アイツとあたしの気持ち

 あたしはどこかわらないところを転げ落ちていく。どんどん下へ下へ……。空と地面がかわるがわる目の前を通過し、最後にはどっちが上でどっちが下かわからない。


 どこまでも落ちていく気がした。地獄へ、奈落の底へ落ちるってこんな感じなのかな?


 どのぐらい転がっただろう、気がついたら全然違うまったく見知らぬ場所にいた。まわりは暗く、はっきりどのぐらい奥行きがわからないようなくぼ地の底のようなところにいた。かなり遠くに微かな光と流れ落ちる水の音が聞こえる。


 痛いっ! 立ち上がろうとしたら、足に激痛が走る。全然動けない……誰か助けて……。


 誰かに助けを求めようと、周りを見渡す。暗がりの中に、木漏れ日にライトアップされる滝だけが妙に印象的だった。聞こえる音は水の音、風に揺らぐ木々の葉っぱの擦れる音ぐらいで人の気配がしない。


 え……? どうしよう……こんなところに一人きりなんて……。


 足のひどい痛みで動くことができす、しかも周りには人の気配がない状況に心細さが極限に達しようとしていた。あまりのことに叫び出すこともできず、ただ恐れおののき、冷たい地面の上で生まれたての子鹿のように体を震わせる。


 あたし、こんなところで死んじゃうの……? 嫌よ、そんなこと、絶対嫌! 助けて……! 誰でもいいから、助けて! 助けてよぉ……いやぁぁ……。誰かぁ……。


 心が絶望の色に染まり、生きる希望を失くしかけたとき、あたしにとって天からの導きとさえ想える声が聞こえてくる。


『センパイ、大丈夫ですかっ!』


 アイツの声がいつも以上に心地よく、心強いものに聞こえた。あたしはその声に安心してしまう。


『センパイ……大丈夫ですか? どこか痛いところはありますか? センパイ……?』


 あ……ダメ……涙が止まらない……。


 あたしはアイツに抱きつき、肩を震わせる。アイツは何も言わず、優しく抱きしめ返してきた。


 今思い返すと、これほど恥ずいシチュエーションってないわね……。ああっ、もう! 思い出しただけで、赤面してしまう。


 あたしが落ち着いてきたのを見計らって足の状態を確認するアイツ。アイツはこういう事態に慣れているのだろうか、妙に手際がいい。しかし少し恥ずかしい……うら若き乙女の足をいじくりまわすとは……。


 ……何、これ? 何やってるのよ、説明してよ。


『……とりあえず、骨は折れていないかも。多分、足をひどく挫いたみたいです。なら、しばらく痛むけれど、移動できます』


 良かった、動けるんだ。


 ちょっと安心して、アイツがあたしを見ている。


 ……あによ、なんか文句あるの?


 こっちは命の危機を感じて、大変だったんだから! あー! そんなに笑うことないじゃないのっ! まったくもう……こっちの気持ちを知らないで。


 ぇ……?


 アイツがあたしをしっかり抱きしめた。


 アイツは震えていた。


 なんで……?


 あたしの頭は完全に真っ白になった。


 ……その後はよく覚えていない。


 唯一覚えているのは、ヤケに頼りがいを感じる背中がすぐ目の前にあることだけだった。

 

 ……よくよく思い出すと顔から火が出そう。なんでアイツ、あんなに震えて……あのときの状況を考えても、震えるのはあたしのほうじゃない……。


 アイツの考えることなんてわかんない。


 その後、こってり顧問の先生に絞られるし、やっぱり足は痛いし。


 でも、あの日からアイツが変わった気がする。あたしの扱いが妙に丸くなったというか、なんとなく優しくなった気がする。


 絵を見せても、以前みたいにボロボロに言うことはなくなった。人並みに気を使えるようになったのは成長したかな。やっぱり教育って大事よね。


 ……もっとも奥歯にものが挟まったというか、遠回しになった表現が微妙に癇に障るようになったのは誤算だった。


 変に気を使って、時々そわそわしたり、こっちの反応を妙に気にしてみたり、愛想笑いの回数が増えたり、一体何を考えているのだか……。アイツの思っていることはホントよくわらからない。


 時々何か言いたそうな顔をするので、ジッとアイツの目を見てやったら、あわてふためいて目をそらして黙っちゃうし。何か言いたいことがあるのなら、ストレートに言えばいいのに……。


 でも、あたしもちょっと変わったかな? 何となくアイツと二人で出かけることが多くなった。美術館とか、画材屋とか。あ、後文化祭の企画をつめるためにファミリーレストランに二人で結構夜遅くまで一緒に話し合ったな。その時はそんなに意識していなかったけれど、今から考えると時間が経つのが早かった気がする。友達とわいわい出かけるのも悪くないけれど、同好の士と二人過ごすというのも悪くない。


 笑えるのはクラスの友達に出くわしたときにアイツったら、妙にあわてふためいておっかしかったなぁ。そんなにあわてふためくことなんてないのに。 


 別に『オツキアイ』しているわけでもないんだし、気楽にしていればいいと思うだけどな。


 気楽にしていれば……そんなに考えることもないし……ね。


 ま、そんなことも大学受験が迫るとそうも言ってられなかった。


 特に三年になると引退って決まっていたわけじゃないけれど、何となくいつの間にか美術室から足が遠のいたな。うちの部は美大希望者が多いので、実技の練習もかねて受験のぎりぎりまで美術室でデッサンしている三年生もいたので、どの時点で引退何てはっきりしたものはなかった。


 でもあたしは美大を受ける気はなかったので、受験勉強にかまけて美術室へ顔を出すことが減ってしまった。


 美大には興味はあったんだけど、自信がなかった。受験が大変というのもあるけれど、万が一合格してその後高校の繰り返しになることが怖かった。本当にそれが怖かった。追いかけても追いかけても、届かない……どれだけ手を伸ばしても決して届くことないものを追いかけてしまいそうで怖かった。そんな恐怖から逃げ出したかった。


 だから絵とは無縁の世界で生きようと大学は自然科学系の学部のある大学を受けた。夏合宿以来、森林生態系に興味を持ったのでその道ならいいかなと……正直なところ自然科学的な興味というよりもフィールドワークでまたあの時のような景色に出会えることを期待してなんだけど。


 それはさておき、あたしはとにかく受験に専念することにした。なんとなくあたしの考えをアイツには伝えておかなきゃと思って話してみたら、ものすごく寂しそうな笑みを浮かべて、『頑張って下さい。応援してます』なんて殊勝な言葉をもらった。あまりに寂しそうなので、メールアドレスと携帯の番号を教えてやった。なぜかしら花が咲いたように明るい笑顔喜んでいたな、アイツ……。


 そう言えば個人的に連絡する手段をメールアドレスとか教えるまでなかったな。二人で出かけるようなときも部室で連絡しあえるから教えていなかった。そんなに個人的に連絡をつけたい理由でもあるのだろうか? 受験勉強に気を取られて、特には感じなかったけれど今考えるとアイツ、結構あたしのことを気にしていたのかな……?


 ことあるごとにメールくれるし、時々電話をかけてきてこっちの様子を気にしてくれたし……。


 無事合格したら、自分のことのように喜んでくれた。あれはおネーサンとしてはちと恥ずいけど、嬉しくもあった。あたしのことなのに大はしゃぎして……。


 あれ……? 


 どうして……?


 え……どうして……あたしの高校生活にはほとんどアイツが絡んてくるの? ていうか、なんでアイツがらみのことしか思い出せないの?


 あたしってそんなにアイツのことを……?


 ないない! 絶対にないっ! そ、そんなわけないじゃない……ないよね……?

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