13. GLITCH




 一晩四十ドルの宿屋の二階にある黴臭い一室に転がり込み、薄暗い部屋の中央にあるダブルベッドに二人並んで腰を下ろすまで、何ひとつおかしいことはなかった、とロバートは思う。


 いつもと何も変わりはなかった、はずだ。


 午後十一時半過ぎに、イーストヴィレッジの自宅の電話が鳴った。急な仕事に追われ、疲労に負けて早めにベッドに入った日に限って、深夜に電話を寄越すバカヤロウがいる。そして、そういうバカヤロウは、ロバートは一人しか知らない。


 留守電に応えさせれば、電話の向こうでアンヘルは言った。「今、イーストヴィレッジにいる」と。


 受話器を取ると、さらに続けて奴は言った。「ハウストン通りの映画館で今から『夢のチョコレート工場』のリバイバル上映をやるから観に来い」と。明るい声で。いつもの声で。


 夜中にこういうくだらない用件でこの男が電話をかけてくるのは、今日の客の気前が相当良かったからに違いなく、他に理由などあるわけもなく、あってもロバートには知るよしもないことだった。


 だから、電話に出るつもりはなかったのだ。用件を聞くだけで疲労が増す、と思った。だが、「イーストヴィレッジにいる」とアンヘルが言ったとき、ロバートは無闇に狼狽し、頭で考えるより早く受話器を取っていた。住処を知られたのだ、と思った。勿論確証などなく、被害妄想じみたその行動は、傍から見たら滑稽に違いなかったが、疲れていることを理由に映画の誘いを断った後で、「おまえが来たくないなら、俺がそっちに行くし」とアンヘルに言われた次の瞬間、ロバートはベッドから飛び出て、そこで待っていろ、と伝えていた。


 自宅との距離を知られないように、無駄に遠回りをして人けのない深夜の道を四十分以上も歩いた。映画館の前に着くと、アンヘルはチケット売り場の脇のほの暗い照明の下で、上半身を壁に凭れさせ、ソーダカップを片手に立っていた。一昨日、写真家の乱交パーティーに行ったときと同じ服装をしていた。しかもシャツとジーンズが両方とも泥まみれだった。


 前ニューヨーク市長のクルセードにより、ミッドタウンに地域裁判所が設けられ、軽罪処理が手軽になった警察は一気に街へと乗り出して、マンハッタンの通りに溢れていた売春婦や男娼を一掃した。以来、簡易美容整形を施されて観光客臭さが際立つだけになったこの街ではほとんど見かけることのなくなったストリートハスラーのその姿を、そこにソーダを片手に立っているアンヘルは思わせた。


 ただ、そこに立っているだけだ。だが、どこか必ず濡れていて、どこか必ず穴が空いているように見えるその印象は、他のどのプロフェッションを持つ者とも違う。特定のにおいだ。自分が到着するのがあと数分遅かったら、この男は通りすがりの誰かに連れられて行った後だったかもしれない。


 アンヘルはチケットを購入済みだと言い、二人はそのまま、すでに映画が始まっている館内に入った。スタジアムシーティングの上映室の最前列に並んで座り、首の痛い角度で映画を観た。サイケな色彩とフックの効きすぎたメロディラインが錯乱するミュージカルが延々と続き、アンヘルは周囲の客も気にせず一人でバカ笑いした。ロバートはそのまま眠りにつき、アンヘルに揺り起こされたときには映画は終わっていた。


 映画館を出、しばし徘徊した後、深夜営業のチャイニーズレストランで出来合いのオレンジチキンと焼きそばと春巻を喰って腹を満たした。そして、満たされないのは性欲だけになった。


 だが、どちらが何の意思表示をしたわけでもなかった、とロバートはここまでの成り行きを振り返りながら考える。俺は誘わなかった。アンヘルも誘わなかった。――と、思う。道を歩いて行った先には、古いホテルがあり、そこに突然アンヘルが踏み入れたことに対する大きな理由やきっかけなどあるはずもなく、それは今日いきなり真夜中に『夢のチョコレート工場』のリバイバル上映を観ようと言い出したのと同じくらい、無意味で突発的で瑣末な衝動だったはずだ。どこにたどり着くかは、単なる結果だ。計画性を持つと、自滅する。それが自分たちの徘徊におけるルールではなかったか。


 それなのに。


「金はいらない」


 と、ベッドの上に座ってアンヘルは言う。


「は?」


 と、隣からロバートは聞き返す。真顔だ。


「今日は金銭のやりとりナシってことで」


 アンヘルは言う。ロバートの上を行く真顔だ。


 ロバートは混乱する。


「何言ってんの、おまえ」


「ただ、普通に、こう」


「は?」


「タダで、セックス、する」


「……何言ってんの、おまえ?」


 何もおかしいことなどなかった、と思った。だが、考えてみると、すべてがおかしい。


 電話で映画を断ったとき、アンヘルが「そっちに行く」と言ったこと。一昨日と同じ服を着ていて、それらが泥まみれであること。映画代も食事代もこの男のおごりだったこと。それは、今日の儲けが桁違いに良かったせいだろう、と思っていたが、今まで一度だって、この男が自分におごったことなどあっただろうか。マクドナルドの割引券を盗まれても、おごられたことはなかった、それが自分たちの関係ではなかったか。


 何だ、これは。


 って、どういう意味だよ?


「……何かあったのかよ、アンヘル」


 アンヘルがベッドに右手を突き、身体の重心をロバートへと傾ける。スプリングの呻きが静かすぎる部屋の四隅に跳ね返り、ロバートは背筋に鳥肌が立つのを感じる。


 アンヘルが顔を寄せ、こともあろうか、目を閉じようとするのを見、ロバートはアンヘルの肩を両手で掴んで距離を保とうと必死になる。


「……オイ。やめようぜ、マジで。オイ。アンヘル」


「うるさい」


「後で絶対何か悪いことが……」


 出来合いのチャイニーズ味の、脂ぎったその唇で、アンヘルはロバートに喰らいつく。


 舌が歯の間から滑り込み、生ぬるさの中で絡み合い、この違和感は何だ、とロバートは考え、気づく。


 この男とは、キスをしたことがなかった。


 出会ってからの二年間のうちに、どれだけ身体の交渉があったか知れないが、そのたび、こういう他愛ない愛撫はすべて最初から排除していた。それはおそらく、互いの防衛本能が働いたためであり、意図的にそうしていたのだ。こういった、何か最悪の事態を予測させる展開を、避けるために。


 おまえの筋肉が見たい、とアンヘルは言い、ベッドの上に仰向けになった。意味がわからない、とロバートは思う。注文は続く。まず、おまえが先に服を脱げ。それから俺を脱がせろ。もっと近寄れ。キスさせろ。俺の言う通りに愛撫しろ。そこじゃない。そこじゃない。そこだ。声を出して俺に聞かせろ。手を寄越せ。俺の背中を抱け。


 サービスする側とされる側が逆転した後のセックスで、しかし、あのピアノを弾くときと同じアンヘルの姿は見られなかった。あの日、写真家の家のピアノの下で他の男に抱かれていたときのような恍惚すら、欠片もない。苦痛に耐え、痛いほどに背中に爪を立てる指、それだけだった。


 体位を変えて時間をかけた後、揃って射精する。ロバートが完全に身体を退かせるのも待たず、アンヘルはロバートの身体を押しのけたかと思うとトイレに駆け込み、胃の中のチャイニーズフードをすべて吐いた。





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寝転んだ風景 アオイ @highoncheese

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