9. Sex, Drugs & Classical Piano




 ノブを一捻りすれば、ラッカーの剥げた扉が手前に開く。


 寝室には、正面から燦々とオレンジ色の光が降り注いでいる。教会みたいだ、と思う。天使が眠っていたら完璧だ。ただ、最後に教会に出向いたのはいつだったか、ロバートは考える。記憶にないくらい昔だ。多分教会はこんな風じゃない。


 ベッドルームに、ベッドはない。


 レンズを絞る。シャッターを切る。


 部屋の真ん中を陣取る、黒曜石を思わせる質感のセミグランドピアノの下で、男娼の右腕が痙攣する。


「……起きてるなら言えよ。待たせやがって」


 起き上がろうとして、ピアノの足やら椅子やらに頭をぶつけそうになる、と思うのはいつもロバートの方だけで、アンヘルが実際に頭をぶつけたのを見たことはない。猫のように器用に身体を曲げて、ピアノの下から細長い隙間をするりと抜け出す。高いところから落ちても、こいつは死んだりしないだろう。猫みたいに、空中で一回転しながらバランスを取って、普通に地面に降り立つだろう。


「おまえの足音で目が醒めたんだよ」


 ピアノの前のベンチに腰かけたアンヘルは、汗ばんだ顔でこちらを見ると、無意味に艶っぽい笑い方をする。まだ日が沈んでないぜ、とロバートは思う。


 もっと普通の笑い方をしろ。普通の人間みたいに。日の高い間くらいは、せめて。


 通路側の壁一面を覆う窓は開いていて、肉屋の客が店の扉を開閉する音と、マフラーの壊れた車が大気を汚染しながら通り過ぎる騒音が流れ込んでくる。窓辺へ歩み寄ったロバートは、錆びきった鉄格子の隙間から、うっすらと焦げたような色をした空気に覆われた通りを見下ろす。手をかけると、鉄格子がぐらつき、外側へ傾いた。ピアノを部屋に入れられる大きさの窓は、確かにこの部屋を選ぶ条件の一つだったのだろう。固定されているべきである鉄格子が開くのは、アンヘルの仕業だ。


 背後でピアノの鍵盤を覆う蓋を開ける音がした。見やれば、西日を鋭い角度で反射させる白い鍵盤に一瞬視界を焼かれる。


 短い眩暈に耐えた後、ロバートは瞼を開く。前方を覆った赤い光の幾何学模様の向こう側に、ピアノに向かってベンチに落ち着いたアンヘルの背中が見えた。いつものように、指の関節を一本ずつ開いたかと思えば、ピアノ演奏は唐突に始まる。スケールをやるでもなく、指を慣らすでもなく、いきなり曲が始まる。


 初めて知ったときは、裏切られた、と思った。


 この男に似合うのは、クラシックピアノなんかじゃない。セックス、ドラッグ、ときたら、それに続くのはロックンロールだ。そう決まっている。


 二年前、ロバートがその男を初めて見たとき、奴はピザ屋のトイレで顔を洗っていた。タイムズスクエアでポートフォリオ撮影をしていたときだ。


 クロリン臭い水を浴びたその顔がこちらを向いた、その瞬間、条件反射のようにカメラを掲げ、シャッターを切っていた。


 クロリン水を滴らせた、あの顔。


 時間をかけて現像液にさらして、黒色を綺麗に強調させて焼いた。あの写真は、まだ部屋の壁のどこかに貼ってあるはずだ、とロバートは思う。どこだったか。


 あの時は、この男がピアノを弾くなどとは、想像すらしなかった。


 ピアノの軽やかな旋律が、道路からの騒音を上塗りしてゆく。ロバートは、それが誰の何という曲なのかは知らない。デパートで聴くような類の曲ではないと思う。指が絡まるような高速のスケールが続く。ピアノのコンクールなんかで弾くような曲だろう、と知りもしないことを想像する。以前アンヘルが曲の種類について話していたような気もするが、記憶にない。クラシックにはまったく興味がない。アンヘルの弾くピアノの音にも、まったく興味がない。


 ロバートは、この窓辺の位置からアンヘルのピアノ演奏を聴くのが好きだった。だが、そこから何か特別なものが聴こえるわけでもない。聴いているわけでもない。


 そこからは、アンヘルの背中が見えるだけだ。


 この男のピアノは狂暴だ。鍵盤に叩き込まれるのは指だけではない。全身でピアノを犯すような感じだ。自分とセックスをするとき、「客」である自分へのサービス以外においてはまったくされるがままになっているこの男が、好きな奴と本気でセックスをしたら、きっとその時はこんな姿をしているだろう。アンヘルがピアノを弾くのを見るたび、そう思う。


 ひとつのノートが弾かれ、ピアノの奥深くからのその悲鳴が吐き出されるたび、アンヘルの背筋はその形を変化させる。


 ロバートはただ、その背筋が緩み、それがまた引き攣るのを眺め、楽しむ。ピアノのように、奴の背中も開けて中を覗くことができたなら。


 目を開けたまま、その背中を切り開く夢を見る。


 この男の稼ぎの多くを、そこのピアノが食い潰しているというのは、容易に想像できた。一人で楽しむ娯楽にしては、つまらない上に金がかかりすぎる、とロバートは思う。


 だから、このピアノを飼うのには、多分、何らかの理由があるのだ。


 まさか本当に、ピアニストなど、目指しているとでもいうのか。


 未だに、この男のことはろくに知らない。ロバートが自分の部屋をこれまで一度もアンヘルに見せたことがないように、お互い知っていることが必要以上に少ないのは事実だ。だが、唯一感じられたのは、この男は何かを志してなどいないということだった。


 十八になったら、世間は煙草を吸う権利を与える代わりに、大人になれと言う。責任というやつを背負って、潰れるまで生きてゆけと言う。


 自分たちは、もう四年も前に、その時期を通り越している。


 そして、知り合ってからずっと、自分たちはとにかく無駄に時間を過ごしてきた。暇に任せてシャッターを切る。ピアノを弾く。春先になれば美術館の前で昼寝をする。死ぬ日までのカウントダウンが一秒ずつ進むのを、ただゆっくりと眺めるかのように。明日も、明後日も、来週も、予定を持たず、ましてや一年後や十年後などは、存在しないと信じているかのように。


 特にアンヘルは、その遊びが得意だった。奴はまったく感情の振れ幅を感じさせなかった。自己顕示欲を否定しきれず、しかし己の才能の限界を垣間見て、無様な姿を晒すこともあったロバートには、憧れを感じるほどだった。理想の生活とか、将来とか、そういったものへの未練が微塵も感じられない。それがこの男だった。


 こうして、ピアノを弾いている時以外は。


 いや。


 ありえないだろう。こいつに限って。


 部屋の中に溢れた音は、肉屋の前の道路に洪水を引き起こし、やがて尽きる。


 最後のノートの残響が完全に消え去る瞬間、アンヘルの背筋は静止する。それを見て、ロバートは部屋が静寂を取り戻したのを知る。


 ピアニストのアンヘル・レヴィクの背中が、一瞬だけ覗き、すぐに消える。


「……なぁ。おまえって、ピアノ上手いの?」


 鍵盤の上にまだ指を伏せたまま、アンヘルは肘から脱力する。しばらくして、思い切ったようにその手を下ろし、こちらに顔を見せないまま、笑う。


「んー。まぁ。そこそこ」


 背筋が弛緩する。


 道路からの雑音に再び埋め尽くされる部屋の中で、それは、今マンハッタン中で無料配布されている雑誌の表紙に横たわる男娼の背中に戻る。


 どうやって、切り出すか。


 表紙の話。


「……で、ロバート、これから暇だろ?」


 アンヘルの背筋が、斜めに捩れる。ようやく、こちらを振り返る。


 ロバートは、タイミングを奪われる。


「……暇だよ。何かあんの」





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