log.14 希望
日本の領海を出る二隻の民間輸送船を唯一見送った護衛艦『たかなみ』だったが、この時点において、二隻を半島に送り出した海上自衛隊は既に手一杯の状況だった。
朝鮮半島で有事が発生した事で、本格的に日本の安全保障に対する北朝鮮の脅威が現実と化した事で、日本周辺における警戒、監視、ミサイル防衛、米軍に対する後方支援等のため、国内の海上自衛隊は忙しなく働いていた。
二隻を護衛した『たかなみ』も、本来の任務があるはずだった。
だが、『たかなみ』側は無理をしてでも二隻の護衛を実施した。この行動の源は艦長始め、『たかなみ』の乗組員たちの想いに他ならなかった。
『たかなみ』は領海を出る二隻を見届けると、自分達の往くべき任務へと帰っていった。
そして様々な者の想いを背負った二隻の存在は、戦火の只中にある韓国へと届いていた――
ソウル 日本大使館
既に日が落ち、夜も更け込み始めたと言うのにソウル市内は昼と変わらず騒々しかった。逃げる人々、そして時折降り注ぐ砲弾が爆発し、赤い炎が街を照らす。
大使館前に集まった日本人の数も増える一方だ。助けを求める人々が投げ入れた石や割れた窓ガラスの破片が室内に散乱している。その中で、日本大使は本国から待ち望んでいた連絡を聞いていた。
「それは本当ですか」
大使のこれまでにない声色に、職員たちが注目する。大使の電話が終わるのをじっと待ち続け、その受話器が置かれた瞬間、わっと職員たちが大使の周囲に集まった。
「大使、政府はなんと?」
「日本から、仁川に二隻のフェリーが来るそうだ。その船に避難してきた日本人を乗せる」
職員たちの表情に光が点った。だが、すぐに懸念の色に変わる。
「二隻だけ、ですか」
「二隻でもどちらも一万トン級で、かなりの人数を乗せれるそうだ。一人でも多くの日本人を救えるなら、この二隻が来てくれるだけでも有難い」
大使の言う通り、これまでの状況からすれば遥かに改善されたと言えた。自衛隊の派遣が叶わない今、一隻でも多く、日本人を乗せる船が増えるのは歓迎されるべき事だ。
「フェリーという事は、民間の船ですよね? よく来てくれる船がありましたね」
一人の職員が言った。実は、この有事における在韓邦人の避難方法の一つである民間の海上輸送に関しては、大使館側の苦悩に拍車をかける要因の一部となっていた所以だった。
日本政府は自衛隊が派遣できない代わりに、民間の航空会社やフェリー会社向けに、邦人避難の協力・要請を各会社に通達していた。ほとんどの航空会社が政府の要請を受け入れ、現在も臨時便などを出して邦人の輸送を行っているが、それに比較して海上の方は反応が限りなく良くなかった。
主要なフェリー会社など、乗組員の船員のほとんどが所属する船員組合から、韓国からの邦人避難に関して難色を示されたからだった。
船員組合側は、北朝鮮の攻撃に晒されている韓国が「船員の安全が確保されていない」などの理由から、フェリーなどの韓国派遣を躊躇した。唯一、要請を受け入れる事ができたのは、戦場から最も遠く離れている釜山からの輸送による高速フェリー(博多~釜山間の航路を受け持つフェリー会社)だけだった。
現地の状況によって乗組員の危険が懸念される理由から救援を実施できなかったのは、日本人が戦火に取り残される所だったイラン・イラク戦争でも当時の民間の航空会社が同じだった。
「仁川に着くフェリーの乗組員は予備自衛官だそうだ。組合にも所属していないから、今回の派遣が可能だったらしい」
非組合員の船員が操船するなら、組合側の許可もいらない。災害においては民間フェリーや船員組合の協力が大きな貢献を果たしているが、このような有事の場合に至っては、特別目的会社の設置と船員の予備自衛官という仕組みは正解だったと言えるだろう。
「それに……彼らも予備自衛官とは言え、訓練を受けた本物の自衛官だ。日本はまだ韓国にいる日本人を見捨ててはいないと言う事さ」
「……はい」
大使や職員たちが確実に理解した事がある。これは、確かな希望だと。
「直ぐに各家庭や学校などの日本人向けに連絡を。仁川港を避難先として通達するんだ!」
ソウル駐在員として日本企業から現地法人に出向している木村は、二村駅より程近いマンションの上階に住む日本人会社員だった。釜山にも五年ほど住んでいた事があり、ソウルには二年前から家族と共に赴任したばかりだった。
まだ日も昇る前の早朝、地鳴りのような音と衝撃から目を覚ました木村は、寝室から飛び起きて漢江を覗ける窓際へと向かい、カーテンを開けて驚いた。少なくとも十ヶ所以上の場所から炎が上がるソウルの夜景が目の前に広がっていた。
すぐに起きてきた妻と長男を連れ、自宅のマンションを出た。自宅を出てすぐに同じく避難する人々の群れに巻き込まれた。
破壊された幾つもの橋の中で、幸運にも生き残っていた橋を渡り、漢江を渡ってソウルの南側まで逃げてきた。だが、道路は車が渋滞し、その間を徒歩で避難する人々がひしめき合い、怒号や悲鳴が飛び交っている。
木村は長男を庇うように歩く妻を自分の内側に歩かせ、何とか挟み込んでくる人々の中から二人を守っていた。既にこれを半日以上続けており、体力も限界に近付いていた。
「怖いよぉ、お母さん」
「大丈夫、大丈夫だから」
小学生に上がったばかりで、日本人学校に通っている長男も自宅を出てから怯え続けている。妻も、明らかに自分も怖いはずなのに子供の前ではそれを必死に隠し通しているのがわかる。
「きゃあ!」
どこからか大きな怒号が上がり、妻が長男を庇う。木村が視線を向けてみると、渋滞した車の一台を避難民の男が怒鳴りながら叩いていた。
どうやら通行の邪魔だと言っているようで、男の方は車体を乱暴に叩きながら喚いていた。車内の人間は男を恐れているのか、怒って出てくる事はない。賢明な判断だ。恐らく下手に出てくれば、殺されてもおかしくない。
「大丈夫よ。大丈夫……」
その声は、自分に言い聞かせているように聞こえた。
「イルボン……?」
「イルボン……」
木村はハッとなった。気が付くと、周囲の数人が、木村たちの方を見ていた。妻の日本語に反応したのか、怪訝な視線を向けている。
あまり日本語を話すな、と小声で妻に言い聞かせる。この状況で自分達が日本人だと知られるのはあまり勧められる状況ではない。この混乱に乗じて、非常識な行動に出る輩が現れても不思議ではない。
木村は思い出す。北朝鮮が挑発行為を繰り返し情勢が緊迫化していた頃、同じ社員の韓国人に、「もしも北朝鮮が攻めてきたらどうする?」と尋ねた事があった。
だが、韓国は同盟国の日米よりも、北の脅威というものに疎かった。北との対話路線を採用した親北の新大統領が就任し、北朝鮮がいくら挑発しても、当時の韓国政府は強硬姿勢すら取らなかった。ミサイルを撃たれても、食糧支援の話を持ち上げる程、韓国は北朝鮮を恐れていなかった。
北よりも日本との関係の方が危うい、と言うような主旨の発言をした韓国人部下もいた。主に歴史問題で、日韓関係の溝は深まっていた。前政権との間で交わした合意を事実上破棄するような慰安婦関連の件では、その軋みを更に助長させた。
そしてそんな韓国内の空気に、自分自身まで毒されていた事を木村は否定できなかった。実際、このような状況に至るまで、自分は何も準備してこなかったのだから。
「ねえ、貴方。私達どこに行けば良いの……?」
妻がひっそりと尋ねる。最初は日本人学校が指定した避難先の施設へと向かおうと思ったが、橋が破壊されていたために断念した。それに、このいつどこにミサイルが降ってくるかわからない状況で、地上の避難所が絶対に安全とは考えられなかった。
「とりあえず空港に向かおう」
そう妻に返した瞬間、大きな爆発が響き渡った。視界の橋で、炎が上がる。人が吹き飛び、建物が砕け散っていた。
だが、それだけに留まらない。
どこからか叫び声が聞こえた。木村はその韓国語が「砲弾」という意味を示している事を知っていた。
「伏せろ!」
二人の妻と子を庇い、木村も伏せる。周囲の人々が同じ姿勢を取る中、二発目の砲弾が大きな音と共に落ちてきた。砲弾は近くの道路に落ち、十台近い車が炎上し、人が吹き飛んだ。
悲鳴。火だるまになった人を、周囲の人が必死に衣服などで叩いて消そうとしている。
地獄だった。木村は自分の下で震える妻と長男を、砲弾から守ると同時にその光景を見せまいと、必死に庇い続けた。
開戦当初から比べ、砲撃などの間隔はかなり遠くなったものの、北から飛んでくる砲弾は絶えない。実はこの時点で米軍が既に主要なミサイルの発射場などの軍事施設を爆撃していたのだが、まだ全てのミサイル、野戦砲は駆逐できていないようだった。おそらく移動式のミサイル発射台や野戦砲などが、隠れては撃ち、隠れては撃ちを繰り返しているのだろう。
この久方ぶりの砲撃で、民衆はパニックに陥った。濁流のように逃げ惑う人々。その中を、木村も必死になって二人を守ろうとする。
「あっ!」
だが、長男が他人のカバンか何かの端に引っかかったのか、妻の内から引き離されてしまった。その一瞬の間に、長男は倒れてしまう。人々の濁流に流され、離されてしまった木村はすかさず手を伸ばすが、届かない。
「――!」
逃げ惑う人々の一端が、倒れた長男に迫る。
あのまま踏み潰されれば――
妻が長男の名を叫ぶ。木村が濁流に揉まれ、手を伸ばそうとした先、倒れていた長男がどこからともなく現れた長い手に掬われた。
若い男が、長男を抱きかかえている光景が木村の目に入った。若い男は人の濁流の中から近付く木村たちを見つけると、長男を大事に抱きかかえたまま来てくれた。
「コマッスムニダ、カムサハムニダ(ありがとう、感謝します)」
「いえ。貴方達は日本人ですか?」
木村は驚いた。彼は木村たちを一瞬で日本人と見抜き、流暢な日本語で訊ねてきたのだ。
「は、はい。そうですが……、随分と、日本語がお上手ですね」
木村の疑問に、彼は親切に答えてくれた。彼は自分が現役のプロのサッカー選手で、Jリーグのチームにも所属していた事があると話した。日本語はその時に覚えたと言う。
「息子を助けて頂き、ありがとうございます」
「当然の事をしたまでです」
彼は本当に上手な日本語でそう言った。長い腕、屈強な体つき、木村は知らなかったが彼はU-23韓国代表のゴールキーパーだった。
「向こうに僕の車があります。一緒に乗っていってください」
「しかし、どこへ向かえば……」
木村が躊躇する。だが、彼は驚くべき事を言いだした。
「仁川港に避難する日本人を乗せるために、日本の船が来ると聞きました」
初耳だった。それもその筈。この混乱の中、日本から二隻のフェリーが来るなど全てのソウルにいる日本人にまだ届いていなかったのだから。
だが、大使館は全員の日本人に情報が行き渡るように、メディアや人伝などあらゆる方法を駆使して仁川への避難を呼びかけた。現地の韓国人が知り、知人の日本人に伝えるという例も各所で見られていた。
「仁川まで僕が連れて行きます。さぁ、来てください」
「しかし、本当に良いんですか?」
彼も行きたい場所があるはずだ。しかし、彼は即答する。
「困った時はお互い様です」
人々が理性を忘れ、襲い掛かる狂気から逃げ惑う中、これだけの事ができる人間が何人いるだろうか。木村は「ありがとう」と答え、二人を連れて彼の車に乗り込んだ。
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