8. スパイク現象




「ねぇ。邪魔なんだけど」


 受話器を下ろすと同時に聞こえたその少女の声を、前方から発せられた絶叫が掻き消す。無数の点が集まって画像を作り出すという工程が一瞬感じられ、ロバートの前に二十一インチのテレビが現れる。


 テレビの中では、ついに肥満姉妹のつかみ合いが始まったところだ。椅子が画面を右から左へと横切る。クライマックスだ。


 隣の壁にぽっかりと空いている縦長の窓からは、春先の涼しい夕風が滑り込んでくる。かすかに血のにおいがする。


 マンハッタンの南端は東寄りの地区、ロウワーイーストサイドに、アンヘル・レヴィクの住処はある。ユダヤ人街のど真ん中で、古い赤レンガの三階建てで、アンヘルのフラットは二階の道路側で、その真下はフロア全体がコーシャの肉屋だ。午前九時から午後六時の営業時間中は、客の出入りする様子や、時には肉をぶった切るブッチャーナイフがステンレスのカウンターにガツンと食い込む音が聞こえてくる。


 ユダヤ教徒の清浄食品には、何から何まで掟がある。ナイフに残るほんの僅かな傷でも研ぎ忘れたりしたら、そのナイフで殺した動物は口に入れてはならない。ナイフを完璧に研ぎ、指先を刃に沿って滑らせ、祈りを捧げる。ナイフは、真上から真下に、余力を一切かけることなく、なめらかにひとつの動作で叩き下ろす。ガツン、とカウンターを揺らす。肺がべとついていたら、そいつは食えない。


 階下の肉屋の親父からアンヘルが聞いた話だ。いつだったか、自分もアンヘルから伝え聞いた。下の肉屋では裏で鶏を捌く。その血のにおいを、風が二階まで運んでくる。夏場だったら、まともに空調も効かないこの部屋で過ごすことなどできない、とロバートは思う。


 だがここは、ロバートのワンルームに比べれば随分と広かった。寝室と浴室。リヴィングは広くはないが、リヴィングと寝室が分かれていること自体が重要なのだし、隣接しているキッチンには、食事ができるカウンターがついている。家賃月額千七百ドル。アンヘルが毎晩一人の男の相手をするとして、この家賃を稼ぐのには、一週間も要さないだろう。奴はエージェンシーへの分け前は支払うが、税金は納めない。確かに悪い商売ではないようにも思える。


「信じらんないよね、あの女」


 狭いリヴィングには、ベッド兼用ソファが開いたままシーツを絡めている。そのソファベッドの上、窓からゆるりと差し込む淡い西日に照らし出された薄い埃の膜の向こうで、イカスミ色の髪を二つに分けて結わえた少女は、黒いまん丸の瞳でテレビの画面を見つめている。


「妹の旦那だけならともかく、従姉妹の旦那とも寝ちゃってんだよ? 何考えてんだろ」


 音程に変化のない声で言う。


 焦げたトーストを膨らんだ唇の谷間に運び、少女は一度、瞬きをする。大して楽しくもなさそうな顔だ。日課とは、そういうものかも知れないが。


 画面がCMに切り替わると、彼女は腰を持ち上げ、キッチンへと歩く。


「何か食べる? 冷凍食品しかないけど。あと店の昨日の残り物」


 キッチンカウンター越しのエリィ・レヴィクは、自分の顔ほどもあるプラスティックのコップになみなみ注いだミルクから口を離すなりそう言った。上唇のふちに、綺麗な形のミルク髭が生えている。牛乳のコマーシャルのように完璧だ。


 ロバートは一眼レフを吊るした首を横に振る。少女は整えた眉を持ち上げ、ミルクに舌を突っ込む。写真を撮ろうか一瞬迷い、フィルムの残り枚数を考えて、やめる。


 十七歳の、しかしもう成長しきったその身体には、おそらくイーストヴィレッジの古着屋辺りで仕入れてきたであろう合成素材の花柄のワンピース、その短い裾から伸びた細すぎる双脚の先に、靴は履いていない。


 板張りのフロアを歩くたびに、少し汗ばんでいる足の裏がぺたぺたと音を立てる。艶のある肢体を裏切るような子供っぽさがある。この女は矛盾だらけだ、とロバートは思う。


 この部屋に訪れるたび、エリィはテレビの前に腰を据えて何かを食べている。それは冷凍のピザだったり、冷凍のパスタだったり、冷凍のフレンチフライだったりする。彼女は炭水化物が特に好きだ。飲み物で一番好きなのはおそらく牛乳で、この家には必ず一ガロンの牛乳が冷蔵庫で冷えている。


 エリィはひたすら食べ、ひたすら痩せている。近所のユダヤ系デリで夕方から深夜過ぎまでウェイトレスとして勤める彼女のその職務が、あの炭水化物をみな燃焼してしまうのだろうか。カメラのシャッターを切るしか能がない自分にはわからない。


 食べるのも特に楽しそうというわけでもない。何もかも、単に日課の一部に過ぎない。テレビを観るのと同じだ。


 全国のお茶の間に溢れる昼のトークショウを、エリィは全て逃さず、録画までして観ている。それぞれ問題を抱えた家族や恋人同士や友人同士やご近所同士がカメラの前で愚痴り、嘆き、時に相手を驚愕させ、時に座っていた椅子を投げて乱闘するのを、あの特に面白くもなさそうな目をして観ている。何回観ようが、どの番組を観ようが、話題は所詮「浮気」か「ドラッグ」か「ゲイ」か「家庭崩壊」のどれかだ。両親がドラッグの過剰摂取で他界しているとかで、不特定多数の既婚男性と寝ているゲイの兄貴と二人暮らしのエリィにとって、物珍しい話題はひとつもない。


 なぜいつもあんなものを観ているのか、と一度訊ねたら、「スパイク現象を防ぐため」とかわけのわからないことをエリィは言った。スパイク現象とやらについてもテレビで観て知った、と言った。


「ねぇ、もうすぐ私仕事行かなきゃならないから、あいつ起こしてくれる? 適当に何か食べとけって言ってね」


 肥満女たちが画面の向こうに戻ってくるのを横目に、ロバートは腰を持ち上げた。


「喰い過ぎてああいうデブになっても知らねぇぞ」


 挑発すれば、エリィは真顔でスカートの裾を捲ってみせる。黒いパンティの股が露骨な角度で覗く。


「どう? ねぇ? テレビは十ポンド太って映るって言うけど、私は大丈夫だよね? ねぇ、この間テレビ出たって、ロバートに言ったっけ?」


「知らない。ってか、おまえパンツ見えてる」


「カメラマンから見たらどうなの、ねぇ? このパンティのラインはどうなの?」


 そのパンティのラインは、エリィの指に押し下げられて歪む。陰毛が覗き、ロバートは彼女との距離を大股に詰め、挑発を挑発で返す。イカスミ色の髪の右の房に鼻先を寄せると、エリィの手がぐい、と伸びた。


「あんた、なんかにおうんだけど。酸っぱいにおいがする」


 細い腕に頭を押しやられる。先ほどまでパンティラインを歪ませていた指で、エリィは鼻をつまむ。


「おまえの兄貴はそういうことを絶対に言わない」


「そういう仕事だからでしょ?」


 女はこういうところが苦手だ、とロバートは思う。


「ねぇ、ロバート。アンヘルのこと好き?」


 そして、こういう質問のタイミングを今までずっと計っておきながら、今言ったりする、そういうところも。


 エリィのパンティに背を向け、ロバートは玄関口寄りのベッドルームへと踏み出す。


 おまえは、おまえの兄貴が俺にどうやって抱かれるのか、知ってて言ってるのか?


 いや。そんなことはどうでもいい。


 ベッドルームのドアに近づくにつれ、頭の中の焦点がちりぢりになって、炭酸飲料の透明な泡のように弾けてゆく。 


 さて、と。


 どうやって切り出すか。


 表紙の話。





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