log.15 入港


 日本を経って一日、ようやく辿り着いた仁川は船員たちの想像を遥かに越える光景が広がっていた。

 入港作業のために船首などの外に出ていた船員たちは、近付く陸地を見て呆気にとられた。遠方、ソウルの方向から昇る多数の黒煙、黒ずんだ空の下、港の岸壁には膨大な数の避難民が大河のように地上を埋め尽くしていた。

 巨大な客船から小さいフェリーまで、多くの人が絶え間なく列を作って乗船している。『かしはら丸』と『いずも丸』も、タグボートに補助されながら岸壁に着岸した。

 早速、二隻は避難民の受け入れを開始した。既に現地の大使館職員や関係者が二隻への日本人乗船の手続きを行っていた。

 「よく来てくれました。本当にありがとうございます」

 三國は来船した大使館職員を出迎えるや、彼の顔を見て瞬時に今の状況を察した。ここに至るまでの彼らの苦労は、おそらく三國が想像する以上のものだろう。受け取った膨大な乗船名簿も見てわかるように、彼らの献身ぶりが肌身を通じて感じられる。

 「いえ、これも我々の仕事です」

 「本当に、助かります。これで大勢の人々が救われます。本当に、本当に良かった……」

 心の底から喜ぶ彼の表情。だが、安堵はしていない。当然だった。これで全ての日本人が避難できるわけではない。彼らの仕事もまだまだ終わらないのだ。

 「こちらこそ感謝します。後は我々に任せてください」

 「頼みます。本当に、頼みます……」

 深々と頭を下げる職員たちに、三國も相応の礼を以て応える。自然と、乗船名簿を持った手元に力がこもった。



 『かしはら丸』『いずも丸』の二隻には、それぞれ二千三百名の避難民が乗船する運びとなった。二隻がフェリーとして乗船できる人数は最大でも七百人ほどだが、出航前に、本来は大型車両などが積載されるスペースにも人を乗せる区画を特別に備え、通常の倍以上の人数を乗せられるようになっていた。

 「足元に気を付けて、落ち着いて乗船してください」

 船員たちが乗船する人々を慎重に誘導する。乗船する人々はもちろん日本人だが、人々は皆、パニックに陥る事なく冷静に行動に移していた。

 ここに来たばかりの船員たちが知る由もない戦火を、肌で感じてきただろう人々。だが、彼らの顔に不安の色は濃く残るも、決して狼狽える事はなかった。

 先の災害に際しても目撃されたが、こういう時の日本人の高い自制心と連帯は、しっかりと機能している事実を改めて知らされる。

 万が一に備え、救援物資と共に持ち込んだ『お守り』は、このまま行けば使う必要もないかもしれない……。

 実は、『かしはら丸』には違う荷物も積まれていた。

 それは海自から贈られたもの。

 忘れてはいけないが、ここは戦場だ。自分達を、そして人々を守るものが必要だ――

 一応それを装備した船員が待機しているが、避難民を不安がらせないために表には見せていない。

 それを最後まで隠し通せれば一番なのだが――

 そう思った時だった。粛々と進んでいた流れに、小石が投じられた。

 「困ります!」

 「――!」

 その声に、三國はすぐに視線を向けた。避難民の多くの注目も集めたそこには、船員たちが揉めている光景があった。

 「なんだ、どうした?」

 「すみません、チョッサー。ここを任せてもらっても良いですか」

 「わかりました。気を付けて」

 一等航海士にその場を任せ、三國は一悶着起こっている現場へと急いだ。

 「どうした」

 三國が駆け寄ると、船員たちの困惑した顔が振り返った。

 「それが……」

 船員たちが言い淀むように言葉を返す傍ら、三國は目の前に佇む二人の人間を見据えた。三國が怪訝に思っていると、騒ぎを聞きつけた大使館の職員がやって来た。

 「どうしました?」

 やって来た職員は、三國の返事を聞く前に目の前にいた二人を見て驚きの反応を示していた。三國がすぐさま「知っている方ですか?」と尋ねる。

 「……こちらの方は、現ソウル市長です」

 「市長?」

 三國は再度、男の顔を見る。健康そうな丸々とした顔に、焦りを表すように滲ませた汗。対して、隣にいる若い男は正に冷静さを表したように対極的だった。

 「貴方が、船長ですか?」

 若い男が英語で話し始めたのを、職員が通訳して三國に伝える。

 「そうですが」

 「我々はソウル市議会の者です。こちらは市長のイ・ヨンス氏。私は秘書で通訳も務めさせて頂いているチョンと言います」

 三國はその男を前にして、嫌な感覚を覚えた。ざわざわと、虫が這うような寒気が襲う。

 「……実は、我々はお願いがあってこちらに伺いました」

 「何でしょうか」

 目の前にいる秘書が冷静すぎて、隣にいる市長の落ち着かない様子がますます際立つ。まさか、と。三國は思った。

 「貴船に、こちらに避難した市民を同乗させてほしい」

 職員や船員たちが明らかな驚きの色を浮かべる。だが、その中において三國は一人表情を変えなかった。

 やはり、か。

 秘書が本題を伝えたと諭したのか、市長が捲し立てるように何かを言い始めた。

 韓国語だったが、これも秘書が通訳してきた。

 「十人、いや、五人でも良い。どうか日本人と一緒に、韓国人も貴方の船に乗せくれないだろうか」

 「………………」

 周囲から、動揺と、困惑、そして注目が三國に集中する。このような状況が訪れる事は、予想していなかったわけではなかった。

 自分達は韓国にいる日本人を救いに来た。だが、この国で救いを求めているのはもちろん日本人だけではない。他の国、そして当事者である韓国の人々も同様だ。

 日本人だけを乗せて穏便に帰れるとは思っていなかった。このような悶着は可能性の一つとして考えてはいた。

 市長の懇願も理解できないわけではない。ここにいる大使館の職員たちが奔走したように、目の前にいる彼らも、市民を戦火から救おうとするのは当然の責務だ。

 しかしこれは難しい判断だった。人数には限りがある。それに、ただでさえこの一回で全ての日本人を日本に連れ帰れるわけではない。

 三國が熟考し、大使館の職員とも確認しようとした時――市長の次の発言が、三國の意識を留めた。

 「一家族だけで良い! 私と、私の家族を乗せてくれ!」

 そのような主旨の言葉が、三國たちに伝えられた時。

 誰もが一瞬、何を言っているのか理解できなかった。

 「……今、何と仰いました?」

 「五人だけ、五人だけなら大した数ではないだろう。私を入れて五人家族、貴方の船に乗せて日本に連れていってくれ。金はいくらでも払う!」

 それは――完全なる見事な私情だった。彼が言っているのは、市民ではない、自身と身内の保全、その要求だった。目の前にいる民意の象徴は、市民を置いて自分だけ逃げる術を求めているのだ。

 暫く、三國たちは何も言えなかった。良い返事が期待できないと悟った市長が、必死にしがみつくように三國へ懇願する。そしてその手元におぞましい封筒が渡されそうになった時、三國はようやく行動に移した。

 「それは受け取れません」

 三國の断固とした拒絶に、市長の顔が青ざめていく。

 しかし尚も食い下がろうとしない市長に、三國は冷静にその状況を見守る秘書に一瞥し、告げる。

 「貴方を含む韓国の方々に深く同情しますが、私の独断で貴方方だけを船に乗せる事はできません。どうかお引き取りください」

 そのはっきりとした拒絶に、市長もようやく諦めたのかすごすごと帰っていった。彼らが去る間際、秘書が避難民の列をジッと見詰めていた光景に変な違和感を覚えたが、大使館の職員に肩を叩かれ意識を戻された。

 「……ご苦労様です。申し訳なかった、船長」

 「何故貴方が謝るんです」

 「今回の事態は我々が韓国側、ソウル側とのコミュニケーションが不十分だった結果です。本当に申し訳ない」

 「貴方達に落ち度はありませんよ。絶対に」

 二人が言葉を交わしている傍らで、別の職員が愚痴るように呟いたのを三國は聞き逃さなかった。

 「……さんざん対日関係をこじらせておいて、よくあんな事を言えたもんだな」

 「おい、言葉を慎め」

 すぐにそれは戒められたが、彼の言う事もわからないわけではなかった。特にあの市長は主に慰安婦関連の動きで日韓関係の軋みに拍車をかけた人物として政治の間でも知られていた。当初はそれ程でもなかったらしいが、何をきっかけにあそこまで国際関係も考慮しない行動を取るようになったのかは周知の謎だったが。

 「あの、私から一つ提案があるのですが」

 「何ですか?」

 「実は、韓国人の同乗も許可したいと考えています」

 「えっ!?」

 周囲から驚きの声が上がる。

 「と言っても、避難する日本人の家族に限ります。国を問わず多くの人を救えればそれに越した事はありませんが、現実的にそれはかなり難しいです。ですので、せめてその家族だけでもと……今の事があって、そう思ったんです」

 「……そうですか」

 今度は三國が驚く番だった。想像よりも、反論が上がらなかったからだ。

 「この船は貴方の船です。船長の判断を尊重します」

 「ありがとうございます」

 こうして一悶着あったものの、避難は円滑に進められた。多くの人々が、安全な日本へ避難するために、二隻の船へと乗り込んでいった。



 車窓から避難する人々が見渡せる。その光景は真に憂うべきものだ。だが、それに目もくれない者がいた。

 「くそ、これから私はどうしたら良いんだ……!」

 日本人に追い返された彼は、車の中で頭を抱えていた。だが、車は発車していない。ここからどこへ向かえば良いと言うのか。

 「やはり無理でしたね。用意していたウォン紙幣の束も無駄になってしまいました」

 「お前がもっと、ちゃんと説得していれば!」

 運転席にいた秘書は密かに、後部座席で未だ喚き続ける彼を憐れんだ。人とはここまで愚かになれるらしい。

 市民を置いて逃げる事も厭わない市長。こんな人物を選んだ市民も底が知れるというものだった。

 「先程から携帯に着信が溢れる一方ですよ。そろそろ戻られた方が良いかもしれませんね。もし市長が市民を置いて逃げ出そうとしていたなんて知られれば、北朝鮮軍より先にソウル市民に嬲り殺しにされるかもしれませんよ」

 「ふ、不吉な事を言うな! お前、誰に向かってそんな口を――」

 ――まぁ、これも確かな自分の成果だと、彼は改めて考える。

 平壌から対南工作員として派遣され、人民軍の最大攻撃目標であるソウルの市議会に潜入を果たし、ここまでの功績を挙げる事ができたのは彼だけだった。他の工作員よりも卓越した高い彼の能力は、民衆の意識と、議会の方向にまで影響を与えた。市長の行動は全て、彼の思惑通りだった。

 「(これでソウル市民のほとんどは半島の外へ逃げ出せず、全ての人民が我らの共和国の傘下となる。……まぁ、解放が本当に成し遂げられたらの話だが)」

 米日韓三国協調の妨害など、様々な目的は孕んでいたが、自身の行動はその結果として見合う働きをしていたと自負している。

 着信。だが、今度は議会などではない。

 「……失礼」

 彼は無様な人形を車内に残すと、携帯を耳にかざしながら喧騒漂う車外へと出た。

 他の工作員からの定時連絡だった。

 「やあ、私だが」

 一つ一つ、盗聴に備え、他愛のない日常会話に聞こえるような――しかし実態は暗号で溢れかえった機密通話が交わされる。

 「……わかった。君も十分に気を付けて」

 携帯の通話を終え、彼は再びある方へと意識を向ける。長蛇の列を作った避難民が、日本の船に乗り込んでいく光景。

 「……憐れな泥舟、か」

 船尾にはためく日の丸に、彼の慈悲のない視線が刺さっていた。

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