最後の春休み。

梟ノ助

時は春、とある高校の美術室で。

「……さすがに誰もいないわね」


 卒業式が終わり、春休みに突入した校舎内を歩く。校舎内はいつもなら聞くことのないあたしの足音だけが響く。


 階段の窓から光は入っているのに、校舎内は薄暗く色あせて見える。もう何年も前に撮った写真みたい。

 放課後いつも登った階段を登る。部活動をしていた美術室は五階建て校舎の最上階に陣取り、そこからの眺めはちょっとした観光地の展望台にも引けを取らないと個人的には思ってる。


 うちの高校は丘陵地の南斜面に無理やり造成したような場所に建っている。そのせいで敷地は狭いし、形も変。なにせ斜面に作ったせいで、敷地が横長になってしまった。一応、グランドは野球ができるけれどライト方向は百メートル近くあるのに対し、レフト方向はその半分ぐらいしかない。ただ丘陵地の南斜面、それもかなり頂上に近いせいで最上階からの眺めは他の高校には絶対ないと思う。


 教室から南を見ると、昔農村の集落だった頃の古い街並みが見え、所々にある小さな鎮守の杜が淡い桃色に染まっているのが見える。そんな景色を見ていると今は周囲を新興住宅地やマンション群に囲まれていても、昔はのどかな集落があったんだと想像してしまう。そしていつまでも変わらないような景色であっても、時間の移り変わりとともに変わっていく……。


 周りの景色の移り変わった時間に比べて、あたしがこの場所で過ごした期間なんてほんのわずかな間でしかない。変われないのもの仕方ないかもしれない。でも、あたしは……あたしは昔のままは嫌。でも、変わった気がしない。同じところでぐるぐる……卒業して改めて思い返してみると、本当にそんな気がする。


 あたしはどこか変わったんだろうか? この三年間、ぐるぐると堂々巡りしただけのようにも思う。あの『絵の世界』を……あの『絵の人の世界』を追いかけて追いかけて……結局追いつけずに三年経ってしまった。この三年で何をしたんだろう……? 悩んでいた割には成果がない。こういうのを独り上手っていうんだろうか……?


 なんとなく割り切れない思いを抱え、最上階まで登り、廊下に出てみる。


 いつもの廊下を走るのは、どこからか吹き込んだ桜の花びらだけだった。花びらは校舎内に吹き込む風に吹かれ、廊下をぐるぐる回りながらかけ巡る。なんとなくあたしの三年間に似ている気がした。


 春先の夕暮れの日差しが美術室に差し込む。いつもの部活中の光がそこにある。

 誰かが閉め忘れた窓からは、冬の名残りのある風が吹き込む。カーテンがその風をはらみ、生徒の代わりに騒いでいる。その窓に近くには誰かが描きかけのデッサンをイーゼルに置いたままにしている。布をかけていたのだろうけれど、窓から吹き込む風で少しはだけていた。ついさっきまで誰かが描いていたのだろうか、木炭や練り消しなんかがそのまま置いてある。


 風をはらみ騒ぐカーテンを静め、窓から外を見る。


 まったく、何の用なんだろう? もう卒業したってのに……。


 美術部の後輩の『アイツ』に話があるからと呼びだされたんだけど、何の用なんだろう? 何をしたいのだか……。昔からアイツはこっちの都合をあまり考えない。一方的に用件を押し付けたり、何かとあたしのすることに口を挟んでくるなんてしょっちゅう。一年生の頃のアイツのあたしを見る目が懐かしい。ちょっとはにかみながら、それでいてまっすぐあたしを見ていたあの目が気に入っていたのに。あのまま二年間過ごしてくれていたらなぁ……。


 はぁ……。


 アイツがいつ来るとも分からなかったので、あてどもなく窓の外を見ていた。窓の外の街はところどころ桜色の塊がかすんで見える。この景色もこんなふうに見るのはこれでおしまいか……。


 そんなことを思うと、見慣れたはずのありきたりの景色が何か特別なものに思えてくる。今日限定の特別な風景……ってところか。


 本当に三年間なんてあっという間に過ぎちゃったって感じがする。一年生のときは実感なんてあるはずもないけれど、卒業した先輩たちがみんな言ってたことってこういうことなんだ。実際同じ立場になるとよくわかる。


 ふと校内に目を移すとどこかの運動部だろうか、ジャージ姿の生徒が時折見える。


 こんな春休み真っただ中でも部活か。大変だな。でもきっといい思い出になる。


 思い出かぁ……この三年間の思い出ねぇ……。雲をつかむような日々……かなぁ……。恋い焦がれたものに追いつけそうで、結局手が届かなかった日々。


 ……それって思い出になるのだろうか?


『思い出になる』――自分でつぶやいた言葉に何かひっかかりを感じる。


 何してきたんだろうな、今まで。


 一年のときは、ただがむしゃらに絵に没頭していた気がする。あたしには描きたい世界が……あった。なんとかその世界を描き出したくて描きに描いた。描けば描くほど、その世界にたどり着けると思って。でもたどり着けなかった。何を描いてもなんとなく満足できなかった。気付いたら、一年が経っていた。


 二年になって、新入生を勧誘することになった。個人的にはそんな気分じゃなかったけれど、付き合う人が変われば気分も変わるかなと思い直して勧誘することにした。するとアイツがあたしの目に入ったのよね。あたしがアイツを勧誘したら、何故だか一人テンションが高かった気がする。妙な質問をしてきたけどなんのつもりだったんだろう? 『中学のときに賞を取ったことがあるか?』 なんて。普通、そんな質問するとは思えないんどけど。ま、アイツが何考えているかなんて、どうでもいいことだけど……。


 美術部の先輩としては、自分の実績を包み隠す必要なんてまったくないので、正直に答えてあげた。『中学の時に展覧会で銀賞を取ったことがある』ってね。そしたらアイツやたら目を輝かせてあたしを見つめるの。熱に浮かされたような、熱い視線で見つめられるなんて初めてだったから、見つめられたこっちが恥ずかしくなって、顔を思わずそらしちゃったのはいい思い出……ということにしておこう。


 ……アイツの視線を思い出したら、なんだか身体が火照ってきちゃった。まったくもう! なんで?


 ま、いっか。今思うとアイツのまんじりともせず、ただ一点を見つめるようにあたしを見るあの目は嫌じゃなかった。あたしがデッサンしていたり、油絵で静物を描いているときのアイツの視線がなんだか心地よかった。


 も、もしかしてアイツのせいで、変な性癖に目覚めちゃったとか……? だとしたらアイツにセキニンを取らせないと!


 あの時はまだ可愛げもあったのになぁ……何であんなふうになったんだろう?

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