10. 紹介
黄金色に、視野が蝕まれる。
部屋が広すぎる、とロバートは思う。床が地平線のようだ。地平線の末端で、歯を細かく鳴らしながら、ロバートはもう何を見ているのかわからなくなる。
人が目の前をよぎれば、瞬間的に身体中が闇の泥の中に放り出される。そしてまた、溶けた黄金の中に浮上する。部屋には自分のほかに三人。いや五人。いや十人。三人が十人に見えるのかもしれない。十人が三人に見えるのか。やけに音質のいいスピーカーから大音量で流れ出すオペラに、頭がガンガンする。
誰かがワイングラスを床に落とす。敷きつめられたカーペットは無駄に毛足が長く、柔らかいのに、床に叩きつけられたグラスは割れ、その金属音がオペラの谷間を縫って鼓膜に突き刺さって耳から出血する、ような気がする。
ロバートは、手元にある写真専門誌のページを、一枚ずつ、丁寧に、綴じ目から間違っても斜めに裂けたりしないように、破ってゆく。ほどよい光沢を含んだ上質紙を五十ページほど完璧に雑誌から崩し、次のページに手をかけたとき、そこにこの家の主の写真が載っていることに気づく。だが今は、その写真すら、実在するのかも不明だ。
目の前のフルサイズのグランドピアノが悲鳴をあげ、ロバートはぞっとする。肌に猛スピードで剃刀の刃を走らせたような感覚が全身を覆う。
見知らぬ男が、黒光りするピアノの上に鼻先を擦りつけているのが見えた。男の右手が鍵盤から持ち上がったその後も、永遠に耳の奥にピアノの悲鳴がこだまし続ける。止まらない。止まるわけがない。永遠だ。俺の頭の中は果てしなく広く、深く、何もない。ピアノとオペラの混濁した音だけが延々と、遠くまで伸びてゆく。
ピアノの上、そして部屋の中央にあるガラスのテーブルの上に、数十分、数分おきに誰かが顔を擦りつける。白い粉末の線の残骸が、猫の爪痕のようにピアノやテーブルの表面を傷つける。
「君、それが何かわかるかい?」
声は突然、近すぎる位置で生じる。身体を少し震わせ、ロバートは意思に反して笑い出す。
「うちの庭に咲いていたサボテンの花だ。そんなものをねぇ、酔っ払った勢いである日フォーカスも、光量もまったく調節しないで、知らないうちに撮っていたんだけれど、次の日ギャラリーの人間がやってきたかと思ったら、そのフィルムを勝手に取り上げていって。そのプリントね、いくらか知ってるかい? 五千ドルだよ、五千ドル。まったく奴らは何もわかっていない。いや、何もわかっていないのは僕の方か。ねぇ、君」
首筋に生ぬるい水を浴びせたような感覚があり、ロバートの背中は鳥肌を立て、床に真っ直ぐに放り出してあった脚の先がぴん、と伸びた。背後に腰を下ろしたその男はロバートの首の後ろに唇を近づけて笑い、ロバートも笑う。
「君、そのカメラね。写真撮るんだって? エンジェルが君の写真を見てやってくれと言ってねぇ」
男の指には、細かい皺がたくさんある。背後から伸びてきたその指が、ロバートが首からかけているカメラのレンズを軽く絞り、また元に戻す動作を繰り返す。性器を扱うような手つきだ、とロバートは思う。
「君の撮る世界には、何があるんだい」
レンズを絞り続けるうちに、男の体温は上昇し、ロバートの背中にその熱を移しはじめる。ダメだ、と本能的に感じる。男はロバートを背後から抱え込むように、ぴったりと身を寄せて床に座り込み、しきりに後ろから股間を擦りつけてくるのだが、勃起している様子がない。勃起など、とうの昔にできなくなっているのかもしれない。
ダメだ。
もう一度、頭の中で自分の声がする。
「どうだろう。ひとつ、何か撮ってみないか」
ピアノの下は、少しだけプライヴェートな闇になっていて、その薄暗い床の上に二人の男が横たわり、重なるのが見える。
仰向けになっている方の男が顎を持ち上げて喘ぐと、シャンペンブロンドが微かに光る。投げ出した右手に、札束を握っている。
長い脚が持ち上がり、上に圧し掛かった男の両手が、シャンペンブロンドの男のジーンズを乱暴に引きずり下ろす。
「君はエンジェルの……友人? それとも恋人、かな?」
レンズを捻っていた右手が、するりとカメラの縁を滑る。身体中がぬるま湯の中に浸かっている感覚から、ロバートは抜けきることができない。
ダメだ。
「いい子だよねぇ。僕は彼が大好きなんだ。なんていうか……こなれていないところが、ね。ほかの男娼はつまらない。若僧は、ルールをわかっていない。ベテランは、嘘が上手すぎる。エージェントが寄越す子たちの多くは、すれている。路上ハスラーは、欲が深い。だが、あの子はそのどれとも違う。芸術的な量の、ナイーヴさを抱えている」
白い肌の中心に、黒い影が何度もぶつかり、シャンペンブロンドは規則正しくその衝撃を外側へと伝道させ、床の上に伸びた札束を握る手が、リズミカルに上下に跳ねる。
ロバートの背後から伸びた右手が、シャッターに伸びる。左手はカメラを支え、レンズをピアノの下へ向ける。右手のボタンが押され、ダイアモンドを散らしたようなフラッシュに目が眩む。
「あの子、両親殺してるって、本当の話なのかい? ねぇ、君、ね……よかったら、エージェント紹介するよ。ああ、勿論写真のね、エージェントを」
ダメだ。血液中の薬物濃度が圧倒的に足りない。
男が背後からそれを差し出したタイミングは、絶妙だった。それとも、自分が今の科白を声に出したせいかもしれない。キャバレーの女が履く網タイツみたいな模様の皺が走った小さな掌に、目の粗い粉の筋が二インチ、延びている。
男の掌に突っ込まれたロバートの鼻先が、白い線を端から綺麗に吸い上げる。掃除機のコマーシャルを思い出した。
ややして、網膜が燃え上がり、一瞬視界を失ってから、辺りが百倍明るくなる。光の中にいるのではなく、自分が光そのものになったように思えた。
一気に脳髄が沸騰しはじめ、全身の皮膚の表面が裏側からぷつぷつと小さく泡を噴くような感覚が襲う。瞼を閉じようとしても、閉じることができない。
可笑しくなる。ロバートは声をあげて笑う。
アンヘル。どういうつもりだよ。
俺は、写真家を紹介してくれだなんて、頼んだ覚えはない。
どういうつもりだ。
どうしろって言うんだ。
萎びた性器を擦りつけてくるこの写真家に、俺がへつらう理由はどこにあるんだ。
こいつのブレた写真が五千ドルで、俺の写真には何の価値もないからか?
教えろ。
なんでピアノの下でおまえは俺じゃない男に抱かれたりするんだ。なんで俺以外の男に抱かれるときだけ、そんな楽しそうな顔するんだ。
なんで両親を殺したりしたんだ。ってその話ホントかよ?
ロバートは、ジーンズのジッパーを引き下げる。
床の上に倒れ、写真雑誌の上に顔が落ちた。横を向く。頬にべっとりと張りついた、艶のある雑誌のページが、真ん中から斜めに破れる。
五千ドルの写真の中には、ぼやけた赤と緑が共存しているだけで、形がない。
写真家の皺だらけの両手が伸びてきて、ロバートの首からかけたカメラはそのままに、シャツのボタンを外しにかかる。
チッペンデールのくねった脚の向こうで、シャンペンブロンドが絶叫する。楽しそうだ。
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