log.17 魚雷
澄みわたった蒼い空が、船首の先に広がる水平線の彼方まで覆い尽くす。その光景に一切の障害物や島影、船影は見受けられず、『かしはら丸』は孤独に朝鮮半島南西端の海域を航行。珍島の西方、巨次群島と孟骨群島との間の孟骨水道を、南東に向かって進んでいた。
更なる乗船客を受け入れたために僚船の『いずも丸』に遅れて仁川を出航した『かしはら丸』は、定員の三倍以上に当たる数の避難民を乗せて避難先の博多港へと向かっていた。
船内はラウンジやロビーだけでなく、本来は車両などを積載する後部車両甲板内に設けた特設スペースに、船室に収容し切れない人数の乗船客が溢れかえっている。そのほとんどは在韓邦人、及び韓国内に渡航していた日本人旅行客であり、避難した邦人の身内である韓国人などの外国籍の人々も少なからず含まれていた。
船は通常よりも更に厳重な警戒態勢を保っている事で、緊張感が張り詰めた航海となっていた。各種計器や舵、レーダー、エンジンの制御パネルなどが並んだ操舵室では三國がほとんど休まず双眼鏡を片手に船橋に立ち、指示を出し続けていた。朝鮮半島の周辺海域は韓国海軍と米軍が制海権を握っているが、北朝鮮の潜水艦が潜んでいる危険性もあった。
外航の経験を持つ一等航海士も細心の注意を払い、二等航海士がレーダー画面を監視し続けるだけでなく、通常の倍の当直員が周囲の海域を見張っていた。
機関室も
「もうすぐ半島の南側に出られる。日本の領海まで辿り着けば安全だ」
「せめて米軍の艦が守ってくれれば良かったんですが」
「仕方ないさ」
この半島有事において、アメリカの立場はかなり重責の場にある。韓国軍と共に北朝鮮軍と交戦するだけでなく、韓国内の米国民の救出、更には日本側の要請を受けて日本国民の避難民受け入れまでやってくれている。アメリカも既にいっぱいいっぱいのはずだ。
「この状況下では他人に頼ってばかりもいられない。自分の力で乗り越えるしかないんだ」
元々、護衛のない危険な任務である事は覚悟の上だった。既に自分達は自力で片道を通ってきたのだ。もう片道、渡りきれば良いだけの事。
だが、この時ばかりは三國も胸騒ぎを覚えていた。
「せ、船長!!」
突然、ウイングに立っていた見張りの甲板員が慌てた様子で叫んだ。
「どうした!」
「あ、あ……」
一瞬、声が出ていなかったが、甲板員はすぐに声を振り絞った。
「――魚雷です! 方位二一〇に白い航跡!」
「何だと!?」
誰もがその言葉に反応した。三國が「どこだ!」と左舷ウイングへと駆け寄る。左舷、穏やかな波の進行方向左の海面へと双眼鏡のレンズを覗く。
「鯨かイルカの見間違いじゃないのか」
一等航海士が呟く。だが、三國は確かに見つけてしまった。
左舷斜め、前方の海面にぼやっと白い泡の筋が浮き出て、それが『かしはら丸』に向かって伸びて来る。そのスピードは急速に上がり、真っ直ぐにこちらへと突っ込んで来るのがわかった。
それが魚雷の航跡だと確信した三國は、生唾を飲み込んだ。
嘘だろ。本当に魚雷を撃ってきやがった。
まさかこの船が本当に狙われるだなんて――
「――操舵手、ハード・ア・スタポートッ!! 急げぇッッ!!」
「ハ、ハード・ア・スタポート、サー!」
舵を握る操舵手に向かって叫んだ三國は、更に無線の前に立っていた三等航海士に指示を飛ばした。
「サードオフィサー! すぐに海上保安本部に連絡! 海自にも本船の状況を伝えろ!」
次に船橋の船内電話を手に取った三國は、各室に配置されている船員向けに番号を繋げる。
「各員に次ぐ。船内の防水扉を全て閉鎖しろ。急げ!」
三國の矢継ぎ早に繰り出される指示は、船員たちへと確実に伝達された。だが、船員たちもすぐに動き出すが、緊迫した空気は更に高まる。
『かしはら丸』は契約上は海自の船と言っても、民間船舶故に護衛艦などと違ってダメージコントロールなどは考慮されていない。各室や通路の防水、防火扉の類は遠隔による油圧式もあるが、ほとんどが手動によるものだ。船内には可燃物も多い。魚雷を喰らえばひとたまりもなかった。
「16チャンネルで周囲の船舶にも救助を要請しろ!」
「船長、保安本部との連絡が取れました!」
無線を手にしていた三等航海士が告げる。海上保安庁と連絡を取り、救助を打電していた。ここはまだ韓国の領海内であるが、緊急事態だ。海保でも海自でもこればかりは助けてもらうしかない。
「巡視船を派遣するとの事ですが、当海域までには二、三時間ほどかかるそうです」
「ふざけんな! その間に沈められるわ!」
相手が潜水艦なら、巡視船が来た所でどうしようもないだろうが、海保でも海自でもこの状況を脱する救いの手が欲しかった。
グラリと船が傾く。手を計器に付き、傾く船体に三國は身を堪える。回避行動に移る『かしはら丸』の船体が、白波を切りながら右へと傾き速度を上げる。
「早く回れ、回れ!」
一等航海士が急かすように叫び、操舵手が必死に操舵装置を握り右に切る。その間、三國は魚雷を見張る甲板員に問いかけた。
「魚雷はどうなってる!」
「依然、本船へと接近中! 本船との距離、一マイルを切りました!」
「落ち着け、まだ間に合う! 確実に避けるんだ!」
この船は見かけによらず俊足だ。三倍の乗客を乗せようが、世にも珍しい12気筒のエンジンは伊達じゃない。本気を出せばこの船はどんな船よりも速く、そして上手く操船すれば絶対にかわせる。やってやる。三國は自らに言い聞かせた。
「魚雷、接近します!」
「近い、近い!」
見張り員たちの悲鳴に近い声が続く。
「かわせぇッ!!」
まるで白い墨を海面に塗るように、その航跡がシューッと波間を一直線になぞるように、舷側を海面に触れんばかりに傾く『かしはら丸』の左舷側に近付く。
船橋にいる誰もが来る衝撃に備える中、魚雷はスレスレで『かしはら丸』の左舷側から船尾の方へと通り過ぎっていった。
通り過ぎてゆく魚雷の航跡を、呆然と見送る暇はなかった。
「全速で本海域を抜ける! 総員、海をよく見ていろ! 次も必ず来る、絶対に見逃すな!!」
これ程、三國は周りに広がる海面が恐ろしいと思った事はなかった。
日本海や黄海などの朝鮮半島の周辺海域は、開戦当初どころか平時より米韓海軍艦艇が行き交い、有事が勃発するや否や北朝鮮領域を叩く米空母の独壇場と化していたが、なにも北朝鮮海軍の存在が完全に消え去ったわけではなかった。
元より、北朝鮮という国は潜水艦大国であった。実は仇敵である米国を僅差で凌ぐ程の保有数を誇り、軍事境界線を隔てて対立する韓国と比較すればその差は歴然だった。韓国の十四隻に対して、北朝鮮は八十隻近い数の潜水艦艇を保有していたのである。
一方で、そのほとんどが他の人民軍が保有する装備・兵器に見られる特徴と同様、旧式化が著しい面がある。性能から見れば、米国や数で圧倒的に差が開いている韓国の潜水艦などとは戦力面で比較にはならない。
実際、ほとんどの北朝鮮の旧式潜水艦は、半永久的に活動できる米国の原子力潜水艦と違い、一日に一回ずつ水面に浮上してバッテリー充電を行うシュノーケリングをしなければならなく、この過程で対潜水哨戒機などに発見され易い危険が孕んでいた。当然、この有事においても、既に多くの北朝鮮潜水艦が海の藻屑となっていた。
だが、その中でも僅かに存在する『生き残り』が、制海権を有しているはずの米韓連合の脅威なのも違いなかった。いくら性能が劣るとは言え、潜水艦は潜水艦。前世紀からその恐ろしさは変わらない。水中に潜ってしまえば探すのは困難であるし、海中から突然襲い掛かってくる存在は敵にとっては恐怖の対象だ。
そして特に、武器も何も、潜水艦への備えが皆無のこの船にとっては、十分過ぎる程に脅威以外の何物でもなかった――
『かしはら丸』は、確実に敵の標的になっていた。
周囲に軍艦の護衛もない丸裸の『かしはら丸』は、潜水艦にとっては格好の獲物に違いなかった。
三國は、数分前に見た光景が未だに信じられなくなりそうだった。だが、それは確かに現実として三國の目の前で起こった。海面から浮き出た白い航跡が、真っ直ぐに自分達の方へと向かっていたのを。
向こうは旧式なのか、撃たれた魚雷は避ければそのまま走り去っていった。よく聞く「避けても追いかけてくる」という今時の魚雷ではなく、半世紀以上前の戦争時代の魚雷と変わらないのが幸いと言うべきか。だが、それでも脅威である事に変わりはない。
こっちはソナーも何もない。相手がどこにいるのか、当然のようにわからない。とにかく周囲を肉眼で監視し、その存在を見つけるしか術がなかった。
「目ん玉ひんむいてよぉく見てろ! 一発でも当たればおしまいだぞ!!」
一等航海士が檄を飛ばす。船員たちは必死になって、目玉が飛び出るぐらいに海を見回した。どこを見てもいつもと変わらないように見える海面。だが、その下から確かにこちらを見、狙っている者がいるのだ。
北朝鮮の潜水艦、その想像がなかったわけではなかった。かつて、海の軍事境界線である北方限界線で、韓国海軍の哨戒艦が轟沈した事件があった。あれも北朝鮮の潜水艦による魚雷攻撃説があった。
真相は定かではないが、北朝鮮潜水艦の脅威は確かに存在した。もしその事件も潜水艦の仕業なら、海上の船にとって、潜水艦という存在はやはり恐怖の対象だった。
しかしもしこれが夜間だったら、確実に沈められていた。よく晴れた日の下、船員が発見したのも幸運、初撃で回避できたのは正に『運』という他はなかった。
「こんな船でも、敵は襲ってくる」
戦場に、標的の基準など知れるはずもない。敵が仕留めるに値すると認めれば、それは標的である。それ以上でも以下でもない。道義的、人道的観点など、戦争には無意味だ。そんなものは遥か昔から今も変わらない。敵と敵。それしかない。
だが、大人しくやられるわけにもいかない。この船には二千人の避難民が乗り込んでいる。この船が撃沈されれば、大勢の犠牲者が出る。
遠い昔、この海で多くの悲劇があった。その悲劇を繰り返すわけにはいかない。
再び魚雷が見えたのは、その十分後だった。
ノアズアーク 伊東椋 @Ryoito
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ノアズアークの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます