見えない星屑のメタファー
@elevenoclock
見えない星屑のメタファー
鋭い手拍子、張り上げられるカウント、板張りの床とゴムの靴底が擦れる甲高い音。壁一面に張られた鏡には、十二名の研修生と一人のコーチが映っている。
ステップ、ステップ、ターン、アクション。
このフレーズがどうにも上手くいかない。雫は内心焦ったく思っていた。
(二回目のステップからターンに移る時の重心が後ろ過ぎるのかも知れない。次はもう少し思い切って前に体重を乗せてみよう)
「はい、じゃあ今のところもう一回! 5、6、7、8!」
安曇コーチが声を張り上げる。吹き出す汗が顎から滴り落ちて、床を濡らした。次こそは成功させてみせる。雫は先ほどよりも深く二歩目を踏み込んだ。汗に濡れた床の上をシューズが滑り、体重が右足の外側に流れた。足首が内側に向かって曲がり、その上に体重が掛かる。やばい、と思った時にはもう遅かった。雫はバランスを失って転倒した。
「ストップストップ!」
すぐに安曇コーチが寄ってきて、他の研修生たちも倒れた雫の周りに集まった。雫は立ち上がろうとしたが、足首に鋭い痛みが走って駄目だった。
「こら、無理しない。一旦冷やさないと。朱里、そこにある救急箱こっちに持ってきてくれない?」
安曇コーチに指示されて、研修生の朱里がパタパタと駆けていく。雫は鏡に映った自分の情けない姿を見て唇を噛んだ。
本来自分のいるべき場所を外から眺めるのは変な感じだ。まるで幽体離脱でもしているようで、そう考えると、自分の存在がやけにスカスカに思えて来る。
雫の怪我は全治二週間の捻挫だった。しばらくは安静にして、運動は控えてください。医者にそう言われて、雫は返す言葉も出ない程に落ち込んだ。次の新人オーディションが一ヶ月後に迫っていた。オーディションに完治が間に合うのは不幸中の幸いだが、課題コリオグラフィーが公開されたばかりのところで、いきなり二週間のブランクはあまりにも痛かった。
しかし落ち込んでばかりも居られない。
安曇コーチからはレッスンを休んで良いと言われたが、見学でも良いので参加させてくださいと食い下がった。他の研修生たちへのコーチの指導を聞くだけでも学べる事があるはずだし、何より曲と振り付けに少しでも多く触れて早く馴染みたかった。
それでも実際に見学をしてみると、早くも気持ちが折れそうになる。肉体の無い幽霊みたいな自分が、いくらレッスンの様子を眺めたところで意味なんか無いように思えてくる。こんな事なら、素直にこの時間を歌の練習に使うべきだったかも知れない、と後悔する気持ちが頭をもたげた。けれどやはりダンスから完全に遠ざかることの恐怖が勝っていた。
「それじゃあ次、2ステップからターンしてアクションのところいくよ。準備して」
例のフレーズだ。雫は無意識に身構えた。右足首が鈍く疼いた。
「はい、いくよー! 5、6、7、8!」
十一人の研修生たちが一斉に同じステップを踏む。
(ああ、外から見るとこんな感じなんだ)
同じステップを踏んでいるはずなのだが、一人一人タイミングの取り方や重心の位置、動きの緩急の作り方に差があって、全くまとまりがない。バラバラだ。オーディションは個人戦なのでグループで揃っている必要は無いが、目立つのは研修生間でのレベルの差だ。これ程までに明確に、巧拙の差があるとは知らなかった。如何に自分のことだけで必死だったか。視野の狭さが恥ずかしかった。
頭抜けて巧いのは詩織だ。鏡に向かって一番左、見学中の雫から最も近いところで踊っていた詩織は、ステップひとつひとつの足の運びに無駄が無い。体重移動も正確で、音がクリアだ。月で踊っているみたい、と雫は思った。転んでフロアに這いつくばった自分と、遠い夜空の月で踊る詩織の間には一体どれ程の差があるのだろう。
「はい、それじゃあ五分休憩!」
安曇コーチの号令で研修生たちが三々五々散っていく。壁際においたタオルと飲み物を取りにいったのだ。皆ひどく汗をかいていた。安曇コーチが廊下からモップを持って来た。濡れた床を拭くのだろう。研修生の数人が「やります!」といって駆け寄ったが、
「お前たちは良いからしっかり休め」
と言われて戻っていった。
雫は詩織がタオルで汗を拭いながら、まっすぐな姿勢で佇んでいる様を観察した。詩織も人並みに汗をかいているはずなのにその周りだけが不思議と涼しげに見えるのは、凪いだ水面のような肌の美しさと、切れ長の大人びた目のせいだろう。詩織は三ヶ月前に事務所に入ったばかりの新人だ。元来おとなしい性格の子で、普段は決して目立つことはない。まさかダンスであれ程の才能を持っているとは知らなかった。
(そういえば、まだ詩織ちゃんときちんと話したこと無かったな)
だけど、もう意識してしまって、自然と話しかけるのは難しいだろうと雫は思った。
安曇コーチが集合を掛けて、研修生たちが小走りに集まる。二、三技術的な指摘があって、すぐにまた練習が開始された。
今度は曲を掛けてのパート練習だった。観察していると、詩織とは別の意味で目立っている研修生がいた。朱里だ。重たいアクション、浅い踏み込み、崩れた体幹。明らかに、他の誰よりも技術的・身体的に劣っていた。安曇コーチも時折厳しい叱責を浴びせる。必死に食らいつこうとしているのは良く分かるのだが、どうしても身体がついて来ない。ついには少し振りが細かい箇所で曲に遅れてしまい、一旦中断して途中から入って行けば良いものを、それさえ上手くいかずにまごついてしまっている。
雫は朱里の気持ちを想像して、食道の奥を締め付けられるような気分になった。どれだけ憧れても決して超えられない壁があるという事実が、ねっとりとした液体になって、絶望的な重さで身体にまとわりついてくる。足首が痛い。雫は小さく首を振った。自分の想像に飲み込まれてどうする、と自らを叱咤した。
やがて今日のレッスンが終わって、研修生たちはスタジオの片付けを始めた。
「わたしも手伝います」
といって立ち上がりかけたが、同じ頃に事務所に入って仲の良い亜希に
「怪我人は大人しくしてなさい」
と諭されて座り直した。入り口近くでは、朱里が詩織にモップを手渡していた。雫は二人の間に見えない隔たりを感じて、自分はどちら側に居るだろうかと自問した。
脚のない虫が、足首から這い上がってくる。
そう想像して、雫はひとり総毛立った。
ここ一週間、ダンスレッスンをスタジオの角で見学している時に、繰り返し浮かんで来るイメージだ。痛いと痒いの中間くらいの疼きが、焦燥となり、脚のない虫の姿をまとってもぞもぞと登って来るのだった。
詩織はダントツに巧かったが、それにも関わらず日に日に上達していった。いつかテレビで見たマラソンの試合みたいだな、と雫は思った。名前は忘れてしまったが、ある無名の選手が最初からかなりのペースで突っ走り、後続が全然ついて行けなかった。無謀な走りで、すぐにペースダウンするだろうと誰もが思ったが、結局その選手はほとんどそのままペースを落とさずに走り切り、二位と圧倒的な差で優勝した。確かそんな話だったと思う。その後何度もニュースで話題になっていたから、マラソンに興味がない雫もなんとなくその事件を覚えていた。今の詩織はまさに、他の追随を許さない完全な独走状態だ。決してペースを緩めず、淡々と、無慈悲に距離を稼いでいく。後続との距離はまるで縮まる気配がない。そして自分はそのレースの中で、ずっと同じ場所で立ち尽くしているのだ。いや、もしかすると後退している可能性すらある...。
気付くと虫は太ももの辺りにまで来ていた。雫は必死にそのイメージを振り払おうと努力したが、虫はぺたりぺたりと、一定のスピードで歩みを進めていた。
片付けが終わるのを待って、外へ出た。他の研修生たちはまだ着替えている。出掛けに亜希からご飯に誘われたが今日はやることがあるからといって断った。嘘だった。
渋谷の街は日が落ちても眩しいほど明るい。右足を庇いながら蒸し暑い雑踏をかき分け、山手線に乗り込んだ。
雫が住んでいるのは中野駅から徒歩十五分、大通りからひとつだけ路地を入ったところにあるマンションだ。四階建てでエレベーターもない小ぶりなものだが、築浅で玄関は一応オートロックになっている。もっと都心から遠くて安い部屋で良いと雫は遠慮したが、両親が心配だからといってそこに決めたのだった。駅からの道のりは人通りも多く、もちろん渋谷駅前には比べるに及ばないが、夜でも比較的明るかった。
郵便受けを開けると、不在票が入っていた。差出人は母親だった。部屋に入ってから宅配会社に電話を掛ける。営業時間を過ぎていたらしく、自動音声案内に従って再配達の設定をした。
わがままを聞いて東京に出してくれた両親を思い出す。
「絶対、有名になるから」
地元を出たあの日、新幹線のホームで別れる時も二人は決して頑張れとは言わなかった。
息苦しくなって、窓を開ける。夜風が柔らかく肌に触れる。見上げると、星のない空が蓋のように街を覆っていた。あれ、今日って曇りだったっけ? と雫は思った。しかしよく見ると、ポツンポツンと小さな光が、ほんの数個だけ点っていた。
上京して半年、雫は東京の夜空がこんなにも星が無いものだという事を初めて知った。地元では百貨店中の宝石をばら撒いたみたいに沢山の星々があったのに。地上の光が眩し過ぎて、本当に明るい、一部の有名な星の光しか地上に届かないのだ。空が黒い絵の具に少しだけ白と青を混ぜたような色をしているのは、街の灯りを反射しているからなのだろう。
雫はひとつだけ目立つ明るい星に、詩織の綺麗な顔を重ねていた。
怪我が治って医者から再開の許可を得ると、雫は貪るように練習した。なんとしても、この二週間の穴を埋めなければならなかった。可能な限り早くスタジオに行き、帰りもギリギリまで残って自主練習をした。しかしそれでも、レッスン中鏡越しに詩織の姿を目にする度、喉の奥がざわざわと蠢くのを感じた。
自分は都会の空では見えない星屑なのだ。
そんな思いが日に日に増して来る。
星の輝きの強さは、努力では変えられない。生れながらに決まっているものだ。
「あまり無理をするな」
と安曇コーチに言われた。でも今無理をしなくて、いつ無理をするのだろう? ここで妥協したら、高いお金を掛けて私の夢を応援してくれている両親に、どんな顔をして会えばいいのだろう?
だけど、無理をしたところで、何か変わるだろうか? 意味の無い足掻きに過ぎないのでは無いか? 詩織のような生れながらのスターが、自分よりずっと早いペースで走り続けるのだから、逆転の可能性はゼロに等しいのでは無いだろうか?
早くから遅くまで練習し続ける中で、ひとつ気付いた事があった。
朱里の練習量だ。
雫はこの一週間、レッスンの無い日も含め、スタジオが利用できる一番早い時間から、一番遅い時間まで缶詰めになっていた。それは見学をしていた二週間のフラストレーションの反動があって出来たことで、こんな無理も長くは続けられないだろうと自分でも思うのだが、レッスン場にはいつも朱里がいた。黙々とストレッチをし、バランスのトレーニングをし、同じステップを繰り返し練習していた。
それでも朱里は下手だった。見ているこっちが辛くなるくらい、同じ箇所で躓き、同じ箇所で曲に遅れた。
「良かったらこの後夕飯でも食べない?」
自主練習をしていたある日の夕方、朱里に誘われた。スタジオには二人しか居なかった。朱里と雫は軽くダウンをして、シャワーを浴びて着替えると、渋谷の街へ出た。
「ここで良い?」
朱里に先導されて入ったのは、チェーンの牛丼屋だった。券売機で牛丼普通盛りを買って、カウンターに並んで腰掛ける。
「朱里ってさ、いつもあんなに練習してるの?」
雫は気になっていた事を率直に訊いた。朱里はカウンター上に重ねられたプラスチックのコップを二つ取り、水を注いでテーブルに並べた。朱里がコップの水を一口あおる。半分近く減っていた。
「うん。私、一番下手だから」
当然でしょ? と言いそうなくらい、躊躇いのない、さっぱりした言い方だった。雫はなんと返事して良いものか迷って、曖昧に頷いた。
「一番下手なら、一番練習するしか無い。なのに最近雫ちゃん凄い勢いで練習するんだもん。私のお株がー! って感じだったよ」
朱里はからっと笑った。店員が牛丼を二つ運んで来る。それを受け取ると、朱里は紅生姜をどん、と乗せた。丼に手を添えてがつがつとかき込むように食べる朱里を見て、男の子みたい、と思った。実際、襟足を短く切ってトップから被せた髪型やほとんどノーメイクに近い幼い顔立ちは、中性的な男の子だと言われても信じてしまいそうだった。
二人は暫く無言で牛丼を食べた。店内は混み合っていて、食べ終わるとすぐに外へ出る。
「朱里ちゃんって、どこの出身なの?」
雑然としたセンター街を歩きながら訊ねる。
「茨城。親に無理言ってこっち来させてもらってるんだ」
「じゃあ私と一緒だね」
「雫ちゃんも茨城?」
「ううん、そうじゃなくて、親に無理言って田舎から出してもらってるってところ。私は富山出身」
なるほどねえ、と朱里はいった。何に納得したのかはよく分からなかった。
「東京の夜空ってさ、こんなに星が見えないんだって、ついこの前気付いたんだけど、朱里ちゃん気付いてた?」
朱里は顎を上げて、「確かに、真っ暗だ」といった。
「地元で見た時はあんなに星がいっぱいあったのに、不思議だよね。光が弱い星は、負けちゃって全然見えないんだよ」
ふーん、と朱里がいった。雫は自分の胸の中から言葉が溢れて行くのを感じた。誰かに聞いて欲しかった。
「それでね、私、思ったんだ。自分は東京の空では全然見えない、光の弱い小さな星なんじゃ無いかって。詩織ちゃんみたいな強い光には、全然勝てっこ無いんじゃ無いかって」
雫は想いを吐露しながら、惨めな気持ちになっていた。一方で、そんな哀れな自分を表現するのが快感でもあった。
「詩織ちゃんね。巧いよね」
雫はもっと別の言葉を欲していたが、朱里は淡白にそれだけを答えた。雫は少しだけむっとして、
「朱里ちゃんはさ、どんなに頑張っても、絶対に勝てない相手がいるって思わないの?」
と挑発的な調子で意地悪な質問をした。
朱里は僅かばかり思案して、
「わからない」
と言った。拍子抜けだった。朱里は続けた。
「でももしそうだとして、それは自分が努力しない理由にはならないと思う。それにさ、雫ちゃん。自分を星なんかに例えるからそんな風に思えて来るんだよ、きっと。自分を何かに例えたりすると、それだけで何かがわかったような気になるけど、実際にはただ見方を決めちゃってるだけなんじゃないかな。自分は星だ。星の光の強さは努力じゃどうにもならないーってさ。私は自分を何かに例えたりしたくない。だって自分は自分じゃん。どんな可能性があるのか、どんな生き方をするのが良いのか、やって見ないとわかんないでしょ? そりゃあ、今の私が詩織ちゃんに勝てるとは思えないかも知れないけど、でも、それだって本当かどうか、誰もわからない。一生懸命やれば、いつか何かが一気に変わるかも知れない」
自宅に戻って、窓を開けた。夜風がカーテンを揺らめかせ、優しく首筋を撫でる。空には星がほとんどない。
電車の中でやったように、もう一度朱里の言葉を反芻してみる。私は自分を何かに例えたりしたくない、と朱里はいった。まさか朱里があんなに芯の通った考えを持っているとは思わなかった。
「でも、私はやっぱり例えちゃうだろうな」
誰にともなく小さく呟いた。
だけど、せめて磨けば光る原石くらいに、例えを変えてみるのも悪くはないかも知れない。
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