結実した現実

 ぼくは夜の草むらの中で闇を呼吸していた。昼に籠もった草いきれが今もまだ濃密に残り、ぼくをむせ返えらせる。

 右手には包丁。左手にはスマートフォン。上下ともに黒の服。顔は目出し帽で隠している。

 場所は、夜になると人通りのなくなる河原だ。犯罪の温床になるような暗闇が何処までも広がる河原。それでも駅から住宅地へと向かうには近道になるため、時折、この河原沿いの道を通って帰宅しようとする人がいる。その誰かを、ぼくは待ち伏せていた。

 河原の道の真ん中に十字架を打ち立てんがために。

 ここならば何処よりも――駐車場の片隅や繁華街の袋小路、あるいは地下街の便所などよりも目立つはずだからだ。しかも、如何にもと言った雰囲気があるせいで、ここを通る人たちは用心深く、この近辺では人死にが出るような事件は一件も起きてはいない。ただひとつの十字架は闇の中、燦然と輝き続けるだろう。

 きっと誰にも真似はできない。

 いや、真似をしても意味がない。

 誰よりも先に十字架を作成することにこそ意味があるからだ。

 ぼくがここで一番になるのだ。

 そう思って、左手に持ったスマートフォンの画面を見た。Genb@はもう常に起動したままだった。

 言い表しようのない衝撃がぼくを襲った。

 ぼくが立ててやろうと思ったその場所に十字架が浮かんでいたからだ。

 どういうことだ。これはどういうことだ。

 慌てて、ぼくは草むらから飛び出した。

 スマートフォンのレンズを十字架に向けたまま、道へと駆け出す。

 白い十字架に向かって。

 これまでに見たこともない十字架だった。

 何だ。これは何なのだ。

 ぼくは包丁をその場に放り出し、画面に映る十字架をクリックした。

 十字架が展開する。

 日付が現れた。今日の日付が。

 続くのは事件の詳細のはずだが、そこには端的に死亡原因だけが記されている。

 包丁で喉を切り裂かれて死亡と。

 下向きの三角はない。続きはないということだ。

 死体の画像も、被害者の名前もない。

 空欄だった。

 ぼくはぞっとした。

 そのことの意味がわかったからだ。

 この十字架は作成中なのだ。

 背後で音がした。

 はっとして振り返った。

 何か、熱いものがぼくの喉に触れた。

 その熱いものは触れただけではなく、ぼくの内部にまで侵入してきた。

 現実を侵蝕する拡張現実のように。

 右から左へと走り抜けた熱いものは、爆発するような痛みを連れてきた。

 ぼくは何も言えなかった。

 何も見えなかった。

 立っているのか伏しているのかもわからず、指一本動かせない。いや、動かそうという意志すら維持できない。

 それでも、脳裡に灼きついた光景を思い出すことはできた。

 それはぼくが取り落とした包丁の姿だった。

 持つ者の姿は――ない。

 ようやくにしてぼくは理解した。

 このGenb@というアプリケーションは、殺人現場を示すものではなかったのだ、と。

 このGenb@というアプリケーションは、殺人現場を作るものなのだ、と。

 誰かが、何者かが――あるいは、このアプリケーションそのものが、ある場所を殺人現場とするためのものだったのだ。

 Genb@を作成する側になるつもりだったぼくは、初めからGenb@の素材でしかなかったのだ。

 だが――これでいいのかも知れない。

 これでうんざりとした現実の檻から解放され、デジタルの海で不滅の存在へと生まれ変わることができるのだから。



          〈了〉

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侵蝕する刃 運天 @unten

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