12. その、男




 客と対面し、最初に見るのは服装、そして手だ。


 手を見れば大抵その人間の年齢や職業や生活が知れる。服装を見るのは無意識な部分ではあるが、その手とのギャップを見ているのかもしれない。


 一番見ないのは、間違いなく客の顔だ、と思う。その方が、互いに有益のような気がした。


 他人に興味が薄いから、人の顔は覚えない。サービス業界の人間にとって致命的なその欠点は、一種の「サービス業」であるこの仕事を始めてからも一向に改善されなかった。だが、この仕事において、客の顔を覚えている必要は特にないとも感じた。リピーターであるかどうかは、エージェンシー側が仕事の前に調べて知らせてくれることであるし、逆に道で客とすれ違ったときに、こちらが相手の顔を覚えていたばかりに妙な反応をすることは、客にとっては不都合な場合が多い。


 そして何より、客の求めるセックスを提供するにあたり、客の顔ほど不要な要素はない。


 型遅れのBMWの運転席に収まったその男の着ている濃い色のスーツは、アクセルに圧力をかける右膝辺りに寄る皺の具合で、生地も仕立てもなかなかに良いことが見てとれた。


 午後八時過ぎの五番街を北上する車内では照明が足りず、手の細かい表情はその場では読み取れない。だが、ギアにゆるくかけた右手の指は長く、硬く清潔な印象を与えた。街灯がオレンジ色に瞬く隙に、爪の形を見る。ペン以外には何も持たない仕事だろう、と思う。


 三十代後半というアソシエイトの読みは当たっていた。おそらくビジネスマンで、羽振りが良さそうであるというのも正解だろう。


「こういうのは初めてで、なんというか、どこに行けばいいのか……」


 男の質問は、自問のまま終わる。


 質問には答えない。こうして車を走らせているだけでも、金は稼げる。楽な仕事だ、と思う。


 助手席のレザーシートに泥まみれの背を預け、薄いティントのかかった右のウィンドウから渋滞の激しい通りを見た。ニューヨーク市立美術館の前をすり抜ける。道路の反対側はセントラルパークだ。男がどこへ行こうか迷っているうちに、このままハーレムに突入するかもしれない。


 渋滞に巻き込まれ、前方のテールランプが赤く点灯すると同時に、車体が減速する。こういう高級車の減速の仕方は、視界と腹にかかる圧力とのギャップが大きすぎて、気持ち悪い。


 男はエスコートサービスを利用するのが初めてだと言う。だが、その仕草から焦りや動揺がまったく見受けられないことが、その科白とあからさまに矛盾している。「初めて」だと言い張るリピーターはいくらでもいる。だが、リピーターであれば、エージェンシー側がそのように言ったはずだ。これまでは別のエージェンシーを利用していて、このエージェンシーを通すのは今日が初めて、なのかも知れない。それならば、ある意味「初めて」ではあるが、「こういうのは初めてだ」と言った男の科白には嘘が残る。本当に男娼を買うのが初めてだとするならば、チップぐらいは余分に巻き上げることができるかもしれない。楽な仕事だ。


 そこまで考え、疑問が生まれる。


 「初めて」の客が、何故自分を「指名」したのか。


 サスペンションが吸収しきれなかった振動が微かに頭部を襲い、車が赤信号を前に路上で静止する。そして、それは起こる。


 運転席から伸びてきた男の指に、首筋を撫でられる。指は薄汚れたナイロンシャツの襟の中へ侵入しかけ、止まる。


「君だよね。今週の『WEEKLY』に載っていたの」


 振り返る。


 その、男の顔を見る。


 ワックスで固めた黒髪と青白さばかりが強調された肌がねっとりと濡れたような色をしている。窓から流れ込むネオンが不規則に男の眼鏡の縁に跳ね返り続けるさまに、脳波を脅かされ、軽く舌を噛む。


 男は眼鏡の奥で両目を細く潰し、こちらの知らない何かについて一人で笑う。


 発狂する。


 冷静な判断力を失った。反射的に両手がドアハンドルへと伸び、それを壊す勢いでガタガタと引っ張るが、ロックされたドアは開かず、そうしているうちに男の腕に後ろから押さえ込まれ、喉を絞められる。叫ぶ。


「大丈夫、警察なんかじゃないから」


 男が言う。後続の車から忙しなくクラクションを浴びせられ、とうに信号が青に切り替わっているのを知る。男の熱はすぅっと離れ、その手はハンドルへと戻っていった。車は急速に発進し、一気にスピードを増す。


 ふざけるな。


 あの写真を見ただけで、あれが俺だなんておまえにわかるわけない。


 誰だよ。


 名乗れ。


 名乗るまで、俺に指一本触れるな。


「身体は売ってくれなくていいんだ」


 車は北上を続ける。


「五万ドル。ピアノを弾くだけで、五万ドル稼げる。どうかな」


 Take care、と、電話の向こうでアソシエイトは言った。


 今まで一度だって言われたことがなかったんだ。


 死ぬ。


「どうかな、


 帰る。


 帰りたい。


 送ってくれ。


 イーストヴィレッジまで。今すぐ。





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