと見、
「その靴は磨けない。
磨ける靴を持って、来月、十八日にうちの店に来い。
オープンだから」
と作り立ての店のカードをその女子たちに渡していた。
そして、勢い余って、来ていた元上司にも、
「靴を磨いてやろう」
と言って、はあっ!? と言われてる。
相変わらず、マイペースな人だ。
そうだ。
マダムキラー唐橋は―― と見ると、なんと、唐橋には十文字夜子がひっついている。
夜子さん、ご主人と来ていると聞いたはずだか。
っていうか、ご主人は何処だ……、と桜子が辺りを見回していると、先程から名刺を手に挨拶まわりをしていた鳴海が、唐橋たちにも話しかけていた。
「やあ、先生。
昔別れた女性が五、六歳くらいの子を連れて、貴方の子ですとか言ってきたら、私に言ってくださいね」
と言って、唐橋をぎくりとさせ、側で料理を取っていた京介を見て、
「……お前はないかな」
と呟いて、ええっ!? と言わせていた。
「意外に的確だな」
と声がしたので顔を上げると、横にグラスを手にした芹沢が立っていた。
一仕事終わったところらしい。
「あれで意外な切れ者ですからね」
と何故かまだ凍り付いている唐橋を見ながら、桜子は言った。
「ああ見えて、冗談みたいな学歴の持ち主なんですけど。
……学歴でその人の人となりまで判断できるわけではない、ということがよくわかる典型のような人です」
と人波の向こうから聞こえてくる、
「訴訟の際は、ぜひうちへ」
という鳴海の、変に良く通る声を聞きながら、桜子は呟いた。
芹沢と少し呑んだあと、ふと気づくと、佐丸が自分の側に居た。
少し機嫌が悪い。
「どうしたの? 佐丸」
と桜子が問うと、
「桜子様。
私は今日、スタッフと間違われて、用事を言いつけられてもいいと思って、これを着てきたのに。
誰もなにも言ってこないのですが、何故でしょうね」
と言う。
いや……、なんか偉そうだからじゃない? と思ったが、言っては悪いかと思い、黙っていた。
佐丸が燕尾服を着たところで、ただのフォーマルな服を着た客にしか見えない。
誰も使用人だとは思わないだろう。
ちょうど側に居た、既にずいぶん呑んでいる京介が、
「だって、佐丸に用事頼んだら、斬り捨てられるか、島流しに合いそうだからじゃない?」
と言って、ははは、と笑う。
いやっ、今、まさに貴方が斬り捨てられようとしているんだけどっ、と京介を見つめる桜子の頭に、ご機嫌なまま崖を落ちようとしている愚者のカードが浮かんだ。
佐丸たちは、あのカードを見ると私を思い出すって言うけど、どっちかって言うと、京ちゃんだよっ、と思う。
自らが斬り殺されかかっていることにも気づかぬまま、笑いながら京介が去っていったあと、
「あら、桜子さん」
と声がして、ゴージャスでタイトな黒いドレス姿の志保が現れた。
あのー、カジュアルって書いてなかったでしたっけ? と思ったが、まあ、なにを着ても志保さんはゴージャスに見えるからな、と思い直す。
人に寄っては、地味な服にしかならないかも、と思いながら、桜子は志保のドレスを見ていた。
一方、志保はカクテルグラスを手に、桜子の靴を見て言う。
「それ、佐丸が選んだ方じゃない」
淡いピンクのワンピースに、それより少し濃いめの、やはり淡い色のピンクの靴がちょうどよかったから、履いてきたというのもあるのだが。
志保が買ってくれた赤い靴を此処に履いて来なかったのには、別の理由もあった。
桜子は佐丸を窺いながら小声で、志保に、
「……あれはあとで履きます」
と言った。
そう、と志保は笑う。
桜子の横に居た佐丸が、
「こんなところで、フラフラ遊んでいていいんですか?」
と批判めいたことを母親に言う。
「優生のこと?」
志保は会場の楽しげな人々を見ながら呟くように言った。
「いいのよ。
優生は私に落ちぶれてる姿は見られたくないんだから。
今は一緒に居なくていいのよ」
今は、と志保は言った。
必ず、彼は再起を果たすと信じているのだろう。
志保は、佐丸にも似た瞳で、真っ直ぐ前を見つめていた。
志保さんらしい、と桜子は思ったが、佐丸は、志保の優生に対する愛情のようなものを聞かされて、少し嫌そうだった。
「あら。
魁斗、来てたの」
会も終わる頃、桜子は仕事の関係で、ちょっとだけ覗いたという兄を見つけた。
魁斗は誰かを探しているようで、キョロキョロしている。
その彼らしくもない挙動不審な様子に、
「……誰か女の人?」
と言うと、ビクつく。
恋愛が絡むと、この兄でもこうなるのか、と妙に感心してしまう。
「そうだ、魁斗。
いつだったか、佐丸がヘリに乗って此処に来たことがあったんだけど。
佐丸は空飛ぶものには乗れないはずなのに、なんでだか知ってる?」
と訊いてみた。
あれは兄たちが使っている航空会社のものだった気がしたからだ。
すると、案の定、
「ああ、あれは俺が乗せたんだ」
と言う。
「執事もご主人様に付いて乗らなきゃいけないときもあるかもしれないだろって言って乗せたんだが。
本当は、あいつも、いつかは武田物産に戻らないといけないかもしれないからな。
ヘリにも飛行機にも乗れない、海外にも行けない社長じゃ困るだろ。
ましてや、妹の婿になるかもしれない男だぞ」
そんなことでは困る、と魁斗は言うが、いや、本当のところ、自分自身が佐丸の今後のことを心配してのことだろう。
「平然とした顔で、乗ってやがったが、内心、飛び降りたかったろうな」
とわざと笑って言ってくる。
「しかし、お前よく佐丸が執事になりたいとか言うのを許したな」
と言われ、
「だって、リアリストの佐丸が初めて夢を見たのよ。
傲岸不遜な自分も小方さんのような気の利いた人間になれるんじゃないかと――」
「桜子様、ちょっとこちらへ……」
背後からしたひんやりした声に、続きを言うことは阻まれた。
なんたかんだで楽しい会だった。
佐丸と自宅に戻った桜子は、少し酔っていたので、上からも花が咲き乱れているテラスに行った。
椅子に座っていると、佐丸が冷たいレモネードを持ってきてくれる。
ありがとう、とそれを受け取った。
「ほっとしたわ。
夜子さんがご主人と帰って」
と言うと、なんでだ? という顔を佐丸はする。
「いや、先生と帰ったらどうしようと思ってたのよ。
まあ、佐丸も居るのに、先生の方には行かないか」
と言ったあとで、
「でも、夜子さんに関しては、佐丸も悪いのよ」
と笑う。
「だって、佐丸に見つめられたら、みんな佐丸を好きになるもの」
いつか言ったその話を繰り返すと、黙って聞いていた佐丸は口を開いた。
「……桜子様は、ひとつ思い違いをされています。
あの日、夜子様が私を好きになられたのは、私が考え事のついでに夜子様を見つめていたからではありません」
え。
「私はあの日、桜子様をじっと見ていたのだそうです。
その目を見て、自分もこんな風に見つめられたいと夜子様は思われたそうです。
私はただ――
桜子様が……
……慣れないヒールをお履きになって、今にも転ぶんじゃないかと思って見ていただけだったのですが」
「佐丸、最後の一言はいらないわ……」
だが、そこで誰かが笑った。
小方だ。
後ろのガラス扉から現れる。
「佐丸様がどのように思って見つめていらっしゃったとしても、その視線に、桜子様に対する愛情が溢れていたんだと思いますよ、きっと。
佐丸様をまず、桜子様の執事にしたのは、最初に執事と言うのはどのようなものなのか、佐丸様に知っていただきたかったからです。
執事は、主人に忠誠を尽くし、主人の幸せを願うもの。
今、佐丸様が桜子様に無償の愛を注いでいらっしゃるように、他の方が佐丸様の主人となられましたときも、同じようにお仕えくださいますように、と思ってのことです」
と小方は言う。
「小方……」
一礼して去っていく恩人の執事長を見送りながら、佐丸は呟く。
「桜子様、私は執事失格かもしれません」
どうしたことだ、と桜子は思っていた。
今までの人生で、佐丸が負けを認めるなんて、なかったことだからだ。
それだけでも、佐丸が執事になった意味はあったような気がするんだが、と思っていると、佐丸はこちらを振り向き、言ってきた。
「私は執事には向いていないのかもしれません。
それを教えようと小方さんは桜子様に自分をつけられたのかもしれません。
何故なら、私は桜子様には平身低頭尽くせますが、他の人間には此処までは出来ない気がするのです」
……貴方、私に平身低頭、尽くしてましたっけ?
と思ったが、敢えて口は挟まなかった。
「ですが、私、桜子様のお世話だけは私にしか出来ないと自負しております」
世話って……。
牛か馬かみたいだな。
でも、待てよ、そういえば、となにか違和感を覚えて思う。
「そうだ。
あの、七時過ぎてるんだけど、佐丸」
何故、執事のまま? と思ったが、佐丸は、
「執事の自分でなければ言えないことがあるからです」
そう淡々と言ってくる。
桜子様、と自分を見つめて佐丸は言った。
「執事とは主人の幸せを願うもの。
私は貴女に幸せになっていただきたいのです。
執事の傲慢な願いとして。
貴女が望まなくとも、貴女の意志など関係なしに、絶対に、幸せになってもらいたいのです。
小方さんはああおっしゃいましたが、私は出来るなら、貴女以外の主人に仕えたくはありません。
一生貴女とともに居たいです。
私が貴女の執事であっても、……執事でなくとも」
言葉が出なかった。
佐丸は桜子の前に跪き、言う。
「私は一生、貴女の執事でありたい。
なんでも貴女の望みを叶えます。
なんなりとご命令を、お嬢様」
「佐丸……」
桜子は椅子に座ったまま、彼に向かって言った。
「私と結婚して」
だが、顔を上げて佐丸は言う。
「その命令には従えません」
「佐丸……」
「それは貴女の命令ではありません。
それは私の望みです」
桜子は涙を堪えて、笑って言った。
「じゃあ、靴を持ってきて」
佐丸にはわかっていたようで、用意してあった志保のくれた赤い靴を、まるでシンデレラに靴を差し出す従者のように、桜子に向かい、捧げ持つ。
「どうぞ、お嬢様」
佐丸は、自分が買ったピンクのヒールの低い靴を脱がせ、その赤い靴を履かせてくれた。
桜子はその靴を履き、立ち上がる。
いつもより、桜子の十センチくらい高いヒールの靴を。
佐丸は笑って言った。
「今日は、もう遅いです――。
……おやすみなさい、桜子様」
そう言い、いつもの高さで口づける。
そっと佐丸の唇が桜子の唇に触れてきた。
ずっと一緒に居たけれど、それは初めての経験だった。
「さあ、夜はまだ冷えます、入りましょう」
すぐに離れた佐丸は、そう桜子を促しながら、上着を脱ぎ、肩にかけてくれた。
「……ありがとう」
と中に入りかけたが、佐丸が、
「そうだ。
先程、小方さんがいい話をされるので、特に口は挟みませんでしたが、これは無償の愛ではないですよ」
と言い出した。
ええっ? と振り返ると、
「……もちろん、見返りは求めています」
そう言って、もう一度、口づけてきた。
よく考えたら、無礼な執事だ。
そう思いながらも、桜子は少し笑った。
「行ってらっしゃいませ」
朝、勢揃いした使用人たちに見送られ、いつものように桜子たちは家を出ようとした。
昨日、志保のくれた高いヒールの靴を履いたら、少し大人に近づけた気がしたので、今日もついつい、履いてみた。
だが、自分たちの理想とする未来に向かって、必死に頑張っている佐丸たちに聞かれたら、大人に近づくって、そんなことでかっ!? と怒鳴られそうなのだが。
だが、それでも、これが私の第一歩だ、と思う。
店をやりながら、インテリアデザイナーの講座を受けることにしたし、設計の勉強もすることにした。
よしっ、と桜子は玄関から踏み出したが、普段と同じ勢いでヒールに体重をかけたので、早速よろける。
それを技術だけは有能な執事が、さっと支えた。
だが、耳許で、莫迦め……という小さな呟きが聞こえてきた。
「今、莫迦めって言ったっ? この執事ーっ!?」
罵り合い始める桜子たちの後ろで、
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
と優雅にお辞儀をしながら、小方が微笑んだ。
完
完璧執事のおシゴト探し 櫻井彰斗(菱沼あゆ・あゆみん) @akito1
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