アイツの想いとあたしの最後の春休み。

 怖い……? なんであんたが怖がるのよ? 怖かったのはあたしのほうよ。


「……どうしてあんたが怖がるのよ? あんたが怖がるところなの、そこは?」


 今一つ言っていることが分からず、首を傾げるあたしを見て言葉を続ける。


「本当に怖ったんですよ。ずっとセンパイを見ていて何か悩みを抱えているのは分りました。どうにかしてあげたかったけれど何もできなくて……。そんなセンパイが転げ落ちて、泣いている姿がか弱くて、消えてしまいそうで……だから思わず抱きしめました」


 あー、あー恥ずい! そんなことを面と向かって言わないで! ああ、心臓が壊れそうなほど動いている。体温が急上昇してきた。


「でもよかった。抱きしめたときにセンパイのぬくもりを感じて……ここに間違いなくいるってことを感じたら、泣けてきちゃって……」


 やめてー! 恥ずいにもほどがある! 顔を真っ赤にするくらいなら言わないで!


 この話はさっさと切り上げよう。ここままでは恥ずかしさで死んでしまう。


「……でも、よくわかったわね……あたしが悩んでいたってこと。そんなこと誰にも話したこともないし、言われたこともないのに。あんただけよそんなことに気づいたのは」


 不思議そうな目でアイツがあたしを見ている。何よ……。何か言いたいことでも?


「目指したところってどんなところまで描こうと思っていたんですか? もしかして目標としている絵があるとか?」


 え……?! な、なんでそんなことまでバレるのよ。ほとんど何も言っていないのに。


「あ……あるんですね、そんな絵が。そっかぁ、そんな絵なら見てみたかったなぁ。センパイが惹かれた絵なんだから、相当すごい絵なんでしょうね」


 さっきまでの悲壮感が嘘のように明るい笑みを浮かべあたしを見る。そんな笑みでこっちを見ないでよ……なんか照れくさいじゃない。


 ん……でも、あの展覧会に出品したなら見てるはずなんだけどなぁ……?


「あれ……? 覚えてないの? あたしが銀賞を取った時の金賞の絵あったでしょう? あれなの」


「え……? あの絵なんですか?」


「そうよ。展覧会に出すまでいろんな絵を見てきたけどあの絵ほど衝撃を受けたことはなかったの。黒のバックにあそこまで大胆な極彩色。しびれたわ。それ以来、頭から離れなくて。もしその作者に会えたなら、前提無しで『オツキアイ』しちゃうかも」


 アイツよりオトナなところを見せたくて冗談めかしてみた。何故かアイツが何か恥ずかしそうに頭を掻いている。何しているのよ?


「……えーと」


 何か言いたいの? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい!


「……えーと。言いにくいんですが、それ僕の絵です。」


 えぇぇぇぇ……! 何で? どういうこと? え? ちょっと待て?


「最初はあまり人の目に晒されるようなところには出すつもりはなかったんですが……中学の美術の先生が是非にって言うもんだから、仕方なく……」


 あ、あのどういうことでしょう? こんな近くに恋焦がれた絵の作者がいたのに自爆していたってこと? あー! 恥ずい! 恥ずかしすぎる。


 自己嫌悪……。ホントに嫌になる。あたし、何をしていたんだろう? あたしの高校生活は何だったの? こんな近くに欲しいものがありながら気づいていなかったなんて……。


「……もっと早く言ってあげればよかったですね。それならセンパイもこんなに苦しまずに済んだのに」


 アイツのその一言に一瞬めまいを感じる。それと同時にいわれなき怒りがふつふつと湧いてくる。


「何、どういう意味よ! あんたにいったい何ができったって言うのよ。簡単に言わないでよ、あたしの気も知らないで! あたしがどれだけ苦しんで、苦しんで……」


 思わずアイツの胸を激しく太鼓を打つように両手で叩いた。しばらくそうしていたら、アイツは何も言わず、あたしを抱きしめた。あたしは何が起きたのか分からず、頭が真っ白になった。何が起きたの……?


 アイツはあたしを抱きしめたまま、優しく頭を撫でる。


 あたしは……あたしは……何を……?


 気づいたら、あふれ出る涙を抑えられなかった。あふれ出た涙を拭くことすらせず、いつの間にか、アイツの胸に埋もれていた。アイツの胸に埋もれて……


 泣いた。泣いた。泣いた。


 あたしは涙が枯れるかと思うほど泣いた。


「……バカ。本当にあたしってバカ。あんた、こんな女のどこがいいの?」


「綺麗……綺麗だったから。センパイがキャンバスに向かっている姿、見とれてました。センパイの真剣に絵を書いている姿はそれ自身がアートだったんです。夕日の中で輝いて見えたのはキャンバスの照り返しだけじゃないと思ってます」


 ……あ、こんな時どんな顔をしたらいいんだろう? 本気で何も考えられなくなった。たぶんあたしの顔は今締まりのない顔なんだろうけど、そんなことはどうでも良くなった。初めての気持ち……。


「いつも、いつまでも側で見ていたかったんです、センパイの姿を。そう願うようになったら……もう……離したくなかった。それにあの夏合宿の時、この女性ひとを失いたくない……離したくないって気持ちが抑えられなくなって……本当に……センパイのことを……あ、あなたのことを……」


 アイツは何のためらいもなくあたしを見ていた。あたしもためらう理由が思いつかない。あたしたち二人は手を合わせ、握り締める


 あたしとアイツは何も言わず、しばらく見つめ合う。ただそれだけで満ち足りたものを感じた。しばらくしてアイツが何かを思い出す。


「そうだ、センパイ、忘れていた。よかったらこのデッサンを完成してもらえませんか?」


 と言ってアイツは美術室の中に置きっぱなしになっているイーゼルに置いてあるデッサンを指す。


「このデッサンって……? あ……」


 アイツはイーゼルにかけてあった布を取る。現れたのはあたしの横顔だった。向かって右半分にあたしが……。


「空いているほうに僕を描き加えてもらえませんか?」


 へ……? なんで……? 


「センパイ、受験勉強であまり美術室に来てくれなかったので言いそびれたんですが、それを卒業作品として残してくれませんか? 本当なら卒業式前にお願いしたかったのですがなかなか言い出せなくて……」


 あんたとあたしが……? 一つの絵に……?


「……ち、ちょっと待って。なんであんたと一緒の画面に収まらないといけないのよ……?」


 まったくもう……恥ずかしいじゃない。そのあたりは察してよ!


「……ええ、まあ。そうなんですがどうしてもセンパイと僕とが一緒にいた記念というかなんと言うか……形にしたかったんです」


 ……もう、恥ずいことをどうして次から次へ口から出てくるのだろう、こいつは……。


「それなら、別に一つの画面に収めなくてもいいじゃない……同じテーマで別々に描いたって」 


「いやいや、センパイ。二人で一つの絵を描き上げることでセンパイの悩みが消えるんです。今、思いついたんですけど……」


 え? どういうこと? 言っている意味がわからない。


「どういうことよ?」


「つまりはこの絵を完成させることでセンパイは僕に追いついたことになるんです。そして、もっと大事なことは僕とセンパイの共同作業で完成させるということです」


 ……ゴメンナサイ。サッパリわからない。


「もう! もったいぶらずに教えてよ!」


「わかりにくかったかなぁ……。一つの絵を二人で完成させるということは絵の世界を共有することですよ?」


 絵の世界を共有……同じ世界を共有……あ!


 あたしはそこまで考えて、はたと気づく。かなり詭弁にも感じたが、今のあたしにはそれで十分だった。確かにあたしはアイツに追いつく! 同じ世界を描いている!


「これで、センパイの苦しみは終わりです。……やっとセンパイを苦しみから開放できたみたいですね」


 アイツはあたしの目を見てほほえむ。


 その言葉にいろんな感情があふれ出て止まらなかった。気づくとアイツはそっとあたしの肩を抱いた。抱き引き寄せられたあたしはアイツの胸の中へ抱え込まれる。


「この絵が完成すればセンパイの高校生活が本当に終わるんですよ……」


 あ……だめ……そんなこと言わないで……また涙が……。


 不本意ながら、あたしはアイツの胸でさめざめと泣いた。苦しみから開放される喜びと本当に高校生活が終わるんだという寂しさと……あたしを良いところも悪いところもひっくるめて受け入れてくれる男性ひとが今目の前にいる嬉しさ――そんな感情がないまぜになって湧き上がってきたせいで、感情を抑えることができなかった。 


「さ、描きましょう、センパイ」

「……ん」


 アイツがあたしの涙をぬぐって優しく促す。

 アイツから木炭を受け取り、アイツの横顔を空白に描きこんだ。


 あたしはただひたすらに画用紙の上に木炭を走らせる。ついにたどり着いたゴールへラストスパートするように。アイツの……アイツが待っている世界へ。


「できたわ」


 小一時間、木炭を走らせデッサンはできあがった。モデルをしていたアイツがあたしのところへくる。


「あれ? なんでこっち向きに?」


 デッサンには同じほうを見つめるあたしとアイツの横顔がある。


「な……何言っているのよ。向かい合った顔なんて恥ずかしいじゃない。あたしはあんたをずっと追っかけてきたんだからこれからは二人並んで……」


 あー! あたし、なんてことを! 


 ふとアイツを見ると、耳まで真っ赤にしてあたしを見ている。


「……ま……その……そういうことだから、これから、よ……よろしく」

「はっ……はいぃ、よ、よろしくお願いします、センパイ」


 外は日が傾き、あたしたちの顔の色のような空が広がっている。


「……もう遅くなったから、帰ろうよ……」

「……はい」


「それから……もう『センパイ』と呼ぼないで。そうじゃなくて……ね、わかるでしょう……?」

「え……? あ……はい」


 アイツはそっと顔をよせ、耳元であたしの名前をささやく。その響きはあたしの耳を、意識をとろけさせるのに十分に甘い、甘いものだった。


 こうしてあたしの高校生活は完全に幕を閉じた。


 そしてあたしの最後の春休みが始まった。


 あたしの人生に二度とこない最高の最後の春休みが……。

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最後の春休み。 梟ノ助 @F-owl1

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