キスは、こうするの !

朝星青大

第1話




ほうずきさん企画・第三十四回・三題噺参加作品




短編小説『キスは、こうするの』







エレベーターを降りて、美術展のパンフレットに眼を落とした時、颯太は後続の人波にぐいぐいと押され、その勢いで、前を通りかかったドレス姿の女性にぶつかってしまった。


「あっ ! すみません。大丈夫ですか? 急に後ろから押されて」


颯太は、そう言い訳しながら女性に頭を下げた。


「いいえ。大丈夫です。エルミタージュ展は人気があるから……あらっ ! あなたは……」


女性が振り返って眼を輝かせた。


「あっ ! あの時の……風子さんですよね。また、お会いしましたね」


颯太が眼を合わせる。あの時というのは2ヶ月前のナビ派展の事である。


「ほんと。奇遇ね。名前を覚えてくれていたのね」


「ええ。美人の名前は忘れません。取引先の担当者の名前はよく忘れるんですけど」


「まあっ ! うふふふふ……」風子が楽しそうに笑った。


「お一人なの ? 」


「ええ。一人で来ました」


「なら、また一緒に回りましょうか」風子が小声で囁くと


「はい、喜んで ! 」颯太は破顔して同意した。


森アーツセンターギャラリーは、六本木ヒルズの52階に在る。




会場内で初めに観客を迎える作品は、エカテリーナ2世の肖像画だった。


その肖像画の前を沢山の観客がスマートフォンで撮影しながら移動して行く。


「戴冠式のローブを着たエカテリーナ2世の肖像のみ写真撮影が可能です」と係員が案内している。


「これを描いたウィギリウス・エリクセンは、ロシアの画家ではなくて、デンマークの画家なのよね」


風子が歩きだし、さりげなく説明した。


「そうなんですか。僕は美術展に来ること自体が稀なことなので、画家達の事情については何も知りません」


「うふふ……正直ね。でも中途半端な知ったかぶりより、ずっといいわ」


風子は優しげな視線を投げた。



◇ 《羽飾りのある帽子をかぶった若い女性の肖像》

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ


「上品で賢そうな顔立ちの女性ですね」


颯太が素直な感想を漏らす。


「ええ、そうね。この女性はティツィアーノの恋人じゃないかって。あの白いダチョウの羽飾りの付いた帽子は男性用の帽子なの。わざとボーイッシュな雰囲気を出して楽しんでいたらしいわ。この絵は、1538年に描かれたというから、彼が50歳の時。ざっと500年前の作品ね。ティツィアーノはイタリアの画家よ」


「そんな昔に描かれたんですか ! 」


「ベートーヴェンが250年前、バッハが300年前、ガリレオだって350年前ぐらいだから、ティツィアーノはずいぶん昔の画家だわ。でもレオナルド・ダ・ヴィンチよりは30歳以上、若い筈よ」


後続の観客が急かすように迫って来る。


風子が颯太の腕を掴んで引き寄せた。


「えっ ? 」


「はぐれないように腕を組みましょう」風子が腕を絡めた。


「こんな、おばさんとでは迷惑かしら ? 」


「いえ、そんなことないです。光栄です。でも実を言うと母以外の女性と腕を組むのは初めてです」


颯太は緊張しながら応じた。


「そうなの ? 女性と交際したことはないの ? 」


「ええ。ありません」


「そう。だからなのね」


「だからって ? 」


「この前も感じたのだけど、あなたには、今どきに珍しい純真さを感じるわ。とても綺麗なものを」


「それは買い被りです。そんな事ないです」颯太が小声で話す。「実際に女性と交際出来ないからです。28歳にもなって。要するに臆病なだけです」


「うふふふ……そういうところよ。そういう素直な謙虚さが今どきは貴重なの」


風子が小声で伝える。



「エルミタージュって、ロシアの美術館のことなんですね」


颯太が話題を変えた。順路を定められてはいないので、二人は人混みを避けながらゆっくりと進んだ。


「そうよ。世界三大美術館の一つ。エカテリーナ2世がサンクトペテルブルグに創設したの。最初は近しい人にだけ公開していたみたいね。エルミタージュは隠れ家っていう意味」


「ああ、そういう意味なんですか」


「あたしは、パリのルーヴル美術館とニューヨークのメトロポリタンには行ったのだけど、エルミタージュへはまだ」


「えっ ? ルーヴル美術館とメトロポリタンへ行ったんですか ! 」


颯太が驚いて訊き返した。


「ええ。ルーヴルへは学生時代にお友達と。ずいぶん前の話。その後いろいろと改装されたそうだから今は昔とは様変わりしていると聞いたわ。メトロポリタンへは主人と7年前にね。主人が癌で、余命宣告を受けた時に思い切って……結局、それが最後の旅行になってしまったのだけど」


「というと、ご主人は……」


「ええ。亡くなったの。旅行の翌年にね。つまり6年前ね。東日本大震災の少し前。主人は、本当は画家になりたかったの。でも、私が身ごもったから、それを断念してパン屋さんに」


「えっと……それって……」


巨匠達の絵画を眺めながらも、話題は風子の人生を辿っている。


「あたしの実家がパン屋だったから。結婚するならパン職人になれって父から言われたの。そうでなければ結婚は許さないって」


「ええっ ? 今どき、それは無いでしょう」


「ええ。そうね。今どきはね。でも、これは23年前のこと。彼が美大を卒業したばかりの頃。あたしは一人娘だったから、婿養子を迎えると決まっていたの。絵描きには娘をやらない。パン屋になるなら家も建ててやる。子育てを含めて生活も支援する。どうだと言われて、主人は考えた末に婿養子になってくれたの。彼の両親の反対を押し切って。絵は、いつでも描ける。でも父親の責任を果たすのは今しかないって」


「そうだったんですか……」


「今日は、ドレス姿の女性が多いでしょ。なぜだか分かる ? 」


風子が話題を変えた。


「ああ、そういえば……何故ですか?」


「エカテリーナ2世の誕生日だからよ。女帝をイメージしたモチーフを身につけて18時以降に来館すると入館料が割引されるの。開館時間も1時間延長されてね」


「そうだったんですか ! 知らなかった」


風子にそう言われて、颯太が周囲を見渡せば、確かに華やかな衣裳を身につけた女性が多い。


美術展に足を運ぶ観客は経済的に厳しい生活を強いられた人達ではない。むしろ経済的には余裕のある人達の筈だ。恐らくは入館料の割引が目的ではなく、華やかな衣裳を身につける理由が欲しかった女性達なのだ。


風子も、その一人だった。



◇ 《林檎の木の下の聖母子》

ルカス・クラーナハ


「チケットに印刷されていたのは、この絵だったんですね。モデルは貴婦人だろうと想像していたのですが、まさか聖母とは……とすると、この赤ちゃんはイエス・キリストなんでしょうか ? 」


「そうよ。その通り。切れ長の目、ややとがった顎、長く美しいブロンドの髪は、当時の聖母像の典型なの。こちらを見ている幼いキリストがリンゴとパン切れをつかんでいるでしょ。リンゴとパンはキリストによる救済のシンボルなの。これも、ざっと500年前。クラーナハは、宗教改革で有名なマルティン・ルターの友人で、彼の肖像画もクラーナハによって描かれたの」


「ええっ ! そんなふうに繋がっているんですか。驚いた」


風子が時刻を確かめている。


「お腹も空いたし喉が渇いたから、カフェに行きましょう。ここから、そう遠くないところに行きつけのお店があるの」


「ああ、はい。知り合いのお店ですか?」


「ううん。昔からの行きつけのお店。雰囲気がいいし、素敵なBGMが流れているの」


六本木ヒルズの敷地を出て、すぐにタクシーを拾った。


「ここへお願いします」


風子は地図の表示されたスマートフォンを運転手に渡した。運転手はメガネをずり上げて眼を凝らしていたが、ほどなくスマートフォンを戻しながら応じた。


「銀座ですね。分かりました」








その店は、銀座通りから一本入った路地に面して雑居ビルの1階に在った。瀟洒な造りで、店内にはクラシカルな音楽が流れている。


「ヴァイオリンの音色がいいですね。なんていう曲ですか ? 」


颯太が問いかけた。


「シシリアンセレナーデよ。葉加瀬太郎の」


「シシリアンセレナーデ……初めて聞きました」


「素敵な曲でしょ。あたしも、このお店で初めて聞いたの。シシリアンはシチリア島の意味。セレナーデは小夜曲。窓の下から恋人に呼びかけて唄う曲という意味ね。シューベルトのセレナーデが有名だけど、この曲も人の心を惹きつける魅力があるわ。ロマンティックで情熱的で」


「あの……シチリア島ってイタリアですよね ?」


「そうよ。地中海でいちばん大きな島。有名な観光地よね。景色も食事も素晴らしかったって、お友達から聞かされたわ。あたしも、いつか行ってみたいと思うのだけど」


「作曲家は、シチリア島を旅行して、そこから着想したんですね ? 」


「それが、逆なの。そこをイメージして作曲されたのだけど、現地のイメージと合ってるか確認する為に、葉加瀬太郎は後から現地を訪れたと言ってるわ。作曲した曲をiPodに入れて、それを聴きながら……芸術って不思議よね」


「ええっ ? そうだったんですか ! そんな事が出来るなんて……人間って、不思議ですね」


救急車がサイレンを流しながら外を過ぎて行く。


「昔、この辺には小さな画廊や喫茶店が沢山あって、主人とよく歩いたもんだわ」


風子は青春時代を懐かしむように過去を語った。




「主人は、パン職人として頑張って、父の期待以上の仕事をしてくれたわ。間もなく娘が生まれて、それが思いの外、嬉しかったのね。若い頃は、よく娘の寝顔をスケッチしてたわ。娘そのものが芸術品だって」


風子が紅茶のカップをテーブルに置いた。


「ああ、それって、分かるような気がします」


颯太はコーヒーカップを持っている。


「分かるの ? 」風子が颯太の眼を視た。


「いえ、ご主人の気持ちが分かるってことではなくて、幼な子の存在そのもの、人間そのものが巧まざる芸術だというのは本当だと思うんです。特に女性の曲線美は、美の極致ですからね。画家が飽くことなく裸婦像や女性ならではの優しげな表情を描き続けて来たのは、それだからでしょう。美しいからです。恐らく今、この瞬間にも、きっと誰かが女性を描いてる」


「あなた、すごいわ」


「えっ ? 」


「主人も同じ事を言ってた。あなたも画家志望だったの ? 」


「いえ、僕は普通の会社員です。趣味で小説を書いてます。先輩に言われたんですよ。良いものを書きたいなら本物の芸術に触れなければダメだと」


「本物の芸術 ? 」


「はい。先輩の受け売りですが、音楽にしろ、絵画にしろ、古典はだてじゃない。幾多の厳しい審美眼に晒されて、尚、残って来た芸術作品には、それだけの価値があり、理由がある。小説は娯楽だが、芸術でもある。感動を伝えるんだ。人間の美点を見つけて、それを感動的に描いてこその文芸だろうと」


「あなたは作家志望なのね ? 」


「いえ、違います。職業作家になるつもりはないんです。小説を書くだけでは食べて行けないと聞いています。単行本で100万部、売れれば別ですけど。昔は作家の数が少なかったので、職業作家が成立したんだと思います。勿論、現代でも掛け持ちで連載作品を書いている人気作家は居ると思いますけど。でも僕には、そこまでの才能はありません」


「プロの作家になりたくはないの ? 」


「ええ。アマチュアでいいんです。読者の記憶に永く残るような、小説らしい小説を幾つか残せればいいと思っています」


「例えば 、どんな作品 ? そう言うからには、あなたが、そんな風に感じた作品があるんでしょ ? 」


「ええ。あります。『賢者の贈り物』。O・ヘンリーの短編集を高校生の時に読んで感銘を受けました」


「ああ……ええ、そうね。その作品は知ってるわ。有名な小説よね。映画にも、お芝居にも、絵本にもなって。でも古い作品でしょ ? 」


「ええ。100年前です。書かれた年代は古いですけど、でも、今でも、それを初めて読む者に感動を与え続けています。恐らくこれからも。あの作品の素晴らしいところは、貧しさ故の夫婦愛を描いて価値観を一変させたところです。そして短編ならではのシャープな切れ味。結末の意外性。読後感が湿っぽくない。明るいんです」


「そうね。思い出したわ。たしか……デラとジムだったかしら。クリスマスの贈り物を買う為に自分の大切な物を売ってしまう。お金がないから。妻は自慢のロングヘアーを、夫は金時計を。ところが、互いの贈り物は意外なものだった」


「そうです。それです。自分の大切にしている物を手放してでも、相手を喜ばせてあげたい。それが本当の愛情、思いやりというものだよと伝えています。見事です。これは、O・ヘンリー自身が貧乏な生活を経験したからこそ生まれた傑作だと思います。あの作品を超えるのは無理としても、いつの日か、あの作品に肉薄するような、明るくて感動的な短編を書きたいと願っています」


「文学賞への応募は ? 」


「いえ。文学賞へは応募しません。プロの作家になりたいとか、有名になりたいとかではないんです。それはビジネスでしょう。芸術とは対極にあるもので、芸術作品を世に知らしめる役割は、芸術家本人ではなくて、出版社のやることだと思うんです。カフカは生前に出版していません。身近な友人達にだけ読ませていたと聞きます。すみません。余計な話を……」


「いいえ。そんな事ないわ。素敵よ ! その通りだわ。それが芸術なのよ」


「えっ ? 分かってくれるのですか ? 」


「もちろんよ。芸術家は、そうあるべきだわ。芸術家は創作に専念すればいいの。それが後世に残すべき優れた作品と認められれば、目利きが放ってはおかない。頼まなくても出版するでしょう……でもね……」


「でも、何ですか ? 」


「出版社へ売り込まなくてもいいけど、沢山の人に読んで欲しいという意志表明は必要だわ。そうしておかないと、誰も出版出来ない。著作権は作者にあるから。出版社がいいと思っても作者の了解なしに出版は出来ないでしょ。どれほど優れた作品であったとしても、結局は埋もれたままになってしまう。だからね……」


「だから ? 」


「文学賞への応募は必要だわ」


「ああ、そういう事ですか。そうですね。分かりました。納得出来る作品が書けたら、そうしてみます。今は、まだ僕自身が納得出来る作品を書けてないので」


「いつか、あたしが協力できるかも知れないわ」


「えっ ? それは、どういう……」


「出版社に知り合いが居るの」


「はあ。あの……でも…………山本周五郎って作家を知ってますか ? 」


「ええ。もちろん知ってるわ」


「知ってるんですか ? 」


「知ってるわよ。山本周五郎は有名な作家だもの。父の書棚に並んでたわ。新田次郎や司馬遼太郎の本も。三人とも中学校の教科書に作品が載った作家だって父から聞かされたわ」


「そうです。山本周五郎は直木賞を受賞しながら、それを蹴った唯一の作家です」


「まあっ ! 直木賞を ? 」


「ええ。それ以外の文学賞も、ことごとく辞退しています。こんな作家は文壇史上、他に存在しません。稀有の作家です。僕は山本周五郎を心から尊敬しています」






「ママ ! お待たせ ! 」


不意に背後から声があった。


颯太が振り向くと若い女性が立っている。


「うふふ……あたしの娘なの」


風子がいたずらっぽく微笑んだ。


「里奈ちゃん、ここへ座って」


風子が手招きして、左隣りへ座るように促した。


「初めまして。速水颯太です」


颯太は立って挨拶した。


「うふふ……はじめまして。星川里奈です。母がお世話になっています」


里奈が微笑みながら、卒なく挨拶を返す。



「娘は少し変わっていて、小さい頃からマンモスとか恐竜が大好きなの」


「ママ ! そうじゃなくて博物館 ! 」


里奈が母親を睨んだ。


「そんな言い方したら誤解されるでしょ。変わり者だって」


「だって変わり者じゃないの。普通は女の子は恐竜になんか」


「だから言ったでしょ ! それはパパに私が付き合ってあげただけ。本当はパパが行きたいって言ったの。自然博物館へ何度も行くのには理由が要る。私が行きたいって言えばママが許してくれるからって、だからよ」


博物館通いは父の為だったと里奈は弁明した。


「分かったわよ。冗談なんだから、そんなにムキにならなくてもいいじゃないの。ちょっと、トイレ……」


風子が笑いながら席を立った。



「あの……大学生なんですか ? 」


「はい。女子大です。環境デザイン科です」


「環境デザイン ? そんな学科があるんですか。それは、どんな」


「簡単に言えば、文化とか歴史とか自然資源に配慮して都市機能の拡大を考える学問。地域間の調和も考えながら景観形成をデザインする学科です。もっとザックリ言えば街づくり学」


「街づくり学 ? 」


「ええ。だから街起こしのイベントにも参加しています」


「いらっしゃいませ」


ウエイトレスが水の入ったグラスを里奈の前に置いた。


「お食事のご用意が出来ましたけど、お出しして宜しいでしょうか ? 」


「ええ、結構よ。今日は肉と魚と、どちらを ? 」


「ステーキです」


「やったー ! 今日は、お腹が空いたからステーキを食べたかったの」


里奈は胸の前で拳を捻りガッツポーズを作った。


「それとワインをお願い」


「かしこまりました」


風子と里奈は、元々、待ち合わせて食事を摂る予定でいたのだ。




「あの……よく分からないんですけど、街起こしのイベントって、例えば、どんな ? 」


「渋谷センター街の七夕まつりっていうイベントがあるんです。それの、街路の飾り付けとか、ポスターの制作とか、浴衣パレードとか」


「浴衣パレード ? 」


「ええ。女子大生が浴衣で練り歩くんです。ハチ公前まで」


「そんなこと、やってるんですか。知りませんでした」


颯太はコーヒーを飲み干した。


「ふふふ……結構、好評なんですよ。それを見て、うちの大学を志望する子もあるぐらい」


「ああ、そうでしょうね。女子大生の浴衣姿なら、それだけで華やかだろうし、きっと盛り上がる。浴衣の文化も継承される」


「速水さんは、どんなお仕事されてるんですか ? 」


里奈がグラスの水を飲み、興味深げに颯太を凝視した。


「えっ ? 僕 ? 僕は安全用品の営業と納品です。取引先の工場を回って、進入路や工場内の標識とか、防塵服や防塵マスク、防塵メガネ、皮手袋とか軍手とか、安全用品がメインですけど、他にも依頼されれば作業服や工具でも鋼材でも何でも調達します」


「商社なんですね ? 」


「ええ、まあ、そうです」


「それは楽しいですか ? 」


「いや、それほど楽しいとは……」


「母とは、どういう経緯で知り合ったんですか ? 」


「美術展です。2ヶ月前のナビ派展でした」


「ああ、そういう……」


「あの……何か ? 」


「絵を描いてる人かなって。母は以前に画家志望者にマンションの一室をアトリエとして提供してあげたことがあって」


「お母さんはマンションのオーナーなんですか ? 」


「そうよ。知らなかった ? 」


「ええ。僕は、パン屋さんの経営者と聞きましたけど」


「それは前の話。父は一人息子で、祖父母が亡くなる直前に賃貸マンションを遺産として受け継いだの。運営は管理会社に委託してあったから、権利移譲で名義を変えただけだけど……その父が亡くなったから、また母の名義に変えて」


「そうだったんですか」


「何の話をしてるの ? 」


風子が戻った。


「あっ ! 僕は、てっきり風子さんがパン屋さんだと」


「ええ。そうね。それは、あたしの両親が亡くなった時に廃業してしまったの」


「ママ、お料理を出してくれていいって言っといたわよ」


「ああ、そうね。食前酒は ? 」


「もちろんよ。ワインを」




「あの、では、僕はこれで失礼します。ご馳走さまでした」


颯太が椅子を後ろへずらした。


「待って ! あなたの分も用意したのよ」


「いえ、せっかくですが……僕には高級なステーキは似合いません。風子さんがパン屋さんなら喜んでお付き合いしたかも知れません。でも、マンションのオーナーと聞いては……身分が違い過ぎます。落ち着かないんです。もっと言えば、居心地が悪い。楽しくありません。すみません。失礼します」


颯太は立ち上がって、深々と頭を下げ、眼を合わさずに踵を返した。


「待って ! 急にどうしたの ? 」


風子が颯太を追った。


店を出たところで、立ち話になった。


「一体、どうしたっていうの。理由を聞かせて」


「ですから、さっき言った通り」


「そうじゃないでしょ ? 本当の理由を聞かせて」


「風子さん。誰も悪くないんです。さっき、里奈さんから訊かれたんです」


「何を ? 」


「仕事は楽しいですかと」


「まあっ ! 余計なことを」


「いえ、彼女は素直に感じたままを訊いただけです。仕事についての話しぶりから、彼女の眼には楽しそうに見えなかったんだと思います。仕事に対しての哲学も情熱も無いからです。生活の為に仕方なく仕事をしている。その通りなんです。そんな男が何故、母親に接近したのか ? 娘にしてみれば気になるところでしょう。当然です」


「財産狙いで近づいたと娘に誤解されたことが気に障ったのね ? 」


「ええ。まあ、そういうことです。そう思われたのなら、そうではないと釈明するのも煩わしいですから」


「ごめんなさいね。あたしから誘ったのだし、娘には、そうではないと説明しておくから。若い娘は世間知らずで困ったものね。事情を分かりもせずに、職業だけで他人ひとを見下すような言動は慎みなさいと言い聞かせるわ。あたしの気まぐれで不愉快な思いをさせてしまって、ごめんなさいね。また会えるかしら ? 」


「それは……いえ、会いません。風子さんに惹かれる想いがあるのは確かです。僕は、あなたが好きです。そうでなければ、ここまで連いて来ません。ですが、このまま僕が風子さんと関われば、あなたが里奈さんとうまく行かなくなる」


「そんなこと……ありがとう。あたしのことを思っての事なのね。でも、里奈は、あなたのことを何も知らずにいるだけなのだから、あなたが小説に情熱を傾けていると知れば見方を変えるわ。ああ見えても芸術には関心が深いの」


「そうでしょうか ? 」


「娘のことは、だいじょうぶ。それよりも、あたしは、あなたのことが何故だか、とても気になるの」


「気になる ? どうしてですか?」


「それを、あたしから言わせたいの ? あなたも小説を書く身なら分かるでしょ ? 」


「いえ、分かりません。ハッキリ言って下さい」


「意地悪ね。速水颯太という青年を好きになってしまったから。これでいい ? 」


「はい、それでいいです。僕も言います。2ヶ月前に、ナビ派展で風子さんに一目惚れしてしまいました。もう一度、会いたいと思って、エルミタージュ展へ足を運びました」


「うふふ……ありがとう。さすがは小説を書くだけあるわね。本気にしてしまうじゃないの。あたしはね。芸術を志す純粋な青年を支えてあげたいの。それだけではないわ。あなたなら、きっとO・ヘンリーを超えられる。いいえ、超えなくてもいい。あなたらしい作品を書き上げればいい。あたしは、それの一役を買いたいの。将来、あなたの作品が世に出た時に、この作家を支えた女性は誰だという話になるでしょ。それは、あたしよと」


「風子さん……僕は願望を述べただけなのに、それを信じてくれるなんて、嬉しいです。でも、僕の作品を読んだことないでしょう」


「だから、この次は作品を読ませて。こんな言い方は押しつけがましいかしら ? 」


「いえ、嬉しいです。とても。そんな風に思ってくれる女性が、この世に居たのだと知って……僕の夢と願望を心から信じてくれる、そんな女性と巡り逢えたことに感動しています。今、僕は、神様は本当に居るのじゃないかって感謝したい気持ちです」


「そうよ。神様は居るのよ。あたしが応援してあげる。あなたは、素晴らしい作品を書いて、小娘の鼻を明かしてやりなさい。手を出して」


「えっ ? 」


「近いうちに、ここへ連絡して」


風子は名刺を取り出して颯太へ手渡した。


「美味しい地ビールを飲ませてくれる温泉旅館があるの。そこへ行きましょう。お風呂に入ってから飲む地ビールは最高よ。きっと、あなたを感動させるわ」


颯太は風子の瞳を見つめた。風子も視線を外さない。


「はい。喜んで。来週の土曜日なら都合がいいです」


目の前を若いカップルが手を繋いで過ぎた。


「では約束の印にキスしてちょうだい」


「えっ ? ここでですか ? 」


颯太が周囲に眼を泳がせた。


「そうよ。今すぐによ。それぐらいの情熱もなしに小説もへったくれもないでしょ。そんな事では男女の機微どころかキスシーンの一つも書けないわよ。教えてあげる。キスは、こうするの」


風子が素早く颯太の首に手をかけて顔を引き寄せた。


ドアの陰から、その様子を見ていた里奈は、口を、あんぐり開けていた。




ー了ー







第三十二回目のお題【パン】【美術展】【ガッツポーズ】

第三十三回目のお題【地図】【恐竜】【女子大】

第三十四回目のお題【風呂】【地ビール】【哲学】






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前回、前々回と私事都合で投稿出来ませんでした。


それを挽回すべく、今回は、三回分のお題(9題)を織り込んで一つの物語に仕上げました。


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キスは、こうするの ! 朝星青大 @asahosi

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