11. 恨まれたい




 重油の色をした水の震えは一定で、その亡骸さえ浮いていなければ、水がどちらの方向に流れているのかも不明だ。


 イーストリヴァーパークの川沿いの鉄柵に両手をかけ、身を乗り出す。錆びかけた黒い鉄柵は西日の熱をまだ芯に秘めていて、手のひらがじわりと灼ける。背後から覆いかぶさる緑の薫りに混じり、腐りかけの魚を日向に放り出したような潮のにおいがし、父親の話を思い出す。イーストリヴァーは、海水と淡水が入り混じった河口なのだ、と、父はいつか教えてくれた。


 重油の上でぬめった死体は、串刺しにされた鶏がロースターの中で肉汁を滴らせながら回転する、あのスピードでゆっくりと裏返り、それは父親の顔をしている。


 心臓の真上に突き立てられたままの極めて細い注射器が、回転していく死体の向こう側に消えるときに、生まれたての真珠のように、鈍く繊細に光った。


 これは何か。人が死ぬ直前には、一生の出来事が目の前をハイライトで流れたりするというが、自分は死ぬのだろうか。もう死んだのだろうか。


 自分の一生の出来事とは、たったこれだけか。


「アンヘル」


 緩やかな覚醒は、空腹の胃痛と胃液の熱と酸味、そして右のこめかみにまとわりつく鈍痛を伴っていた。瞼を開く段階で、地べたに皮膚の表面が擦れる音がした。口の脇から垂れた舌は路面の埃を舐めており、やけに暗い視界は半分しかない。


「生きてんのかよ」


 生きている。最悪だ。


 薄汚れたナイキのスニーカーの爪先が、目の前を横切る。折れたジーンズの膝に続き、マンハッタンの四月下旬に着るには厚すぎるような、光沢のあるヘヴィウェイトのスクオールのパーカの一部が地面に横たわった視界に食い込む。


「アンヘル。生きてんのかよ」


 きついスペイン語訛りに続き、ラテン系の褐色の肌をした、十七歳ぐらいの少年の顔が覗き込み、自分が過去数時間どこでぶっ倒れていたのかを把握する。イーストリヴァーパークのどこかに違いない。その少年が売るのは大抵エクスタシーのような手軽なパーティードラッグであり、買ったことは一度もないのだが、ここに来ると必ず会い、少年は必ず声をかけてくる。少年は毎日ここで自分のことを待っているのではないか、と一度思い、一人で爆笑したことがある。


 思い出し笑いをし、開いた唇の端を歪めれば、砂利っぽいアスファルトに右の犬歯がぶち当たる。硬質な違和感は頭痛と連結し、顔面を激痛が襲う。このままもう一度意識を失い、今度こそ死ねたら完璧に理想だ、と思う、その矢先に、腰から吊るしたキーチェーンの先でポケベルが振動を始め、理想は空想に終わった。


「……なぁ、えっと……」


 名前を呼ぼうとして、少年の名を知らないことに気づく。少年は名乗らず、今日もその名を知ることはなく終わるのだ、と思う。


「……あのさ。電話。持ってる?」


「携帯? 持ってるよ」


 黒のスクオールジャケットの内側から、数世代遅れの携帯電話が取り出される。ボタンをひとつ押してから、少年は地べたに這ったままの男娼の腕を取り、その先に携帯電話を握らせた。


「市外にかけないでよ。三分以内にしてよ。その分、ちゃんと払ってよ。何か買ってよ、電話終わったら」


「……って、俺、金ないし」


「金ないって何さ。最近稼いでんだろ? 噂だぜ」


 身体を反転させ、地面の上に仰向けになってみれば、日が落ちたばかりで生ぬるい空気を含んだ上空に雲がへばりつき、鉛色をしていた。背筋がやけに痛む。どれくらいの間、ここで眠っていたのだろう、と考えるが、例の不能症の写真家のパーティーでスピードをやりまくり、二日間物も食べずにハイになっていたことを最後に、記憶が完全に途切れている。


 自宅の電話番号と、自称写真家の友人宅の番号以外で唯一記憶しているその七桁の番号を押す。携帯電話を左の耳に押し当てる。呼び出し音は二回。そして、あの木製のデスクと木製の三段の本棚とオフィス用電話機以外には何もないホテルの一室で、受話器が取られるというルーティンだ。


『――エンジェル』


「なぁ、アンヘル。最近モデル業も始めたんだろ? カルヴァン・クラインの下着の広告の契約したってマジ?」


『今日、これから大丈夫かい、エンジェル』


「もしかして、コレ撮ったの、おまえがいつも一緒につるんでるカメラマン? なぁアンヘル」


 イエス、と携帯電話の方には答え、一方で、反対側の耳に喚き続けている少年が何の話をしているのかさっぱりわからない、と思う。


 首を曲げて見やると、少年の手には、新聞に似た厚めの再生紙に印刷された無料のローカル情報誌が握られていた。空いている方の腕を伸ばしてその雑誌を奪い取れば、丸まっていた誌面が開け、『STREET WEEKLY』という背の高いゴシック体の表紙ロゴが覗く。


『クライアントとはミッドタウンで落ち合わせ。先方が車で迎えに来るそうだ。あの声はおそらく三十代後半。ご指名だ』


 表紙のモノクロの写真の中では、シーツも肌も、死んだように白い。ベッドにうつ伏せて肘をつき、影で隠された横顔の先に、曲がった煙草だけがやはり死んだように白い。尖った肩から背中が晒され、背骨の辺りが独特なくぼみを露にしている。尻と脚との継ぎ目のところで、写真は終わっている。


 間違いなく、自分だ。


 思い出した。友人が撮った写真だ。あいつはあの日、二十ドルしか払わなかった。


「中にも載ってんだぜ? 四ページも。名前出てなかったけど、みんなの間で噂だよ、アンヘルだって」


『有名人だな、エンジェル』


 興奮しきって必要以上の大声を張り上げる少年の声が携帯電話の向こうに聞こえたのか、それとも「指名」の客が入ったことに対する厭味か。


 おそらく、その両方であり、どちらでもない。


『君の時間が空いている限り相手をして欲しいと言っていた。羽振りの良さそうなクライアントだ。せいぜい稼ぎなさい。Take care気をつけて


 電話が切れる。


 Take care?


 意味がわからない。


 そんなことを言われたことは、今まで一度だってなかった。


 一生身体を売って生きていったらいい、と奴らは言う。そして、老いが肌に表れる前に死ぬのが、得策だと。


 Take care、などという陳腐な慰めは、どこにその必要性があるのか。


 電話を持っていた腕を下げ、雑誌を眺める。表紙に横たわる自らの背中は、父の死体にとてもよく似ている。


 身体をようやく路面から起こすと、めまいがした。目を閉じ、あの日カメラをこちらに向けて真剣な顔をした友人のことを思い出す。


 あの男は今頃上手いことやっているだろうか。


 写真の一枚や二枚、あの写真家に見てもらえたのだろうか。


 あんな半分気が狂ったインポ老人の家にあいつを置き去りにした俺を、ほんの少しでも恨んだりしているだろうか。


 ほんの少しでも。


 どうせなら、好かれるよりは恨まれたほうがいいのだ。好きという感情は簡単に色褪せるが、恨みは違う。場合によっては、永遠だ。


 俺はまだ、おまえにはまったく恨まれ足りない。





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