log.16 銃声


 仁川港で日本の避難民を乗せていたフェリー二隻に、韓国軍からの通達が届いた。

 それは、日本側に危機感を更に募らせる内容だった。

 「出航要請だと?」

 一等航海士が驚いた様子で聞き返す。『かしはら丸』には韓国軍から、本船側の予定に関わらず「直ぐに仁川港から出航すべし」という内容の命令が届いていた。


 「首都圏への本格的な北朝鮮軍の侵攻に対処するため、仁川港を始めとする韓国内の全ての港や空港は只今より韓国軍が優先的に使用する」


 開戦の直前、北朝鮮の軍事行動の予兆があった時点から、韓国内における全ての空港や港は韓国軍が反撃基地として優先使用する事にはなっていたが、諸外国民の避難を円滑に進められるように、出来る限りの韓国側の協力が為されていた。しかし首都が敵の侵攻に晒されると言う、事態が緊迫化した現在、韓国側も遂に決断せざるを得なかったらしい。

 「しかし、まだ全ての避難民を乗せていないぞ」

 『かしはら丸』は未だ、避難民の受け入れが完了していなかった。しかし韓国軍からは直ぐに出航しろという通達だ。

 「韓国側の要請を受け、既に他の船も順次出航しています。順番に行けば、我々もあと一時間後には出航せねばなりません」

 「………………」

 「船長……」

 「……チョッサー、乗船はどの程度まで進んでいますか?」

 思考を巡らせながら、三國は訊ねた。一等航海士が直ぐに現在の状況を伝える。

 「予定の八割は乗船済みですが、あと一時間となると間に合うかどうか……」

 「とにかく急がせましょう。何としてでも、全ての避難民を乗せるんだ」

 韓国側の要請に応えないわけにはいかない。それだけ事態は切迫していると言う事だ。三國は全ての避難民の乗船を急がせた。



 ソウルから仁川へは車で一時間ほどで着くのだが、この時ばかりは誰も順調に行けた者はいなかった。

 ソウル市内で助けられた木村家も、仁川港に辿り着いた時、自分の目が信じられなかった。

 港に溢れかえるように集まった大勢の人々。だが、岸壁に着いている船は既にほとんどがその姿を消していた。誰もかれもが、行くあてもないまま、暗い表情で海を眺めているようにも見えた。

 「そんな……」

 間に合わなかった。妻はその顔を歪め、傍にいた長男も親を通じて状況を察し、不安の色を濃くさせる。木村ですら二人を慰める事もできず、諦めてしまいそうになっていた。

 「木村さん! あそこ!」

 だが、ここまで木村たちを車で送ってくれた韓国人の彼が声を掛けた。目を向けると、まだ船が残っていた。

 その船尾に日の丸が掲げられているのを見て、それが日本の船だとわかった。

 汽笛が鳴った。

 船が出航するのだ。

 木村たちは急いだ。だが、船は無情にも木村たちの目の前で、岸壁から離れてしまった。

 「ま、待ってくれ!」

 しかし、船は離れていく。せっかくここまで来たのに……。木村たちが絶望の淵に落ちていく中、一緒にいた韓国人の彼が何かに気付いた。

 「木村さん!」

 それはまた別の岸壁だった。そこには今、出航した船とほとんど変わりない船がいた。

 その船にも日本の国旗がはためいている。

 「まだ間に合います! さぁ、行きましょう!」

 彼に励まされ、木村たちは再び走り出す。

 その船はまだ出航していなかった。

 「おおい、待ってくれ!!」

 船員たちが乗船口へと通じるラッタルを片付けようとしていた所だった。駆け寄ってきた木村たちを、船員たちが驚いた表情で迎える。

 「わ、我々は日本人だ! 乗せていってくれ!」

 やって来た木村たちを、船員たちはすぐに誘導した。

 「乗って!」

 その瞬間、木村たちの表情にようやく光が点る。妻が長男の手を引いて、ラッタルへと足を着ける。木村も続こうとしたが、直前になって後ろへと振り返った。

 「……本当に、何とお礼を申せば良いのか」

 木村は目の前にいる韓国人の彼に感謝する。彼がいなければ、自分達はここまで辿り着けなかっただろう。

 「礼など要りません。言ったでしょう、困った時はお互い様です」

 「……貴方は、これから」

 「ご心配なく。僕の家族はまだ戦火が及んでいない、安全な地域に住んでいます。僕もそこへ逃げるつもりです」

 だが、韓国内に砲弾やミサイルが降り注いでいる今、いつどこに戦火が飛んでくるかわからない。彼はやはり笑顔で言った。

 「無事に日本へ帰れる事を祈っています。お元気で」

 「本当にありがとう……」

 木村が握手を求め、手を差し伸べる。二人の手が、固く交わされた。

 名残惜しそうに互いの手が離れる。木村が最後の言葉を告げようとしたその時だった。

 突然、彼が木村の目の前から消えた。慌てて視線を向けた先には、上半身から血を流した彼が倒れていた。

 「パ、パクさん……!?」

 倒れた彼を呼ぶ木村を、船員の声が掻き消した。

 「狙撃だ!」

 木村はそこで、ようやく気付いた。今まで夢中になっていて気付かなかったが、船員たちの背中には銃のようなものがあった。

 船員たちは銃を手にすると、呆然とする木村をラッタルへと押し上げた。

 「パクさん! パクさん!!」

 動かない彼を、木村は必死に呼びかける。一人の船員が、倒れた彼を背負った。

 「急いで! 早く乗って!!」

 船員に急かされ、木村はラッタルを昇る。それでもずっと「パクさん!」と、彼の名を叫ぶ。船員が背負った彼と共に、木村は船内へと入った。

 木村たちが船内に入った後には、船員たちが銃を手にして乗船口の前に固まった。船員たちが構えているのは、自衛隊の八九式自動小銃だった。

 警備、自衛用のために博多で積んだ海自警備科の装備品だった。予備自衛官の訓練で扱いを覚えていた船員たちは、八九式を手に、周囲を警戒しながら船に乗り込んだ。


 そして、港中に、銃声が鳴り響いた。


 なんとか予定していた全ての避難民を乗せた『かしはら丸』は、先に出航した『いずも丸』の後に続くように仁川港の岸壁から離岸する準備を始める。

 だが、出航を告げる『かしはら丸』の汽笛が鳴る前に、銃声が港中に鳴り響いた。

 三國は船橋から地上を見下ろした時、自分の目が信じられなかった。武装した男たちが、避難民に向けて銃を乱射していた。

 更に港の端にあったコンテナが次々と爆発し、辺り一帯がオレンジ色の炎に染まった。三國はすぐに号令をかけた。

 「出航だ! エンジンルーム、主機を始動させろ!!」

 即座に機関室に指示を出し、エンジンを始動させる。『かしはら丸』の主機が唸りを上げて動き出し、船体が震え上がる。船員たちと陸上の作業員が急いで舫いを放し、船と岸壁の接点を断った。作業員は舫いを離すや、すぐに銃声から逃げるように駆け出した。

 銃声は響き、悲鳴が絶えない中、『かしはら丸』は出航する。

 その傍らで――仁川港が、地獄へと変わる。

 おそらく北朝鮮の工作員が避難民の中に紛れていたのだろう。しかもその数は膨大だった。あちこちで銃声や爆音が鳴り響き、避難民の悲鳴が上がる。爆発したコンテナが積まれていた辺りは火の海となり、その近くにいた人々が吹き飛ばされ、ごろごろと転がっていた。

 「――こちらトモ! ブリッジ、応答してください!」

 トランシーバーから、船尾の配置に居た船員からの緊迫した声が聞こえた。

 「こちらブリッジ。どうした!」

 次に聞こえた言葉に、三國たちは耳を疑った。

 「――岸壁から銃撃を受けました! 現在も、撃たれて……うわぁっ!!」

 「!?」

 今、何て言った……?

 二等航海士が持っていたトランシーバーを、三國が奪い取った。

 「トモ、応答しろ! 何が起こっている!」

 「………………」

 声を掛け、三國は耳を澄ませる。

 だが、トランシーバーから返事はなかった。

 「――くそ!」

 「船長!? 駄目です、危険です!」

 一等航海士の呼び止める声を背中に、三國は船橋のウイングへと出て、体を乗り出した。

 避難民がいた岸壁には、数人の武装集団が『かしはら丸』に向かって発砲している姿が確認できた。手に持っていたトランシーバーからようやく船員の声が聞こえて来た。

 「……こちらトモ、ブリッジ聞こえますか」

 「大丈夫か!? 撃たれた奴はいるのか?」

 「なんとか大丈夫です……。一応、応戦しようかとも考えたのですが……」

 「馬鹿、すぐにそこから船内に避難しろ! 逃げられるのなら無理に戦わなくて良い!」

 「わかりました……」

 自衛用の八九式を持ち込んでいるとは言え、戦闘を回避するに越した事はない。もしあと少し出航が遅かったら……もしかしたら自分達は銃撃戦をしていたのかもしれない。そう考えると寒気がした。

 戦場と化す仁川港から逃げるように、『かしはら丸』は出航する。まだ多くの避難民、その中には当然日本人もいる。そして邦人避難を主導してくれた大使館職員もいるはずだ。彼らの無事を、三國は祈るしかなかった。

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